「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

電子同人雑誌の可能性 199 「コンピュータの本質―インターネット発展史とニッポン敗戦史」

2019-08-25 16:52:43 | 日本文学の革命
社会の高齢化と並んで日本全国で不気味に進行しているのが少子化と人口減少である。日本の地方の至るところで―農村はもちろん地方の中小都市まで、少子化と人口減少の大波に直撃されているのである。農村から子供や若者の姿がなくなり、やたら高齢者ばかりとなり、さらにはその高齢者すら見かけなくなり、一体どこに人がいるんだろう、無人の荒野をさまよっているみたいだ…と思わせるような地域が全国各地で続出しているのである。

なぜこんな事態になったのだろう。経済発展のおかげで生産力は幾何級数的に増大したのだから人口も幾何級数的に増大してもよさそうなものだが、まったく逆のことが起こっているのである。農村の場合は、昔のように農業が基幹産業でなくなり農業だけでは食ってゆけなくなったこと、都会に出て働かねばならず、またそっちの方が楽しそうということで、人口の大流出が起きたのだろう。公共事業、産業誘致、農業補助金など、地域活性化のために様々な手が打たれてきたが、しかし不思議なくらいに効果がない。膨大な国家予算をつぎ込んでも人口減少に歯止めがかからず、今日の農村の閑散とした、ある意味荒廃したような状態がもたらされてしまったのである。また人口減少が起こっているのは農村だけでなく、各地の町や都市でも起こっており、さらには大阪や名古屋や東京のような大都会でも起ころうとしている。少子化高齢化人口減少の波は都市部でも起こっているのであり、まるで日本全体がシュリンク(縮小)して人のいない廃墟になろうとしている感じである。

たびたび引用しているシュペンゲラーの『西洋の没落』(漱石の未完の評論『文学論』を完成するために実に役立つ本である!)の中で、文明の末期現象として「人口減少」を書いているくだりがある。ローマ帝国の末期を例にあげて、文明の終末期には手に負えないほどの人口減少が起きること、巨大なメガロポリスばかりが繁栄し、周囲の農村部から吸血鬼のように若者や働き手を奪い取って消費してゆき、地方を無人の荒野にして荒廃させ、最後には無人の荒野の上に一人聳え立ったメガロポリスも崩壊して、文明は終末を迎える、という内容である。
なんだか東京のことを名指しで批判されているようで東京で暮らしている者としては肩身が狭くなるが、しかしこのシュペングラーの言葉通りならまだ救いはある。今末期的な状態にあるのは自己の可能性を出し尽くしてしまった西洋文明なのであり、それに対して日本文明にはまだまだ発展の余地があるからである。

文明問題はともかく少子化のベースにあるものはやはり日本人の生命力や溌剌とした生命感の減少であろう。溌剌とした生命力や未来に対する明るい希望がないと、やはり子を産み育てようという自然的な情熱も失われてゆくのである。前にも書いたことだが敗戦直後の日本では国家が崩壊し焼け跡ばかりが広がり食う物さえ満足にないという状況だったが、そのような中で日本人の生命力の大爆発が起こり、溌剌とした生命と明るい希望が日本人の間にみなぎったのである。そしてそのときに起きたのが空前のベビーブームで、女性たちは保育園もなければ子ども手当もないというのにドンドン子供を産んでゆき、これから未来を担ってゆく人材を大波のような勢いで育てていったのである。

しかし今の日本には溌剌とした生命力がどこにも感じられないし、暗い閉塞感ばかりが社会に満ちているし、若者のデート代に補助金をつけても効果なさそうだし、少子化の趨勢は変えられそうもない。この少子化と人口減少もまた現代日本を覆う暗い影となっているのである。

『千と千尋』が赤くない !

