「日本文学の革命」の日々

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電子同人雑誌の可能性 154 「コンピュータの本質―ギリシャの文化的風土」

2018-06-30 05:33:26 | 日本文学の革命
まずギリシャの概念論理学はどのような文化的風土から生み出されたのか。このような論理学を生み出したその文化の根源的魂とはどのようなものだったのか。
それは「肉体的な個物への愛」である。

「肉体的な個物への愛」…その代表的表れがギリシャ彫刻である。ギリシャ人は建物にも広場にも至る所に彫刻を立てて倦むことを知らなかった。ギリシャ人やローマ人が至ったところではどこでも山ほどの彫刻が作られたものである(日本人が至るところに桜の花を植えたがる、そのような感情だろうか)。しかもそのすべてが人間の姿の彫刻であり、また多くが肉体をこれ見よがしにさらけ出した裸体像である。しかも女性よりも男性のヌード裸体の方が喜ばれたのである。今でいえばジャニーズの東山紀之のような美男子を真っ裸にし、それを台の上に乗せて澄ましたポーズをとらせ、その周りを大勢の観衆が取り囲んで、「この脇腹の筋肉…なんて素敵なんだ」「このお尻の肉のつき具合がたまらん」「これこそ最高の美だ」と讃嘆と陶酔の念を込めて舐めるように見まわしているようなものである。新宿二丁目では珍しくない趣味だが、当時のギリシャ・ローマでは老若男女すべてがこの趣味にはまっていたのである。
この肉体美への愛はギリシャでは宗教的なものでさえあった。オリンポスの神々とは最も美しい肉体を持つ存在に他ならず、その肉体から生じる喜びや享楽を最高度に楽しんでいる神々なのである。とりわけ一番ギリシャ人から愛された神がアポロン神であった。彼は美青年の神であり、光り輝く太陽のように美しい肉体を持った神だった。彼は最高の肉体美を体現した神であり、オリンポスの神々の中である意味最も重要な神であったのである。かのローマの円形闘技場のすぐ横にもアポロン神の巨大な裸体像が立てられていたそうである。闘技場では鍛え抜かれた肉体を持つ剣闘士たちが連日肉弾戦を演じていたのだが、ギリシャ・ローマの人々はそれを見ることが何よりの楽しみで、血を流して倒れてゆく剣闘士の姿にも性的陶酔を感じながら見物していたのである。

このギリシャ人の「肉体的な個物への愛」はどこから生じたのだろうか。一つにはギリシャの風土そのものが反映しているのだろう。光り輝く太陽と深く蒼いエーゲ海、そこに浮かび上がる「個物としての」鮮やかな島々の世界…そのようなギリシャ人の原風景がこのような愛着に大きな影響を与えているのに違いない。
もう一つがギリシャ・ローマの最も重要な社会制度「重装歩兵市民軍」である。これは市民が鎧や剣で武装し、密集陣形を作った歩兵として肉弾戦を仕掛けてゆく戦法のことである。当時の市民とは軍人のことであり、日本の武士のような存在であり、労働などは奴隷にまかせて自分は日夜ジムや体育館で肉弾戦に備えて肉体を鍛えていたのである。市民たちのこの鍛え上げられた肉体、同じ市民としての強い仲間意識、規律の行き届いた軍隊組織、さらには民主的で合理的な社会制度や高度に発達した市民的知性も合わさったこの「重装歩兵市民軍」は、当時の世界で最強に強かった。ペルシャの大軍を撃退したのもこの市民軍だったし、アレキサンダー大王に率いられて全オリエントを征服したのもこの軍隊だった。ローマ帝国を築く原動力になったのもこの市民軍だったのである。
この軍隊を形作る根本となったのが、鍛え上げられた肉体を持った筋骨隆々の若者たちであった。ホメロスが讃えたアキレスのような若者たちである。彼らの肉体を鍛え上げ筋骨隆々に育てあげることに、国家の命運がかかっていたのである。筋骨隆々の肉体を愛する文化的風土ができたのも、このような社会的背景があったからなのだろう。

この「肉体的な個物への愛」は彫刻や軍隊にとどまらず、ギリシャ・ローマ人の生活の至るところに及んでいる。小さな都市国家ポリスという社会制度も政治的な「肉体的個物」と言えるし、彼らが生み出したコイン貨幣―金属に肖像の印を押してある―も貨幣として用いられた彫刻である。かのユークリッド幾何学も「肉体的個物」としての物体を研究した学問であり、そこに真実の法則を見い出すことにギリシャ人は精根を傾けたのである。
またギリシャ・ローマ人の「その日を楽しめ」という奔放な享楽生活―料理やセックスやフェスティバル(お祭り)など肉体からわき起こってくる情熱や享楽を最大限味わおうとする生き方―今日のイタリア人にもなお通じる肉体派的な生き方にも、この「肉体的な個物への愛」が反映しているのである。

