「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

電子同人雑誌の可能性 66 「電子同人雑誌の経済的側面―文芸作品の巨大な影響力」

2016-09-25 05:35:12 | 日本文学の革命
『ヘイ ジュード』という「文芸作品」はひとたび形成されると巨大な影響力を世界に対して振るうようになった。50年もの間人々に感動を与え続け、しかも世界中に広まったのであり、数えきれない人々がこの曲の影響を受けたのである。また『ヘイ ジュード』はビートルズの他の曲と密接に結びついていて、『ヘイ ジュード』に感動した者はビートルズの他の曲も聞くようになり影響はさらに深まるだろう。中にはビートルズの曲に感動するあまり自分でもギターを弾きドラムを叩きバンドを組んで、自分でもロック・ミュージックを作ろうとする者も現われてきて、影響はさらに広まってゆく。そしてついには一つの文化を形成するまでに至ったのである。実際ビートルズが作り出した「文芸作品」こそが60年代の若者文化を築いたのであり、計り知れない影響を現代世界に与えたのである。
このような巨大な影響力を前にしては大手出版社も巨大マスコミもかたなしであり、この影響力の尻馬に乗ったり、その組織力や資金力を駆使して応援にまわることはできても、この影響力を自前で生み出したり、それを自分の支配下に置こうなどということはできるものではない。どんなに出版社が賞を連発しようが、どんなにテレビ局がオーディションを繰り返そうが、それ自体ではポールもビートルズも『ヘイ ジュード』も決して生み出すことはできないのである。

このような「文芸作品」を生み出す個人が「創作家」なのである。『ヘイ ジュード』を生み出したのもポール・マッカートニーという一個人であり、この曲は彼と彼の個人的な付き合いの中から形成され生み出されたものである。どんな巨大組織もできないことが、この場合一人の個人の力でもできてしまうのである。

ここで問題となるのはこのような「創作家」と電子同人雑誌の関係である。戦前の同人雑誌は夏目漱石や森鷗外や芥川龍之介などの偉大な「創作家」たちを生み出し、日本の文化の発展に大きく貢献することができた。同じようなことが電子同人雑誌でもできるだろうか。電子同人雑誌から様々な「創作家」たちが生み出されてきて、日本に新しい文化的発展をもたらすことができるのだろうか。
これについては少し後に「新しい文壇」のところで詳しく書くので、ここでは「創作家」や「文芸作品」のもたらす経済的効果について考えてみよう。

「文芸作品」が人々の心を感動させるようなものだった場合、それは巨大なパワーを発揮して人々の間に広まってゆく。現代のネットに『ヘイ ジュード』のような人々に真の感動を与える「文芸作品」が現われたら、またたく間にネットの世界に広まってゆくことだろう。軽く1万人規模を超えてしまうだろう。いつでもどこでもクリックひとつで買えるというネットの利便性、ひとたび人気が出たらたちまち広まるネットの伝播力、その相対的低価格性、などを考慮したら10万人規模も容易に達成できるだろう。しかもこれは「大当たり」のような運次第の一発屋的なものではなく、コンスタントに出してゆける数字なのである。一部千円でこの「文芸作品」を売ったとして純利益は700円、それ掛ける10万だからこの「文芸作品」からあがる利益は7000万円になる。この創作家が同時に電子同人雑誌も運営していてそこからも10万規模の収益を上げることができたら、彼の年収は1万人規模の作家の10倍として2億5千万円を超えるものになってしまう。

では電子同人雑誌は100万人規模のベストセラーを狙えるかというと、それも十分できるのである。むしろ紙の本の場合よりも一層多くのベストセラーが発生することが考えられる。もちろんその下地としてネットで「心の交流」を買うという習慣が人々の間にできていて、そのための簡便な課金システムが整っているという前提が必要だが、それさえできていたら100万人規模のベストセラーがどんどん発生してゆくという事態は容易に想像できるのである。その「文芸作品」を千円で売って純利益が700円、それ掛ける100万だからこの一つの作品だけで7億円の利益を出せる。ここまで来たら雑誌のことは考慮の外にしよう。さすがに毎月100万部も売り上げる電子同人雑誌など考えられないからである。

