読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

大堀川畔で満開の桜を描く

2021年03月31日 | 水彩画

◇ 柏13号緑地で満開の桜

     
     clester    F6 中目

  3月27日日曜日。娘が住む流山おおたかの森から手賀沼に流れ込む大堀川
沿いに歩き、満開の桜を楽しみました。流山おおたかの森駅から蛇行する川
に沿って凡そ4キロ。しばらくは珍しく大島桜が植えられていました。高田
小学校あたりからはソメイヨシノでした。
 ここ13号高田緑地は4月2日に水彩画のグループで写生会に来る予定でした。
新型コロナのせいか例年の賑わいはありませんでした。
 桜はいつまでたっても感動的な美しさを描けません。確かに薄いピンクな
のに、そのままでは桜らしさが表現できないので少し強調しますが、そうす
るとわざとらしくなってしまいます。
 主役は桜にしても人工物を入れた方がよいと思って柏厚生病院を入れまし
た。また散策路を往来する人々も欠かせません(道行く人々はすべてマスク
姿)。結構自転車が多く、描くのに苦労しました。
                        (以上この項終わり)
 

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松本賢吾の『慚愧の淵に眠れ』

2021年03月29日 | 読書

◇『慚愧の淵に眠れ
 
著者: 松本 賢吾  2000.7 双葉社 刊

 
 警察内部の腐敗をテーマにしたハードボイルド。
 とにかく主人公の私立探偵 原島恭介のキャラクター設定がお見事。
物語の展開のテンポもよく会話も軽快で面白い。 

  まだ28歳のころ、警視庁捜査4課マル暴担当だった原島はヤクザの
罠に嵌り強姦罪で告訴され依願退職に追い込まれた。運送会社などやっ
ていたが食い足りなく、事件屋の相棒に誘われ時折アブク銭を得たり
していた。今は墓掘人をやりながら素人探偵で遊んでいる。元警官と
いう薄暗い過去をものともせず、行動も早いし自己肯定的である。

 ある日墓掘りをしていると一緒につるんでいた当時事件屋をしていた
関川がやってきた。
頼みたいことがあって探し当てたが、墓掘人の姿を見てやめたという。
 その関川が3日後に死体となって海に浮かんだ。自殺か事故という警
察の見立てはあてにならないと原島は自分で調べ始める。

 舞台が名古屋港と横浜港。麻薬取引がからむ。愛知県警と神奈川県警 
で管轄の違いが厄介だが警察の幹部級の悪事が絡んでいる。組織を守る
ために個人の悪事を覆い隠そうとする体質。そんなことが許せない原島
は定年間際で実直な正義漢の愛知県警杉浦巡査部長と事件解明に協力し
合う。
 
あまり後味は良くない形だが、事件はうやむやで終わった。

…人体が老いると腑(はらわた)の一つひとつが徐々に腐って寿命が尽
きるのと同様に、今の日本は国自体が壮年期を過ぎた衰えを隠せず、国
の臓器ともいえる中枢機関の多くが、病んだ部位から滲み出る腐臭を社
会に漏らしていた。(本書315p)

 原島の述懐はまさに真実を衝いている。今も全く変わっていない国会
も、政府も下部機関の各省も検察も警察も、もしかすると裁判所もどこ
も信頼できない体たらくではないのか。世界に誇る清廉な日本国はどこ
に行ったのか。

 <最終段>
 或る日若い女の声で電話がかかってきた。
「探偵の原島さんでしょうか」
「そうですが」
「ストーカーに付きまとわれて困っているんです。助けてください」
「お嬢さん、そう言った問題は高い探偵料をはらわなくたって、警察
 がタダでやってくれますよ」
「そのストーカーってお巡りさんなんです。」
 なんてこった。浜の真砂と警官の不祥事の種は尽きない。
                     
                   (以上この項終わり)

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藤島武二の「婦人と朝顔」の臨画

2021年03月26日 | 水彩画

◇ あやしい絵?藤島武二の「婦人と朝顔」

 
   clester    F6 (320×320mm)

