「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

総力戦 開始!

2021-03-31 04:04:02 | 日本文学の革命
『電子同人雑誌の可能性』の残りの部分、そして『こころと太平洋戦争』と『新しい文学』を同時並行的に書いてゆく、また同時に電子同人雑誌の制作という社会的な活動も始めてゆく(しかも経済的な仕事もしながら!)、というまさに総力戦をこれから行ってゆこうとしている。どれもみな難しいものばかりで、まさに総力を振り絞った戦いとなるだろうが、こうなったらもうひたすら頑張るしかない。これを成し遂げたらまさに「奇跡のドア」を開くことができる。きわめて重要な仕事なのだから、なんとしても成し遂げる覚悟だ。

先ごろ空前の大ヒットをした『鬼滅の刃』も、実はこの「奇跡のドア」を開いて欲しいという国民的な願望が押し上げたものなのである。

『鬼滅の刃』の背景には94年以来の桑田佳祐たちの運動「反外国主義運動」があると前に書いたが、『鬼滅の刃』の悪役「鬼舞辻無惨」を「京都文明」と捕えたなら(ただし否定的になり“鬼化”した京都文明。京都文明自体は長らく日本文化を守り育ててきたのである)これはまさに桑田佳祐たちの戦いそのままになる。

しかし鬼殺隊の柱たちのように勇敢に「鬼舞辻無惨」に戦いを挑んできた桑田佳祐とその仲間たちも、いまだに誰も「奇跡のドア」を開くことができない。ミスターチルドレンもできずにいるし、奥田民夫も、石井竜也も、中島みゆきもできないでいる。庵野の『エヴァンゲリオン』の新作はまだ見ていないがおそらく「ごまかし」に終わるだろう。スマップなどは解散してしまった。そして肝心の桑田佳祐もできないまま、今やこの運動自体が終わろうとしているのである。

そんな苛立ち、「奇跡のドア」を開いて欲しいという国民的な悲願、それが爆発したものが、この『鬼滅の刃』の大ヒットなのである。

しかしこの前『鬼滅の刃』のマンガの方をラストまで読ませてもらったのだが、ハッピーエンドになってめでたしめでたしで終わったのは良かったが、あんなものでは実際には「鬼舞辻無惨」を倒すことなどできはしない。あの幼稚な絵もアニメにすれば感動的な物語にすることもできるのだろうが、しかしいくらチャンバラ活劇を繰り広げようが必殺技を繰り出そうが、そんなもので「鬼舞辻無惨=“鬼化”した京都文明」を倒せる訳がないのである。逆に「めでたしめでたし」ですべて片付いたとしたことで、「鬼舞辻無惨」がひそかに逃げ出すことを手助けしているようなものである。

「奇跡のドア」を開くことは困難極まりない仕事なのであるが、僕には一つの有利な点がある。それは夏目漱石の文学を知り尽くしていることである。この夏目漱石と日本文学こそが、桑田佳祐たちより遥かに以前からこの戦いを戦ってきたのであり、そして9割方成し遂げてくれたのである。僕がやるべきものは残った1割だけであり、しかもその在り処もよく分かっている。それは『文学論』と『明暗』という漱石が遺した二つの未完成作品であり、これを完成させることができたらすべてが実現し、「奇跡のドア」が開かれるのである!

ともかくたいへんな決戦が始まることになるが、それこそ『鬼滅の刃』のように、命を賭けて勇気を振り絞って挑んでゆこう。

「奇跡のドア」を今ここで押し開けてしまおう!

2021-03-20 17:53:49 | 日本文学の革命
『電子同人雑誌の可能性』の最終章を完成させたあと、しばらく何も書いてこなかったが、この間『電子』の残りの章を完成させるための準備はもちろん、『こころと太平洋戦争』と『新しい文学』の準備も本格的に進めていた。この三つを同時並行的に書き進めてゆこうというつもりなのだ。

この三つが完成できたなら、ついに「日本文学の復活」を果たすことができる。そしてそれは桑田佳祐の言う「奇跡のドア」(『明日晴れるかな』の歌詞の中の言葉)を開くことでもあるのだ。長年の夢だった「奇跡のドア」を開くことを今ここで成し遂げるために、怒涛の最終決戦に臨もうという訳なのだ。

『電子同人雑誌の可能性』は現代にふさわしい新しいメディアを切り拓くとともに日本文学を制度的に復活させるために書いているものだが、残るは「コンピュータの本質」と「戦後の賞取りシステム」のみになっている。ただあのとてつもなく抽象的な西洋数学を理解しなければならないので、数学嫌いの僕がなんでこんなことをしなければならないのかと恨めしくもなるが、シュペングラーの助けもあってなんとか一応理解できるところまできた。なんとか書けるだろう。

『電子』を書いたあとは今度はこれを実行するというさらなる難題が待っているが、これもなんとか実行プランめいたものを作ることができた。もともと人々を率いて何かするなんて大の苦手で、一人おとなしく本を読んでいる方が好きという内向的な人間なのだが、もうこうなったらそんなことを言ってる場合ではない。これも実行あるのみ!