紙の世界では100万部が限界なのだが、電子同人雑誌の場合だとさらなる拡大が可能なのである。パソコンやスマホは今やテレビに優るとも劣らないほど身近になり、そのクリックもテレビのチャンネルを変えるぐらいに容易である。もしここにテレビのチャンネル数と同程度に絞られ同程度に国民に知れ渡った対象があったら、その中からテレビと同程度に視聴されるものが出てきてもおかしくない。テレビと同程度の視聴者数―数百万、さらには一千万を超える売り上げの電子同人雑誌や電子本が出てきてもおかしくないのである。特に電子の世界の場合、日本以外でも世界中がターゲットに成り得る。文学などの言葉の壁が高い分野はまだ難しいだろうが、音楽や美術やアニメなどの場合はいとも簡単に国境の壁を超えることができて、市場をさらに広げることができる。国内に制限されているテレビの市場よりもむしろ有利だと言えよう。電子同人雑誌や電子本という形をとった「文芸作品」を千円で売り純利益は700円、それ掛ける一千万としたら、利益は70億円となる。一つの電子同人雑誌や電子本が70億円もの利益をもたらしたのである。

このように電子同人雑誌は、副業レベルの4万円から最高レベルの70億円まで、実に様々な経済的可能性を持っているのである。
(続く)


電子同人雑誌の可能性 65 「電子同人雑誌の経済的側面―『ヘイジュード』」

2016-09-25 05:31:33 | 日本文学の革命
『ヘイ ジュード』は60年代の終わりに作られた一曲の歌である。60年代の終わりだから今から50年近く前であり、ずいぶんと昔の曲である。しかしこの曲は今聞いても全然色褪せておらず、逆に何度聞いても新鮮な感じがして、今も昔も人々の心に感動を与え続けている。
この曲を作ったのはビートルズのメンバーの一人、ポール・マッカートニーである。彼が作詞作曲し、歌も担当し、最後の黒人的叫び声も彼が叫んでいる。しかし同時に(ビートルズ時代のポールの作品すべてに言えるのだが)ジョン・レノンの影響もある。というよりもこれはジョンに直接的に捧げられた曲なのである。

当時のビートルズは、長年の音楽活動に疲れ果て、ドラッグやマスコミ的騒動に精神も病み、これから先の目途もつかず、解散寸前の状況にあった。この時期に作られたポールの歌に『レット イット ビー』もある。これは絶望の中で彼が見い出した一縷の希望の言葉―聖書の中のキリストの言葉であり彼の前に現われたヴィジョンとして聖母マリアが語った言葉である「そのままにして置きなさい」という言葉、それをもとにして歌い上げられた曲である。こういう歌を作らねばならなかったほど、当時の彼らは追いつめられていたのである。特にポールとジョンの不和は限界に達し、いつ決定的な分裂を招いてもおかしくなかった。ポールとジョン、この二人の相互作用とバランスこそがビートルズを形成してきたのであり、二人のどちらかが欠けてもビートルズは成り立たなかっただろう。その二人の間で決定的な分裂が起きようとしていたのである。それは即ビートルズの解散を意味することだった。

この分裂の危機にさらされた絶望的状況の中で生み出されたのが『ヘイ ジュード』なのである。この歌は年若い青年に向かって「彼女に向かってがんばってアタックしてゆけよ」と励ます応援ソングなのだが、それはジョンに向けられたものでもある。当時ジョンはヨーコとの恋に落ち、それをファンや世間から非難され、激しいバッシングを受けていた。実際これが引き金となってビートルズは解散したので、欧米では今でもヨーコはビートルズを解散させた女として憎まれている。しかしこれは実際にはジョンが勝手にヨーコに幻想を見たのであり、彼はそこに必死になって救いを求めるように向かったのである。結果は失望であり、彼はビートルズも失ったが、その後彼は世間に対する最後のジョーク、自分を偶像化し人形化したマスコミや社会に対して最後の冷笑を浴びせかけようとする。ジョンとヨーコの愛の神話をセルフプロデュースして、そのイカサマの偶像を世間やマスコミに投げ与えたのである。それは同時に愛の実現ができなかった自分に対する冷笑でもあったのである。