 いま国立近代美術館で「あやしい絵」をやっています。その中の作品の一つに
藤島武二の油彩画「婦人と朝顔」があります。この絵(原画=下部に)のどこが
”あやしい”のか、よくわかりません。
 制作年が1904年と言えば明治末期。藤島武二がフランス・イタリアに留学する
前の作品です。ミュシャなどアール・ヌーヴォーの影響を受けた作者が、朝顔と
女性のモチーフで何を表現しようとしたのか。物憂い眼差し、大胆な胸元、サリ
ーのように流れるような衣装。モガ・モボが登場した大正文化の先取りとも見え
る大胆な構図です。
 残念がら私にはこうしたアンニュイは表現できませんでした。また原画にある
朝顔の垣根にある白い点の正体が不明で、結局葉叢の隙間とみて白抜きしました。

<原画>


               (以上この項終わり)

 

 

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吉川英治の『新書太閤記(三)』

2021年03月26日 | 読書

◇『新書太閤記(三)

        著者:吉川英治               1990.5 講談社 刊



 
 信長は永禄5年(1562)29歳になった。ということは3歳違いの藤吉郎は26歳
ということである。
 信長は三河上の松平元康(のちの家康この時21歳)と和盟を結び、共に美濃
に対抗する体制を整えた。
 一方藤吉郎は佐久間信盛、柴田勝家、織田勘解由など織田家の勇将がいずれ
もさじを投げた洲股城築城を成し遂げ、その城を信長に与えられ、小ながら一
城の主となった。この築城に当たっては、かねてゆかりの蜂須賀小六を「いつ
までも野武士でいるな、将来ある信長に仕えよ」掻き口説き、その手を借りて
短期築城に成功したのである。この時斎藤家に恩義のあった小六は織田家に仕
えること潔しとせず藤吉郎に仕えることとしたのである。

 信長はいよいよ美濃の斎藤義龍の居城稲葉城攻略する。難攻不落のを

 今一つの出来事はまだ28歳と若年ではあるものの優れた軍師として名を馳せ
美濃はおろか近隣各国から尊敬を受けている竹中半兵衛の獲得である。
竹中半兵衛は元来斎藤家の一角をなし岩手城の城主であったが、斎藤義龍が京
風の奢侈におぼれ我儘放埓に流れこれを諫めた安藤伊賀守を軟禁したため、娘
婿であった竹中半兵衛はわずか16名の家来と共に夜半義龍の居城に押し入り、
半兵衛の手勢千人と伊賀守の渦中二千余りで城を取り囲み、義龍は命からがら
鵜飼城へ逃げ込んだ事件があった。これを知った浅井、朝倉、武田、北畠など
が自国へ引き入れようと 誘いをかけたが半兵衛は乗らない。間もなく城は義龍
に返し、自らは岩手城を叔父に譲り、栗原山に籠ってしまった。以後どんな誘
いも追い返していた。

 藤吉郎はこの半兵衛を織田家に引き入れようと栗原山に日参するがにべもな
く拒まれる。10回以上通い雨に濡れそぼった藤吉郎をあわれと思った半兵衛の
妹おゆうの口添えで漸く面談がかなったが、やはり説得には応じない。役目を
果たせなければ腹を切るしかないとの脅しが効いたのか半兵衛は山を下りるこ
とに同意した。しかし、織田への随身はない。木下氏の下に仕えようというこ
とになった。藤吉郎の強引な駆け引きが成功した感じであるが、覚悟をもって
一戦から退いた筈の竹中半兵衛がこんなに簡単に山を下りる流れはあまりに安
直にすぎる。藤吉郎の人間性、人生観に半兵衛が共鳴し隠棲を捨てたというす
じがきであろうが。

 さて尾張の織田はどうしても因縁の斎藤義龍を倒さねば天下統一の道が開け
ない。天嶮を誇る稲葉城を攻略するために藤吉郎の一軍を放つ。藤吉郎は茂助
と呼ぶ若者の手引きで杣道から峻険の山々を越え、搦手から城内部を攪乱つい
に堅牢強固な稲葉城を落とすことができた。
 この手柄で藤吉郎は旗印(瓢印)を許され、5万石を与えられた。  
 母思いの藤吉郎は母と寧子を洲股城によび同居することになった。ついで姉
さらには胤違いの弟、妹も呼んだ。
 美濃を下し、稲葉城を岐阜城と変えて清州から居城を移した信長は次いで江
州を経て京都に入る。
 
