読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

水川 明大の『分裂国家アメリカの源流』

2020年09月30日 | 読書

◇『分裂国家アメリカの源流

     著者:水川 明大  2020.4 PHPエディターズ・グループ 刊

  

 分裂国家アメリカという決めつけはずいぶん刺激的ではあるが、現アメリカ大統領
ドナルド・トランプの政治姿勢が明らかに分断姿勢であり、国内に危機感が巻き起っ
ている現状を見るにつけ、時宜を得た表題かもしれない。
 アメリカ独立戦争時、ワシントン総司令官の右腕として活躍し、その後合衆国憲法
の制定に大きく貢献したアレクザンダー・ハミルトン。ワシントン政権では初代財務
長官として新生国家アメリカを破産の淵から救った。強固な統治国家アメリカを創造
するという確固たる目的に生涯を捧げた天才政治家であった。
 ハミルトンは若くして銃弾に散ったが、アメリカ建国の父の一人として歴史に残る。
 現在の10ドル紙幣の肖像はアレグザンダー・ハミルトンである。(ちなみに5ドル
札はアブラハム・リンカーン、1ドル札はジョージワシントン)

 著者はこのハミルトンと初代大統領ワシントンという建国期における二人の英雄の
言動、建国の歴史をたどりながら、大国アメリカが内包する宿痾の源流を明らかにし
ようとする試みである。

<アメリカの独立戦争>
  アメリカがイギリスに対し独立戦争を仕掛けたのは1776年。ヨークタウンで勝利を
得て独立を勝ち取ったのは1783年。8年の長きに渡り戦った独立戦争の 指導者ワシン
トンとその副官ハミルトンは、常に13の植民地諸邦の統合化に苦しんだ。各邦の主権
と独立の意識は強く、大陸会議という連合体の合議機関はあったものの、決めたこと
は守られず、軍隊兵士の提供、武器弾薬など兵站、軍資金の供給にも冷淡であった。
 初戦でイギリス軍に奪われたニューヨーク邦は独立宣言までそのまま放置されてい
た。

 独立戦争当時アメリカには13の植民地があった。
北東部(ピューリタンの移民中心のマサチューセッツ、ニューハンプシャー、ロー
ドアイランド、コネチカットなど宗教色が強い)
中部植民地(ニュージャージー、デラウェア、ニューヨーク、ペンシルバニアな
ど多様な移民が入植し多様性・国際性があり、寛容度が高い。ハミルトンはニューヨ
ークの出身)
南部植民地(バージニア、メリーランド、ノースカロライナ、サウスカロライナ、
ジョージア)古くから英国王の勅許を得た植民地が多く、英国のエリート一族の子弟に
よる農業植民が主力。プア・ホワイト、奴隷が多い。ワシントンも大農場の領主)
 これら植民地軍は独特のカラーを有し、宗教、価値観の違いからの反目・対立が根
強い。

 アメリカ13の植民地諸邦は1776年7月4日、トマス・ジェファーソン起草になる独立
宣言を発した。 
 独立戦争の契機は二つある。一つは英国と仏国の7年戦争で英国が勝利し、アパラ
チア山脈以西とカナダ以南の土地を得たにもかかわらず(英国は主としてアメリカ植
民地の民兵を使って戦った)、西部の領地の取得を禁止したこと、二つ目は印紙税法
など重税の賦課にある。西部開拓禁止は南部諸邦の、交易への課税強化などは北東部
諸邦の大きな反発を招いた。

 独立戦争に勝ったものの、各邦が主権を持つ連合規約では各邦間での不和・反目は
避けられず、国家としての統一感に乏しい現状を憂いたハミルトンは中央政府の再構
築を目指した。
 憲法制定会議の開催は難航した。ワシントンを議長にジェームズマジソンの草案が
たたき台となって、連邦政府と邦(ステイト=州)の権限が明確となった。憲法案は
各邦における憲法会議の批准が必要であり、各邦で盛んな議論が展開された。
 批准に最後まで抵抗したニューヨーク邦憲法会議はハミルトンの努力が実り僅差で
批准を決めた。そして各邦憲法会議で反対派が主張していた個人の権利章典の追加・
修正が連邦議会の第一の仕事となった。
 