2019-08-17 14:00:56 | 日本文学の革命
昨日『千と千尋の神隠し』が日テレで放映されていたので、何度でも見たい映画なのでまた見てしまった。そのとき気づいたことがある。以前のような「赤み」がすっかりなくなっていたのである。

『千と千尋』が出されたときは画面全体がなんだか不自然なほど赤っぽい感じがして「なんか赤っぽくない」とあちこちから不評があがっていた。それに対してスタジオジブリ側は「いや。そんなことは全然ない」と強弁を繰り返していた。しかし実際にはやはり何かの技術的なヘマをして赤っぽくなっていたのを気付かないまま映画やDVDとして発売してしまって、ヘタをしたらリコール問題にまで発展しかねず、そうなったらスタジオジブリは経営危機に追い込まれるので仕方なく強弁を繰り返していたのだろう。
昨日見てみたら以前のくすんだ赤みがまったく感じられず、画面全体が曇り空から晴れやかな空に変わったように鮮やかに輝いていて、これが本来の輝きだったのかと嬉しく思いながら見ていた。もうリコール問題など起こりようもない時期に来ていたので、スタジオジブリ側がいつの間にか直していたのだろう。

いろんな意味で深い内容が込められたアニメである。最近日本神話に興味を持っていろいろ読んでいるのだが、このアニメの舞台となった旅館や歓楽街はどうも伊勢神宮がモデルとなったようなのだ。
伊勢神宮には内宮と外宮とがあって、内宮は今も昔も森厳な森に囲まれた神聖な宮である。ところが外宮の方は、昔は今とまるで異なり、俗世と卑猥と欲望に満ちた大歓楽街の様相を呈していたのだ。宴会や飲食が夜ごと繰り広げられ、芸者や遊女も待ち構えて吉原や歌舞伎町さながらの性サービスを提供し、全国から集まったお伊勢参りの人々はここで飲めや歌えのドンチャン騒ぎを楽しみ、芸者たちから天国のようなサービスも受けて、翌日厳粛な気持ちで神聖な内宮へとお参りに行ったのである。
しかし明治時代になると、こんな卑俗で卑猥な様は諸外国に見せる訳にいかない、国家神道にもふさわしくないと、この大歓楽街は消滅させられてしまったのであるが、世界の宗教史には「神殿売淫」というものがあった。神聖な神殿が同時に売春宿としての役割も果たしていたもので、そこで祀られている神様が大地の豊饒を司る女神の場合このようなことがよくあったのである。この場合はもっとも卑俗なセックスが同時に宗教的な神聖な行でもあったのだ。伊勢神宮の外宮もそのような「神殿売淫」の例なのだろう。

『千と千尋』の舞台となった場所も飲食店ばかりが軒を連ねる俗情に満ちた歓楽街である。さすがに子供も見るアニメだからセックスのことはあからさまに描かれていないが、それを暗示させるものは随所にある。あそこで働いている女たちの多くも「遊女もしてます」という顔つきをしている。かつて伊勢神宮の外宮にあった巨大な旅館の写真を見たことがあるのだが、それとアニメに出て来るあの温泉宿もよく似ているのである。
宮崎駿が実際に伊勢神宮をモデルとしたかどうか分からないが、また知らないで伊勢神宮と似たものを作り出したのならもっと偉いが、『千と千尋』の舞台と伊勢神宮の外宮の様はよく似ているのである。

それとあの「顔なし」
これは間違いなく「対人恐怖症者」を描いたものであろう。
この「対人恐怖症者」は太宰治の『人間失格』で初めて文学化されたものであるが、近現代の日本の“影”ともいうべき存在である。今でも膨大な引きこもりやニートを生み出し、日本社会の暗部を形成している。そして時おり秋葉原やカリタス学園や京アニのような事件を引き起こし、日本社会に対して底知れないほどの憎悪や憎しみを突きつけてくる。
この「対人恐怖症者」は日本社会の負の側面であり、「日本文明の裏面」(二葉亭四迷の言葉)を体現した存在であり、従来の日本的世界に対する反抗者・反逆者でもある存在なのである。この世界が湯婆婆のような邪悪な者に支配されているときは破滅的に大暴れするし、逆に銭婆婆のような善の精神を抱いている者の元ではおとなしく従い手伝いもする。
いづれにしろ重要で深淵な存在なのである。

