読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

旧水戸街道を歩く(その4)

2008年11月24日 | 里歩き

水戸街道(松戸宿から柏宿まで)

  前回は松戸のお祭りを見て、電車で自宅に帰った。
  今回は時間があってお天気のいい日を狙っていたら、土曜・日曜が秋晴れ
 との天気予報。最近は予報もあまり外れないので安心して行こうということな
 った。

  日曜日は勤労感謝の日。旗日で、翌月曜日は振り替え休日(雨模様)にな
 っている。勤労感謝祭は昔は「新嘗祭」といって、天皇陛下が宮中の田圃に
 お手植えした稲を刈り取り、新米を神様に供えるという儀式を前面に出して
 いたので分かりやすかった。子供には学校で紅白の饅頭が貰えるというだ
 けで、本来の祝日の意味などそっちのけで嬉しかったものだが、今は「勤労
 感謝」なんて誰が誰に感謝するのかさっぱりわからない。勤労できることを素
 直に天に感謝するのだと言われても、毎日が日曜日状態のリタイア組なんぞ
 は身の置き所がない。では勤労している人達に感謝しようと言われても、どう
 感謝しようと散々考えたが好い考えも浮かばない。仕様がないから余り働い
 てる人たちの邪魔にならないように静かにしているのが一番だと思うことにし
 た。しかし、明日は天気と言われると、働いてる人の行楽を邪魔することにな
 るのを構わず出かけてしまう。まったく聞き分けのない年寄りだということに
 なる。

  まあそんな訳で今日は我孫子宿か、その手前の北柏辺りまで歩こうと出か
 けたが、結局北拍で切り上げることになった。
  風も無く、小春日和の快晴で、夕刻の空は見事な夕焼けだった。

 <松戸宿>
     まずは前回の終点、「松戸駅入口」信号からスタート。水戸街道とはいっても
  この辺りは素っ気ないもの。
     
        
           松戸市根本付近
    
   製パン工場の手前(「竹ヶ花」)で左折し、住宅地の中を進む。やがて国道
  6号に合流し、うるさい車の喧騒の中を北松戸、馬橋ヘと向かう。

      
      松戸市新作付近      馬橋万願寺

   「八ケ崎交差点」の先「蘇羽鷹神社」前の信号で右折する。少し街道筋らしく
  なる。
   武蔵野線のガードをくぐる。
   松戸市場へ向かうケヤキ並木はきれいに色づいていた。また道筋の畑では
  柿がたわわになっていた。

        
       蘇羽鷹神社      水戸街道の案内柱     武蔵野線ガード

     
  
      松戸市場への道      枝もたわわ

     道はやがて国道6号を横断し、真直ぐ北小金駅方向に向かう。
    「虚無僧寺『一月寺』跡」という標柱があった。今は日蓮正宗金龍山
   一月寺となっている。
    珍しく旅籠の旧家があった。「玉屋」といったらしい。

        
      虚無僧寺跡標柱     一月寺           旅籠「玉屋」跡

    不明にしてこれまで知らなかったが、ここに「東漸寺」という名刹がある。
   東漸寺は、元々1キロほど離れた根木内に文明13年(1481)開創。その後
   この地に移設。関東18檀林の一つといわれる。明治初頭に勅願所とな
   った。境内には一時20以上の堂宇を擁したという。
    枝垂桜が有名で時期になると多くの人を集める。

    今日はたまたま万灯行列という行事のある日で、出発準備の檀徒さん
   達の勇ましい姿に接することが出来た。

        
      
東漸寺参道        準備中の万灯          山門

         
       万灯行列出発前の準備

     
        
       紅葉もきれいでした   松戸市の汚水マンホールのデザインは「矢切の渡し」です。  
 
     やがて北小金駅前に着くと直角に道が右折することになりそこに
    「水戸街道」の道標が立っている。

    
      
水戸街道道標

 
   道を辿ることほぼ1キロ。国道6号を横断すると左手に「根木内城跡」の
  「根木内歴史公園」があり、そこで持参のオニギリで昼食をとった。

  流山電鉄大谷口にある小金城跡と同じようなつくりで、残っているのは土
  塁と濠跡(空堀)、復原土橋などである。寛成年(1462)高城胤忠の築城で
  ある。

        
      