<国家分裂の危機> 
 アメリカ分裂の危機は3回あった。
 その一。1819年連邦管理の準州が人口増で州に昇格した。奴隷州と自由州はそれぞ
れ11州と均衡していたが、ミシシッピー川西のミズーリが州に昇格したとき奴隷州と
なると奴隷州が上院で優位になる。当然北部州は反対し、南部州の脱退の危機が訪れ
た。しかし下院議長のヘンリー・クレイがマサチューセッツ州からメイン州を切り離
し自由州とし上院での均衡を図るという案を提示し連邦は維持された。
 その二。ジョン・c・カルフーンは連邦議会の傑出した指導者であったが、アメリ
カ製造業を保護するための保護関税法に噛みついた。製造業優位の北部にためにはな
っても低関税の自由貿易が望ましい南部農業州を犠牲にし北部を富ませるものとし猛
反対。「連邦政府の政策が違憲か否かは契約当事者の州に判定権がある。したがって
州はある連邦法に対し無効を宣言し、自州内での施行を拒否できる」という論法を展
開した。サウスカロライナ州はカルフーンの発案による「無効宣言条例」を可決し武
力対決を表明した。当時のジャクソン大統領はこれに激怒、チャールストンに軍艦を
派遣、内戦の危機を迎えた。しかしここでもヘンリー・クレイが登場、関税を段階的
に20%まで下げるという妥協案を提示、サウスカロライナは無効宣言を撤回した。
 その三。1848年メキシコから強奪したカリフォルニアを時のテイラー大統領は奴隷
制反対の自治政府が出来ていたカリフォルニアを自由州として加入させる承認決議を
求めた。カルフーンは奴隷は財産であり、奴隷の所有を禁ずることは財産権の侵害で
あるという理論を展開し、南部諸州と北部自由州の対立が修復しがたい状況となった。
またもクレイが妥協案を作成し、ダニエル・ウェブスターが和解と統一を求める演説
を行い、大いなる妥協が成立し南部の武装も解除された。

<国家の分裂・南北戦争>
 逃亡奴隷取締法は北部では遵守されず、カンザス・ネブラスカ法(大陸横断鉄道を
通すためカンザス準州、ネブラスカ準州を設け、奴隷制を合法とするか禁止するかは
住民判断にゆだねるとする法律)を契機に奴隷州・自由州は対立、南部11州はついに
アメリカ合衆国を離脱し「アメリカ連合国」を創った。しかし南部連合の依って立つ
理念は、州の独立性と主権を重視した連合規約の枠組みと同じのもので、やがて戦争
となっても統一した行動もとれず4年後には戦争に敗れ自滅した。

 多大な犠牲を払い黒人の市民権・選挙権は憲法で保障されるに至ったものの実質的
な黒人の苦境はほとんど変わらず、南部人の差別意識は何ら変わらなかった。
 現代にあっては人種に留まらず、宗教、ジェンダー、中絶、経済格差、移民など分
断ファクターは多岐にわたる。
 おそらく著者はドナルド・トランプ大統領の言動に見られる現代のアメリカの分断
の深化を思わせる兆候を目の当たりにして、この危うい状況の行き着く先を見極める
ためには、アメリカの歴史の底流に潜む分裂、分断の源流を極めるしかないと筆を執
ったのではないかと思わせる。

   著者からの感慨深い指摘が二つある。一つは憲法上「執行権は大統領に属する」と
あり、大統領に強大な権限が付託されているのは何故か。「容易に王となりうる」と
の懸念は、強すぎる立法府への懸念とのバランスをとると同時に、すでにアメリカの
象徴的・統合的人物となっていたワシントンが初代大統領と誰しも確信しており、彼
に権力の乱用などありえないと信じられていたからということ。いま一つは多様な国
家分断ファクターは共和党と民主党という二大政党の下に整理・融合され、政治イシ
ュー化され易い。白か黒か敵か味方かに収斂して、対立を過激化し同じアメリカ人と
しての地点を見出しにくくなっているという点である。
                           (以上この項終わり)

 

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『世界で最も危険な男』を読む

2020年09月23日 | 読書

◇ 『世界で最も危険な男』(原題:TOO MUCH  and NEVER ENOUGH)

         著者: MARY L. TRUMP PH.D.
         訳者: 草野 香、菊池 由美 他  2020.9 小学館 刊

  

