読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

日本語はどうなる

2010年11月18日 | その他

新聞小説の掲載責任
  今朝何気なく新聞一面の下にある広告を見ていたら、「言葉が足りないとサルになる」という本の
 紹介があった。(著者:岡田憲治・亜紀書房1,680円)
 「問題のたびに口を閉ざす政治家。「今のお気持ちは?」以外に言語がないマスメディア。日本社会
 の劣化は言葉が足りないから?」

  岡田憲治という作者は知らないが、最近とみに日本人の言語力劣化傾向に不安を抱き始めている
 日本人の一人としては本を読んでみるまでもなく、共感を覚えた。
 ちょっと名が知られるとすぐに誰もが物を書き、奔流の如く書店に並ぶ昨今の出版界。 何も電子本
 を引き合いに出すまでもなく、出版物が増えている割に活字文化の後退がささやかれる裏には、物
 書きにも書物を世に出す側にも日本語に対する緊張感が希薄になっているからではないのか。

  御大層なことを吐くほどの立場にあるわけではないが、最近経験したエピソードをご紹介しよう。

  購読しているN紙の夕刊に、それなりに名の知れた女性作家が小説を連載している。その力量に
 は評価まちまちとは思うが、先日の掲載文には大げさにいえば「えっ!」と眼を剝いた。

 「来週の日曜日、琵琶湖に行くのだ。炊きたての米でおむすびをにぎり、ソーセージを焼き、・・・」
 主人公の女性が今は相思相愛の関係になった男性と初めて外に出ることになったシーンである。
 私であれば「炊きたての米」は「炊きたてのご飯」とするだろう。これは好みの問題ではなく、日本語
 の問題である。米をむすんでもおにぎりにはならない。

  高名な作家でも誤字・当て字・変換誤りなどあって、別にいちいち挙げ足などとることもない。人は
 間違う動物であることは身を持って証明できるから。ただこれは単なる間違いではあるまいとなると
 問いただしたくなる。ことに間に言葉の専門家が入れば尚更である。

  妻にも自分の感じたことを訴えたが、「やはりちょっとおかしいね」である。「本の出版の場合、普通
 間に編集者がいて、疑問符がある場合ちゃんと指摘して直すんだと思うけど、新聞にはいないのか
 しら」ということで、N紙に電話をして聞いてみることにした。
  電話をすると女性が出て「どんなご用件ですか」というので、「新聞の連載小説のことで・・・」という
 と「読者センターにつなぎます」という。ははあ、会社でいえば「お客さま相談コーナー」みたいなとこ
 ろか。
 「どんなことでしょうか」出たのは男。しかもぶっきらぼうで、いきなり「なんか文句あっか」という口調
 で引いてしまいそうになる。
 「普通出版社では、作者と掲載の間に編集者がいて中身をチェックする仕組みになっていると聞くん
 ですが、新聞の連載小説ではどういう仕組みでしょうか。」
 「新聞でもいますよ」
 「なぜこんな質問をしたかといえば、今連載の〇〇さんの11日の内容に…という個所があって、これ
 は日本語としてはいかにもおかしいと思うのですが」
 「おかしいですか」
 「おかしくないですか。米を握ってもおむすびにはならないでしょう。」
 「元は米なんだからおかしくないでしょう」
  唖然!
 (おいおい、喧嘩を売る気かよ。「元は米だからいいじゃないか」というのを強弁というのだよ。
 権力を握っている輩がよく使う手だ。)
 「日本語ならそういう使い方はしないでしょう」
 「それは人によるでしょう」
 「編集者もおかしいと思わなかったということですか」
 「おかしいと思ったかも知らないけど、ま、流したんでしょう。」
 「流すとはどういうことですか」
 「ちょっとおかしいけど、ま、いいかということです。」
 「そんなことで済むんですか」
 「そんなとこです」
 (もしかして似たような電話がほかにもあったのかな?)。
 「わかりました。ありがとうございました。」(何がわかったのか判然としないが・・・)
 「はい」。