 明智光秀の働きで、岐阜城に将軍義昭を迎えた信長は京の三好・松永党を下
し、着々と天下布武を実あるものとしていった。
 北国の雄朝倉義景は将軍家を蔑ろにし信長の下知に従わず驕っていたが、信
長は近畿、濃尾、三河の凡そ十万の兵をもって越前敦賀を攻略する。しかし近
江の浅井長政、甲賀の佐々木一角らが義景支援に駆けつけたため、信長は少数
の旗本らを連れて朽木谷から逃走した。しんがりを藤吉郎の兵に任せて。
                          
                         (以上この項終わり)

 

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吉川英治の『新書太閤記(二)』

2021年03月21日 | 読書

◇『新書太閤記(二)

 著者:吉川 英治     講談社1990.5 講談社 刊



 第2巻の大きな出来事は寧子との出会いと織田信長が今川義元との争いに決
着をつけた田楽狭間の戦である。
 まずは秀吉が生涯の伴侶として選んだ寧子(ねね)との出会い。

 或る日藤吉郎は「折り入って頼みが」と寧子の父親浅野又右エ門から話しか
けられる。実はお小姓組の前田犬千代(後の利家)から寧子を妻にと人を介し
て申し出でがあり、家柄もよく、勇猛にして白皙端麗な若者なので一も二もな
く、お受けする返事をしたが、肝心の寧子が素直に頷かない。「何とか良い思
案はないだろうか」と問われた藤吉郎「引き受けました。何とかなるでしょう」

 寧子にはかねてから思いを寄せてはいるが、相手が犬千代では境遇も容貌も
風采でも太刀打ちできる相手ではない。ところが犬千代には「寧子殿と私は仔
細あって固い約束を取り交わしている間柄である」と犬千代をだまし、父親の
又右エ門殿には「寧子殿は私のほかに夫は持たぬと胸に秘めておいででしょう」
などと剣呑なことを述べる。では本人に聞いてみようということになって寧子
を呼ぶと、「私のような不束者でも、木下さまが妻にとお望み下さるならば、
どうぞ木下さまへおつかわしくださいませ」にという思いもかけない返事。か
くて藤吉郎は強力な競争相手に勝った。(実はかねてより寧子には手紙を送っ
たり贈り物を届けたりしていたのだ)
 どういうわけかこの一件以降藤吉郎と犬千代は肝胆相照らす間柄になった。
 
 そして織田と今川の桶狭間の戦い。かねて上洛の機をうかがっていた今川義元
はどうしても通らなければならない尾張の国を率いる宿怨の織田信長と一戦を交
えなければならない。
 天下統一の覇業を成し遂げようとする今川義元は足利将軍の奢侈を映し雅を
旨とし、家風もそれに慣れていた。
    まず今川義元の質子として育った松平元康(後の徳川家康)が出てくる。三河
では元康の帰城を切望しているが、義元は言を左右にしなかなか応じなかったが、
ついにだれもが尻込みしていた孤立する大高城救援に成功したら三河城を任せる
と約束した。
 三河軍は元康の采配で見事大高城を救ったが、義元は約束をまもろうとしなか
った。こうした仕打ちに対しなお隠忍自重していた元康も、信長が義元の馘を打
ち取った後信長と誼を通じ、互いに助け合う間柄となる。

 ついに天下を取ると宣言した義元は五万という大軍を率いて尾張を抜け美濃
に向かおうとする。これを迎える織田軍勢はわずか五千の兵であったが、今川軍
が休憩をとっている田楽狭間に構えた今川軍の本陣を急襲し義元を討ったのであ
る。奇跡の勝利に向かう信長軍と今川軍の死闘の様子は生々しい描写で戦場の惨
状は眼を覆うばかりである。
 とにもかくにも折からの猛烈な雷雨が信長に勝利を齎したというしかない。 

 この戦では藤吉郎はさして目覚ましい働きはしていない。とにかく戦陣で手柄
を立てようと働くタイプではないのである。
 しかし戦後の落ち着きを見た後、犬千代の口添えで藤吉郎は晴れて寧子と結婚
式を挙げることになった。当時の足軽クラスの嫁入り(藤吉郎の場合婿入り)の
様子がまるで見てきたように生き生きと描写される。

                          (以上この項終わり)

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