そして概念論理学もまたこのような文化的風土から生まれたものなのだ。彼らが精神世界に見い出した「肉体的な個物」こそ概念に他ならない。彼らはそこに真実と美的完成を求めようとした。彼らは混沌の中から概念を掘り出し、それに彫琢を加えて明晰な形を与え、磨きをかけて美しい完成体にまで高め、それを要所要所に配列してゆき、それでもって一つの完成された論理的世界(ギリシャ彫刻が立ち並ぶ広場と同じようにギリシャ人の世界に他ならない)を築こうとしたのである。
概念論理学という極めて形式的な学問の背景には「肉体的な個物への愛」というギリシャ人の文化的風土があったのである。

電子同人雑誌の可能性 153 「コンピュータの本質―論理学を生み出す文化的風土」

2018-06-30 05:27:13 | 日本文学の革命
ギリシャが生み出した概念論理学と西洋が生み出した命題論理学を見てきたが、どちらも高度に発達し精密に体系づけられた立派な論理学である。ただ困ってしまう事実が一つある。立派に体系づけられ完成した論理学―全世界はこの論理で一元的に体系づけることができると主張している論理学―それが二つもあるという事実である。
論理学というからには絶対に正しいはずで、その一つで世界全体を完璧に論理化できるはずであり、他の論理などが入り込む余地などないはずである。ところが相互に異なる論理学が二つある。いったいどちらが正しいのか?
命題論理学派の西洋人に言わせれば、ギリシャの論理学には誤謬や限界があり、その誤謬や限界を克服して自己の体系内に統合した我が論理学こそが、最新の正しい論理学なのであると主張したいところだろう。しかしもし現代に古典時代のギリシャ人が生きていたら、彼らの方も自分たちの信じる論理学の方が正しいと思い、得意の鋭い論争を仕掛けてくるかも知れない。さらにはプラトンやアリストテレスのような知の巨人が西洋の命題論理学をつぶさに検証し、それを批判・克服したネオ概念論理学を生み出すかも知れないのである。
概念論理学と命題論理学二つの論理学がそれぞれ存在し、それぞれが自分たちの論理学の方が正しいと主張し合っているのである。

もう一つの重要な事実がある。それは概念論理学が誕生し高度に発展した地域がギリシャ・ローマという一つの文化圏に限られているという事実であり、また命題論理学が誕生し高度に発展した地域が西洋やアメリカというやはり一つの文化圏に限られているという事実である。世界のその他の文化圏を異にする地域ではこれらの論理学が誕生・発展することはなく(外来の文化として教わったことはあったとしても)、気づきもしなかったという地域がほとんどなのである。全世界に通用する論理であるなら、全世界どの文化圏から発生してもおかしくない筈なのに。

たとえば日本という文化圏では、概念論理学や命題論理学はもちろんのこと、そもそもどんな種類の論理学も発展することはなかった。だからといって日本人がでたらめで支離滅裂でアッパラパーの民族かというと、そんなことはない。昔から今に至るまで十分理性的な行動を取る民族なのである。ただ日本の文化的風土には論理学を追及するような風潮がまるでないのである。日本人は論理をさほど貴ばず、激論を戦わせて熱くなっている二人を見たら「まあまあまあまあ」と割って入ってなだめる方を選ぶ人々なのである。また民族的な確信として論理によって世界がすべて説明できるなどとは夢にも思っていないし、そんなことをすべきだという必要性も全然感じていない。日本人は論理などを全然信用しておらず、そんなことを追及する人間は野暮の極みだとさえ思っている。ある意味概念論理学も命題論理学も論理学すべてを見下すような「超論理的」態度を取っているのであり、このような文化的風土ではどんな論理学もはじめから発展しようがないのである。

論理学という学問にも、それを生み出した地域の文化的風土が反映している筈である。ではギリシャの概念論理学を生み出したのはどのような文化的風土だったのか。また西洋の命題論理学を生み出したのはどのような文化的風土だったのか。それぞれ考察してみよう。


電子同人雑誌の可能性 152 「コンピュータの本質―常に真になる命題トートロジー」

2018-06-26 06:07:48 | 日本文学の革命
語の場合は数に限りがある。たとえば種類が多いという昆虫でさえ数十万種類しかない。その一つ一つを昆虫学者が丹念にやっているように分類整理して名づけてゆけば、なんとか把握可能となるのである。人類にいたっては一種類しかない(二種類いたら怖い。別の人類が存在することになるからである)。だからいとも簡単に「人間とは何か」と設問できるのであり、それに対する様々な解答に思いを馳せることができるのである。しかし現われては消える無数の事象や事実はまさに無限であり、数えようもないし把握しようもないし、そのような世界に対して何の判断も下しようがないのである。

こうなってくると否定された概念論理学の方が恋しくなってくる。たしかに概念とは仮構の存在であり“語”の実態を反映していないかも知れない。しかしそれは別の言葉でいえば理想形なのであり、イデアなのであり、そのような理想形を形作る機能が人間の大脳には備わっており、それが人間固有の理性的能力を生み出している源なのかも知れない。
たとえばミロのビーナスは女性の美の理想を彫刻として形作ったものである。しかし実際の個々の女性はというとあんな完璧に美しい訳ではない。どこかに歪みやたるみがあるものである。またいつでもあんなすましたポーズをしている訳ではなく、おしりをポリポリかいたり、いびきをかいて寝ていたり、お笑い番組を見てケラケラ笑っていたり、とてもじゃないが彫刻にできないようなポーズをとっているものである。しかしそのような現実の女性を捨象して究極の美の理想形として形作ったものがミロのビーナスであり、それは女性の実態を反映していないかも知れないが、一つの理想形としてはアリなのであり、決して偽りでも仮構でもない現実の存在なのである。概念も同じように現実とは言えないが、現実から生じた一つの理想形であり、そのような存在として現実を分析したり現実に高度な判断を下したりと現実的な活動をしているのだと言えよう。