 「ご意見ありがとうございました」の言葉はなかった。

 新聞社の読者センターは所詮「お客さま相談窓口」ではなかった。木で鼻をくくったような応対は、
 かつて新聞記者と多少はかかわりもあった身としては不思議にも思わないが、所詮購読者あって
 の商売、サービス業なのだから、もう少し応接態度の教育が欲しい。それともまったく属人的な問題
 で、ねつ造記事やコピー記事を書いて、今記事は書かせてもらえなくて「読者センター」に追われて
 いる身なのか。
  社会の木鐸意識だけがよりどころの身としては、素人さんは余計なことを考えるな、黙って自分ら
 のつくった記事を読んでおればよいということなのだろうか。
  
  たとえ締め切りに追われていようと、文章を糧にしている物書きとしては、言葉を大事にしなければ。
 そして出版社も新聞社もいやしくも言葉を飯の種にして、政治家やタレントなどの言葉の端々をとらえ
 て云々する身としてはやはり言葉を大事にしてほしい。「ま、いいか。」と流すのは、われわれのするこ
 とであって、プロにはやって欲しくない。さもないとどんどん日本語は乱れてしまうのだ。

 (以上この項終わり)
   

 

 

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晩秋の寺泊へ

2010年11月17日 | 国内旅行

◇寺泊で同期会
  旧い職場の同期会が新潟県寺泊であった。
  寺泊というと「さかな市場」で有名であるが、以前から海水浴場としてまた良寛さんゆかりの地として名
 が知られている。いまごろは車で20分くらいの弥彦山の「もみじ谷」は今が最高ということだった。
  大河津分水を超えた野積地区にあるホテルの部屋からは指呼の間に佐渡ケ島が横たわる。佐渡はここ
 寺泊が一番距離が近いとか。ただ生憎の雨で海面はけぶり、日本海の夕陽も望めなかった。

  翌日はなんとか雨も上がり、朝日を受けた佐渡ケ島をみることができた。


      
             朝7時ころの日本海と佐渡ケ島                    朝日があたった佐渡ケ島

      
            信濃川大河津分水河口近く                    寺泊・野積地区の秋

   我が家の近くにあるスーパーに「寺泊○○水産」の店があって新鮮な魚が手に入るので結構人気がある。
 宴会の翌日、寺泊港にほど近い「さかな市場」に寄った。
  よく行く茨城県那珂湊港の魚市場と規模もつくりも似ている。並んでいる魚類も似たり寄ったり。寺泊港
 に上がった魚がセリに掛けられここに並ぶというわけではないようだ。東京築地から入る魚が結構ある。
 タラの白子、ボタンエビが魅力であったが、大きな保冷パックを手に帰る気がしなくてパス。

   

   

 
  
    
 
◇魚沼の天然なめこ
  寺泊の魚市場は寒く、雪でも来るかと思う天気で買い物を済ませると早々に引き揚げた。新幹線からは
 八海山が真っ白で、越後湯沢のスキー場も雪がかなり下まで降りてきていた。
 トンネルを抜けるとそこはさんさんと陽が降り注ぐ関東平野。

  家に帰ったら魚沼の民である舎弟から「なめこ」と、ちゃんと殻を割って実をほじくるだけになった「くるみ」
 の小包が届いていた。お礼の電話をし「さっきそこをと通ったばかり」と言ったら「駅で渡せばよかったね」
 と笑っていた。新幹線ではそうもいかないが。
  さっそく翌朝(今朝のこと)その一部を味噌汁でいただいた。スーパーでは小ぶりのなめこが主流。たま
 に栽培物で傘が大きめのなめこにもお目にかかるが、天然ものは香りがちがう。口の中に落ち葉の独特
 の香りがさっと、広がる。最近また毒キノコに注意をよびかけているが、山里の住人でも似て非なるキノコを
 食するときは十分に注意を払いながら、恐る恐る、試し試し口にしているらしい(と舎弟は言っている)。

  (以上この項終わり)
 

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バリーリードの「起訴」

2010年11月16日 | 読書

◇「起訴」(原題:THE INDICTMENT) 著者:Barry Reed 訳者:田中昌太郎 1996.3早川書房

  法廷サスペンスが好き(ほとんどがアメリカもの)で、ジョン・グリシャムとかスコット・トゥロー、フィリップ・マーゴリンな
 どは多分ほとんど読んだと思う。
  日本には法廷サスペンスというジャンルが成り立つほどの作品はないと思う。日本の法廷には検事と弁護士のやり
 とりそのものに、果たしてスリリングな場面が成り立つかどうか。
  アメリカの法廷物は緊迫した丁々発止の攻撃防御があって実に面白い。何十冊も法廷物を読むと、門前の小僧習
 わぬ経を読むの類で、いい加減アメリカの司法制度に詳しくなる。法曹界の実態も特徴も分かってくる。

