読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

2022年も終わり

2022年12月31日 | その他

年の暮れに当たって

 馬齢を重ねること80年を超えまぎれもない高齢者になって、20年も前に始めた
ブログも些か重荷になってきたのか更新頻度が落ちています。読書感想、描き貯めた
水彩画の披露目、小ぢんまりした家庭菜園の様子など内容は限られているのになかな
か手が付かないのはものぐさになってきたせいか。
 記事更新に努めてはいますが、お付き合いいただいている皆様にはご寛恕賜りたく
お願い申し上げます。
 3年前の冬には甘く見ていたコロナウィルスが、結局パンデミックとなり、世界中
の人達の生活を大きく変えてしまいました。5回もワクチンを射って、何とか普通の
日常生活を維持しているのが少数派なのかと思ってしまう程コロナ禍に席捲されまく
っています。早くこの窮屈から脱却したいものです。
 ハイパープレデター(捕食者)として生物の頂点に立つ人類が慢心の末、自在に変
身しながら執拗にヒトを攻撃してくるコロナウィルスによって頂点を追われ、自滅し
ていく終わりの始まりではないかなどと不吉な想像をしてしまうのは、生物学でいう
ところの「示準化石」を例に引くまでもなく、何億年先かもしれないものの、謙虚さ
を欠いた人類の行く末に不安を抱いてしまう今日この頃であります。

 ゆく歳もくる年もまた無常なり 
 
 明年もよろしくお付き合いのほどお願いいたします。
 どうぞ健康で新しい年をお迎えくださいますように。
                            (以上この項終わり)

 

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ミリヤム・プレスラーの『マルカの長い旅』

2022年12月28日 | 読書

◇『マルカの長い旅』(原題:MALKA MAI)    

       著者:ミリヤム・プレスラー(Mirjam Pressler)

       訳者:松永 美穂    2010.6 徳間書店 刊

       

   

 もう40年ほど前に「母を訪ねて三千里」というTV番組があったような記憶がある。
この本もそうした系統の児童書かと思ったが、読んでみれば背景が全く違うし大人が読んでも
感動的な読み応えのある本である。
    作者は本書はマルカ本人から断片的な記憶をもとにしながらも大部分が創作であると言って
いるので単なるドキュメントではない。しかし人物造形も情景描写もかなり緻密であり、迫真
的である。
 第二次大戦初期、ナチスの迫害を免れポーランドからカルパチア山脈を越えて隣国ハンガリ
ーに逃れるという時代背景があって、単純な逃避行の物語ではないところが感動的である。

 マルカは7歳になったばかり、まだ幼児である。姉のミンナは16歳で母親に反抗的である。
なぜなら父がナチスのユダヤ人狩りが濃厚となり、パレスチナに一緒に逃れようと言った際に、
状況を甘く見て同行を拒んだからだ。
 二人の母ハンナは医者で自分の仕事に誇りと使命感を持っているが、母親としての役目をち
ゃんと果たしているのか自信がない。

 マルカは逃避行の夜闇の中で、鳥の啼く声や小川の水音にも歌を感じ取る繊細な感性を持っ
た女児だった。母や姉と違って金髪で大きな茶色の目をしていた。(ユダヤ人は黒髪が多い)
 ついにユダヤ人狩りが風雲急を告げる事態となって、3人は着の身着のまま状態で国境を越え
てハンガリーヘ逃れることになる。山を登り下るという難路でマルカは足を痛め熱を出す。
 やっとたどり着いた山小屋で親切な夫婦に面倒を見てもらい手当てを受ける。ハンナはハン
ガリーに逃れるユダヤ人グループに加えてもらうが、病気のマルカを連れていくことはできない。
治ったら鉄道で連れてきてもらえばよいと諭されミンナと旅立つ。母と姉が自分を置いて先行す
るという話を夢うつつで聞いていた。翌朝母に「病気だからここに置いていくけど、元気になっ
たら…」と言われ「ちゃんと歩ける。ここにいたくない」と言ったが、母とミンナの泣きそうな
を見ると「行っていいよ、私はここにいるから」と壁を向いて気丈に答えるしかなかった。

