「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

橋谷さんの朗読ライブに行ってきた 2

2022-09-27 12:04:13 | 日本文学の革命
今回橋谷さんのライブが開かれるのは原宿である。台風一過のさわやかな青空のもと原宿に向かっていった

リニューアルした原宿駅に降りたのは初めてである。人々から愛された以前のレトロな駅舎はなくなり近代的な建物に変わっていた。ちょっと驚いたのは駅から直接明治神宮の大鳥居まで行けるようになったことだ。以前は結構歩いて神宮橋を渡って大鳥居まで辿り着いたのだが、今では駅の裏手の出口を出るともう大鳥居が見えるのである

竹下通りも久しぶりだ。コロナも峠を超し、通りには以前のように人々の渋滞が出来ていた。女の子が好きなおもちゃ箱のような店々も以前ような活況を取り戻していた

明治通りを渡り、ちょっと行った所で脇道に入ると、目指す会場があった。「ラドンナ原宿」という店で、ここはライブ会場なのだが同時に高級イタリアンの店で、ライブを観ながら同時に食事も楽しめるという場所である。お洒落な通りの一角にある高級そうな店内に入る。予約していた席に就き、昼食でも食べようとメニューを覗いたのだが、「高!」と思わせるものばかりだった。ノンアルビールの小瓶が700円、パスタ一つを頼んだら最低でも1500円はかかる。仕方ないので一番安い900円の鳥のナントカカントカ唐揚げをオーダーした

周りには食事をしたり、ワインやビールを飲んでいる人々が居並んでいる。会社の役職にでも就いていそうな年配の人や奥様が多く見受けられ、なんだかセレブの集いに迷い込んだような感じである

朗読ライブが始まった。今回の音楽家はピアノとチェロを演奏する人々だった。ピアノを演奏し同時に作曲も担当したのは若い女性ピアニストだが、なんとこんなに若いのに自分のオーケストラを持っているという人である。日本のポピュラーミュージックージブリの音楽とか朝ドラや大河ドラマの主題歌などーをクラッシック的に演奏するというオーケストラであり、たしかに日本人にウケるし、日本的なリズムで作られた日本のポピュラーミュージックとクラッシックなオーケストラを融合させるという面白い試みである。今回は大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のテーマ曲を演奏してくれた。『鎌倉殿の13人』は僕も毎週楽しみに見ているドラマであり、そのテーマ曲も好きなので、面白く演奏を楽しめた

チェロを演奏するのは25歳の若者である。5歳の時からチェロを学び始めたそうで、バッハのチェロ曲を見事に演奏したり、チェロをギターみたいに弾いたり太鼓みたいに叩いたりする今風の奏法も披露してくれた。チェロの生演奏を見るのは初めてだったが、その美しい低音の魅力に引き込まれてしまった。「セロ弾きのゴーシュ」みたいにチェロに夢中になる人間も現れる訳だと納得してしまった

二人の演奏に合わせて橋谷さんの朗読が始まった。今回も素敵で感動的な絵本が朗読されてゆく。戦争をしている両陣営の上から本を撒き、読書に夢中にさせることで和解させてゆく飛行機乗りの話。子供が突然死んでしまった羊の母子の話。悲しみに暮れる母に死んでゆく息子が最後に美しい星空をプレゼントするという感動的な話だ。「青い虎」の若者の話。虎なのに青い、虎なのにシマシマがないと周囲から虎だと認められずショゲていたのに、ある日突然自分は虎だ虎なんだと確信する若者の自己発見の物語。「チェロの木」という話。チェロの材料となる木を育てているおじいさん、チェロ作りの職人となったお父さん、そして二人が作り上げたチェロを奏で、次世代へと受け渡してゆく自分、三代に渡って受け継がれてゆくチェロの音色の物語。橋谷さんの見事な朗読で奏でられるこれらの物語は、みな素晴らしく、人を感動させるものだった。今回の朗読ライブも心から満喫できた