  アメリカでは法曹界は政治と密接に結びついている。市長や州知事が事件捜査にすぐ容喙してくる。地方検事は州
 議員・州知事・下院議員・上院議員への一つのステップである。本書でもこの権力相関の構図がキーの一つになって
 いる。 
 
  本書のメーンテーマは大陪審制度が持つ問題点である。
  起訴するか否かを決定する大陪審制度は英米法の制度であり、沿革的には英国のマグナカルタに始まる。
 米国では憲法修正第5条に起訴陪審の規定がある。この条項は州には適用がない。しかし多くの州が大陪審制をとり、
 重罪(死刑ないし終身刑相当の犯罪)のみ大陪審の対象とする州があり、大陪審で起訴を決めるか検察官だけで起訴
 するかの選択権を検察官に与えている州もあるし、事実上大陪審制度を廃止している州もある。
 ご本家の英国はとっくに大陪審制度を廃止している。
 本書の舞台ボストンはアメリカでもWASPが多い伝統と保守の地。もちろん大陪審制度はしっかり適用される。

  起訴という公権力の行使にチェックアンドバランスを働かせる制度として設けられたものであるが、裁判における12
 人の陪審員と異なり23人の陪審員で多数決で正式起訴状を発するかどうかを決める。検察官が起訴に足ると判断し
 た証拠を提示し証人も出すが、非公開で弁護士は一切関与できない。検察官のショウだとか単に起訴を追認するだ
 けという形骸化を指摘する声もある。

  本書ではイギリスのSASとIRAサポーターの攻防に端を発し、FBIと地方警察の軋轢、嘘発見機をもだます鎮静薬
 の存在、毒殺の痕跡をまったく残さない毒物コアキやクラ―レを使った謀殺、弁護士とおとりFBIのロマンスなども織り
 交ぜて面白く仕立てているが、一度検察官にターゲットとされたとたん、仮に起訴に値せずとされても世間の眼は「う
 まく立ち回ったから起訴をまぬかれたのだろう」といった目で見られるなど、大陪審が持つ怖さを訴えている。

 バリー・リード自身弁護士の経験がある。作品は寡作で2・3年に1冊くらいしか出さない。
 「評決=1980年」、「決断=1991年」、「起訴=1994年」、「疑惑=1997年」

                 

                (以上この項終わり)

  
 

  

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笹ヶ峰牧場の秋を描く

2010年11月14日 | 水彩画

紅葉の笹ヶ峰
  10月の17日に新潟県妙高山麓の笹ヶ峰牧場に写生会に行ってきた。短時間で描いた
 絵があまり気に入らなくて、なんとか写生会に行った証拠を残さなければと、写真に撮っ
 てきた別のシーンを描いた。
  実際はこれほど完ぺきな紅葉ではなかったが、11月半ばともなればこんな風だろうと紅
 葉真っ盛りの絵になった。

  遠方の木々、森などはあまりはっきりとは描かない。それらしく描いて想像してもらうわけ
 だが、それらしく描くのは結構難しい。丁寧に観察してその上で大胆に省略するわけだ。
 そうしないとそれらしくならなくて、想像や思い込みで描いたことがバレてしまう。

  牧場らしく牛でもいればさまになるのだが、丁度K氏が写真の中に入っていたので、牛の
 代わりというと申し訳ないが、人物がいるとアクセントになって絵が締まるので、そのまま
 登場してもらった。

  地面がかしいでいるが、実際牧場はこの程度の傾斜があった。

 
  
   Clester F10

  (以上この項終わり)

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沼津の宿から富士山を描く

2010年11月13日 | 水彩画

◇「はまゆう」の3階から富士山を
  1泊のあわただしい旅行の朝。
  妻が朝風呂にいっている間(自分は6時に入ってしまった。)に20分ほどで窓から富士山の姿をスケッチをした。
  細字のサインペンで。失敗すると消せないから慎重に描く。富士山の前面の山は愛鷹山か。

  色付けは帰ってから。
  これ以上手を入れると、朝焼け富士から30分ほどの壮麗な山への感動がどんどん薄れていく。



MARUMAN Montval Canson F2

(以上この項終わり)

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