城跡概念図            土塁            空堀

  道をどんどん南柏の方向へ北上すると、香取神社の境内脇に「一里塚跡」
  の碑があった。鳥居の右手に立派な榎があったが枝を落とされてみじめな
  姿であった。下から子供が生えていたが、ちゃんとするまで何百年も掛か
  る。

       
      
一里塚の碑         一里塚の榎

   
南柏駅入口の先に、昭和37年頃の松並木の写真が残っていた。今はもう
  そんな風情は望むべくもない。

      
      松並木の写真        八坂神社

   更に進むこと1.6キロ。東武線のガードが見えてきた。柏宿である。

  やはり柏宿は柏神社が中心。社格は村社で、1660年八坂神社と羽黒神社
  の合祀とあるが、境内に樹齢300年近い銀杏の樹があったりし
威容がある。

   しばらく行くと明治天皇小休所記念碑が建っている。

        
     東武野田線ガード         柏神社      明治天皇柏御小休所

    道は800mほどで国道16号を横断すると一旦常磐線を高架で渡るが、
   再度旧道の小道に入り、大堀川に近い道を再び常磐線のガード下を
   くぐり国道6号に合流する。ややこしい道筋である。

    今日は相棒の妻が少々脚が不調のようなのでここで打ち止め。
         今日は結局18キロほどの歩行であった。

    
 
 
     
常磐線ガード手前    手賀沼に入る大堀川

   (以上[その4]終わり)  

     

     

 

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サンマの開きを作る

2008年11月24日 | その他

那珂湊のサンマ
  一昨日のこと、知人ご夫妻が那珂湊で新鮮なサンマを手に入れたので、
 「刺身にして召し上がれ」と5尾戴いた。なんとか夕食に間に合わせようと
 ご自宅への途次寄ってくださったらしい。
  折角のお勧めであるものの、あいにくと既に食事が始まっていたので、
  次の日に塩焼きで戴いた。中物ではあるが新鮮な旬の味覚をおいしく戴
  いた。(ちなみに大根おろしは自家製大根)
  
  さて翌日。2日経ったのでさすがに刺身というわけにもいかず、思い立っ
 て「開き」をつくった。
  実は初体験ではなく、前に冷凍物のサンマで1・2度かつくったことがあ
 る。その時はレシピは無く、経験者からの口伝。改めてネット検索したも
 のの、サンマの開きについては商品か食事内容の説明が殆どで、結局
 参考になるレシピは無く、うろ覚えで作るしかなかった。

 [製作工程]
  1.新鮮なサンマ。
   

 2.サンマを洗い、背中から開く(「背開き」、「腹開き」もあり)。

    

 3.背開きにしたら、わた(内臓)を抜く。頭を取る人もいるが、「開き」らしく
   しようと頭は取らないままにした。
 
   
 
 4.真水で水洗いし、血合いなどを落とす。

 5. 海水と同じくらいの濃度の塩水を作る。(海水の塩分はおおよそ3.5%
  だというので、1リットルの水に35グラムの塩を溶かした。)

    

 6.塩水におよそ2時間漬けて置く。

   

 7.漬け終わったサンマを尻尾を縛って吊るす。(夏場はやはり直射日光を
  避けて、猫やハエを避けるために網を掛けたすのこに並べた。)
   吊るすと原形を保とうと背中同士がくっつくので、爪楊枝で開き状態にし
  た。

   

 8.夏場などはその日のうちに食べられた。こんな時期はもっと時間を掛け
   た方がいいかも。
   アジなどもそうだが、「開き」はやはり作り立てがおいしい。
   

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新刊「運命の日」を読む

2008年11月22日 | 読書

◇デニス・ルヘイン久々の著作「運命の日」(上/下)
       (原題:「The Given Day」)

  Dennnis Lehane 著 加賀山卓郎訳 早川書房2,008・8・25初版発行(各1,800円)