橋谷さん自身も光り輝いて見えた。僕よりも高齢なはずなのに気品のある美しさに満ちていて、またときには女子学生のような茶目っ気も見せて、魅力的だった。それしても感心させられるのは橋谷さんの持つバイタリティーである。病気で苦しんでいるのにもかかわらず『サンデーモーニング』でアナウンサーの仕事をし、人々を集めこのような朗読ライブも開きー渋谷で開いた朗読ライブでは自分の主治医である耳鼻咽喉科の名医の人がピアノが弾けるということで、彼を演奏家に仕立ててライブを行っていた!ーラジオのパーソナリティーもやれば、大学で講師の仕事までしているという、まさにバイタリティーに溢れた人である

病気に打ち勝って、これからもバイタリティー豊かに生きていって欲しいものである

橋谷さんの朗読ライブに行って行ってきた 1

2022-09-27 12:02:21 | 日本文学の革命
先日25日の日曜日に原宿で行われた橋谷能理子さん朗読ライブを観に行った。この橋谷能理子さんはTBSのニュース番組『サンデーモーニング』でニュースキャスターをやっている女性アナウンサーである

TBSの『サンデーモーニング』は毎週日曜の朝8時から放送されている番組で、もうずいぶん昔から続いている長寿番組である。一週間のニュースを総まとめ的に伝えるニュース番組であり、報道内容も高度なもので、充実したコメンテーターも揃っており、質の高い本格的なニュース番組である。また一方女性キャスター陣も素晴らしく、ニュースごとに次から次へとクリィーミーで美しい女性アナウンサーが登場して来てニュースを伝え、その鮮やかさにも目を奪われてしまう。このすぐ後の番組『サンデージャポン』と対になり、硬軟取り混ぜた面白い番組であり、TBSでも長年トップクラスの視聴率を誇ってきた看板番組である

名司会者・関口宏氏が率いている番組であり、その女房役として長年この番組で活躍してきたのが橋谷能理子さんなのである

橋谷さんと知り合ったきっかけはやはりフェイスブックだった。橋谷さんはここ数年脳内に腫瘍ができるという難病に苦しんできた。いつも銭湯の中で聞こえるような「ワ〜ン」とした耳鳴りが聞こえるそうで、そんな中で声が命のアナウンサーの仕事を続けていたのである。一時は命の危険まで感じていたという。そういう投稿を目にした僕が励ましのメッセージを送ったところ、意外にも届いてしまったのである

橋谷さんが絵本に音楽を合わせて朗読するという朗読ライブを開くということを知り、行ってみることにした。初めて行ったのは下北沢の会場で開かれたライブであった。下北沢にある「本」をテーマにした小さな喫茶店のようなライブ会場で、壁一面が本と本棚に埋め尽くされており、本に包まれたようなメルフェンチックでやさしい雰囲気の中ライブが行われるのである

絵本は橋谷さんが大好きなジャンルで、朗読ライブに使うものを選ぶために図書館や本屋で何十冊も読むそうである。僕は宮沢賢治の童話は大好きなのだが、子供もいないこともあって絵本には馴染みがない。しかし絵本が大きな文芸ジャンルを成していることは知っている。絵本の読者たちーつまり小さな子供たちは、実は誰もが「詩的世界」に住んでいるのである。詩やポエムというと縁遠いものと感じている大人たちが多いが、しかしその大人たちも小さな子供のときは自然天然に「詩的イマジネーション」の世界に住んでいたのである。ただ大人になるとすっかり忘れてしまうだけである。この「詩的世界」に住んでいる子供たちの心に届くような本ー絵本は、それ自体が天然の詩であり、子供たちの心を育て、大人になっても悪いことをしないように心の奥底に「善の種」をそっと植えつける効果を持っているのだ

この絵本を音楽に合わせて朗読するのが橋谷さんの朗読ライブである。ライブごとにさまざまな音楽家の人々を集めて、絵本に合わせた作曲までお願いして、その音楽に合わせ、また大画面に絵本をスライドショーさせて朗読してゆくのである。朗読技術が最高度に要求されるライブであり、朗読を音楽や絵と合わさった一種の芸術にまで高めようとするものである。テレビ局のアナウンサーとしての「声の技術」、それに高い誇りを持っている橋谷さんならではの朗読ライブである