ジョンがヨーコに向かうことでビートルズは解散するかも知れない。ポールも一度は『ゲット バック』でジョンに戻って来いよと訴えかけるが、最後の最後で彼はジョンに対して励ましの言葉を与えるのである。ヨーコのもとへ行き、愛を実現するんだ、と。その励ましの歌が『ヘイ ジュード』なのである。それはポールがジョンに与えた最後の友情であり、心からの励ましの言葉なのであった。それはビートルズの核にあったポールとジョンの友情の芸術的表現であり、その最後の記念碑であった。
それは同時にビートルズを生み出した様式―黒人音楽と西洋音楽の融合という様式―の最後の記念碑でもあった。曲の後半で繰り返されるコーラスがあるが、それは西洋音楽的な天上へ向かう壮大な賛美歌のようなコーラスと黒人音楽的な野性的なリズムのコーラスとのコラボである。ポールはこれを天まで届けと歌い上げることによって、今 失われようとしているビートルズの音楽の最後にして最大の記念碑を築きあげたのである。


電子同人雑誌の可能性 64 「電子同人雑誌の経済的側面―創作家と文芸作品」

2016-09-25 05:27:56 | 日本文学の革命
最後に「創作家」について考えてゆこう。

今まで電子同人雑誌の経済的側面を様々に考察してきた。無報酬でも行える「ボランティア」から始まり、数百数千人規模の購読者を目指す「副業」、1万人前後でも立派に成り立つ「ロング・テール」、突然10万人規模の購読者に恵まれる「大当たり」と様々な形態があり、そのいずれでも電子同人雑誌は十分に充実した活動ができ得ることが分かった。

ではさらに規模の大きい拡大を目指すことはできるだろうか。大手の出版社なら常に100万規模のベストセラーを目指している。しかしそれも出版社が持つ強大な会社組織があるからこそ可能なのであり、しかも彼らでも現代では数年に一回ベストセラーが現われればいい方なのである。テレビ局であれば常に数千万規模の視聴率獲得を目指している。しかしここでも出版社以上に強大な組織力と宣伝力がモノを言っているのであり、そのような大規模な力を駆使してはじめてこのような数字を叩き出せるのである。電子同人雑誌のような個人や同人で成り立っている素人の集団では「ロング・テール」あたりがせいぜいで、たまに何かの追い風に恵まれて10万規模の「大当たり」を出すというのが限界なのかも知れない。

しかし電子同人雑誌にもさらなる拡大を目指せるパワーがあるのだ。それは出版社やテレビ局の強大な組織に匹敵でき場合によっては凌駕さえできるパワーである。それが「創作家」である。

電子同人雑誌は、共通の趣味や志ざしを通じて心の交流や魂の成長を行ってゆく活動である。リアルな活動や実際の交流も含んでいるし経済的な運営も含んでいるが、ベースを成しているのは心の交流である。そしてこの心の交流・魂の成長を行う最高最大のメディアが「文芸作品」なのである。

「文芸作品」は人の心を感動させ、作者と受け手の間に心の交流を生じさせ、魂の奥底まで働きかける強い作用を及ぼしてくる。そのような感動を得るために、最高度の技術や最高級の感性や斬新な技法が駆使され(よくそれは“芸術的”という言葉で表現される)、その時代に合った新しい様式まで生み出して、「文芸作品」は形成されて来るのである。「文芸作品」には様々なジャンルがあり、文学、音楽、美術、映画、マンガやアニメ、劇団、芸能やコント、手芸アートやファッションリーダー、評論や言論活動、ゲームや最新のバーチャルリアリティーなど、人の心を動かし、作品との間に心の交流を生じさせ、魂の奥底で受け入れられたようなものは皆「文芸作品」である。
この「文芸作品」が時として強大なパワーを発揮することがあり、大手出版社やテレビ局が全くたち打ちできないレベルのものにまでなることがある。一例としてビートルズの『ヘイ ジュード』をあげてみよう。