 原書で700ページを超えるという大作である。『ミスティック・リバー』(2001年)、
 『シャッター・アイランド』(2003年)も語り口・情感表現に感心したが、今回の作品
 は作者が満を持して書いた長編というべきである。「訳者あとがき」によれば、作
 者デニス・ルヘインが最近のインタビューで、「『シャッター・アイランド』の後の課
 題はボストン市警のストライキに関する本を書くことであり、すぐにそれが長い歴
 史物になることが分かった」と述べていることで分かる。
  通常米国の小説は、冒頭に主要登場人物が列挙紹介されるが、普通は1ペー
 ジ。ところがこの本では3ページを費やして総勢48人。大作であることはこれでも
 分かろうというものだ。

           

  時代は第一次世界大戦終結前後の1910年代終わりごろ。1929年の「アメリ
 カ大恐慌」をもたらした経済不況の始まる10年ほど前のことである。 物価が
 高騰。労使の対立が深刻化し、ロシア革命(1917年)の影響がアメリカにも及
 び、社会主義者、共産主義者、アナーキスト、黒人地位向上運動などさまざま
 な体制批判勢力が勃興していた。折りしも悪質なインフルエンザ(スペイン風
 邪)が流行し、ボストンはもちろん西海岸地域にも被害が及び、50万人という
 多数の死者を出すという悲惨な状況にあり、社会不安が高まっていた。
 (ちなみにスペイン風邪の発祥地はシカゴ。スペインは情報源がスペインであっ
 たためという。日本でも39万人、世界中では1億人が死んだといわれる。)

  物語はこうした時代背景の中で進むが、主軸を成しているのはボストン市警
 幹部トマスを家長とするコグリン家。妻と3人の息子がいる。もちろん息子はそ
 れぞれ気性が異なり、後々軋轢を引き起こす。主人公は父親と同じ道に進ん
 だ警官の長男のダーニーであるが、一本気で正義感・公平感では家族と一線
 を画している。
  情報集めの職務として、急進派や警察職員組合に入り込むが次第に彼らの
 主張に共感を覚え、これら組織の中で注目される存在になっていく。

  確かに物語の主軸はコグリン家のダーニーではあるが、この縦糸に横糸とし
 て絡んでくるのが黒人ルーサーである。軍需工場を首になり、若き妻ライラの
 里サンタフェで働くことになるが、悪友達に誘われて入り込んだ「ノミ屋」の取
 立てアルバイトでしくじり、殺人を犯すことになる。ついにサンタフェを逃れ、
 叔父がいたボストンに落ち着き、つてがあってコグリン家に雇われるとこにな
 る。

  ここからダーニーとルーサーの運命的な出会いが始まり、どういうわけか二
 人はウマが合って、過酷な状況の中で友情が強まり、助け合っていくことにな
 る。
  アメリカは奴隷解放と対外貿易を巡る意見の相違から南北戦争に突入する
 が、戦争が終わっても白人と黒人の間の意識は変わらない。人種間の平等を
 理解し、黒人と対等に付き合う人は少数派で、大多数はいまだに黒人を「お前
 は猿だ。・・・定義として受け入れられる人種に属していない。ただの労働力だ。
 足置きであり、荷物を運ぶ道具を越えるものでなかった。・・・ルーサー。わしは
 お前たちの誰かが死ぬより、足置き場が壊れるほうが哀しい。」
 これは作中、ダーニーの叔父でボストン市警警部補の言葉である。後のち黒
 人が公民権運動を本格化し、彼らを真に公平に扱うことを求めて立ち上がる
 まで(1960年代)、どれだけこうした偏見と向き合わなければならなかったか。
 アメリカ先住民(インディアン)からの土地の合法的略奪とともにアメリカの恥部で
 あろう。

  更に面白いのは時代背景の一人としてベーブ・ルースが登場することである。
 この本の始まりは「プロローグ」であるが、ベーブ・ルースを巡るアメリカ野球事
 情から始まる。何度かベーブルースが登場するが、黒人のルーサーとの出会
 いも実はここから始まっている。
  第一次大戦中、陸軍省が大リーグの旅行制限を行い、1918年のワールドシリーズ
 は両チームの本拠地で行われ、シカゴ・カブスは3試合を地元で、残り4試合は
 シカゴで戦った。(この頃ベーブ・ルースは23歳。アメリカンリーグのホームラン
 総数97本の時代に、彼だけで11本打った。)
  カブスはシカゴで連敗し、両チームは27時間掛けて鉄道でボストンに向かう。
 ところが列車の故障か、オハイオ州サマーフォードで長時間停車する。ベーブ・
 ルースらはこの間野原に出て脚を伸ばすことにするが、そこで野球の試合中の
 黒人たちに出くわす。ベーブルースはここで、見たこともないスピードでベースを
 駆け抜け、あっという間に打球落下点に立って捕球する男を見た。実はこれが
 ルーサーだった。
  