何度見ても様々な感動や解釈をもたらしてくる作品である。今回赤くなくなって本来の輝きを取り戻したのもよかった。やはり名作という言葉にふさわしいアニメである。

電子同人雑誌の可能性 198 「コンピュータの本質―インターネット発展史とニッポン敗戦史」

2019-08-09 06:20:02 | 日本文学の革命
もちろん今日のような国家が崩壊しかねないほどの老人問題を引き起こしたのは核家族化だけではない。決定的に重要な要因は科学医療の巨大な発展である。医療技術がめざましく進歩し、昔は諦めていたような死に至る病もどんどん治すことができるようになり、人々の平均寿命が急激に伸びたことなのである。昔は死の病と怖れられていた肺結核など今は医者に通えば必ず治る病気になってしまった。夏目漱石を死に追いやった胃潰瘍などは今では軽症の病気である。当時の漱石は病気に効くと聞いて大根おろしを食べたり氷をなめたりして年々悪くなってゆく胃潰瘍と闘っていたのだが、今では病院に行ってちょっと治療するだけで簡単に治ってしまう(ただ死に追い立てられていたからこそ彼はあれほどの文学事業を果たすことができたのだが)。

科学的に高度に発達した現代医療は、治せない病気はないというほどの域に達しつつあり、これがなければ死んでいたはずの人々を数多く救ってきたのだが、しかしそれが同時に人々の寿命を急激に伸ばし、老人層の大拡大をもたらしたのだ。現代医療はその偉大な努力と成果で人間を苦しめてきた病気を次々と駆逐していったが、同時にそれは「死」をも―昔の人間が運命や「お迎え」として受け入れていた自然な死をも―駆逐してゆき、人間を不自然なほど長生きさせる結果をもたらしているのである。

年金などの現代の社会保障制度を制度設計した50年前の官僚や学者たちは、「65歳以上になったらたいていみんな死んでるな♪」と当時の常識で合理的に判断して制度設計したのだろう。まさか65歳以上が全人口の三分の一になる事態など予想もしていなかったろう。また老人票という大票田が欲しい政治家たちがその制度設計に基づいて「よっしゃ。よっしゃ」と多額の国家予算を老人層に流し込む仕組みを作ったのだろう。その結果が今日の年間100兆円にものぼる破滅的な社会保障制度であり、どれだけ現役世代からの取り立てを厳しくしたところで焼け石に水で、日本が貯えて来た富を消尽し尽くしたあげく破綻してしまうのが目に見えている。

このような昔の常識に捕らわれた制度ではなく、もっと別の角度から老人問題を考える方策がないものだろうか。老人は資本主義経済的に純粋に経済的見地から見れば無意義な存在である。消費に旺盛でないし、生産活動にも従事しないし、経済発展にも貢献しないという無価値な存在なのである。だからこそそういう常識に捕らわれない新しい観点から老人を見る必要があるのである。昔の大家族では老人は手間もお金もかからず、しかも生き生きと暮らしていた。もちろん昔のような家父長的な大家族を現代に再現することなどできないだろうが、何か似たような社会制度なり近隣団体なりを作り出すことはできるのではないか。現役世代や若者世代だけでなく今や老人層にとっても巨大な災厄になっているこの社会保障制度をなんとかする為には、必死になって知恵をしぼり出すことが必要なのである。



電子同人雑誌の可能性 197 「コンピュータの本質―インターネット発展史とニッポン敗戦史」

2019-08-06 06:41:16 | 日本文学の革命
上からはアメリカに叩かれ下からは中国などアジア諸国に追い詰められどんどんシェアが狭められてゆく日本。そこにまた巨大な内憂が襲ってきた。大高齢化社会の到来である。