この概念があるからこそ人間の次のような理性的な行動が可能になる。ある港湾の検疫官がベトナムからやってきたコンテナの中を調べたところ、小さなうごめくものに気づいた。
赤い色をした蜘蛛のようである。彼はそれが「セアカゴケクモである」と認識し、「これは毒を持った危険な外来種である。これを日本に上陸させてはならない」という判断を下し、ただちに職員を派遣して付近一帯を徹底的に消毒させ、またベトナムの輸出業者に対しては「セアカゴケクモが来た」ことを通知し防疫を厳しくするよう指示を出し、セアカゴケクモが日本に上陸するのを防いだのである。
これなどはまさに概念があるからこそできるのであり、人間以外の全動物がビックリ仰天するほどの人間の能力なのである。

しかし命題論理学の方も負けてはいない。膨大な命題が渦巻く事実の大海の中でボーゼンとして手をこまねいているだけではないのである。命題論理学者たちはこの無限の世界の中に一つの法則を発見した。それは個々の命題がどのような真・偽をとろうが、常に真の命題をとる命題である。それは「トートロジー(恒真式)」と呼ばれている。

ここに「Aならば(BならばAかつB)」という命題があるとしよう。このAやBも命題なので真・偽を持っているが、このABの真・偽の組み合わせを根気よく調べてゆくと、どのような組み合わせをしてもこの命題全体としてはすべてが「真」となるのである。個々の命題がどのような事態になろうとそれにもかかわらず命題全体としては常に「真」となるのだ。「2+2=4」のように明快であり「6÷3=2」のように鮮やかに割り切れるのである。これが「トートロジー」「恒真式」と呼ばれるものであり、膨大な命題の混沌世界の中に論理学者たちが見つけた常に「真」なる法則なのである。
ちなみに命題には三種類あって、この常に真なる命題を「恒真式」といい、すべてが偽となる命題を「矛盾式」といい、先に述べた「バラと結婚」の命題のように時に真となり時に偽となるような命題を「偶然式」という。数からいえば偶然式が圧倒的に多いであろう。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の冒頭は「世界は、成立していることがらの全体である」という文章で始まっているが、この「成立していることがら」とはドイツ語の原文では「Fall」といい「偶然」という意味合いを含んでいる言葉なのである。世界とは偶然的な事象の総和という面を持っているのだと彼は言おうとしているのだろう。

壮大なサイコロ遊びのような偶然世界…その中に見い出された偶然ではない常に真なる法則こそがトートロジーである。トートロジーには様々な種類があり、「同一律」だの「矛盾律」だの「分配の法則」だの「連言結合の法則」だの「ド・モルガンの法則」だの数多くある。しかもそれらは演算によって拡張することができ、新たなトートロジーを導き出してゆくことができる。このトートロジーを用いると人間が言語で行っている推論のほとんどすべてを命題の計算式で表現することができるのだそうだ。日常言語の混沌―いい加減でむら気で情念的で、非合理的なものがてんこ盛りの世界である―そこにトートロジーという完璧な論理を敷設することができるのであり、トートロジーを拡張してゆくことによって正しく完璧な論理的世界を建設してゆくことができる。それは世界に論理的足場を提供するものであり、日常言語の迷妄を正し、人間の言語を論理的に明確なものに変換してゆき、全数学の基礎となるほどの論理性を人間の言語に与えようとしたのである。

閑話休題 「また北本へ」

2018-06-25 06:12:48 | 日本文学の革命
昨日の日曜日また北本へ行って働いてきた。今度は昼勤で8:30から20:00までの12時間ほどの仕事である。夜勤の方が深夜手当がつき2千円ほど高くなるのだが、夜勤にすると翌朝から週五日やっているレギュラーワークが始まるので、二連ちゃんで働くことになりとても苦しいものになってしまうのだ。
週五日のレギュラーワークも肉体労働であり9時から5時までみっちりと働かされるが、こちらの方は気持ちのいい全身運動で、爽快な気分で働くことができ、リフレッシュもでき健康のためにもいいのでたいへん感謝している(家から自転車で20分で通えるのも寸刻も時間を惜しみたい僕にとって実に有り難い)。ただものには限度があるので深夜12時間働いたあとすぐまた朝から肉体労働をすると、さすがにつらい。この前も深夜明けすぐに埼玉から東京へ取って返し、そのままレギュラーワークを始めたのだが、つらいことつらいこと、体が鉛になるとはこういうことを言うのかと身に染みて思った。もし夏の暑い盛りにこんなことをやったら熱中症でぶっ倒れてしまうだろうとも思った。たかが2千円のためにそんな危険をおかすのもバカらしいと、今度は昼勤にしたのである。