下北沢の朗読ライブを堪能したあと会場を出ようとした時、橋谷さんがちょっと僕の前に立ち塞がって僕をジッと見つめてきた。「日本文学の復活」などと唱えている者がどういう人間なのか、吟味しようとしたらしい。長年多くの著名人たちと会って目を肥やしてきた人が見ているのだから、さすがにドキドキしたが、なんとか失格ラインには落とされなかったらしい。香川出身の橋谷さんを前にして、「実は今の標準語も、昔は野鄙で野蛮で下品で、上流の人たちが口をするのもはばかれたような関東の方言だったんですよ」とか話して別れたのを覚えている

羽原組の旗揚げ公演に行ってきた 3

2022-09-22 13:20:34 | 日本文学の革命
この日本中で話題になったすさまじいバッシングの標的にされた羽原さんの気持ちを思うと、実に痛々しい。NHKにもすまないと思うだろうし、昔率いた劇団のメンバーたちの顔も思い浮かぶだろう。自分の将来にも絶望的な気持ちになっているかも知れない。とそう思っていた矢先、羽原さんが「羽原組」という劇団を立ち上げるというニュースを目にした。一度は解散した劇団を新たな形で再び始めるというのである。どうやらこの大バッシングの最中にそう決断したらしく、バッシングの渦中で劇団員を集め、バッシングが吹き荒れる中稽古を行い、そして今(『ちむどんどん』は今も放送されている)旗揚げ公演をしようというのである。なんて根性のある人なんだと感心してしまう。これは応援に行かなければと思い、今回羽原組の旗揚げ公演を観に行ったのである

赤坂目附の駅を出てすぐのところに赤坂の繁華街がある。その通りの一角のビルの地下に「赤坂レッドシアター」の小劇場がある。中に入ると観客がたくさん来ていて結構賑わっている。ただ前に来た時は超満員で、通路に臨時に設けられた席に座らせられたのだが、それに比べると空席も目立ち、寂しかった。女優らしき人も目にしなかった

今回の劇は『Down Town Story』という題で、東京の下町で暮らす三姉妹の物語である。やんばるの美しい自然の中で健やかに暮らす『ちむどんどん』の三姉妹とは対照的に、末の妹はパチンコ屋でバイトをしている売れない女優であり、次女はバツ3のキャバレーのダンサーであり、長女は地味で貧しい家政婦として暮らしてる。いずれもエッジな人々である。それに追い打ちをかけるように長女が霊感商法に騙されて一千万円もの借金をしてしまう。三姉妹はどうやって返そうかと悩み、末娘はあたしが女優で稼ぐと言い、次女はいよいよストリッパーになろうかと思い、長女は自己破産に迫られる。そんな中一致したのは「玉の輿」作戦である。金持ちの男をつかまえて一挙に借金を解決しようという作戦であり、それぞれが思い思いに男と出会ってゆくというラブコメディーである

主役の末娘役として稲村梓さんも出ていた。昭和芸能舎が解散したあとも、いろいろな劇に精力的に出ていたのだが、羽原さんの呼びかけに応じて戻って来たのだろう。何度も何度もオーディションに落ち、最後のラストで女優への道をつかみ、恋人にも恵まれるという役を好演していた

今まで観た羽原さんの劇のような見事なダンスや肉体ショーはなかったが、ラストの方で挙げられる次女と沖縄の青年との結婚式は見事だった。二人とも実に鮮やかな沖縄の民族衣装を身にまとっていたのである。一挙に舞台が光り輝くような鮮やかさ、艶やかさだった。おそらく羽原さんが『ちむどんどん』で描きたかったのは、このような「沖縄と東京の結婚式」だったのだろう

帰り際ロビーで誰かと話している羽原さんの姿が目に入った。あれだけのバッシングを受けたせいで、やはりやつれている感じがあった。しかしバッシングの最中でもこのような公演を立ち上げるように、まだまだ負けてはいないようである。人生いいときもあれば悪いときもある。いい作品を作れるときもあれば、失敗作を作ってしまうときもある(あの漱石も失敗作を結構書いてきた)。羽原さんもこれからがんばって、また『フラガール』や『マッサン』のようないい作品を作って欲しいものである