今や日本の総人口の三分の一が65歳以上の高齢者になってしまった。もちろん高齢化それ自体は悪いことではなく、その国が平和で健康的で高い医療水準を持っていることを示しており、誇りにすべき望ましいことでもある。しかし三分の一以上どうかすると半数近くが老人になるというのは、確かに不自然な異常事態であり、様々な弊害をもたらしてくるのだ。第一に社会を支える働き手が不足してしまう。また高齢化社会こそが「デフレの正体」と言われるように消費が減退し内需が失われてしまう。そしてなによりすさまじいのはこの巨大な高齢者層を支えるための巨額の社会保障費である。年金だけで年間50兆円以上、医療費に30兆円、福祉に20兆円と(もちろん医療や福祉は老人ばかりが使う訳ではないが、やはり老人が一番多く利用するものだろう)毎年100兆円以上もの国家予算が消費されてしまうのである。そのため赤字財政は膨らむ一方だし、現役世代からの社会保障費の取り立てもすさまじく、この税のために(本来自分の生活のための税である)生活が出来なくなるほど追いつめられる者もいるほどだ。何年か前に都心のオフィスでデータ入力の派遣仕事をしていたのだが、その時の給料が17万5千円。そのうち3万5千円を社会保障費で取られ、派遣なので交通費も出ないので、手元に残るのは13万円チョット。わざわざ都心のオフィスまで行ってきつい仕事をして、給料がこれだけ…とボー然とした思い出がある。

高齢者層を支えるために年間100兆円と聞くと驚愕してしまうが、しかし実は老人はそれほど金のかからない存在だったのである。昔の三世代同居の大家族が普通だった時代では、老人は一番金のかからない人間だったのだ。

本人はもうすっかり物欲も食欲も失っているし、家族の食卓で旺盛な食欲を見せて食べている子や孫を見ながら自分は少しだけ食べるだけで十分満足できる。居住スペースも大家族の家の片隅に老夫婦が寝起きできる小さな部屋がひとつあればそれでいい。今さら金を出して買いたい物もないし、娯楽費だっていらない。孫たちの元気な声を聞きながら、庭先で盆栽いじりでもしていれば十分満足なのである。金や手間がかからないどころか、孫の世話をしたり(保育園がいらないのである!)、家の掃除や留守番をしたり、近くの田畑で農業をしたりして、家計を助けることもできる。昔は医療費もかからなかった。具合が悪くなると自分の小さな部屋で寝込むだけなのである。申し訳程度に町から医者を呼ぶこともあるだろうが、たいして費用がかかることもない。そしていよいよ死ぬときには、大家族に見守られ、特に自分の生命の再現ともいえる孫たちに囲まれながら、心安らかに大往生することができたのである。

このように昔の大家族という自然的な家族存在の中では、老人は金も手間もかからない存在だったのである。食事も居住スペースも大家族の余り物を得ることでつつましく生きていたのである。それでいて彼こそが家族の長なのである。一番尊敬される大家族のトップであり、企業であれば会長に当たる人物なのである。まさにこの家族を苦労して育て上げ、現在ある形までしたのが彼なのである。家族から感謝されるのにふさわしい人間なのであり、彼はこの家族に囲まれて誇り高く老年を生きてゆくことができるのである。自分の人生の歴史を受け継いでくれる家族の中で生きることができて、根源的な満足を得ながら老年の日々を送れたのであった。

しかし核家族がほとんどとなった現代社会では、老人は途端に金のかかる存在となった。老人が独立世帯となったからである。独立世帯となった途端、大家族の余り物で生きてゆく訳にはいかず、食費も住居費も生活費のすべてを独立で担わなければならなくなった。どんなにつつましく生きていても一つの世帯が生きてゆくためには結構なお金がかかるのである。生活保護費程度の額でも年にすれば160万近くかかるのである。働けなくなった老人はもちろんそれを自分で工面することができないから、誰かからこの大金を毎年貰わなければならない。そしてそのような老人世帯が膨大な数になれば、支えるためのお金も目が飛び出るほど巨額なものになってしまう。あの福島原発事故で被災した浪江町や飯館村は、事故前は誰も知らないような小さな過疎の町であった。しかし事故後賠償として町や村の住民の生活費を支払うようになったら、途端にあの超大企業の東京電力の経営も傾いてしまったのである。同じように全国至る所で巨大化する老人世帯を支えようとしたのだから、国家が傾きかねないほどのすさまじい負担がかかっても当然なのである。

老人世帯にしてみたら、大家族で暮らしていたときも独立世帯で暮らしているときも、同じようにつつましく暮らしている世帯がほとんどだろう。しかし独立世帯化した途端、老人世帯は社会に対して巨大な負担となってしまったのである。家族の者たちから尊敬の目で見られていた大家族時代とうって変わり、社会から厄介者として白い目で見られるように今日の老人はなってしまったのである。