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自己チューの進行形日記でshow。

温州みかん、2008。

2008年11月26日 | 農業は、スゴイ!

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【温州みかん2008年は裏年。所謂不作。表・裏は宿命なのだ。】

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食用としての元々のみかんは、キシュウミカンと
呼ばれていたという。(ウソのようだがホントの話だ。)

そのキシュウミカンは約800年前に中国原産の小ミカンが
肥後国八代(現熊本県八代市)に伝わったのが

元であると言われ、それが紀州有田(現和歌山県有田郡)に
移植され一大産業に発展したことから「紀州」の

名が付けられたという説や、
元々紀州有田に自生していた(本星)、という諸説がある。

また江戸時代の豪商であった紀伊国屋文左衛門が、
当時江戸で高騰していたミカンを
紀州から運搬し富を得たことでも有名である。

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しかし、そのみかんは現代食しているミカンでは無い。
現代皆が食しているのはウンシュウ(温州)ミカンである。

ウンシュウミカンは当初「長島蜜柑」「唐蜜柑」等と
呼ばれていたが、種子を生じない性質から

武士の世に在っては縁起が悪いとされ、
ほとんど栽培されることはなかった。

しかし江戸時代後期よりその美味と種なしの利便性から
栽培が行われる様になり、明治時代以降から徐々に
キシュウミカンに取って代わる様になった。

「温州蜜柑」との呼称が一般的になったのもこの頃である。

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私の住む地でもこの「温州蜜柑」の一大生産地であった。
「みかん御殿」と呼ばれる家が多く建ったと言う。(名残がある。)

しかし、私の家では当時みかんは作ってなかったらしい。
そう、昔の作物に固執し儲け損なったのである。

私の家が、みかんを取り入れて栽培して収穫できる頃
生産過剰に加えて1970年代よりアメリカから

オレンジ輸入枠拡大の要請が強まり、「黄金のダイヤ」と
呼ばれたみかんの値段は私が就農した1972年に大暴落。

さらに政府は大規模なミカン栽培縮小政策を打ち出した。

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当然離農者も増え、後継者不足と高齢化により
当地方のみかん栽培農家は、今では一握りとなってしまった。

でも我が家では今も細々と「みかん」作りをしているのだ。
理由は当地方のみかんの味は日本一と自負しているからだ。

そして、この頃になると「みかんが実る頃」という歌を
口ずさむのだ。奇しくもこの歌は1973年にスマッシュヒット。

みかんの値段が大暴落した次の年に発売。みかん農家には
皮肉な歌だが零細みかん農家の長男の私には癒しの歌なのだ。

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青いミカンが実った 故郷の丘に
      今年もとり入れの 歌がまたきこえる
        甘くすっぱい 胸の想いを
        ひそかにこめながら 小篭につむの
        遠くの街のあなたにも 送ってあげましょう

ミカン畑を夕日が赤く染める頃
        私は帰るのよ 籠をしょいながら
       街ではたらく 好きなあなたと
       結ばれるその日を夢にみながら
       海辺の道を帰るのよ 明日を願って


海の夕日に そっと祈るの
        あなたが帰る日を またあえる日を
        ミカン畑のふるさとで 私は待つのよ
  

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【収穫量は少ないが、夏場に雨が少なく高糖度に仕上がった。】

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コメント (6)
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