◇ 『忘れられた巨人』(原題:The Buried Giant)
著者:カズオ・イシグロ(Kazuo Ishiguro)
訳者: 土屋 政雄 2015.4 早川書房 刊
作者がブッカー賞をもらった長編『わたしを離さないで』以来10年ぶりの長編作品。
舞台は5世紀或いは6世紀のブリテン島(現在のグレート・ブリテン島)。円卓の騎士
らとともにローマ人やサクソン人を撃退したアーサー王が姿を消した時代である(この
頃日本では古墳時代初期)。
2人とも年老いたブリトン人であるアクセルとベアトリスは村人とは距離を置いた生
活をしている。二人は他所から来た見知らぬ女性の示唆を受けて、歩いても数日のとこ
ろに住む一人息子を訪ねる決心をする。
アクセルはまだら模様の記憶に悩んでいる。ベアトリスは「なぜ息子はこの村を出た
のだろう」と思い悩む。
粗筋を言えば、互いに寄り添うアクセルとベアトリスの二人は、息子の村までわず
か数日の距離というのに、険しい山や川を辿りながらも様々な人と出会い、妖精や怪
異な獣とたたかいを経て、ようやく息子の住む村を目の前にするという物語である。
物語をすんなりと理解するには、アーサー王物語や、キリスト教を信じるブリトン
人と別の宗教を持つサクソン人との抗争など、5世紀ころのイングランドの歴史的背
景を念頭に置いて読む必要がある。
劇画ばりの筋書きであるが、どこか寓話的な色合いもあって、著者渾身の作の一つ
かもしれない。
旅の途次、二人はアーサー王の甥であるガウェイン卿に出会う。元円卓の騎士の一
人である。アーサー王に 雌龍(クエリグ)の退治を命じられたという。またサクソン
人である青年騎士ウィスタンと怪獣に脛をかじられたという少年エドウィンも行を共
にする。
ガウィン卿はどこかでアクセルに会ったような気がする。実はその昔アクセルはア
ーサー王にサクソンとの融和を勧めた陪臣だったことが明らかになる。
アクセルらは、その昔山砦だった修道院で神父らの不審な動きをみる。ガウェイン
卿と地下道を歩きローマ時代の埋葬地に出る。殺戮の名残か。そこで恐ろしい獣(悪
魔の犬)が現れガウェインが斃す。
この小説のテーマの一つは記憶の消失である。実は健忘の霧はクエリグの呼気が醸
し出していた。クエリグを殺してしまったがために記憶が消えなくなった。それがた
めに憎悪が恨みとして残り、復讐の戦を招いたりする。
クエリグを擁護するガウィンはいう「歳老いた雌龍の息が止まった時国中で何が起
こるか」。
ガウィンはウィスタンと剣を交えるが敗れる。そしてウィスタンはクエリグの首を
刎ねる。憎悪の源であるクエリグは死んだ。
「おかげでかつて地中に葬られ忘れられていた巨人が動き始めるだろう」アクセルは
言う。復讐の連鎖を言っているのだろうか。
雌龍の死で呼気が作る霧が途絶えてアクセル夫婦の記憶も戻り、ベアトリスがなし
た不倫の悪夢まで蘇ってしまう。
ベアトリスは海の向こうに息子が住む島があるといって独り舟に乗って去る。
アクセルは後を追わない「さようなら、わが最愛のお姫様」。
あの島は黄泉の国だと悟ったからだ。
それにしても、どうにも気になるのは、アクセルが妻のベアトリスとの対話で名前
を呼ばず、常に「お姫様」という呼びかけること。なぜだろうか。
なお編集部解説によれば、本書は「本質的にはラブストーリー」であると著者は繰
り返し述べているという。
(以上この項終わり)