読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

澤田瞳子の『輝山』

2022年08月20日 | 読書

◇『輝山
  
   著者:澤田 瞳子    2021.9 徳間書店 刊

  
 これは江戸幕府開闢以前から銀の産出地である石見国天領石見銀山附御料
大森代官所における中間金吾の目を通して、この地大森町、銀山町で働く銀
産出にかかわる人々の過酷な日常、喜怒哀楽、代官所役人のかかわりなどが
描かれる。
 石見銀山は幕府直轄鉱山(御直山)と民有鉱山(自分山)があるが、いず
れも採掘と精錬など作業は山師の手に委ねられ、最終製品を代官所で買い上
げ、江戸に送られる仕組みである。間歩といういう鉱道には採掘の掘子、手
入、柄山負、精錬には銀吹師(吹大工、灰吹師、ユリ女)等々女子供も含め
多くの人が携わっている。

 実は金吾は元上役であった小出儀十郎から石見代官所代官岩田鍬三郎の身
辺を探れという密命を受けて石見に来た。その背景は金吾は全く知らない。
真相は後段で岩田代官から小出の魂胆が暴かれる。
 
 結局金吾は足掛け7年大森代官所にいた。その間無二の親友堀子の与平次や
小六、正覚寺の小坊主栄久、一膳めしやの徳市、お春、代官所の草履取の島
次などとも親しくなった。
 しかし岩田代官の監視は7年経っても報告すべき落ち度が見当たらない。

 岩田代官の7年目、江戸から無宿人など20人が送られて来ることになっ
た。その中には地元出身者が8人含まれており、思わぬ波紋を呼ぶ。
 数年前の隣接浜田藩における抜け荷事件とその余波と石見銀山内のいくつ
かの補助線としてのエピソードが語られるが、いずれも最終段で回収される。
何と小出は浜田藩抜け荷事件摘発を自身の手柄にし甘い汁を吸った矢部駿河
守の悪事隠蔽の一端を担っていたのだという。

    銀山の間歩に入る掘子は鉱道の中の空気せいでほぼ例外なく早死にする。
その兆候は気絶(けだえ)で始まる。与平次もまだ40歳にもならずに気絶
が始まった。金吾は暗澹たる気持ちで与平治を慰める。
 与平次は言う。「生きてる者同士が二度と会えなくなるということは、お互
い死んでしまうと同じことだ。だとすれば誰かが死んでしまった時も、そいつ
はただ旅に出ただけだ。どこか遠くで元気にやっていると考えれば、ただそい
つの幸せを願っていられるじゃないか」

 今生の別れの言葉としてはなんと心休まるものではないか。
                       
                       (以上この項終わり)

 
 
 
  

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古井 由吉の『夜の香り』

2022年08月16日 | 読書

◇『夜の香り

          著者:古井 由吉   1987.11 福武書店(福武文庫)

        

   4編の短編集。
   高度成長前期の一般的な庶民の生活と住まいの様子が丁寧に描かれている。
  登場人物は概ね一般的な勤め人。すでに幼児、あるいは学齢前の子供がいた
  り、子供が生まれたりという割と若い夫婦が多い。住み替えや戸建ての持ち
  家の中の様子、周辺環境の描写が緻密である。

       <街道の際>
   伊沢守夫は普段あまり深い付き合いのない同僚内村から家を新築したので
  遊びに来ないかと誘われる。その家は自分がかつて生まれ育った土地で、十
  分土地勘はあるのだが、なぜか彼の気質に対して鬱屈するところがあって、
  回り道をして街道筋の家を下見したりする。
   食事を誘われ酒まで飲んだ。奥さんに大学での評判を聞かれたりして狼狽
  する。最近学生らが家近くにきて彼を糾弾する騒ぎがあったらしい。
   息子を抱いた彼が見送るので、来た道と違う道を通て電車の駅に向かう。