  白人の大リーガーはちょっとした遊び気分で、彼ら黒人チームと遊んでやろ
 うと思う。ところがルーサーは言った。「野球には詳しいんですよね、スー(サー
 のこと)?」彼はベーブ・ルースのことも、彼らの一団が大リーガーだという
 ことも知っていたのだが・・・。
  黒人チームのプレーヤーに口汚い野次を飛ばしていた白人チームも6対4
 で負けが込むと無口になり、今度はアウトをセーフと強引に通そうとする。要
 するにズルしたわけだ。ベーブ・ルースはアウトだと思ったのにチームメートに
 「セーフだろう?」といわれて「セーフだった」といった。

  9回裏、ツーアウト、3点差、打者はベーブ・ルース。彼の一発で逆転できる。
 しかしこのときの打球は外野のルーサーの上に飛ぶ。ルーサーは捕球できる
 位置にいながら捕球しないままグランドを立ち去る。そして他の黒人選手も黙
 ってベンチに引き上げた。
  この無言の抵抗、嘘をついた白人らに対する強烈な軽蔑が印象的である。
  ベーブルースはこのときの恥ずかしさ、負い目がトラウマとなって後々まで
 尾を引くことになる。(後にボストンでの試合で、偶然ルーサーを客席に見てし
 まったベーブ・ルースは、次の打席からまったくボールが打てなくなった。)

   ともあれ、主人公ダーニーと、彼が終生愛したノアとルーサーと三人の揺ぎな
 い心の交流、父親との確執や和解、次弟・末弟との愛憎、その他登場人物の 
 恋人として、家族としての愛情、友情、警察という組織の中における同士愛、
 激情の流れなどが実に生き生きと語られる。
  当時の警察官の処遇、警察官の組合化とAFL (アメリカ労働総同盟)への
 加入問題、州知事と市長、警察本部長との確執。警官ストから発展した暴動
 と州兵による弾圧の一部始終は、生々しい臨場感・迫力で伝わってくる。

  私が持っているアメリカ現代史「栄光と夢(全5巻)」は1932年以降1972年ま
 で。第一次世界大戦の復員軍人たちが、大恐慌の救済金支給を求めて、陸
 続とワシントンに集結してくる。時のフーバー大統領は軍隊の出動を命ずる
 事態になったところから始まっている。いつか来た道のようである。
 

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秋の果物を描く

2008年11月18日 | 水彩画

静物画(果物)を描く

 先週の画題は季節の果物。
 柿とりんご。それに色合いを考えてグレープフルーツ。果物だけでは落ち着き
 が良くないので、教室備え付けの磁器の水差しを脇役にしています。

 先ずバランスのよい構図になっているか。果物の新鮮さを表現できているか。
 主役はどれなのか。背景色はちゃんと果物を引き立てているか。課題は沢山
 あります。

 ガラス器が存在感を発揮していません。そもそも何のためにそこにあるのか。
 実は器の上に葡萄が載っていたのですが、不安定で見る人に不安感を与え
 ては、と思って止めました。

 背景に射光らしいものが入っていますが、画面に少し動きを与えるためです。
 この教室はいつものことながら光源がいくつもあってハイライトがはっきりしませ
 ん。無理やり一部を強調しています。

   

   さて、それから数日後、ご近所から今年取れた「柚子」を戴きました。
   過日同期会の旅行先で戴いた「葡萄(巨峰)」、それに我が家で採れた柿
   (今年はどこでも柿は豊作)。いつもと違う目線で少し上から見ながら描き
   ました。