電子同人雑誌の可能性 63 「電子同人雑誌の経済的側面―辺野古ルポルタージュ雑誌」

2016-09-22 09:56:51 | 日本文学の革命
時流や時勢に運よく乗ることによって「大当たり」をする例も考えられる。

辺野古の基地建設問題が激化し、辺野古はもちろん沖縄全体が騒然としてきた時(そういう時勢が生じてと仮定してのことだが)、当の辺野古から『辺野古に住んでますけど… 何か?』というタイトルの電子同人雑誌が立ち上げられてきた。これは辺野古在住のある主婦が、辺野古問題が激化して全国的に辺野古のことが話題になってる時勢だし、ひとつ地元の状況でもルポ的に取材してみよう、それを雑誌にすれば一儲けできるかも知れない、と思い発行したものである。

彼女はとりあえずホームムービーを持って地元の人たちの取材に向かい、いろんな人たちから話を聞くことができた。基地に激しく反対する人たち、基地の建設を歓迎する建設業者、どっちつかずで浮かない顔をしている若者たちなど、様々な意見があった。近所の主婦が取材に来たので、地元の人たちは飾らない本音を素直に語ってくれた。自分が生まれ育った辺野古の海にも行ってみた。「このきれいな海がなくなっちゃうのはやっぱり悲しいね~」と感慨に耽った。アメリカの有名監督が辺野古に来たときはミーハーな彼女もはしゃいでやって来た。「監督の横でピースしているの、これ私よ私♪」
彼女はこのルポルタージュ雑誌を700円と高めに販売した。売れるとは思わなかったし、少しでも利益を出したかったのだ。ところが辺野古問題が風雲急を告げている時だったので、全国のこの問題に関心ある人々がこの雑誌を買った。地元密着の生活感覚あふれるルポが面白く、また彼女はインタビュー動画を編集もカットもしないで垂れ流すのでそれがかえって本音と素顔が良く伝わってくると評判になった。雑誌の売り上げはアッという間に1万部に達した。純利益490円×1万で490万円の利益である。俄然やる気を出した彼女はさらに精力的に取材を続けた。夫や子供たち、おじいちゃん、おばあちゃんも雑誌制作に協力した。夫は自動車で辺野古を駆け回って辺野古全体の分かりやすいマップを作ってくれた。子供たちは学校の同級生を中心に子供世代の取材をしてきた。おじいちゃんおばあちゃんは先祖代々続いてきた辺野古での暮らしを懐かしく語る記事を載せた。家族一丸となった努力の甲斐あって、雑誌は号を経るごとに売り上げを伸ばしていった。

辺野古問題がクライマックスに達したとき、辺野古の住民と警察との間で大衝突が勃発した。辺野古住民を中心とした数千もの民衆がデモと座り込みをする中、警察が住民たちの強制排除に乗り出してきたのだ。住民と警察との間での大乱闘となった。彼女も始めは恐々と丘の上から撮影していたのだが、地元の人たちが警察にやられている光景を見るにつけ、我慢できなくなって丘を駆け降り乱闘に加わった。沖縄県警から派遣されてきた警察官に向かい「あんたたちも同じ沖縄県民でしょ。何でこんなことするのさー!」と怒鳴りつけた。カメラを振り回すおばさんジャンヌ・ダルクのような勇敢な姿は、同行していた夫がカメラに収め雑誌に掲載されることになった。この号の雑誌の売り上げが一番良く、3万部にも達したのであった。

辺野古問題に決着が着いた頃、この雑誌も自然消滅したが、彼女の雑誌は合計7万部もの売り上げとなった。収入金額は3430万円である。彼女たちはこの金をもとに、今まで暮らしていた家や土地を売って、あらたに辺野古の海が見渡せる高台に立派な家を建設した。その表札の横には、この家を彼女たち家族に与えてくれた雑誌を記念して「辺野古に住んでますよ♪ 何か?」という文言が刻まれたのであった。
(続く)


電子同人雑誌の可能性 62 「電子同人雑誌の経済的側面―5千万円を超える利益」

2016-09-22 09:54:34 | 日本文学の革命
飼い主の奥さんはこれは面白いとユーチューブへの投稿も考えた。しかしユーチューブに投稿しても無料で見られてそれで終わりである。そこで『踊る猫 マイちゃん』というタイトルで電子同人雑誌にして発売することを思い立った。旦那さんや中学生の娘の協力も得て、家族で雑誌作りに励んでいった。クラッシック、ロック、日本ものなど、様々な踊りをマイちゃんに躍らせて、その動画を雑誌に掲載していった。踊りだけでは足りないので、マイちゃんの写真集だとかマイちゃんと家族との交流記事だとか、いかにしてマイちゃんの踊る能力を発見したのか、お宅の猫をうまく躍らせる方法だとかを雑誌に書いていった。見せ場のムーンウオークでは、奥さんと娘さんが好物と蛇を持ってマイちゃんににじり寄り、旦那さんがその横でホームムービーでマイちゃんの後ずさりを撮ってと、家族一丸となって渾身の撮影をしたのであった。