 第45代アメリカ大統領ドナルド・トランプ氏の暴露本である。
トランプ氏の姪メアリーが一族の暗部を明るみに出し、現職の大統領を米国
を破滅に導く人物と告発した。当然全米で大ベストセラーである。

  これまでにもトランプ政権の元閣僚やジャーナリストの何人かが暴露本を
出版し話題を呼んでいる。この本は単なる暴露本・告発本とは異なり、トラ
ンプ一族の一員として、直接の見聞で内情を明かしているという強みと、著
者本人がダーナー高等心理学研究所で臨床心理学を学び博士号を取得してい
て、専門家の視野でドナルド・トランプ氏を分析している点で異色である。

 とりわけ重要なことは大統領2期目を問う選挙戦のさ中にあって、現職大統
領を、超大国の棟梁としての致命的欠陥を告発するという際物本であるとい
うこと。
 著者は出版の動機と意義について本書39ページでこう述べている。
 (前略)「これ以上沈黙していてはならない。この本が出版される頃には、
(新型コロナウィルスへの対応の誤りで)十万人単位のアメリカ人の生命がド
ナルドの不遜で頑迷な無知の祭壇にささげられた犠牲となっていることだろう。
 彼が第二期目も大統領に就任するようなことがあれば、アメリカの民主主義
は終わりだ。」(中略)
 「私はこの本によってドナルドの「戦略」だの「」課題」だのという議論に
終止符を打つことを望んでいる。そうした言葉は、あたかも彼が秩序ある理念
や心情をもってものを考えているかのように思わせるが、彼にそんなものはな
いからだ。ドナルドのエゴは昔も今も脆弱で現実世界から彼を守る障壁として
は不十分だが、父親の遺した財力と権力のおかげで、これまで彼は努力するこ
となく生きてこられた。私の祖父がつくりだした強くて、頭がよくて、特別な
人間という虚構をドナルドは常に必要とし、それを維持することに腐心してき
た。自分がその三つの資質のどれも備えていないという真実に直面することは、
あまりに恐ろしすぎて彼には想像すらできないのだ。
 声を上げず行動も起こさなかったきょうだいたちを共犯者として、ドナルド
は祖父の指導に従い私の父を破滅させた。私は、彼がこの国を破滅へと導くの
を許すことはできない。」 

<トランプ一族の系譜>
 曾祖父:フレッド(フレデリック) 曽祖母:エリザベス
 祖父:フレッド 祖母:メアリー・アン
 長女:マリアン 長男:フレディ(フレデリック・クライスト・ジュニア)
 次女:エリザベス 次男:ドナルド  三男:ロバート 
 (著者は長男フレディの娘)

 ドナルドらの祖父はドイツの生まれで当初カナダに更に第1次世界大戦の
ちに米国(ニューヨーク)に渡った。スペイン風邪で急死すると12歳のフレ
ッドが家長になって家を支えた。早くから建築業に強い関心を持ち、母のエ
リザベスと会社を興し、連邦住宅局の潤沢な資金を使いながら大規模な宅地
開発を進め、州と連邦から多額な税優遇措置を受け財を成した。
 フレッドは社会病質者で、共感力を持たず、平気で嘘をつく、善悪の区別
に無関心、他者の人権を意に介しない男だった。

 長男のフレイディは当初は父親の事業承継者と目され、常に父親からプレッ
シャーを受け続けた。父親はうまくやっても誉めることはせず、うまくできな
いときは容赦なく貶し侮蔑した。次男のドナルドは兄が父親から受ける仕打ち
のプロセスから父親の評価基準を学び、巧みに行動し後継者の地位を奪った。

 フレディは過剰な干渉と過剰な期待とによって壊されていった。大学在学中
に航空に興味を持ち訓練を重ね操縦士の資格を取った。トランプ帝国での仕事
は自分に向かないと悟り会社を飛び出し、トランスワールド航空の操縦士に採
用された。しかし1年足らずで深刻な飲酒癖を理由に自主退職を要求された。
 父フレッドはフレディがトランプ・マネジメント社を一時的にせよ辞めたこ
とにショックを受け、この裏切りを終生許さなかった。