羽原組の旗揚げ公演に行ってきた 2

2022-09-22 13:17:28 | 日本文学の革命
NHKの朝の連続テレビ小説、通称『朝ドラ』は、日本を代表するドラマの一つである。数多くの有名女優を生み出してきたドラマ枠であり、実に長い年月続いてきたという伝統も誇っている。主婦の人たちが夫や子供を送り出してホッと一息ついたあと、美しくみずみずしい花を眺めて「今日も一日がんばろう」とやるような感じで、毎朝見るようなドラマである

僕は主婦でもないし、朝早く仕事に出てもいるので、なかなか見る機会がないが、それでも時折は見ている。今回の『ちむどんどん』は沖縄やんばる地方の美しい自然が舞台であり、豪華キャスティングの美人三姉妹が主役であり、『トリック』で僕も大好きだった仲間由紀恵も母親役で出ている。東京の撮影では名作『眠れる森』(しかし最終回で大失敗してしまったが。あまりに腹が立ったので、原作の最終回を自分なりに書き変えたものをフジテレビに送りつけてやったことは以前書いた通りである)でミステリアスな母親役を演じた名女優原田美枝子も出てくる。これはもう大ヒット間違いなしのドラマだと思った。羽原氏の脚本だと知ったこともあって、はじめのやんばる篇の方は時折見ていた。「羽原さん がんばっているな」「稲村梓さん(あの主演女優の人の名前である) どこかに出て来ないかな」と思って見ていたのである

そのうちに「異変」を感じるようになった。僕が見ているケータイのニュースサイトにも『ちむどんどん』はよく取り上げられるのだが、それが不評や批判ばかりになり、しかも常軌を逸したほどの規模に膨れあがっていったのである

「朝から不愉快にさせる」「見ていてゾワゾワしてくる」「あり得ない展開だろ!」「あのドラ息子なんとかして!」と批判の声が殺到し、すさまじいバッシングの嵐が巻き起こったのである。ネットではあちこちにバッシング用のサイトまで立ち上げられ、『ちむどんどん』を見ては批判やツッコミを入れて、あざ笑って楽しむということまで流行になった。「『あさイチ』でもついにドラマのコメントをやめたぞ!」「受信料を取ってこんなドラマ作りやがって。責任取れNHK!」と責任追求の声まであがって、まさに今までにない異常な事態である

一体何が起きたんだ?と僕も『ちむどんどん』を連続的に見てみた。たしかに筋展開に不自然なものが目立つ。こうすれば感動するだろう式の紋切り調の話も多く、共感もできない。しかし羽原さんの舞台を観た者から言わせれば、彼はウィットに富んだ見事な演出もできる人なのである。おそらくNHKの担当者から、この頃『朝ドラ』の枠を破ろうとするトンガった作品が多くなってきたから、ここで従来のような王道的な『朝ドラ』を作って欲しいと頼まれたのだろう。彼のウィットや意表外の演出は封じられ、大向こうの感動を誘うような当たり障りのない脚本を書くハメに追い込まれ、それが裏目に出てこのような作品になったのかも知れない。しかしそれにしてもこの程度のことなら、今の日本のドラマの水準ではよく見られるものである。もっとひどいドラマはいくらでもある。なぜ『ちむどんどん』ばかりがバッシングの標的にされてしまったのか

やはりベースにあるのは日本のドラマの低水準ぶりであり、韓国ドラマを見て目を肥やした者から見たときの悲惨なほどのひどさであり、そういうものを見せられ続けている視聴者の間に溜まりに溜まった鬱憤がついに爆発したのだろう。しかも今いるのは多少お尻が痛くても大人しく観客席に座って黙って見ている大衆ではなく、すぐさま批判の声をあげどうかすると舞台によじ登ってくるネットユーザーである。また「天下の朝ドラ」は鬱憤を爆発させるのに絶好の餌食である。「朝ドラに突っ込みどころ満載のドラマが現れた」ということで、人々の積もりに積もった鬱憤がそれ目がけて大爆発したのであろう。まさに「火に油」が注がれたのであり、ものすごいネットいじめ、「炎上」の炎が燃えあがってしまったのである