マイちゃんのムーンウオークのさわりの部分だけをユーチューブに投稿してみた。思った通りの大反響で「ムーンウオークだ!猫がムーンウオークしてる!」「もっと見たい!」という要望が押し寄せてきた。そこで満を持して電子同人雑誌『踊る猫 マイちゃん』を発売したところ、あれよあれよという間に売り上げを伸ばし、10万部を突破してしまったのである。彼らはこの雑誌を500円で発売したから純利益は一冊350円、それ掛ける10万だから、なんと3千5百万円も稼いでしまったのである。さらに『続 踊る猫 マイちゃん』も出し、それも5万部売れたから、トータルで5千2百50万円をこの家族はマイちゃんのおかげで手に入れたのであった。ユーチューブに投稿していたら一文にもならなかった動画が、電子同人雑誌にすることでこれだけの収益を上げることができたのである。

電子同人雑誌の可能性 61 「電子同人雑誌の経済的側面―大当たり・『踊る猫マイちゃん』」

2016-09-22 09:52:22 | 日本文学の革命
次に「大当たり」について考えてみよう。
これは何かの拍子に雑誌が大当たりして、売れに売れるという現象である。何かのネタや話題、何かの一発芸がネットで大受けしたとか、あるいは何かでうまく時流に乗り、その力を借りて雑誌が売れたとか、多分に一発屋的なものであり、またいつどこでこのような大当たりが生じるかは運次第だが、電子同人雑誌をやっていれば起こり得る現象である。

よくユーチューブなどで「動画再生回数 数百万回」などという投稿が紹介されて話題となっているが、多くは一発芸的なものである。これらの投稿は無料で見れて、ネットで大いに盛り上がっているが、しかし誰もこの投稿一つのために金を払おうという者はいないだろう。またこのような映像は作品化もできないので、作品として売ることもできない。このままでは商品化して収入を得ることはできないのである。
しかしこのような投稿動画も電子同人雑誌という形にすればなんとか商品化できるのである。「再生回数 数百万回」という突如襲来した追い風を、具体的な収益に転化できるのだ。

ある家でかわいい白いメス猫が飼われていた。名前をマイちゃんという。飼い主の奥さんがマイちゃんと遊んでいたとき、あることに気づいた。マイちゃんが二本足で立って、踊るのである。正確には飼い主の奥さんがマイちゃんの頭上にマイちゃんの好物をぶら下げて「ほれ、ほれ」とやり、マイちゃんがそれ欲しさに立ち上がり両手を伸ばしておねだりしているだけなのだが、それが踊っているように見えるのである。普通の猫だとそういう風に立ち上がっても、歩くことまではできずに、すぐに疲れてしゃがみ込んでしまうのだが、マイちゃんはいじきたないのか後ろ足が器用に発達しているのか、頭上の好物を追って器用に歩いて来るのである。頭上の好物をリズミカルに振るとマイちゃんもリズミカルに体を振り、大きくスウィングさせるとマイちゃんも大きくスウィングするのだ。好物を二つ左右の手に持ち、マイちゃんの頭上に左右からかざしてみた。するとマイちゃんはどちらも欲しくて、立ったまま両手を広げて、凝固するのである。その状態で飼い主の奥さんがマイちゃんの周りを回ると、マイちゃんもそれに合わせてクルクル回り、まさに踊っているような状態になるのだ。
飼い主の奥さんは面白がっていろいろな踊りをマイちゃんに躍らせてみた。優雅なクラッシックから日本の盆踊り、ビートの利いたロック音楽までマイちゃんは踊ることができた。さらには極めつけの踊りをマイちゃんは踊れるようになった。マイケル・ジャクソンのムーンウオークである。
まず好物を頭上にかざしてマイちゃんを立ち上がらせる。そのあと好物をマイちゃんの目の前に下げてゆきマイちゃんが好物に飛びかかろうと中腰になったその瞬間、マイちゃんの大嫌いな蛇のゴム人形を好物のすぐ横に出すのである。マイちゃんは好物に飛びかかることができず、かといって諦めることもできず、凝固してしまう。そして好物と蛇を並べたまま「ほれ、ほれ」と近づいてゆくと、マイちゃんは凝固したまま両足を器用にすべらせて後ずさりしてゆくのだ。その動作を横から見るとマイケル・ジャクソンのムーンウオークそっくりなのである!しかめっ面したマイちゃんの表情までマイケルとそっくりなのであった。