 ドナルドは1950年に暴力を伴う不品行でNYMA(ニューヨーク・ミリタリー
・アカデミー)に送られ5年間寄宿制の軍隊式教育で過ごした。 
ドナルドは父に認めてもらうために有力な大学で経営学を身に着けようと、友
人に金を払ってペンシルベニア大学を替え玉受験をする。
 フレッドは大学を出た24歳のドナルドをトランプ・マネジメント社の社長に
した。彼はドナルドを裕福にするためには何でもやった。
 1970年代。その後何度も破産ののちテレビプロデューサーのマーク・バーネ
ットにテレビのリアリティ番組のホスト役に据えられ、「精力的なやり手実業
家」というイメージが作り上げられた。虚偽と誤伝のでっち上げのイメージが
共和党の大統領候補選出につながっている。

フレディはタバコと飲酒が因で離婚し、1981年42歳で亡くなった。
1991年フレッドは認知症になり、1999年6月フレッドは亡くなった。
遺産は3億ドルと新聞に書かれたが、実はその4倍であることが後でわかった。
長男のフレディは亡くなっているが、その子にも本来権利がある筈の相続権が
奪われていた。著者メアリーと兄のフリッツは訴訟を起こすことにする。
遺産の分け前だけでなくトランプ・マネジメント社の医療保険が解約され使え
なくなっていた。祖母はこうした事実を知っていて何もしてくれなかった。
2018年10月2日、トランプの点滴ニューヨークタイムズ紙はトランプ一族の詐
欺や犯罪の可能性のある事実を暴露した記事を発表した。

<ドナルドの病理>
 説明不能の言動が多すぎるため、心理学と神経心理学の両面からの十分な検
査を行うことなしには正確で包括的な診断はむつかしいとするものの、自己陶
酔症(ナルシシスト)社会病質者(ソシオパス)であることは明らかで、依存
性人格障害の諸項目にも該当するとする。
 彼の病理の依ってきたる所以は幼児期における両親の育児放棄にあるとみる。
夫は外で働き妻は家で料理と掃除洗濯をするのが役割分担の基本という旧弊の
考えに従い、父は単に厳格であり、母は慈しむこともなく子供らを放任した。
息子たちは父親の、娘たちは母親の手の内にいた。父親は長男しか眼中になく
(のちに次男のドアナルドに代わる)本来家庭でしつける最低限の社会性ルー
ルも教えようとしなかった。男らは規則違反や逸脱行為があっても、父親が求
める「無敵の男(キラー)」に合致すれば許された。著者はドナルドの傲慢で
自己愛が強く、攻撃的で頑固、残酷で弱い者いじめの性格は、幼児期の父親か
ら受け継いだ強い承認欲求の表れであるとする。 

<大統領選挙への影響は>
 この本の出版によってトランプ大の選挙に大きな影響が出るだろうか。多分
それはないだろうというのが読後の私の感触である。
 共和党のトランプ支持者の大部分は民主党支持者のメアリーが書いたものだ
からトランプを貶めるためであり、この中身はフェイクだと断じるだろう。そ
して民主党支持者は「やっぱりね、だと思ったよ」と確信するだけに終わるの
だ。
 だが、もしこれからもトランプが大統領として君臨するとして、これから新
たにトランプ大統領と接していく人(日本の首相初め)は本書から彼の本質を
汲み取り、事を誤らないようにしなければならない。
                        (以上この項終わり)

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若竹 七海の『錆びた滑車』

2020年09月17日 | 読書

◇『錆びた滑車
     著者:若 竹 七海 2018.8 文芸春秋社 刊 (文春文庫)

 

 羽村晶最新作。羽村晶はミステリー専門書店でアルバイトをしているが、店
は週3日しか開かないのでこれでは食っていけない。オーナー店長の富山さんが
「ミステリ書店に探偵社がついていたら面白いよね」と言って、ノリで作った
(白熊探偵社)の探偵となった。依頼人はめったに来ないが、元契約探偵社の
「東都総合リサーチ」の桜井さんから「葉村、ちょっといいか。ヒマだろ?」
と電話が入った。高齢女性の行動確認で30万円払うというおいしい話。これが
とんだ下請け話で、大怪我はするは火事で焼け出されるは、麻薬売買グループ
の捜査の片棒を担ぐ羽目になる、揚句の果て関係者の一人に包丁で殺されかか
り、危うく九死に一生を得たおまけつきだった。