   果物だけでは構図が平板になるので、ウィスキーボトル(今はもう見かけ
   ないサントリーインペリアル)を置きました。
    テーブルクロスが複雑なパターンで、何とか簡略化しようと苦労しましたが、
   心配したとおり少々うるさい存在になってしまいました。

   右手上にあるナイフは、知人から戴いた中東(イランかアフガニスタン)のもので
   す。果物よりも羊の頚動脈を切るのが本来の使い道かもしれません。

   背景色にはいつも迷います。

        

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関東の名城「鉢形城」を訪ねる

2008年11月12日 | 里歩き

日本100名城のひとつ「鉢形城」
 一時中断があったが、このところ毎年、50年前に1年間一緒に学んだ仲間が
 秋になると集まる。同じ釜の飯を食った仲間という表現がある。固い絆の代表
 的な関係であるが、寄宿舎で文字通り同じ釜の飯を食って学んだ仲間である。
  これまで35名の仲間が全て健在で、同期会の度にそれを喜び合ったものだ
 が、今回初めて2名の物故者に黙祷をささげる哀しい会になった。これも時の
 流れの結果。避けては通れない。

  今回は埼玉県大里郡寄居町の金山温泉のある宿で泊まり宴会。翌日は荒
 川の船下り(長瀞船下り)コースと「鉢形城」歴史探訪コースに分かれて行く秋
 を楽しんだ。
  「鉢形城」は一昨年の新緑の頃、鉢形城の見張り砦が置かれた「鐘撞堂山」に
 登り、少林寺の「五百羅漢」を観てやはり同じ宿に泊まって、翌日「鉢形城」を見
 学したことがある。昭和7年に国の史跡に指定され、日本100名城に認定され
 ている。
  
  元来この地は交通の要衝であり、旧くから関東にとっては上州と信州方面に
 対する重要な戦略拠点であった。今もこの地理的重要性は変わらず、現在も
 「寄居駅」はJR八高線、東武東上線、秩父鉄道の連絡駅である。
  「鉢形城」は寄居駅から南に、荒川に架かる橋「正喜橋」を渡った地に位置し
 ている。荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれた広大な平城で、ま
 さに天然の要害を生かした名城のひとつである。(全体で24万平方メートル)
 
           
        1/250復元地形模型    本曲輪跡から荒川     城内を流れる深沢川

  

   さて、ここ「鉢形城」は文明8年(1476)当時の関東管領山内上杉氏の家臣
  長尾景春の築城と伝えられ、その後畠山重忠、上杉顕定、上杉顕実が城主
  となったが、北条市の勢力が武蔵野国を圧倒し上杉氏が一掃された後、こ
  の地の豪族・藤田康邦に入婿した北条(小田原)氏康の四男氏邦がこの城
  に入り整備拡充し、現在の大きさになったと伝えられている。その後永禄12
  年(1569)武田信玄が小田原攻めに際し、鉢形城も攻撃したが守りが堅いた
  めそのまま南下し滝山城に向かった。また天正2年(1574)上杉謙信に侵され
  城下を焼かれたこともあった。当時の群雄割拠の中で、甲州・信州からの侵
  攻への備えとして重要な役割を担った城であった。
   天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原攻めでは後北条氏の重要な支城
  として前田利家・上杉景勝らの北国軍に包囲され、激しい攻防戦が繰り返さ
  れた。およそ1ヶ月あまりの籠城の後、北条氏邦は城兵の助命を条件に開城、
  自らは前田利家預かりの身となった。

   その後「鉢形城」は徳川氏の関東入国に伴い、家康は以下の成瀬正一、
  日下部定好が代官となり治めた。

   
                
                土塁址             内堀址           二の曲輪の土塁

           
     搦め手・石垣跡       二の曲輪土塁・空堀     二の曲輪・復元木橋

              
    二の曲輪・江戸緋寒桜


 鉢形城歴史館
   広大な鉢形城址は全体が鉢形城公園となっているが、その一角に「鉢形城
  歴史館」があり、鉢形城を巡る歴史紹介・
企画展示等が催されている。

  (有料200円 休館日:月曜日・祝日の翌日・年末年始)

         
    歴史館正門        櫓門模型            関東の城           

    

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