電子同人雑誌の可能性 60 「電子同人雑誌の経済的側面―『宝塚Lovers』・『週刊 秘湯巡り』」

2016-09-20 04:50:23 | 日本文学の革命
「ロング・テール」的な雑誌としてどのようなものが考えられるだろう。
マイナーでマニアックだが、強固で持続的な市場の存在。これが鍵となる。
たとえば宝塚などはどうだろう。宝塚は知らない人はいないほど有名だが、その市場は相変わらずマニアックである。そして極めて強固なファン層を持ち、また強靭で持続的な組織も持っている。ここに『宝塚Lovers』という宝塚専門の電子同人雑誌を立ち上げたらどうなるだろう。その雑誌が目の肥えた宝塚ファンも納得する出来映えと内容を持っていたら、たちまち1万部を突破するような発行部数になるに違いない。2万部も夢ではないだろう。そうなるとこれを発行した塚ファンの女性たちには数千万円もの収入が入って来るのである。またこの活動が宝塚にも認められたら劇場の最前列に『Lovers』の同人専用の特等席も設けられるかも知れない。それを知った塚ファンたちは『Lovers』の同人になろうと殺到して断るのにたいへんな苦労をするだろう。『宝塚Lovers』は宝塚の最大の弱点―脚本力のなさ―をカバーしようとして、雑誌ならではの強みを生かし脚本コンテストを雑誌内で連載し、全国各地から脚本を募集した。いつの日かここから優れた宝塚の脚本が誕生するかも知れないのである。

マイナーだが強固な市場に訴えかけるものとして『週刊 秘湯巡り』という雑誌も考えられる。これは秘湯巡りを趣味とする男が毎週全国各地の秘湯を訪ね、そのルポや体験記を書いてゆくという電子同人雑誌である。ここにもまた根強い愛好家がいたので、雑誌はたちまち8000部の売り上げとなり、ときには1万を超えるほどの売り上げとなった。あまりの巨額な収入に大喜びした彼はこれを本業にして、毎週全国を飛び回り毎週雑誌を発行して稼ぎまくっていった。たいへんな激務だが彼はこれを一人で行った。同人を集めて手分けして秘湯を巡り、雑誌の制作も分担して行えば負担は軽くなるのに、すべてを独り占めしようと欲に駆られた彼は、雑誌制作のすべてを自分一人で行ったのである(女性の同人を集め湯煙りリポーターになってもらえばさらに売り上げが伸びるのだが)。毎月560万円の収入が彼に入ってきた。その内160万円を移動費や宿泊費や生活費に使っても、彼は毎月400万円も貯めることができた。この雑誌は2年後彼が病気で倒れたため休刊するのだが、その間彼が貯めた金は9600万円にも達したのである。