 実は大事件の発端は、マルタイ(石和梅子)が乗り込んだアパートに住んで
いたヒロトという青年から、自分が交通事故(高齢者の操車ミス)に遭ったバ
ス停になぜ父親(この事故で死亡)といたのか調べてほしいと頼まれたからで
ある。彼は事故で記憶障害になっていた。
 徹底して調べるのが身上の晶さん。とうとう別筋の犯人を刺激し「殺し」を
誘発してしまった。
 そして本筋の犯人は別にいた。殺人死体の骨を標本にした悪魔のような女。

 ヒロトの近隣の住人など、いろんな素性の人間が登場する。晶はこれに対抗
し丁々発止とやり合うのだが、意外なことに彼女が暴力性を持っていたことを
知った(本人の告白)。「自分の中に湧き上がった暴力衝動にめまいを覚えな
がら、私はスツールから滑り降りた」(357p)
   
『錆びた滑車』はサン=テグジュペリ「小さな王子さま」から採ったよう
である。

  ぼくもまた星空をながめるんだ
  全部の星が錆びた滑車のついた井戸になるよ。
  全部の星がぼくに飲み水を注いでくれるに違いない……

                      (以上この項終わり)

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横山秀夫の『ノースライト』

2020年09月12日 | 読書

◇『ノースライト

  著者:横山 秀夫    2019:2  講談社 刊



 一級建築士青瀬稔。離婚して数年になる。妻のゆかりはインテリアデザイナ
ーである。娘の日向子とは月1回会うことができる。
 大手設計事務所でがむしゃらに働いたが、 バブルがはじけて会社を辞めた。
結婚生活は10年で終わった。青瀬は何が原因で離婚したのか日向子に問われる
ことを恐れている。どこで間違ったのか、何がいけなかったのか、読者にも最
後まで分からない。
 作品の中ではいくつもの人間ドラマが生まれるが、最大のそして本作品のメ
インストリームは青瀬が依頼されて作った「Y邸」を巡る謎である。

 1年前青瀬は吉野陶太夫妻の依頼を受け、信濃追分の一角にのちに「平成すま
い200選」に載り、高い評価を受けた日本家屋を作った。
「3千万円あります。あなた自身が住みたい家を建ててください」吉野のおおら
かな提案を幾分不審には思ったが建築家としてかねてから思い描いてきた「ノー
スライト<北側の光>」を採光の主役にした、森の中の木の家を実現した。それ
は積年のテーマであった。

 青瀬の父親はダムの木型職人で、家族はダム現場を渡り歩く一生だった。そし
て飯場の長屋は何故か押しなべて北側に窓をとっていた。穏やかな静謐をもたら
す「ノースライト」があった。

 引き渡して4か月。訪ねたこの家に吉野氏の家族は住んでいなかった。なぜな
のか。家の2階には何故か著名な建築家ブルーノタウト作を思わせる椅子が1脚置
かれていた。
 このいくつかの謎を明らかにするために青瀬は熱海や仙台などに足を運ぶ。作
中青瀬は自らの生い立ち、家族の動静、尊敬した父を語る。彼の人生の足跡はこ
の作品のドラマにおける重要な布石である。
 このメインストリームの中の謎は最後に一挙に解明される。いくつもの推論か
らゆかりは吉野と会っているに違いないと悟る。そして日向子にカマをかけて吉
野が何度かゆかりに電話をかけていたことを知った。
 岡嶋の葬儀でゆかりに会った青瀬は、ついにゆかりから吉野に口止めされてい
たY邸誕生の秘密を知る。それは青瀬の幼い頃の、父親の死にまつわる思いがけ
ない事実から生まれた、吉野の深謀遠慮だった。

 そしてサブストーリーは失業後大学時代の友人岡嶋に声をかけられ職を得た岡
嶋の設計事務所に生まれる。
 赤坂の大設計事務所を飛び出し、苦境に喘いでいた青瀬はわずか6人という小人
数な岡嶋設計事務所で落ち着きを取り戻した。
 そこに降ってわいたようなコンペへの参加のチャンスが訪れる。それはS市出身
でパリに在住し70歳で没した孤高の画家藤宮春子のメモワール館を作る市のプロジ
ェクトだった。
 岡嶋設計事務所は飛躍のチャンスに沸いた。ところが岡嶋は応募ノミネートを確
実にしようと市長・担当部長に接待工作をし、市長反対派に与する新聞記者の追及
を受ける羽目になる。

