三重の旅・・・五ケ所湾

2010年05月07日 | 
三重の旅・・・五ケ所湾に向かって走り始めたのですが、訪問は午後一番と告げてあったので時間調整が必要です。最初に訪問した学生時代連れて行ってもらった「合歓の郷」に寄ることにしました。

 合歓の郷って何っと、当時理解できなかったのでしたが、それでも合歓の花が咲いていたという印象はあるのです。夫が合歓の木を探していたけど、あったのかしらね。

 そこもイベントの最中でした。売店で「鰹のてこね寿司」と「鯵のてこね寿司」が並んでいました。あまりにおいしそうに見えたのでしたので迷わずゲット。あわせて牡蠣のしぐれ煮に鰹のなまり節なども、とにかく海産物を見たらゲットしなくてはいられないのは海無県育ちのさがでしょうか。・・・でも帰るの明日だよ・・・保冷材入りのパックに入れてくれましよ。

 海でも見ながらと思ったのですが・・・・なんせ外は30度の世界です。やっぱり木陰がいちばんと、「夕日百景」に選ばれた展望台の下で、先ほどのてこね寿司をいただきました。朝食が重かったからと頭では思っていたのに、おいしいものには素直に反応してペロリでした。さすが志摩名物といわれるだけあるわーとは夫との感想。

 鯵も秋刀魚の寿司もあったのが心残り。

 「よく来たあねえ」とお母さんは待っていてくれました。今年お父さんは95歳お母さんは90歳。お二人の娘さんと40数年前同じ日に入院したというただそれだけが縁なのです。

 東京女子医大の心臓血圧研究所の新館の完成を待っての入院でした。たぶん今頃5月6日でしたでしょうか。心臓手術が新聞記事になった時代、ベット待ちは当たり前だった頃です。

 心臓の盲腸のような病気だった私は入院から10日で手術をしその2週間後には退院してしまったのでした。彼女は手術は成功したものの敗血症で亡くなってしまったとお母さんから手紙をもらったのは、7月25日亡くなってから10日ばかりの暑い日でした。。彼女が16歳私が14歳の夏のことでした。

 心臓のどこが悪かったのですか?と長いこと胸に秘めていたことを尋ねました。お母さんは涙ぐみながら、彼女が生後なもない頃、上の子が40度の熱を出して、彼女の上に突っ伏していたと、その時呼吸がハアーハアーしていたと・・・・確かに私にも夫の耳にもそう聞こえたはずです。

 あまりの衝撃に私はそれ以上、このことに質問を重ねる勇気はありませんでした。
確かに彼女自身は自分の病名をそうは言っていなかったから・・・・人のために解剖を了解したというお父さん・・それで分かったというのだろうか。長い月日が過ぎても年老いた母はその無念さに涙ぐむのでした。

 お二人の足の状態を見れば、お墓参りの案内は望むべくもなく、お仏壇に手を合わせてご冥福をお祈りしたのでした。

 お互いに身体には気をつけましようね、とお別れして、私は五ケ所湾の春とは思えない陽光に輝く海面に手を合わせました。

 今回を含めて3回訪れたこの地にもう来れることはあるまい・・・・電話で「逢いたい」と亡き娘の友をわが子のように思ってくださるお母さんに「どうかいつまでもお元気で」と心の中でつぶやいた。
依田美恵子
軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家


【 中島木材のホームページは こちら


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