「日本文学の革命」の日々

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結婚したかった人 9

2020-07-15 06:16:26 | 日本文学の革命
しかしそんな日々も長くは続かなかった。あの男が二人の仲を察知したのである。自分の一人しかいない大切なアシスタントが恋愛の対象にされている。業務を運営してゆく上で、障害になりかねないものである。また僕がものを書いて社内で評判になっているのも目障りだ。会社の業務と関係のないことを好き勝手に書いており、社内の統制を乱すものにも成りかねない。そこでついに手を打ってきたのである。

ある日突然派遣会社から電話があり、今月いっぱいで契約を打ち切る旨が通告されてきた。理由は「能力不足」だそうだ。もう何か月も業務をこなしているのに今さら「能力不足」もないだろうと思ったが、もちろんどうにもできない。またしても首である。彼女との関係も未然に断たれてしまったのである。

その通告があった翌日か翌々日のことだったが、奇妙な光景を目にすることになった。あの男が茫然自失の態で廊下を歩いていたのである。なんだかひどい打撃を受けた様子で、周囲の何ものも目に入らない、ちょっとフラつき気味の足取りで歩いていたのだ。あの男のこんな様子は今まで見たことがなかったから、何があったんだろうといぶかしんだ。

もしかして彼女が何かしたんだろうか。平手打ちとまでいかなくても何かそれに近いことをしたのかも知れない。普通首にされる人間はみんな見捨てるものだが、一本気なところがある彼女だから、相手が上司だろうが構わずに立ち向かってくれたのかも知れないのだ。

僕が会社を辞める日が来た。僕は別館の方で働いており、彼女やあの男はメインオフィスにデスクを構えて仕事をしているのだが、朝礼のときには全員メインオフィスに集まることになっている。朝礼のためにメインオフィスに入ったのだが、いつもいる彼女の姿が見えない。どうしたんだろうと思っているうちに朝礼の時間が来て、あの男がスピーチに立ち、急な知らせがあると言った。彼女が「東北支社に転勤することになった」と言うのである。近日中に代わりの者が来て、彼女の仕事を引き継ぎ次第、彼女はこのオフィスを去ることになるという。

東京で暮らし、東京で働き、東京の生活を楽しんでいる若い女性に、いきなりすぐに東北へ移り住めだと。会社の命令に唯々諾々と従う単身赴任のお父さんじゃないんだから、そんなことする訳ないじゃないか。これはもう事実上の退社勧告である。僕だけでは足りずに、彼女まで始末しようというのである。

別館に戻った僕は働きながら思案した。これは許しておけない。おとなしくこのまま退社する訳にいかない。何かあの男にリベンジしてやろう。退社するとき入館カードを返すのだが彼女がいないということはあの男に直接手渡すことになる。その際思うさま罵倒してやろう。そう決意して罵倒する文面を考え、どういう手順で罵倒するかその予行演習をしようと昼休み明けメインオフィスに入っていった。

すると彼女がいたのである!いつもの自分のデスクに座って、僕の方を悲しそうな表情で見ていたのだ。その目には何か訴えかけるものが感じられた。

面食らった僕は予行演習を取りやめ、そのまま別館へ戻っていった。そして午後の仕事をしながらあれこれ思案したが、「そうか!会社が捨てるんならおれが貰えばいいんだ!」という単純明快な結論に達したのである。

退社の時刻となり、入館カードを返すために彼女のところへ向かう時となった。僕は決意を固めてメインオフィスの中に入って、彼女のデスクに歩いていった。彼女の周りには仕事のやり取りで何人もの人が立っていた。周囲のデスクでは大勢の人が仕事を続けていた。あの男も僕と彼女の最後のやり取りをチェックしようとしたのだろう、目立たない席に座って聞き耳を立てていた。しかしもうこの機会しかないのだから、そんなことを構っている暇はなかった。

彼女の前に来ると入館カードを握ったまま(これを持っていると喋り続けることができる)、今日退社すること、今までありがとうなどの型通りの挨拶をして、執筆の方は順調ですと続けたあと、ついに意を決してプロポーズの言葉を述べた。「これが完成したら、結婚しよう!」

あとはもう夢中で喋り続けた。「東北なんかに行っちゃダメだよ。いつでも行けるんだから(僕が別荘を買ったらの意)」「これを完成させたら日本をいい方向に変えてゆくワクワクするような仕事ができるようになる(だからこの仕事は辞めてもいいよの意)」

デスクの席に座っていた彼女は、目を伏せながら嬉しそうに聞いていた。ときおりキラキラ輝く少女のような瞳で僕のことを見あげていた。

入館カードを返していよいよ去るとき、「あとで連絡するから」と彼女に名刺を求めたが、「今はない」と断られてしまった。

メインオフィスのドアを出ようとするとき、振り返って彼女の方を見てみた。彼女は仕事のやり取りでだれかと喋っているところだった。僕には横顔だけしか見えなかったが、その横顔は今まで見た彼女の姿で一番美しいものに感じられた。