羽原組の旗揚げ公演に行ってきた 1

2022-09-22 13:13:55 | 日本文学の革命
「羽原組の旗揚げ公演に行ってきた」

19日の休日に東京の赤坂の「赤坂レッドシアター」という小劇場に行ってきて、羽原組という劇団の旗揚げ公演を観てきた。この「羽原組」は羽原大介という劇作家の人が新たに立ち上げた劇団である。この羽原氏は以前は「昭和芸能舎」という劇団を率いていた。僕もその「昭和芸能舎」の公演を何度か観たことがある。その劇団で主演女優をしていた女性とフェイスブックで友達になり、その人から「公演を観にきてください」と誘われたので、例の通りいそいそと出かけて行ったのが始まりである

僕が初めて観たのは『フラガール』という劇であった。結構前になるが『フラガール』という映画が大ヒットしたことがある。これは福島の炭鉱が閉鎖されることになり、活況を無くしてゆく地元を救うため、ハワイのフラダンスで盛りあげようと地元の人々や女子学生たちが立ち上がり、努力と苦闘の末、ついに今もある「常磐ハワイアンセンター」を作り出すという実話を元にした夢と希望の物語である。その映画を劇場版にリメイクしたのがこの劇であった。実はこの映画『フラガール』の原作と脚本を担当したのが羽原大介氏だったのである。それを自らが主宰する昭和芸能舎のためにリメイクしたのだった

このとき行ったのが「赤坂レッドシアター」で、小劇場の公演というものを初めて観たのだが、結構面白かった。特に最後の劇団の女性メンバー総出で行われたフラダンスは圧巻だった。フラダンスの激しいリズムで踊る女性たちが実に美しく迫力があり、また小劇場だからすぐ目の前で生身の女性たちが踊るので、なおさら迫力があり、素晴らしいものであり、圧倒されてしまった

その後この昭和芸能舎の解散公演も観に行った。コロナの影響で経営が立ちゆかなくなり、これを最後に劇団を解散するのだという。この辺のことは以前も書いたのだが「男子シンクロナイズドスィミング」というものを扱った劇であり(昔は女子だけでなく男子のもあったそうである。ただ「犬神家」みたいであまり見たくないが。あるいは羽原氏のまったくの創作かも知れない)、この劇の演出も実に見事なものであり、圧巻だった。今度は劇団員の男性たちが海パン姿で総出で出てきて、円陣を組み、さらにその上に登って二重の円陣を組み、そうしてグルグルとすごい勢いで回るのである。まさに肉体のスペクタクルである。その後繰り広げられた「男子シンクロナイズドスィミング」も見事な演出だった。様々な工夫を凝らして小劇場の舞台がまるで本物のプールみたいになり、そこで劇団の男性たちが足を出したり飛び上がったりして、面白おかしく鮮やかに「シンクロナイズドスィミング」を演じ切ったのであった

帰り際にロビーで羽原氏本人を見かけた。劇団を率いてきたという精悍な顔をした男性であり、今日が最後ということで感極まったように涙目になっていたのが目についた

その後知ったところでは、この羽原氏は朝の連続テレビ小説『マッサン』の脚本も書いていたのだという。シャーロット・ケイト・フォックスという白人女性がはじめて朝ドラの主役となることで話題となったドラマで、中島みゆきの『麦の唄』も素晴らしく、大ヒットしたドラマであった。羽原氏はこんな有名なドラマも手がけていた凄い人だったのである。そういえば『フラガール』を観に行ったとき、客席に有名女優の奥貫薫も来ていた。すぐ近くの席に座っていたのだが、「なんとまあ綺麗な人なんだろう」と何度も何度も振り返ってしまった。なんでこんな有名女優がこんな小劇場に来て普通に座っているのだろうかといぶかったが、羽原氏の活躍を思えば当然のことだったのである

そしてやはり最近知ったのだが、この羽原氏が新たに朝の連続テレビ小説を手掛けることになった。その題名が『ちむどんどん』だったのである

「新しい雑誌」の制作活動へ 3

2022-09-20 13:28:40 | 日本文学の革命
しかしネットユーザーは基本的に素人ばかりだから、そんな素人ばかりが集まって雑誌を作っても完成度の高いものにはならないんじゃないかと思うかもしれない。しかし「商品的完成度」は別に高くなくてもいいのである。もちろん凝りたい人間は凝ればいいし、新しい先端的な様式実験なんかをしてもらえるとこんな嬉しいことはない。しかし商業雑誌のように「商品的完成度」が何よりも優先される、場合によっては雑誌作りの労力の7割がそのためだけに費やされるということはないのである