今度配置されたのはベルトコンベアーの末端での積みの作業である。ベルトコンベアーから流れてくる出来立ての雑誌をパレットの上にきれいに山積みしてゆくという単純作業だが、それが何十枚ものパレットに積むことになるので、かなりの重労働になる。
僕のすぐ横には大きなパレットがすっぽり入るような巨大な「積みマシーン」があった。これは人間がやってきた積みの作業を機械で自動的に行えるようにしたもので、4、5メートルぐらいの高さがあり、コンピュータや様々な計器類に覆われ、立派なものであった。こんな積みの作業まで機械で自動的に行えるようになったのかと驚いた。この日は動いてなかったがどんな仕組みなんだろうとあれこれ推測しながら見ていた。

ところでこんな機械があるのになぜ人間の僕がそのすぐ横で積みの作業をしているのか。機械にやらせれば自動でできるし人件費もかからないというのに。
雑誌だけだったらたしかに人間の手など必要なく、出来たそばから自動的に積んでゆけばいいだけなのだが、付録があるとそうはゆかないのである。一度雑誌を作ってしまい、その後で付録を挟み込むという作業が必要となるので、雑誌を作ったそばから自動機械に流しこむ訳にいかず、一度ラインから取り除いて溜めておく必要があるのである。そこで僕のような人間の手が必要になるという訳である。最近の雑誌は付録がないと売れないそうで(特に女性誌など)付録つきの雑誌が増えている。そうなるとまた人間の手が必要となるので、せっかくこんな立派な自動積みマシーンを導入したというのに、残念だったねとしか言いようがない。

積んでいたのは『ヴァンサンカン』という分厚い女性雑誌だった。それが五冊も束になって来るので、それを積んでゆくのはかなりたいへんである。始めの内はなんでもないのだが時間が経つにつれてどんどん辛くなってくる。この作業を10時間もやっていたのである!最後の方になるといよいよ腰に来てしまった。「まずい。腰をやられてしまうかも知れない」と心配になった。8時近くになってようやく作業が終わり、工場を出たときにはうまく歩けずヨロヨロになっていた。しかし帰りのバスに乗り座席で一眠りし北本駅に着いた頃には、気づいたら直っていたので、われながら自分の強靭な体力に感心し、有り難く思った。

もちろんこれで一日が終わった訳ではなく、家に帰って録画した『西郷どん』を見たあとすぐ寝て、そしてこうして書いている。毎日毎日たいへんだが、これからもがんばって行きたい。

電子同人雑誌の可能性 151 「コンピュータの本質―命題の無限性」

2018-06-23 06:11:53 | 日本文学の革命
事象や事実こそが世界の基本的構成要素である。世界に実在しているのは「晴れ」のような語で表現できる個的要素ではなく「天気が晴れた」という文章で表現されるような事実の方なのである。その一つ一つの事実にAだとかBだとかPだとかとレッテルを張り、「または」だとか「かつ」だとか「でない」だとかで結合させ、論理的連関を明らかにしようとしたものが命題論理学に他ならない。
ただここで困ったことが起こる。世界は事実の寄せ集めであり、世界のすべてが事実へと解体するかも知れないけど、その事実が多すぎるのである。あまりにも膨大であり、無限とも言ってよいほどのものであり、しかもそれらが様々な相互関係をもって作用し合っているのだから、世界はまさに無限大の壮大な混沌と化してしまうのである。

事象や事実がどんなに膨大なものになるか。ある男の一日を観察しただけでもすぐにそれが分かってくる。
一日の始めに「今日はいい天気だ」という命題が成立した。次いで「今日は休日でよかった」という感想の命題が生じた。それから「朝食はカレーを食べた」という命題が成立した。次いで「洗濯をした」「掃除をした」「風呂掃除をした」「キッチンも磨いた」と続き、午後には「カード会社とトラブルになり電話で口論した」という命題が生じ引き続いて「カッとなった頭を静めようと論理学の本を読んだ」という命題が続き、「夕食は近くのコンビニで買ってきたぺヤングのギガマックスに挑戦した」と続き最後に「録画した『半分、青い』を見ながらアルパカワインを一本あけて寝てしまった」の命題で一日が終わった。
しかしこんな諸命題はまったくのあらすじに過ぎず、実際に今日一日に起こった命題をすべて数えあげたらとてつもない量になるだろう。アイルランドの作家ジョイスに『ユリシーズ』という小説がある。これはダブリンで暮らすある男の一日に起こったことをどんな些細なことも見逃さずに克明に記録した小説であるが、それは上下二巻の膨大な量にのぼり、かのギリシャの大叙事詩『オデッセイアー』に匹敵するほど内容溢れる大冒険となっているのだ。

これは一人の平凡な男のある一日に起こった諸命題に過ぎない。これが全世界に起こったことなら、その無限の膨大さにボーゼンとするだけだろう。その一つ一つを認識することなどとてもじゃないが不可能であり、それらについて何かの判断を下すことも人間技でできることではない。たしかに事象や事実こそが世界の根本であり論理の基盤かも知れない。しかしこの膨大な事実の寄せ集めを前にしたらそもそも論理もヘッタクレもありゃしないように思えるのだ。