 やっと脚の傷は治ったが、ユダヤ人狩りが迫ったと聞いた水車小屋の主人は「誰かほかの人に
助けてもらえ」と追い出された。
 一人でハンガリーへの山道をたどったが、やがてポーランドの警官につかまり留置所に収容さ
れた。一時親切なポーランドの警官ジグムントの家で妻のテレザ、3人の子供と共に家族の一員
として頼られるなど楽しいひと時があったが、間もなくマルカを庇いきれなくなったジグムント
は彼女をユダヤ人収容地区の家族の家に所へ連れていく。しかしそこでもユダヤ人狩りがあって、
次に匿まってくれた家族も連れていかれてしまった。
 マルカはユダヤ人以外の人たちが集まる教会に逃れて、そこで出会ったチョトカというおばさ
んにやさしく扱われ久しぶりに泣いた。
 ママという言葉を聞くと悲しくなるので「マルカのお母さん」ではなく「ドクター・マイの娘」
と考えることにした。自分はいらない子でママに置いてけぼりにされたという気がしたからであ
る。

    収容所に連行された家族の家には食料や衣類が残されていて、空腹が満たされた。しかし翌日
には新しい家族に占領され、マルかは再び地下石炭貯蔵庫に逃れて寒い夜を過ごすしかなかった。

こんな風にハンナとマルカの話が交互に語られるのであるが、ハンナはハンガリーの待ち合わせ
の医師の家を訪ねマルカが着いていないと知るとマルカを置き去りにした罪の意識に苛まれ、自
分には親の資格があるのだろうかと悩む。またマルカの父イッシーとは好き合って結婚したわけ
でもなく、パレスチナへ誘われた時も「この人とずっと夫婦として暮らしていくなんて考えると
ぞっとする」と思った記憶がよみがえり、自分のしてきたことが何もかも間違っていたように思
えてくるのであった。

 今ではハンナもハンガリーの難民収容所で医師として働くことできた。ハンナはミンナと一緒
にあらゆる救援組織を訪ね、ポーランドへ戻ってマルカを連れ出す手立てを頼んだがどこも助け
 にならなかった。移民局ではマルカのような行方不明の子供はごまんといて探すことなど無理
だが、ミンナならパレスチナへの青少年移住計画と後段に席を確保できるがどうかと打診された。
ハンナは「娘は手元に置きます」と即答した。

 外へ出るとミンナは「私は行きたい」と言った。「行きたいってどこへ行くの。マルカが帰っ
てくるまであなたは私のところにいるの」、「母さんはいつも自分の思う通りにしなくちゃ気が
済まないのね。私がどうしたいかなんてどうでもいいんでしょ…行かせてくれないのなら私自殺
するわ。そうしたらマルカのことだけでじゃなくなるわよ」。
 ハンナはなすすべもなく移民局に戻ってミンナの登録を頼んだのだった。
 これは母と子の単純な確執の問題ではない。子供の成長のあかしであるし、親子関係のあり方
に対する問題提起である。

  一方マルカは冬の寒空の下、ユダヤ人狩りを駅のごみ箱の中に隠れやり過ごしたものの下痢を
起こし病院に担ぎ込まれて九死に一生を得た。しかしまたもユダヤ人狩りに逢う。再び石炭貯蔵
庫に逃れる。厳しい寒気と空腹の中、何度も冥界と行き来するような夢を見る。

 ハンナはマルカがジグムントの家にいると聞いて、単身冬山の雪道をたどりなんとかポーランド
にたどり着く。雪橇の二重底に隠れようやくジグムントの家にたどり着いたハンナはジグモントの
家を訪ねるが、マルかはすでに行方不明と知り落胆する。そのうちジグモントの家がドイツ兵に監
視されているため、ジグモントの妻テレザの母親の家に匿われる。そしてようやくマルカが病院に
収容されていることが分かり、一番無難なテレザの母親に迎えにいてもらうことになった。
 しかしマルカは何を思ったか病院から身を隠してしまった。

 目的を果たせなかった母親は再び迎えに行くことになった。決して怪しいものではない証として
以前マルカがテレザの息子アンテクに編んであげたボールを持って。
 ようやくマルカはテレザの母親とハンナの元に帰り着いた。しかしマルカが言った言葉は「テレ
ザはどこ、テレザのところに行きたいの」だった。
 自分を置き去りにしたハンナよりも、さまようマルカを雛の母鶏のように暖かい胸に抱いてくれ、
つらいときに常に思い出してたテレザが一番会いたかった人だったのだろう。
 ハンナにとっては衝撃的仕打ちではあるが、マルカを置いたままハンガリーに逃れたという自ら
の選択がもたらした罰と受け止めるしかないだろう。

 マルカはその後母と一緒にハンガリーに行き、1944年に青少年移住計画の渡航団の一員としてパ
レスチナにわたり、父親、ミンナと再会し一緒にキブツで暮らしたという。ただハンナはイスラエ
ル建国後パレスチナに渡ったものの、ついに家族3人とと一緒に暮らすことはなかったとか。