というのは電子同人雑誌は商品でもあるが、それ以上にコミュニケーションのツールだからである。普通の雑誌では、雑誌を買って、見て、読んで、それでおしまい、あとは何もすることがない。しかし電子同人雑誌では、雑誌を買うということはその雑誌を作っている人々と交流関係に入るということなのである。雑誌の向こうにはその雑誌を作っている生きた人々がいるのである。その人々にメッセージを送り、コミュニケーションをとることもできる。感想を述べたり、意見を言ったり、なんなら制作活動に参加することもできるのである。商品的なキレイで隙のない完成度が重要なのではなく、それ以上にこのような生きたコミュニケーションの方を重要視するメディアなのである

それと関連して重要な特徴が電子同人雑誌は「売れなくてもいい」雑誌であることだ。商業雑誌では「売れる」ことが至上命題だが、電子同人雑誌ではそうではないのである。もちろん売れたら嬉しい。中間業者がいない分ちょっとヒットしただけで数百万数千万と儲かってしまう。大売れしたなら億単位で儲かるだろう。実に嬉しい限りだが、一方売れなくても大して損はしないのだ。もともと「同人」たちが自分の部屋で趣味的に勝手に作っている雑誌で、人件費もかからないし、オフィス賃料もいらないし、印刷費も流通費も広告費もいらない。儲かったら莫大だが、儲からなくても困りはしない利益構造になっているのだ

そして重要なのが電子同人雑誌の第一の報酬はお金のような利益ではなく、「魂の交流ー成長ー発現」であることである。誰しもが持っている自分の「人間的な魂」、これを雑誌の制作活動を通して、同じような魂を持つ人々と交流することで涵養し、成長させ、雑誌に作品を載せたり雑誌の活動に参加することで発現させて、この「人間的な魂」を豊かなものにしてゆくことが、電子同人雑誌の第一の報酬なのである。ボランティアをする人々は金銭的報酬は度外視してただ自分の魂がそうしたいからするのである。あるいは誰かと友達になろうとするとき金銭や打算目当てで友達になろうとすることはNGとされている。やはりまず第一に人間的に魂の交流がしたいからするのである。それと同じように電子同人雑誌もまず第一に「魂の交流」を目指しているメディアなのである。この「人間的な魂」は、機械化やロボット化が急速に進展している現在そして未来に時代には、かえって重要なものになろうとしている。まさにこの「人間的な魂」は機械やロボットよりも遥かに広大で深淵な存在であり、この潮流に対抗できる可能性を秘めているのである

電子同人雑誌はお金を第一にしないとはいえ、それ自体は巨大市場になり得るものを持っている。大勢の人々が電子同人雑誌を作り始めたなら、そこに人々の巨大な活動が生じるのであり、それと共に莫大な需要も生じるからである。電子同人雑誌の総合サイトでも運営したらさぞかし儲かることだろうと思う。巨大市場の可能性があるのだから、ぜひネット企業にも参画して頂きたいものだ

またネットの世界はひとたび優れた情報材が生まれたら、ただちに世界中に拡散するという性格を持っている。電子同人雑誌がそういう情報材として確立できたら、下地は世界中にあるのだからどんどん世界中に広まるということも十分考えられる。ただ中国は無理だろう。電子同人雑誌は強度に民主的な制度なので、独裁国家や強権国家にはむしろ脅威になってしまうからだ。しかしそれ以外の民主的な国なら十分広まることが考えられる。「Doujine Magazine」という愛称で世界に広まるかも知れない

そんなことも想像しつつ、今から電子同人雑誌の制作にチャレンジしてゆきたい

「新しい雑誌」の制作活動へ 2

2022-09-20 13:25:13 | 日本文学の革命

戦後のマンガ系の同人雑誌の性格も戦前の文学系の同人雑誌の性格も、どちらも合わせ持っているのが電子同人雑誌なのだが、さらに決定的に新しい要素がある。電子同人雑誌の主役は「ネットユーザー」なのだ。このネットユーザーという新しいタイプの人間たちが個人を超えて結びつき行動するという形式、その組織、ネットユーザーにふさわしい「自由な組織」、それが電子同人雑誌の本質なのである