電子同人雑誌の可能性 150 「コンピュータの本質―命題計算」

2018-06-21 05:30:27 | 日本文学の革命
一つの命題は他の命題と様々な関係を持つことができ、それに応じて「真・偽」の可能性も変わってくる。pという命題とnという命題がありそこに(pまたはn)という関係性を待たせたとき、pかnのどちらかが真になればこの関係性も真になる。pという命題とnという命題に(pかつn)という関係性を持たせたなら、pかnどちらとも真の場合だけこの関係性も真となる。pとnの間に(pならばn)という関係性があった場合はpが真実に発生した場合nに対して真・偽どちらかの対応を取るよう迫るものとなる。pに対して(pではない)という関係性も設定することができる。この場合pが真のときはこの関係性は偽となりpが偽のときは真となるという真逆の関係性が生じることになるのだ。

このような「または」「かつ」「ならば」「でない」などの関係性は命題論理学で「論理的結合子」と呼ばれている(コンピュータの中を覆っている「論理回路」はまさにこれなのである!)。数の世界では「+」「-」「掛ける」「割る」「=」などの演算子がありそれを用いて様々な計算ができるように、人間の思考の世界でもこのような結合子を使って思考を計算のように表現したいという願望から生まれたものである。
人間の思考を純粋に合理的な数理計算のように扱おうとするのであるから、現代のコンピュータによる人工知能の先駆けとも言えるサイエンスティックな試みである。

具体的に見てみよう。先ほどの「僕の家の庭に真っ赤なバラが咲いた」という命題をAとしそれが「真」つまり実際に生じたとしよう。この命題Aが生じたとき引き続いて「寂しかった僕の庭が明るくなった」という命題Bが生じたのなら、この命題Aと命題Bの間には(AならばB)という論理的関係性が「真」として成立することになる。
ここで「僕はバラを採って彼女にプレゼントした」という別の命題Cが生じたとしよう。すると「彼女はたいへん喜んでくれた」という命題Dが生じたならばここにも(CならばD)という関係性があることになる。
さらにその時もう一つの命題E「僕は彼女に結婚指輪をプレゼントした」が生じたとしよう。
このとき命題F「彼女は喜んで結婚指輪を受け取った」が生じるなら((EならばF)である。
さらに引き続いて命題G「僕と彼女は結婚した」が生じたとしよう。この命題Gは命題Fと等価に立つ関係であり、論理的結合子では「双条件(…なら、そしてそのときにかぎって)」と呼ばれ、数の計算では「=」と同じものである。
以上の全体を論理式で書けば次のようになる。
(((AかつC)ならばD)かつE)ならばF=G

「バラが咲いた」から「結婚した」まで様々な命題が関わることによって論理的連関が成立したことになるが、もちろん命題は「真・偽」どちらをも取り得るものであり、「結婚した」というゴールの命題に到達するまでにはかなりきわどいものがある。
まず「バラが咲いた」のあと命題Bに進み「いつまでもそこに咲いてておくれ」と祈っているだけではいつまでも「結婚」というゴールに辿り着くことができない。そのバラを折り取り彼女にプレゼントするという具体的行動に出なければならないのである。だからこの場合どうしても(AかつC)でありそれが「真」であらねばならない。
この行為が彼女を喜ばせたあと命題E「結婚指輪をプレゼント」が生じるのであるが、このEは是非とも「かつ」でなければならない。「バラをプレゼント」しただけでは「結婚」に辿り着けない。また唐突に「結婚指輪をプレゼント」しただけでもうまくは行かないだろう。是非ともバラで喜ばせ引き続いてすぐに「結婚指輪をプレゼント」する必要があるのである。故に「かつ」であることが必要なのであり、式は(((AかつC)ならばD)かつE)となる。
ここまで来たとして次いでFという命題が真なるものとして成立するかどうかだが、これも実際にはどうなるか分からない。「ならば」の前条件が真でも後条件が真になるとは限らないからである。「彼女は結婚指輪を受け取らなかった」という命題Fの否定命題が成立するかも知れなし、まったく別の命題「彼女は調子に乗るなと僕を平手打ちした」という命題が成立するかも知れない。そうなると命題G「結婚」には辿り着くことができず、一連の命題の論理的連関は別の流れとなって展開してゆくことになるのである。


電子同人雑誌の可能性 149 「コンピュータの本質―命題論理学の登場」

2018-06-20 05:40:28 | 日本文学の革命
批判や疑問の声が高まってきたギリシャ・ローマの概念論理学に対抗して19世紀の半ばの西洋に颯爽と登場してきたのが西洋独自の論理学である「命題論理学」である。概念論理学が基盤としていたのは、具体的な個物であり、その言語的表現である“語”であり、それが論理学化された「概念」である。ところが命題論理学はこのような具体的な個物や“語”や「概念」は真実に実在するものとは考えていない。真実に実在するのは物ではなく「事象」や「事実」であると考えるのである。真実に存在するものはモノではなく具体的な事実としてのコトであり、具体的な「バラ」が実在しているのではなく「バラが咲いた」や「僕の家の庭に真っ赤なバラが咲いた」や「そのバラは小さくてきれいだ」などの具体的な事実が真実に実在しているものなのである。「バラ」とはこのようなバラをめぐる具体的な事実の集合体として浮かび上がってくるものであり、「バラ」をめぐる膨大な関係性の中に織り込められた中心点・結節点に過ぎないのである(こう考えると概念論理学の欠陥の一つであった“語”の多義性・変化性にもなんとか対応できるものとなる)。