『こころと太平洋戦争』は夏目漱石の『こころ』を論じる評論だが、日本文学の最高峰であるこの作品の「真の価値」を明らかにすることにより、日本文学全体をも蘇らせることを目指している。「太平洋戦争」についても真正面から論じることになり、実に難しい挑戦となるが、なんとか書けるだろう。『電子』を書いている間は実際に書く訳にはいかないが、もう事実上書くことに突入したという覚悟で臨んでゆくつもりだ。

『新しい文学』は蘇らせた日本文学をふたたび前へと進めるためのものである。実は漱石の「則天去私」を実現させた文学を目指している。「則天去私」などを引っ張り出してくると何がなんだが分からないハッタリめいたものに聞こえるかも知れないが、しかしこれはハッタリでもなんでもなく、僕にとっては極めてリアルな現実的課題なのである。何十年も取り組んできた課題なのでそう断言できるし、これもまた―まさに今―実現できるのである。

この三つが完成できたら日本文学は復活する。そしてそれは同時に「奇跡のドア」を開くことにもなるのである。94年に桑田佳祐たちとともに「反外国主義運動」を始めてから、実に長い長い闘いとなったが、ようやく今、それを実現できるところまで来た。

この三つを同時に書き進めてゆくという総力を振り絞った戦いが始まるが、なんとしてもこの国民的な課題である「奇跡のドア」を押し開けてみせる!


ペンション サービス 2

2021-03-06 21:10:25 | 日本文学の革命
しかし暇の徒然にいろいろ考えてみると、だんだんこの「ペンション サービス」という言葉が気に入ってきた。ヨーロッパ的なロマンを感じさせるものになってきたのである。

年老いた人々が人生最後の日々を送る森の中のコテージ
周囲には豊かな自然が広がり、美しい森、四季の移ろい、動物たちの営みに包まれながら、心穏やかに暮らす日々
人生の大半を過ごしてきた煩わしい俗事から解放され、満ち足りた思いで自然と向き合う日々
傍らには長年連れ添ってきた伴侶もいるだろう。子や孫たちもときどき訪れて元気な姿を見せて来るだろう。そのようにして人生の最後を穏やかに迎え入れてゆく日々

特にヨーロッパの森はヨーロッパ人にとって魂の故郷である。その森に包まれ、森に帰ってゆく。自然から生まれ、自然に還ってゆく
そうして満ち足りた思いで死んでゆくのである

まさにヨーロッパ的なロマンを感じさせる!
実にいい。老後の理想だ。

これに比べると日本の「年金」という言葉はつまらないものだ。おそらく「毎年金くれる」機構という意味なのだろうが、ロマンのかけらもない。

まあたしかに公的にしっかりしたイメージを出すためには「日本年金機構」とでもしなければ治まらないのだろうが、やはり老後にも夢やロマンを感じさせる点で「ペンション サービス」の方に軍配をあげたい。

ただ日本年金機構でも自身のサイドネームを「ペンション サービス」としているのだから、やはりこのようなロマンを目指しているのだろう。

年金受給者3千万人の時代
人々が豊かな老後を送れるような社会が実現して欲しいものだ。



ペンション サービス 1

2021-03-06 21:07:21 | 日本文学の革命
今就いている仕事はあの有名な日本年金機構での仕事である。確定申告用の源泉徴収票の再発行や問い合わせなどを行うコールセンターの仕事を行っている。今や年金を受給している高齢者は3千万人に達しているそうだが、その人たちからの問い合わせを受けたり、必要な書類の再発行の手続きなどを行っているのだ。

馴れたら結構面白いもので、電話口ではあるが様々な高齢者の人たちと接することができるし、毎日楽しく働いている。ただこの仕事も3月半ばで間もなく終わるのだが、最後までがんばるつもりだ。

しかし電話がかかってくるうちはいいのだが、辛いのは電話がかかって来ない時である。時間や曜日によっては2時間も3時間もどうかするとそれ以上もかかって来ないことがある。その間はひたすらパソコン画面と睨めっこして電話を待っているのだが、その辛いこと辛いこと。仕事中だからもちろん本などを読むこともできない。コロナ下だから隣の人とお喋りをすることもできない。黙って何もしないままひたすらじっと座ってパソコン画面と睨めっこしているのである。

当然眠くなってくる。特に僕は夜中に起きて朝まで文学の仕事をしているのだからなおさらである。しかしもちろん眠ってはいけない。眠りたいのを我慢して、ひたすら耐え続けなければならない。それは実に辛く苦しく、時間がひたすら長く感じられ、何もしないのに一番体にドッとこたえてしまう。ちょっとした拷問を受けているようなものである。

そのようにしてパソコン画面と睨めっこしているあるとき、ちょっと気づいたことがある。パソコン画面には日本年金機構の専用ソフトがいくつか表示されているのであるが、その「日本年金機構」というロゴの下に小さく「Japan Pension Service」と書いてあるのだ。

明らかに「日本年金機構」を英語訳したもののようだが、しかしなぜ「ペンション サービス」なのか。「年金」を英語訳すると「ペンション」になるのか。「ペンション」というと日本人のイメージでは、森の中にある瀟洒なコテージ風の民宿というイメージがあるが、なぜそれが「年金」なのか。「ペンション サービス」とあると年金とはまるで関係ない旅行会社の広告としか思えないのである。