    「母を訪ねて三千里」は、人の思いやりと思いやりに対する感謝の気持ちが主題だという。この
「マルカの長い旅」にも人々の思いやりとそれへの感謝の気持ちが底流にあるように思う。
 先の大戦ではナチスの非道な大量虐殺で何百万人というユダヤ人が殺戮された。だがそうした人
たちの陰では何万人かの人たちがユダヤ人に手を差し伸べ、殺戮の危険から守ってやったり、生活
を助けたりしてあげていたに違いない。人間には本来そうした思いやりの心がある筈だから。そう
でなければ我々は救われない。そんな気持ちにさせる本でした。

 (以上この項終わり)

 

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橘玲の『もっと言ってはいけない』

2022年12月21日 | 読書

◇『もっと言ってはいけない

   著者:橘 玲 新潮社 刊  (新著新書)  

  
  
  前回『言ってはいけない』をご紹介したが、その続編である本書は「もっと
 不愉快な本に違いない」と思ってはいけない。それは誤解で、
 「言ってはいけない」ことをもっとちゃんと考えてみようという意味で、本書
 では「私たち日本人は何者で、どのような世界に生きているのか」について書
 いている(と筆者はまえがきで書いている)。

  「遺伝決定論」を批判する人たちは、どのような困難も本人の努力や親の子
 育て、あるいは周囲の大人たちの善意で乗り越えていけるはずだと頑強な信念
 を持っている。だが本人がどれほど努力しても改善しない場合はその結論は決
 まっている。努力しているつもりになっているだけで、努力が足りないのだ。
 なぜなら困難は意志の力で乗り越えられるはずなのだから。

  なるほどごもっともである。だが待てよ。努力をすればもう少しは成績が良
 くなるかもしれないと、一縷の望みを頼りに努力をして、わずかながら結果が
 見えて安堵する人もいるだろうから遺伝決定論をもって全否定することには無
 理があると私は思う。
  「行動遺伝学」では遺伝の影響は身体的特徴だけでなく、「こころ」にも及
 んでいるとする。

  ということで、プロローグでのっけから日本人の3分の1は日本語が読めな
 いという統計的事実を示され驚かされる。OECDのPIAAC(Programme for the
 International Assessment of Adult Competencies)の国際調査で、読解力、数的
 思考力、ITを活用した問題解決能力の3分野のスキルの習熟度測定結果である。
  またAIを用いて全国2万5千人の中高生の「基礎的読解力」を調査したとこ
 ろ3人に1人が簡単な問題文が読めないことが分かった(新井紀子氏の調査)。
  そこで筆者は言う。日本人の3割は、「むかしから教科書が読めない子ども
 たち」だった。そんな中高生が長じて「日本語が読めない大人」になるのは当
 然なのだ。

  世の中に「氏より育ち」という見方がある。「氏」はもちろん生まれである。
 行動遺伝学では「育ち」の方を共有環境と非共有環境に分ける。在野の心理学
 者ジュディス・リッチ・ハリスは「共有環境」を「子育て」、「非共有環境」
 を「友たち関係」と分類し、「遺伝」、「子育て」、「友だち関係」によって
 「私」がどう作られるか考えた。
  その結果殆どの領域で共有環境(子育て)の影響が計測できないほど小さく、
 音楽や数学、スポーツなどの才能だけでなく外向性、協調性などの性格でも共
 有環境の寄与度はゼロだったという。
  行動遺伝学が発見したこうした「不都合な真実」は何を示すか。どんな子ど
 もも、親が「正しい教育」をすれば輝けるなら、子どもが輝けないのは親の責
 任で、子どもが犯罪者になるのは子育てが悪かった親の責任だということにな
 る。(これは今では「言ってはいけないこと」になったので「社会が悪い」こ
 とになった。)  

 自己家畜化
  遺伝決定論によってユダヤ人が知的優位にあることが縷々説明されている。 
 東アジア系人種は中国人、朝鮮人、日本人とも遺伝子に大きな違いがない。明
 治維新以降の日本の急速な経済発展は偶然のもたらしたもので日本人の優性を
 示すものではないと筆者は言う。
  東アジア系人種は旧石器時代に出現した打製石器に次いで農耕というイノベ
 ーションによって狩猟採集生活から集団生活に移行した。そして農耕社会では
 獰猛勇敢さが有用だった狩猟採集社会とは逆に温厚な気性が選択的に優遇され
 たとみるのである。
 人口稠密なムラ社会である東アジアでは農耕社会に最適化する気質・性格に進
 化させてきたと見るのである。
   人格評価上ビッグファイブと呼ばれる開放性、真面目さ、外向性、協調性、
 精神的安定性の経済的成功との関係を見ると、人種的に顕著な違いがある。
 東アジア人種の方が成功者が多いのである。