世界に真に実在しているのは無限とも言えるほど膨大で現われては消えるダイナミックな事象であり、そしてそのこれまた無限とも言える関係性なのである。これは言語的に表現すれば“文章”に相当する。真実に存在するものは“語”ではなく、“語”が織り込まれ動詞の作用を受けている“文章”の方なのである。この“文章”を論理学的に表現したものが「命題」である。「命題論理学」とは“文章”を基盤として成立した論理学だといえるだろう。

この事象=“文章”=「命題」にはいくつかの特徴がある。その一つが事象には成立―不成立の二値化があるというものである。一つの事象「天気が晴れた」には実際に晴れた場合もあれば晴れなかった場合もあり得る。前者を「真」、後者の場合を「偽」とすれば「真」「偽」の二つの場合が考えられ、どちらかいずれかであるという「二値化」が生じるのである。
この「真・偽」という二値化は“語”や個物には適用できないだろう。「ブルゾンちえみ」という“語”や個物に「真・偽」を適用したところで、それがいったい何の意味を持つというのか。そういう真偽判定を超えたところで、臆面もなく存在し続けるのが“語”や個物の特徴なのである。

ただこの「真・偽」は、真だから正しいとか偽だから間違っているとかの価値判断は全く含んでいない。ただ命題の成立―不成立を表現しているだけで、偽の命題でも立派に命題として通用するのである。
たとえば「金正恩がアメリカに向けて核ミサイルを発射した」という命題は偽の命題だが、命題としては立派に通用するのである。それは今のところ偽の命題だがしかし真の命題に転換してもおかしくないのである。しかしその場合「怒ったアメリカが北朝鮮に核で応酬した」とか「中国やロシアも参戦して核ミサイルを発射した」などの命題が連鎖して人類は存亡の危機に立たされてしまうが…。しかしそういう価値判断は別にして「真・偽」いずれにも成り得るという二値化を持つのが命題の特徴なのである(それにしても金正恩のような「ナッツリターン姫」と変わらない高慢なボンボンに人類の存亡が握られてしまうのだから、困ったものである)。

電子同人雑誌の可能性 148 「コンピュータの本質―概念の非同一性」

2018-06-16 04:52:41 | 日本文学の革命
このギリシャ時代の論理学は18世紀までの西洋でも絶大な権威を持っていたが(なにしろプラトンやアリストテレスやローマ法学の論理である!)、しかしその頃になるとこの古い論理学を疑問視する潮流も起こってきた。この論理学では分かりきったことしか知ることができないし新しい知見をもたらすような総合的判断ができないではないか(カント)とか、この論理学では相矛盾するものが止揚されることで生じる現実世界のダイナミズムが捕えられないではないか(ヘーゲル)とか、様々な疑問や批判が提示されるようになったのである。

実際言語というものをリアリスティックに観察してみると、この概念論理学が基盤としている“語”には大きな問題があるのである。“語”には実は一義的で確定的な意味などないのである。
われわれは普段の生活で日常的に“語”を使っている。それらの“語”は一見して一義的で確定的な意味を持っているように見えるが、実はそれらはすべて人それぞれで意味合いを異にしているのである。
「渋谷」という“語”を考察してみよう。これは東京の中の繁華街の一つで、ただの地名なので誰にでも共通する意味を有しているように見える。しかし人それぞれで実に多彩な意味を有しているのだ。渋谷が好きな人にとってはそこは楽しい街でありオシャレなタウンであり“わが街”と言えるほどの意味合いを持っているだろう。渋谷でデートしたことがあるというカップルにとっては渋谷という語には二人の大切な思い出が込められているはずである。渋谷が嫌いな人にはこの語には嫌な意味合いばかりで、渋谷はヤンキーな若者たちが暴れ回る嫌悪感を感じさせる街として認識されているだろう。家出少女にとっては渋谷は絶望とかすかな希望が交差する放浪の街として心に刻み込まれることだろう。東京に来たことがないという人には渋谷という“語”には地名以外に何の意味もなく、中には渋谷という地名すら知らないという人もいるかも知れない。

同じ日本語を話す日本人の間でさえ一人一人の“語”の実態は大きく異なっている。違う言語を話す人間の間ではこれがさらに大きなものになってくる。たとえば「バラ」であるが、これは英語では「rose」と言い、この“語”が指し示している具体的な個物は日本語の「バラ」と何のかわりもない。しかしその真の意味合いは大きく異なっているはずである。「バラ」とは日本では乙女心をくすぐるアイテムの一つに過ぎないが、イギリスでは日本の桜に匹敵するほど彼らの魂のとって重要な花であり、宗教的な神聖ささえこの“語”には込められているのだ。

