読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

湖底に消える「川原湯温泉」

2009年05月16日 | 山歩き

「川原湯温泉」を楽しむ
 「王城山神社」を下り、宿の車で「川原湯温泉」まで送ってもらった。
 王城山神社は、「長野原草津口駅」と渋川寄りにある「川原湯温泉駅」のほぼ
真ん中にある。

 その昔、承久4年(1193年)源頼朝が浅間狩りの折発見したという歴史ある
「川原湯温泉」は2015年には湖底に沈む。

 昭和24年(1949年)の利根川改定改修計画に準拠し、昭和27年に計画発表
された「八ッ場ダム(やんばダム)」のダム地点が1967年に発表されたことによって
川原湯温泉は水没することになった。
 このあと長野原町では強力な反対運動が沸き起こる。何といっても観光資源で
ある川原湯温泉と、関東の耶馬渓と称される名勝「吾妻渓谷」の景観が失われて
しまうわけだ。(その後ダム地点が600m上流に移動し、吾妻渓谷の景勝地の3/4
が残ることになった。)

 計画時に340世帯と言われた川原湯温泉の集落は、度重なる完成時期の先
送りや移転代替地の選定遅れ等もあって域外への移転が続き、現在は僅か1/5
の60世帯とか。
 「川原湯温泉観光協会」に挙げられている温泉宿は、主力の「柏屋」、「高田屋」
を含め9軒だけになった。勢い1月に行われる奇祭「湯掛け祭り」もさびしくなる。
 川原湯の新しい源泉も掘削が成功し、「温泉卵」が作れる高温の泉源が移転地
に登場したらしい。しかしいくら頑張っても「新川原湯温泉」。頼朝由来の川原湯
温泉とは言えない。寂しいことだ。

 たまたま最近(5/11)八ツ場ダムに反対する団体が提訴した国・地方自治体の
このダムに対する公的資金の支出差し止め訴訟な初めての判決が東京地裁で
あった(実はこの利水・治水を図る多目的ダムの利水団体1都5県=群馬・栃木
・茨城・埼玉・東京・千葉で同様の訴訟が提起されている。)。
 50年といえば一昔。計画時と現在では背景環境が様変わりし、都市用水需要
も変化し、治水条件も変わる。計画が遅れれば遅れるほど建設費が増大し、総
工費9000億円と見込まれており、すでに4,600億円が費やされているのである。
 わざわざ地域住民を移転させ、川原湯のような歴史ある温泉や観光資源を損
ないながら作るほどの価値が本当にあるのか。議論のあるところであろう。
 ダム地点が発表されてから50年近い年月がたった。当時20代で反対に立ち上
がった人も既に70代である。度重なる完成時期の先送りで生活設計もたたず、
もうどっちでもいいから早く決めてくれと悲鳴を上げている人もいるらしい。

 川原湯温泉駅まで車で送ってもらった。
 駅舎は懐かしい田舎の駅のたたずまい。2010年にはJR吾妻線の付け替えが
完成し、駅舎も移転の予定。この姿も来年には見られないのかと思うと何となく
かわいそうになる。

      

 駅前に歓迎アーチが立っている。この坂のずっと上に「標高586m」という標識
がある。どうやらダム水面が来る地点らしい(コンクリート重力ダムの堤高116m)。
 歓迎アーチの近くに珍しい茅葺の郷土料理屋があった。すでに廃業しており、
人の気配はない。観光バスが4・5台は駐車できようかという大きな店で、本物
の粉挽き水車がある。もったいないことではあるが客が激減しやっていけない
らしい。

      
 
 宿泊した「高田屋」さんに聞いてみた。いつまでこの旅館をやっていけるのか。
「あと3年くらいでしょうかね。」
 泉質は草津系の含硫黄泉でやや熱目、宿の食事は時期の山菜やこんにゃく
など地元の食材も生かした心のこもった内容で、利用客では人気も高いという
のに残念である。

     
  高田屋さんの玄関にあった頼朝の鎧。「うそ!」
                 五月の節句だから。

   共同湯「王湯」。頼朝の紋どころ「竜胆(リンドウ)」が下がっている。


 新緑はまだ瑞々しく、鳥が賑やかに啼いている。紅葉の頃にはきっときれい
 に色付いているだろう。

 まだ遅くはない。
 みなさん、何とか時間を見つけて、いずれ湖底に沈んでしまう悲運の
  「川原湯温泉」を訪ねましょう


 
 

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