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「『宮崎駿のドキュメンタリー』再放送禁止事件 3

2023-12-29 11:23:22 | 日本文学の革命
この宮崎駿のドキュメンタリー番組は『君たちはどう生きるのか』がどのようにして制作されたのかを伝える貴重な記録となっているのだが、ただ一つだけどうにも納得できない箇所があった。それは番組ディレクターの荒川が主張しているものなのだが「大叔父=高畑勲」という主張である

『君たちはどう生きるか』の最も重要な登場人物である「大叔父」は実は「高畑勲」なのであるという主張がこの番組ではクドいくらいなされている。宮崎駿はその全人生を通じて先輩である高畑勲に「片思い」して来たのであり、高畑に憧れ、高畑を怖れ、高畑に追いつこうとしても追いつくことが出来ず、高畑に激しいコンプレックスを抱き、その呪縛から抜け出そうとしてもがき苦しみ、そういう高畑を乗り越えたいという思いこそが宮崎駿の全創作活動の根幹を成しているというのである。『君たちはどう生きるか』もまさにそのために作られたものであり、それは高畑勲を乗り越えて「高畑コンプレックス」の呪縛を解消しようとする宮崎駿人生最後の挑戦なのだという

この『君たちはどう生きるか』が制作されている最中の2018年4月に高畑勲は死去している。番組でもジブリ美術館で行われた高畑の葬儀の模様が映されていて、弔辞を述べた宮崎駿は「パクさん(高畑の愛称)、55年前雨あがりのバス停で声をかけてくれてありがとう」と言いながらむせび泣いていた。55年前といえば1963年のことで宮崎駿が大学を卒業して東映動画に入社した年である。おそらく進路に迷っていた宮崎駿に声をかけてアニメーターの道に引き入れたのは高畑勲なのだろう。確かにそれは宮崎駿の人生を決定づけた重大な出来事である

その後も東映動画の先輩として高畑は宮崎の手引きをしていた。1965年から1968年にかけて高畑が中心となって作った長編アニメ『太陽の王子ホルス』では制作スタッフの一人として宮崎も参加している。1971年には大人用アニメとして作られたが低視聴率に苦しんでいた『ルパン三世』が子供向けに路線変更しようとして、新たに高畑勲に制作依頼したときも高畑は宮崎駿を引き連れて13話以降の『ルパン三世』を共に制作している。1974年の『アルプスの少女ハイジ』では全カットを宮崎駿に任せてあの名作アニメを作りあげている。その後も『母を訪ねて三千里』や『赤毛のアン』などで宮崎駿をスタッフとして用い、宮崎駿にキャリアを積ませていったのである。たいへん恩義のある先輩だと言っていいだろう

一方宮崎駿は不満も抱えていた。『母を訪ねて三千里』を作っているときも「絶対路線間違ってると思ってた。お母さんを求めてトボトボと歩いてばかり。ああ情けない」と思っていたと回想している。その宮崎が高畑からの独立を成し遂げたのが1978年に宮崎が初監督として作った『未来少年コナン』である。宮崎駿独自のダイナミックな動きが躍如しているこのアニメは、静的な高畑のアニメとは全く対照的であり、まさに宮崎アニメの誕生を告げるものであった。一部高畑の手伝いを受けたというが、これは宮崎でしか作れない宮崎独特のアニメであり、まさにこのとき宮崎駿は高畑勲からの独立を達成したと言っていいだろう

1979年の『赤毛のアン』に制作スタッフとして参加し高畑のもとに戻った感もあったが、まさにこの1979年に作られたのがあの超絶の名作『カリオストロの城』だったのである。宮崎アニメの魅力が満載に詰まった溌剌として新鮮な素晴らしいアニメで、今でもアニメの名作を数えあげるとき必ずあげられる名作である。僕も初上映のとき仙台の映画館で見たのだが、その美しい自然描写、面白い大活劇、見事なストーリーにすっかり心酔してしまった。クラリス姫などはその頃の僕の憧れのアイドルになってしまったくらいである。その後数え切れないくらい見たが、今見ても相変わらず面白い。たいへんな名作である

ただ興行的には失敗し、宮崎駿はその後5年間も映画を作らせてもらえず、半失業状態にも落ち入り、暗い絶望的な日々を送ることになる。しかしその苦難を乗り越えて誕生したのが1984年の『風の谷のナウシカ』である。このアニメは日本のみならず世界の中でも最高のアニメの一つであり、また映画としても最高峰のものである。そして宮崎アニメの偉大な歩みの第一歩ともなった作品なのであった

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