◇『石のささやき』(原題:THE CLOUD OF UNKNOWING)
著者:トマス・H・ハリス(Thomas・ H・ Cook)
訳者:村松 潔 2007.9 文藝春秋社 (文春文庫)
トマス・クック独特の静謐にして精緻なタッチで進む心理サスペンス。
トマス・クックは『夏草の記憶』、『緋色の記憶』、『死の記憶』、な
ど記憶3部作を初め多くの作品で犯罪事実に潜む人間や人生の重苦しい現
実を淡々と描写しつつも鋭く抉るのが特徴である。またサスペンスながら
情感豊かで格調の高い文章を通じて読者の文学的感興を呼び起こしてくれ
る。
この作家は記憶三部作を読んである種の感銘を受けたが、今回の作品も
統合失調症で死んだ父を持つ姉(弟は姉が殺したのではとの疑いも持って
いる。)と弟が主人公で、姉は驚異的な記憶力を誇りながら、父親の狂気
の遺伝子を受け継いでいるのではという不安を抱えながら生きている(弟
も時に自分もそうではないかと思ったりする)。過去の家族の話、姉と弟
の葛藤、デイブの家族、ダイアナの家族、これらの人々の心理的な動きを
丹念に綴るのがこの作者の特徴である。
デイブは、自閉症の息子を夫が死に追いやったとの思いに囚われ次第に
狂気の世界に嵌まり込んでゆく姉の姿に父の最期を重ねて見る。
「おまえ」という二人称と「わたし」という一人称で交互に語られる手
法でこの物語が進む。私はデイビット・シアーズ(デイブ)主に離婚訴訟
の弁護士をしている。姉のダイアナは自閉症の息子を亡くし、夫のマーク
が殺したという妄想にとりつかれ今離婚手続きに入っている。
母を早くに亡くし、私(デイブ)と姉(ダイアナ)は父の下で育った。
父は妄想型の統合失調症で、四六時中古典を引用、暗唱し子供たちにもこ
れを強いた。私は常に引けたが、頭の良い姉のダイアナは父に応え、父の
晩年にはすべての古典の書名を上げることができるようになっていた。
私は姉は普通の人生は送れないのではと懸念したが、その後マークとい
う生化学者と結婚し、ジェイソンという息子を産んでいい母親になった。
或る日ダイアナが買い物に行っている間にジェイソンは家の裏の池には
まって亡くなってしまった。ダイアナはマークが息子を殺したという考え
にとりつかれ、マークをしつこく追い詰める。しかもダイアナはデイブの
娘パティを邪悪な世界に誘い込もうとし、娘もそれに応えようとしている。
父の狂気が姉にそして孫に遺伝したのだろうか。デイブの悩みは尽きな
い。
「もしかして姉は父の血を引いているのかもしれない」という漠然とした
不安は『死の記憶』と相通じるものがある。
後半意外な事実が明らかになる。父親べったりと思っていたダイアナが
とった意外な行動、姉のマークに対するいやがらせに手を焼いていたデイ
ブが姉を疎んでいたマークをしたたかに殴りつけるなど姉弟らしい行動を
とったことに驚く。
米国版の題名は『無知の雲』だが(英国版では本書と同様『石のつぶや
き』という)本書の肝はダイアナが注目した岩の割れ目で聞いたという
「石のつぶやき」、ダイアナが父を殺した時に耳にした天からの声、デイ
ブがマークの本心を暴くのに用いた「大地の声」。いずれもキーワードが
象徴的な「声」なので、本書の題名が的を得ている。
(以上この項終わり)