電子同人雑誌の可能性 59 「電子同人雑誌の経済的側面―戦前の作家たちの売れ行き」

2016-09-20 04:48:43 | 日本文学の革命
読者数1万人クラスの作家は出版社の世界では無価値な存在と見なされ、作家としての生存権すら与えられていない。しかし1万人前後の売り上げしか持たない作家が本当に無価値なのかというとそれは全くの疑問である。というのは戦前の作家たち―日本文学を本当に発展させてきた作家たちは、多くがこの1万人クラスの作家だったからである。
夏目漱石といえば『吾輩は猫である』や『草枕』が大ヒットして当時のベストセラー作家になった人物である。しかしその彼でも作家活動10年間の印税をすべて足しても今の価値で1億2千万にしかならなかったのである。一年でいえば1千2百万円。今日でいえば10万部クラスの作家である。漱石でさえそうだったのだから、他の作家たちはほとんどすべてが数万クラス、あるいは1万人前後、さらには数千、数百というクラスまで珍しくなかっただろう。宮沢賢治のように『春と修羅』や『注文の多い料理店』を自費出版したが全く売れず、その他の作品も死ぬまで原稿用紙のままだったという例もある。これなどは文字通り「数にも入らない」例であろう。平均すると1万人クラスの作家たちが戦前の作家たちの主流だったといえるだろう。
その彼らが日本文学の大発展をもたらしたのである。この1万人クラスは文学や文化の発展にとってむしろ重要な層だと言ってもいいぐらいである。

電子同人雑誌はこの1万人クラスのマイナーな作家たちにも大きな活躍の機会を与えるのである。彼らの収入を途絶し、プライドを奪い、作家として抹殺してゆくのではなく、彼らの文化的価値にふさわしい十分に潤沢な収入を与え(それはもちろん本業となる)、彼らにさらに一層の活躍を促してゆくのである。

1万人の市場…。これはマスコミ的に見れば全くマイナーな市場である。日本の人口を仮に1億人として視聴率に換算してみると、視聴率1パーセントで100万人だから、1万人は0.01パーセントとなる。「0.01パーセントの視聴率」などはマスコミにとっては存在しないのも同じことであり、こんな視聴率のテレビ番組があれば即座に打ち切りだろう。しかし電子同人雑誌であれば、先ほど見たように1万人のファンがいるということはたいへんな経済効果をもたらすのである。文化的効果や可能性にいたってはさらに巨大なものになるだろう。
この1万人の市場に根をおろし、そこで本業的に生活して活動を行い、様々な有益な成果を生み出してゆくことは十分可能なのである(ここで生み出されたものがいずれ広い社会に伝わるということも、ネットの伝播力を考えれば実に容易なことである)。


電子同人雑誌の可能性 58 「電子同人雑誌の経済的側面―1万部作家の境遇」

2016-09-20 04:46:34 | 日本文学の革命
話を進めよう。ある作家が本を書いて1万部売り上げた。彼はどれだけの収入を得ることができるだろうか。
300ページで千円程度の本が100万部売れた(これが「ベストセラー」である)とき、紙の本の印税は10パーセントなので、作家に渡される収入は約1億円になる。たしかに巨額の金であり、これで当分遊んで暮らせるだろう。ついで10万部クラスになると印税収入は一千万円である。大企業の幹部クラスの年収を稼げるわけである。しかしこれが1万部クラスになると、あらガッカリ、100万円しか手に入らないのである。
彼は真面目な文学者なので、この300ページの本を丸三年かけて精一杯書いたのである。その結果手にしたのがたったの100万円。三年間の年収にすると33万チョットであり、これは極貧クラスを遥かに下回る年収である。

彼は300ページもの立派な書物を書く能力を持っている。またよくある「売れっ子作家」のように時流に媚びるだけで中身がスカスカの本を出すというようなこともしない。また宣伝もない中で(彼のような売れない作家には出版社は宣伝費を出さないから)1万人“もの”人々に本を売るパワーも持っているのである。先に「230人“もの”人々」が持つパワーについて書いておいた。1万人“もの”人々―しかも彼らは宣伝によって盲目的に本を買わされたのではなく、自主的に好んで彼の本を買ったのである―に本を売るということは、たいへんな能力なのである。
しかしその彼も出版社の世界では「売れない作家」であり能無しなのであり、彼の1万部しか売れない本は利益をもたらさない「クズ本」なのである。彼の報酬も年収33万円であり高校生バイトの(年収150万円として)5分の1であり、作家としての生存をまったく許そうとしない額なのである。

しかしそんな彼が、電子同人雑誌や電子本の世界に来たら、どうなるだろうか。まったく違う環境、まったく違う待遇(これこそが彼が本来受けるべき待遇であったと言ってもいい)が彼を待っていたのである。