  <畑の声>
   これは岩佐という勤め人の妻雅子とその中学時代からの友人京子との物
  語である。岩佐と雅子は結婚後田舎での仕事がうまくいかなくて東京に戻
  った。住まいを探したが払える家賃に合う物件はなかなかなかった。雅子
  は思い立って東京郊外私線の先に住む京子を訪ねる。京子の家は土地持ち
  で農地の外アパートや貸家を持っていた。
      中学時代京子は不良少女で卒業生の男と付き合っていたが、雅子は教師
  から監視役を任され京子と仲良くなった。
   雅子の窮状を知った京子は格安で貸家を都合してくれた。ただいまだに
  男とのいざこざが絶えず、父親と喧嘩したり男とのいざこざがあると雅子
  の家に転がり込んだりした。
 
  <駆ける女>
   15歳まで住んでいた家の匂いで昔の記憶がよみがえる。笹尾は都心に
  ある中学校の帰りに、遠回りして電車から降りた女生徒のあとをつけると
  いう悪癖があった。そんな女生徒の一人が今の妻の寛子である。貧乏所帯
  で砂埃のたつ畑の際のボロアパートで布団をかぶって砂埃を避ける毎日だ
  った。
   そんな笹尾には昔一度は結婚しかかった芳子という女がいた。芳子は実
  家の父親と兄がぐうたらで彼女だけが必死で家業を支えていた。そこで一
  時「養子で」という話も出たが、ただ彼女が好きだからというのでは心も
  とないと言って、結局振られた。そのシーンを見ていてた女が今の妻寛子
  で、時折芳子を引き合いに出して笹尾をいたぶるのである。

  <夜の香り>
   葛原が住むアパートの一室に大所帯の家族が引っ越してきた。これが夜
  更けに毎日天ぷら(決まってイカ)を揚げてにぎやかに過ごす。周囲の住
  民はうるさいし臭いがたまらなく苦情を言うが恐縮はするが換気扇が新式
  になっただけで改まらない。そのうちにアパートの古手の住人である大倉
  という男が押しかけて周囲の苦情を申し立てたが、結局一家に勝てなかっ
  た。
   その大倉が交通事故で亡くなった。働いていた工事現場の同僚(同姓の
  大倉という)がやって来て、身内がないらしいから我々で葬式を出してや
  ろうと持ちかけられて、葛原と妻の静子はしぶしぶ香典集めや葬儀屋探し
  精進落としなどを受け持つ。この間のやり取りが落語噺のような掛け合い
  で面白い。
  
   樹林や土埃建つ畑、小川や広大な屋敷家、そんな新興住宅地が生まれる
  前の風景と先住民の歴史、コンクリートの新しい器の中先住民の息遣いと
  新しい住民の生活が反発や共鳴し合っているさまが、しつこいほど緻密な
  タッチで描写されて奇妙なことだが安堵感を生む。

                        (以上この項終わり)

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福井雄三の『開戦と終戦をアメリカに発した男』戦時外交官加瀬俊一秘録

2022年08月09日 | 読書


◇ 『開戦と終戦をアメリカに発した男=戦時外交官加瀬俊一秘録

                          著者:福井 雄三 2020.4 毎日ワンズ 刊

         
    太平洋戦争時代日本の外交官として活躍した加瀬俊一の生涯をなぞると 共に
この時期の日本を巡る国際状況と日本の外交関係を解説する。
    著者は国際政治学を専門専門とする。 加瀬俊一自身の回想録を初め多くの著書
を渉猟した評伝であり、かつ外交官の目を通した歴史の裏側の記録でもある。 そ
してこれは太平洋戦争につながるアメリカとの軋轢から、開戦そして無条件降伏
という屈辱の敗戦交渉まで立ち会った稀有の外交官の記録となっている。

 加瀬俊一はまれに見る俊才であり、類い稀な英語力を見込まれ、多くの大使、
外相の首席秘書官として重要な外交交渉場面に立ち会った。 幣原喜重郎、石井菊
次郎、松岡洋右、東郷茂徳、重光葵、など先輩外交官の優れた外交力を学びつつ
世界史的に重要な歴史の転換点に立ち会ったことになる。 彼はチャーチルにも、
ヒットラーにもスターリン、ムッソリーニにも直接会っている。