「rose」ならまだましかもしれない。日本人の大半が知っている“語”だし、それが指し示している対象もはっきりしているからだ。では「Tatsache」ではどうだろうか(久しぶりにウィトゲンシュタインのドイツ語版『論理哲学論考』を引っ張り出してきたので、嬉しくなって使わせてもらうが)。何も分からないだろう。読めもしないという人が大半だろう(これは「タートザッヘ」と読み日本語では「事実」と訳されているものであるが、ウィトゲンシュタインが独自の哲学用語にまで高めてしまった“語”である)。われわれが外国旅行に出かけたときしばしばこのような事態に出くわすのであるが、この場合この“語”の意味がわれわれの中に全くないのである。翻訳によってそれに相当するような自国の言葉を当てはめることもできるが、その真の意味合いは、その国で生まれ、その言語で育ち、その国で人生を送った人にしか分からないであろう。

一人一人の人間によって“語”の意味が異なっている。それだけではない。一人の人間の中でも“語”の意味は刻々と変化しているのである。
先ほどの「渋谷」で東京にも渋谷にも行ったことがないという人が、初めて東京に旅行に来て渋谷に行った瞬間、「渋谷」としてその人が持っていた意味が瞬時に変わってしまうのである。それは単なる地名から体験へと変化するのである。その体験はその人の渋谷観光次第でいくらでも変化するものであるが、どんな体験をしたところで「渋谷」という“語”にその人が込めていた意味が大きく変化したことは間違いないのだ。
このような“語”の意味の変化は毎日毎日刻一刻と一人の人間の中で行われているのである。まさに“語”の意味する内包はアメーバのように様々な形に変化をし続けていると言えよう。それが“語”の実態なのである。

概念論理学の第一原則といえるものに「同一律」というものがある。これは「AはAである」という公式で表現されるが、概念は常に同一でなければならないと定めたものである。AはAであり、A以外のものであってはならないのである。Aは同時にBでもある、時にはCになることさえある、などということは絶対に許されないのである。この「同一律」が守られないと論理学というものが成り立たないというのだ。
しかし論理学が成り立とうが成り立つまいが、変化し続けるというのが“語”の実態なのである。概念論理学がいかに概念の一義性や同一性で縛りを加えようが、語の方はその網の目からスルスルとすべり抜けてしまうのである。一義的で明確な「概念」などは一つの仮構であり、そうなると「概念」を基盤とした概念論理学も結構あやしい存在になってくるのである。

電子同人雑誌の可能性 147 「コンピュータの本質―概念論理学」

2018-06-15 16:59:14 | 日本文学の革命
コンピュータの基礎を成しているのが「論理回路」であり、それはパソコン内部の様々な重要部品―CPUやメモリや様々なチップセットの中に、あたかも我々の脳の神経線維ニューロンのように張り巡らされている。そしてその「論理回路」の原理となっているのが数理論理学・命題論理学である(面倒なので命題論理学に統一しよう)。そこでこの命題論理学なるものを―なにしろこれがパソコンの基礎中の基礎なのだから―もう少し考察してみよう。

前にも書いたように命題論理学は19世紀半ばのヨーロッパで誕生した新しい論理学である。それはどんどん発達して20世紀初頭にもなるとフレーゲやラッセルやウィトゲンシュタインなどの大数学者・大哲学者たちが続々と現われて、この論理学を一つの完成へと導いていった。若くてまだ青臭い頃の男性がよく哲学や論理学に興味を持つように、僕も若い頃論理学に興味を持ちウィトゲンシュタインの著作などを分からないながらも読んでいた。紀伊國屋書店でウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』のドイツ語原本を見つけたときは宝物でも見つけたように喜んで買って帰ったものである。しかし読もうとしたが全く歯が立たず、『論考』の末尾を飾る超カッコいい文章「語りえぬものについては、沈黙しなければならぬ」をドイツ語でそらんじて嬉しがってるぐらいであった。
それはともかくこの新しい論理学はそれまで権威を持っていた古い論理学を乗り越えようとして台頭してきたものである。その古い論理学とは古代ギリシャ、プラトンやアリストテレスの時代の論理学で「概念論理学」と呼ばれているものである。

「概念論理学」の「概念」とは要するに“語”のことである。「机」だとか「石」だとか「電柱」だとか「ブルゾンちえみ」だとか、そういう具体的な個物を表示する“語”を論理学的に表現したものが「概念」に他ならない。古代ギリシャ人にとってこの具体的な個物こそが、真実に実在するものであり、あらゆる論理の基盤に思われたのである。彼らが三角形や四角形の証明に熱中したのも、彫刻作りに精を出したのも、また人間の肉体(とりわけ男性の筋肉に満ちた肉体)を愛好したのも、この「具体的な個物」を尊重する精神の現われなのである。彼らが精神世界に見つけた具体的な個物こそが「概念」であり、彼らはそれを三角形や四角形に劣らぬ情熱で探求し、またギリシャ彫刻にも匹敵するほどの精神的技巧をそこに注ぎ込んでいった。
この「具体的な個物」は別に抽象的なものでも構わない。「真」だろうが「善」だろうが「美」だろうが、はたまた「電子マネー」だろうが「FX取引」だろうが、すべて「概念」として扱っても構わないのである。たしかにそれは目の前には実在しないが、イデアの世界には具体的に実在していると考えたのだろう。
この「概念」を地盤として知性や知識を深めてゆくことができる。現代人にとっては「真」「善」「美」など古代ギリシャ人が熱中していた概念には興味がなくても、「電子マネー」や「FX取引」には興味津々で、一生懸命これらの「概念」を探求して自分の知識を深めようとする人間も多いことだろう。