紙の本でもよく、まず雑誌に連載を書き、それをのちに本として出版するということがよく行われている。読者にとっては、雑誌連載によって最新の新鮮なものをリアルタイムに読むことができ、また本によってこれまで読んできたものを立派な完成体として読むことができかつ保存することができるので、このような二重取りも許されるのである。
彼もまた作家仲間や文学青年たちと電子同人雑誌を立ち上げ、それに連載を書いてゆくことにした。雑誌は最低額の250円で販売した。出版社の世界でさんざんに「売れない作家」として蔑まれてきたので、電子同人雑誌も売れないのではと危惧して最低ランクの価格に設定したのである。しかしそこに彼のもともとの読者であった1万人が彼を慕って押し寄せて来たのである。その結果たいへんなことが起こった。電子同人雑誌の一冊の純利益175円それ掛ける1万で、彼の雑誌がもたらす収入がなんと175万円になってしまったのである。これはそのまま彼の収入である。この雑誌を立ち上げたのも彼だし、これだけの読者を集めたのも彼だし、他の同人にそれぞれにふさわしい報酬を渡すとしても、このほとんどを彼は自分のものにして構わないのである。しかもこの雑誌は毎月発行しており、彼の連載見たさに1万人が毎月買ってくれるので、彼は毎月毎月175万円を手にすることになったのだ。
やがて連載していたものを本にすることになった。もちろん電子本である。彼は一冊を1000円で売った。すると1万人が電子本をも買ってくれた。さらにはこの1万人のネットワークがさらに購読者を呼び込み、合計1万4千冊も売れたのである。彼の取り分700円×1万4千で、彼の収益は980万円にもなった。この本一冊で彼は一千万円近い収入をゲットできたのである。
この間のことが2年だったとしよう。その間の雑誌収入は2年で4200万円。それに本の収益980万円を足すと合計5180万円もの大金を彼は手にしたのである。年収にしたら2590万円である。出版社の世界で年収33万円であったときと比べたら天と地の差である。

彼は別に詐欺とかズルとかをした訳ではない。出版社の世界にいたときも、電子の世界にいるときも、彼はまったく同じことをしていただけなのである。読者層も変わっていないのである。ただ電子の世界に来たおかげで、彼が本来持っていた文化的価値が純粋な形で露わになっただけなのである。

電子同人雑誌の可能性 57 「電子同人雑誌の経済的側面―ロング・テール市場」

2016-09-20 04:44:22 | 日本文学の革命
次に「ロング・テール」について考えてゆこう。
「ロング・テール(長い尻尾)」とはインターネットによるビジネスが盛んになった頃から広まり出した経済用語で、今までにない市場を指す言葉である。今までの経済活動では、宣伝その他によって社会の注目を集め、社会全体に爆発的な大ヒットを飛ばすのが、経済活動の目標であり夢であった。しかしインターネットが広まり、人々の興味が拡散し、マニアックな世界が広がり、従来の大衆社会が縮小してゆくと、これまでのような人々の頭上で光り輝く大ヒット商品が生まれにくくなってきた。代わりに注目され出したのが、大ヒットのような天上的輝きからすると地を這いずる尻尾のようにちっぽけな市場―「ロング・テール」である。インターネットとともにこの尻尾のようなマニアックな市場が、長くなり、強靭になり、経済的に有望なものとなってきたのである。この市場にしっかりと根をおろし、地道に長期間活動を続けていけば、打ち上げ花火のようにすぐ終わる大ヒットと同じくらいの経済的利益をあげることも可能なのである。そのような新しい有望な市場として注目され出したのが「ロング・テール」なのである。

そしてそれは電子同人雑誌にとっても有望な市場である。電子同人雑誌は別に大ヒットを必要としていないのである。もちろんあれば嬉しい。それこそぶったまげるほど喜ぶだろう。しかし無くても十分利益をあげることはできるのである。そこが出版社とは違うところで、出版社の宿命的な目標は大ヒット「ベストセラー」であり、すべての出版社はそれを渇望し、ただそれを目指して活動していると言ってもいいほどだ。たしか少年ジャンプの編集者だったが、テレビで「売れる本こそ絶対であり、売れない本は皆クズだ」と言い切っていたが、まさにそれは出版社の宿命的体質を的確に表現しているのである。
それに対して電子同人雑誌は狭い市場・マニアックな市場に適合する能力を持っており、むしろそこでこそ本来の能力を発揮して活躍できるのである。