本書の章立てを見てみよう。読めば歴史の流れが明らかになる。
第一章 生い立ちと留学
第二章 外交の中枢へ
第三章 動乱のヨーロッパへ
第四章 日米開戦へ
第五章 終戦工作に向けて
第六章 託された天皇の親書
第七章 ミズーリ号の残照

 改めて顧みるに、1932年の井上蔵相暗殺に始まる暗殺事件で軍人の処罰を甘く 
したばかりに2・26事件を招き、かつ満州事変の独走、統帥権をかさに着た軍部の
暴走を許すことになった日本の悲劇の始まりが浮かび上がって来る。
またドイツがソ連に攻め入った時、日ソ中立条約を反故にしソ連に攻め入ったら、
アメリカと事を構えることは免れるだろうとの松岡外交の戦略に反し、近衛首相
は軍部の策に乗って南部仏印進駐を選択した。 これも歴史の大きな転機であった。

 ちなみにチャーチルも、ヒットラーも、スターリンもせいぜい163センチ前後の
小柄な人物であったことを初めて知った。 日ソ不可侵条約の締結がスターリンの詐
術であったこと、ルーズベルトは戦争好きで日本と戦争したくて待ち構えていたこ
とも分かった。
 真珠湾攻撃のだまし討ち論は日本大使館のミスがほぼ定説となっているが、著者
は海軍が持つ組織温存主義と閉鎖主義がもたらした確信的通告前攻撃とみている。

 山本五十六元帥は従来からの日本海軍の鉄則「漸減邀撃(敵戦力をじわじわ消耗
させ、日本近海に近づいたところで一気に撃滅する」)を無視し広大な太平洋で米
海軍を求めて彷徨するという愚を重ねた人物とする。
 
 鈴木貫太郎首相は敗色濃くこれ以上の戦いは得るところがないとソ連に和平の仲
介を依頼するもソ 連は日露不可侵条約の時と打って変わりこれを拒否した。 すで
に日本の手の内は読まれており、ソ連はむしろ日本の降伏後の分け前を心配するス
タンスであった。

  敗戦後外務省に復帰した加瀬は一時勅任官として外相秘書官、内閣書記官、貴
族院書記官、外務省北米課長、同英国課長と一人6役という激務をこなしていた。
 加瀬は優れた文筆家で米国への宣戦布告文も、ポツダム宣言受託文も加瀬が原
稿を書いた。
 加瀬は米軍戦艦ミズーリ―号での降伏文書調印式に重光外相の随員の一人として
立ち会った。
 『ミズーリ―号への道程』をハーバード大学出版から上梓。 アメリカで大反響を
得て、日本各新聞社等からは翻訳依頼が殺到した。 
 その後多くの文学作品をものし、大学教授となり、講演、ラジオ番組への出演、
多くの 月刊誌に歴史作品を発表するなど文筆家としての地位も確立された。

 戦犯として禁固7年の判決で収容されていた重光葵は仮釈放後1955年外相に返り
咲き、日本の国連加盟に向け加瀬を全権国連大使に任命し、加瀬はあらゆる機会を
とらえて加盟に向けて奔走しついに1956年日本の国連加盟が実現した。 

 筆者は加瀬は類まれな才能を有し日本の重要な局面でバイプレイヤーの一員と
て活躍し、省内では外務大 臣を嘱望されながらついに実現できなかった、不可抗
力の運命に翻弄された戦争被害者の一人とみている。
 それは確かに間違いではないが、権力機構の一員であった加瀬だけではなく、
一般国民も陸海軍の一般兵士も、等しく被害者であったのであり、敢えて特筆さ
れることではないだろう。
 道を踏み間違えたときには誰かが声を上げ、正さなければならないのである。

                         (以上この項終わり)

 

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