この「概念」を深めたり、高めたり、相互に関係づけて体系化したりすることが、古代ギリシャ人の論理学であった。彼らは「概念」を探求することによって、オリンポス山のはるか高みにあるような完璧な論理と理想の世界であるイデア世界にまで到達しようとしたのである。
たとえば「バラ」という「概念」を探求してみることにしよう。
「バラとは何か」「花である」
「花とは何か」「植物である」
「植物とは何か」「生物である」
「生物とは何か」「命のあるものである」
このような具合に「バラ」という地上の具体的な個物から「命」というイデアの世界に半分足を突っ込んだような概念に至るまで、だんだんと認識が高まってゆくのが分かる。
この探求は同時に論理的道を切り開く行為でもあり、この地上の個物からイデア世界に至るまで三段論法(これはイデアの世界にのぼってゆくものである)や演繹(これはイデアの世界から下ってくるものである)などの形で論理の街道が築かれてゆくのである。

電子同人雑誌の可能性 146  「コンピュータの本質―論理回路」

2018-06-14 06:21:59 | 日本文学の革命
トランジスターによって電子に「流れる―流れない」という二つの振る舞いをさせて人工的に操作できるようになった。またそれによって電子の流れに「01」という二値化された意味を付与できるようになった。そしてこのトランジスターをいくつも組み合わせて配線することにより作り出されるある回路がある。それがコンピュータの基礎を形作っている「論理回路」である。

「論理回路」…
人々が激論を戦わせるときによく使う論理と機械的に作られた電流の流れである回路が一体化したもの…一体何だろう。

19世紀の半ばのイギリスでブールやド・モルガンといった数学者たちが作り出した新しい論理学がある。数理論理学もしくは命題論理学と呼ばれるもので、人間の思考活動を数学の計算のように形式化しようとしたものである。数学で「+」「-」「掛ける」「割る」などの演算をすることによって様々な思考をするように、人間の言語によってする思考もこのようにスッキリ明快論理的なものにして、まさに数学のように厳密な論理的体系にしようとしたのである。
人間の言語というものは、複雑怪奇で混乱していて、未開のジャングルのような混沌とした猥雑さに覆われているが、そこに近代的な舗装道路を貫通させ、碁盤の目のように縦横に伸ばし、整然とした居住地や広場や公園、クリスタルなビルディングを建設してゆき、明るく合理的な未来都市を築きたい…そういう19世紀の合理主義全盛時代のヨーロッパで生まれた論理学である。
その論理学で使う数学の「+」「-」に相当するものが、「または」「かつ」「でない(否定)」「ならば」などの論理演算子である。人間の論理的思考はすべてこのような演算子で表現することができ、数学の計算のように計算化することが出来るのだという。
頭のいい数学者たちが何十年も研鑽したあげく出した答えなのだから、その通りなのだろう。

この「または」「かつ」「でない」などをトランジスターを使って回路化したものが「論理回路」である。数個のトランジスターを組み合わせるだけでよく、また原理は中学校の理科の授業でもできるほど単純なものである。
一番基礎となる「でない」回路は一本だけ電流が入力されるものであり、電流が流れたとき(「1」)出力には電流が流れず(「0」)、電流が入力に流れないとき(「0」)出力には電流が流れる(「1」)というふうに、「1」ならば「0」、「0」ならば「1」と、「01」の値が反転して出て来るものである。
「または」回路「かつ」回路には電流が二本流れてくる。両方とも電流が流れたときだけ(「1」「1」)出力に電流が流れる(「1」)のが「かつ」回路であり、二本の内どちらか一方に電流が流れれば出力にも電流が流れる(「1」)のが「または」回路である。
ちょっと気になったのが「ならば」回路である。「ならば」も論理演算子の一つで、論理の胆になるものなのに、この回路はないのだろうか。しかし入力を「ならば」、回路の中の「または」「かつ」「でない」の複雑な配線を通って出て来る出力を「である」とすれば、この回路全体が「ならば」回路だとも言える。回路全体が「ならば」なのであり、独自の「ならば」回路など必要ないのだろう(「ならば」を「または」や「かつ」や「でない」で置き換えることができるという話をどこかで聞いた覚えもあるが、よく分からないので放置しておこう)。

この「論理回路」こそがコンピュータを覆い尽くしている実態なのである。指先大のICチップの中にこの「論理回路」が実に数百万個以上もあるそうである。あまりに複雑なので人間の手に負えず、コンピュータが設計を行っているそうだ。コンピュータが自分で自分を作っている…今はやりのディープラーニングみたいである。

この「論理回路」とともに「01」化された電子に新たな意味が付与されることになった。「1」を「真」、「0」を「偽」とする、「真偽」という意味である。ただ電流が流れるか流れないかだけのものに「真実であるか」「真実でないか」という意味を負わせるのだから、大きく出たものである。
「論理回路」とともに電子の流れは、「真偽」という論理的意味と一体化することになったのである。