  発達心理学者ジェローム・ケーガンの実験による刺激に対する高反応(内向
 的脳)と低反応(外向的脳)に分けた場合、日本人は高反応系(刺激に敏感)
 で生得的にセロトニン運搬遺伝子が少なく鬱病質であり、メランコリー親和型
 (精神医学者手連・バッハ提唱)である。
  日本人は、花でいえばたくましいタンポポより、適した環境では大輪の花を
 咲かせるが環境が合わないととたんに萎れてしま うひ弱なランだというのが筆
 者の比喩である。

     かつて野球界で何かと脚光を浴びるN氏を向日葵に、それに引き換え能力が
 ありながら日蔭者にある我が身を月見草に譬えた某氏もいたが…。

                        (以上この項終わり)
   

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21世紀の森公園の小川を描く

2022年12月17日 | 水彩画

◇ 千駄堀池に注ぐ小川

   
     ARSHES  F6 (荒目) 
  21世紀の森と広場公園の中央部に千駄堀池という大きな池があります。
 公園の八原台という小山から流れ出す湧水を集めた小川があり、静かなたたずまい
 に誘われて絵にしました。
                            (以上この項終わり)

 

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橘玲の『言ってはいけない 残酷すぎる真実』

2022年12月14日 | 読書

◇『言ってはいけない 残酷すぎる真実

  著者:橘 玲     新潮社 刊  (新潮新書)

  

       作者は「まえがき」でいっている。テレビや新聞、雑誌には耳障りのいい言葉が
 満ち溢れている。メディアする生j化や学者、評論家は「いい話」と「わかやすい話」
 しかしない。ダーウィン、メンデルが唱えた旧時代の進化論は現代のテクノロジーの
 急速な発達に支えられた分子遺伝学、脳科学、ゲーム理論、複雑系など「新しい知」
 と融合し、人文科学・社会科学bを根底から書き換えようとしている。専門家であれ
 ば常識の話を誰もしようとしない。黙殺されるか排斥されていく。みんな見たいもの
   だけ見て、気分のいいことだけを聞きたいのだから。
  だから「言ってはいけない」とされてる残酷すぎる真実こそが、世の中をよくする
 ために必要なのだ。これが執筆の動機である。

  というわけで真実であるがゆえに本書で述べられたことにはすべてエビデンス(証
 拠)の文献が挙げられている。
  以下論説の一部を抜粋してみよう。  

Ⅰ努力は遺伝に勝てないのか
 <馬鹿は遺伝なのか>
  「頭の良し悪しは生まれつきか環境次第か」
 「子供の成績が悪いのは親がバカだからだ」は公には口にしてはならないとされてい
 るが、ここには成績は努力によって向上しなければならないという暗黙の社会規範が
 働いていて、学校教育の中で努力が実を結ぶというお話が必要とされるために暗黙の
 裡に遺伝に否定的である。
  行動遺伝学では、論理的推論能力の遺伝率は68%、一般知能(IQ)の遺伝率は77%
 つまり知能の違い(頭の良しあし)の7~8割は遺伝で説明できるとされている。

Ⅱあまりに残酷な「美貌格差」 
  <美醜格差の最大の被害者とは>
  美形の男性は並みの容姿の男性より4%収入が多い。女性の場合プレミアムは8%。
 つまり平均より美貌だった女性は平均より収入が8%高く、平均より下の女性は4%
 収入が少なかった。生涯賃金で計算すると美醜格差は3,600万円ということになる。
 (経済学者ダニエル・ハマーメッシュ)

Ⅲ子育てや教育は子どもの成長に関係ない
 <親子の語られざる真実>
 「子供はなぜ親の言うことを聞かないのか」
  それは子どもは親よりも子供の世界のルールを優先するからである。親が影響力を
 行使出来るのは宗教や味覚のように友達関係の対象外になっているものだけなのであ
 る。(心理学者ジュディス・リッチ・ハリスの研究)

  「美醜格差の最大の被害者とは」に関する筆者の論説は妥当性に異論があるのでこ
 こでは触れない。
                            (以上この項終わり)



 
 

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