 岡嶋は胃潰瘍で入院、間もなく病室から転落死する。自殺とも事故ともとれる状
況での死でコンペへの対応は不可能̪視された。しかし青瀬は全員の力を振り絞って
岡嶋が入院中に描いたアイディアをもとに、コンペに立ち向かうことを誓う。
 その作戦は、岡嶋がイメージしたデザインのコンペ案を、かつて赤坂設計事務所
にあって青瀬のライバルであった能勢の設計事務所に持ち込み、彼の案と対決し、
絶対これを凌駕し能勢事務所案として岡嶋案を世に出すという、起死回生の奇想だ
った。
 能勢は青瀬が能勢事務所に転職することを条件にこの案を飲む。これで父の跡を
継ぐ決意をした岡嶋の息子一創の誇りは守った。

 
 不可解な謎が読者に提示され、解明の糸口に差し掛かりながら、途中ブルーノ・
タウトのエピソードなどに困惑させられ、最後になって一挙に謎のすべてが明かさ
れるという心憎い構成。
 悪意に満ちた人間、不気味な人間は登場しない。心優しい人ばかりが登場する横
山秀夫らしい作品である。
                            (以上この項終わり)

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辻原登の『卍どもえ』

2020年09月07日 | 読書

◇『卍どもえ

著者:辻原 登     2020.1 中央公論新社



 現代日本における有産階級中年男女の生態を切り取った小説である。ここには
人生における切実なものはほとんど出てこない。

 この作品での登場人物は男性陣は瓜生甫(50代)、中子脩(40代)いずれも子
供はいない。
 瓜生はグラフィックデザイナー、中子はフィリッピンで日本語学校を展開する
実業家、何不自由ない生活を送れるだけの収入と資産がある。中子はサロンクル
ーザーも持っている。要するにどんな展開も許されるバックグランドが用意され
ているのである。

 一方、女性陣は瓜生ちづる、中子毬子、塩出加奈子(瀬崎久美子)クリスティ
ーナ等々である。瓜生ちづるは瓜生の、毬子は中子のそれぞれ妻として有閑マダム
として優雅な暮らしを満喫している。塩出加奈子はネイルサロンの経営者である。
ちずるは大学の同級生の紹介で、毬子はちずるの紹介で加奈子を識った。
 このほか瓜生行きつけの和風バーには長江由美という女性がいるし、瓜生のデ
ザイン事務所には黛エリカという部下がいて愛を告白される。また中子の経営す
る語学学校のスタッフに村井朋子という女性がいて彼女は由美と寝ることになる。
 瓜生が通う趣味の英文学教室に加奈子が瀬崎久美子という偽名で現れる。早速
瓜生がアタックしたが、性的場面ではうまくあしらわれてしまい、揚句に借金を
申し込まれる。

「卍どもえ」とはこれら男女の交差するつながり方を指していると思うが、それ
よりも彼女らのplayroom(かつてこの部屋で人が死んだ)に投影される謎の人影
が3人の女性と組み合って卍形を構成する不気味な現象を指しているともとれる。

加奈子、ちずる、毬子の女同士は加奈子の働きかけでレズビアンの関係になった。
加奈子は真正レズだが、ちずると毬子は夫との関係には興味を失っており、性指
向はレズかもしれないが、バイセクシュアルかもしれない。
男性は瓜生も中子もスケアである。好みの女には強い関心を抱くが男には興味は
ない。

 瓜生の事業は順風満帆であったが、世界的コンペでアイディア盗用の疑いを持
たれたことをきっかけに事業が危うくなり、うつ状態に陥る。また中子も昔付き
合っていたフィリッピンの女性が産んだ息子が登場したことで毬子と離婚するこ
とになる。
(毬子は意趣返しにこの息子と肉体関係を結んだり、新規事業に資金援助したり
と、もうめちゃくちゃである。)

 入り乱れる放縦な男女関係を縷々綴った小説であるが、面白いのは登場人物と
その係累の出自の説明が微に入り細に渉り、歴史的事件や世相などが詳細に語ら
れること。瓜生が仕事で訪れたジブラルタル海峡を渡るモロッコへの旅の光景描
写、また登場人物が古い映画や音楽、文学に明るく、それをたどる会話を読んで
いるだけでも楽しい。
 
 ストーリーは那珂川上流の深山ダム放流の激流に揺れる吊り橋を渡る3人の女性
を最後に唐突に終わる。
                          (以上この項終わり)

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