ネットユーザーには実に様々な人々がいて実に様々な関心があるのだから、それに応じて作られる雑誌も実に様々なものであり得る。文学系やマンガ系に限らず、音楽でもいいし、美術でもいいし、劇団でもいいし、学問系・研究系の雑誌でもいい。あるいは様々な趣味、同好会的な集まり、好きなゲームを楽しみ合う仲間、スポーツのファンの集いでもいい。ボランティア系や地域起こし系やタウン情報なども電子同人雑誌でできる。あるいは何かの社会的な志ざしを実現するために集まった雑誌、政治系の雑誌、あるいは娯楽や楽しみのために遊び感覚で「一緒にやろうよ!」という雑誌を作ることもできる。懐かしい故郷や学友をしのび合う雑誌なんてものも作れる。ネットユーザー一人一人が願うこと、やりたいと思うことを、雑誌として自由に作ってゆけばいいのである

ネットのテクノロジーを駆使して雑誌を作ってゆく仲間「同人」も自由に探し求めることができる。アナログなこれまでは、同好の士や趣味の合う仲間、あるいは同じ志ざしを持つ者と出会える機会は滅多になかったのだが、多くの人々がネットに趣味や嗜好を登録している現在、ネットを使えばそういう人々と出会えることは容易である。ネットだから住んでる場所や職業や社会的階層の垣根を越えて、そういう人々と結びつくこともできる。国内でもグローバル、なんなら世界の人々ともグローバルに結びつくことだって可能なのである

雑誌を作るための技術も行き渡っている。昔は写真一枚撮るのにも専門のカメラマンが必要だったのだが、今や誰もがスマホで簡単に綺麗で立派な写真を当たり前のように撮っている。動画などは昔は重厚な機器がなければ扱えなかったのだが、今やスマホで撮ってパソコンでも編集できてしまう。ワードやライティングソフトも誰もが手にしており、ものを書いたり紙面を編集することもサクサクできてしまう。昔の雑誌作りの気も遠くなるような工程ー企画ー原稿ー編集ー紙面作りー印刷ー製本ー流通ー本屋での販売ーも大方すっ飛ばすことができるし、まさに今や「誰もが雑誌を制作できる」時代になっているのだ

雑誌作りを通して仲間たちと交流を楽しむことができる。雑誌作りの工程自体が人々との交流活動なのである。またジャンルや主張の違いを超えて様々な種類の同人雑誌と交流することもできる。同じように同人雑誌を作っているのだから、すでにお互い仲間みたいなものである。様々な同人雑誌、様々な人々と触れ合うことで、コミュニケーションの輪を大きく広げてゆくことができる

たくさん電子同人雑誌が作られるようになると、中には人気を博し、有名になり、社会的に成功する雑誌も出てくるだろう。雑誌群の中から優れた雑誌がセレクトされてゆき、社会的に活躍する上層部分が形成されてゆく。まさに昔の文壇のような存在であり、今は文壇という言葉は古語になっているから今のふさわしい言葉で言えば「ネットリーダー」と言えるような層が形成されるのである。この「ネットリーダー」層が昔の文壇人のように同人雑誌の中から新たな新人をドシドシ発掘するようになったら、まさに戦前の「同人雑誌のネットワーク」の復活となる。一つの強力なネットワークが誕生するのであり、その巨大なパワーで日本文化を新たに力強く発展させるかも知れないのである

「新しい雑誌」の制作活動へ 1

2022-09-20 13:20:38 | 日本文学の革命
「同人」になってくれた人々が現れてくれたおかげで、強い責任感が生じたし、なんとしても電子同人雑誌を発行しようという覚悟もできた。ちょっと大袈裟だが「ルビコン川」を渡ってしまった感じである。もう後戻りはできない。前へ進むしかない。イケイケどんどんやっちまおう!という風に腹が座ったのである

これから作ってゆく電子同人雑誌とは今までにない全く新しいタイプの雑誌である。どのような特徴を持っているのか、ちょっと概略的に見てみよう

同人雑誌と聞いてまず思い浮かぶのが、現在のマンガやコミケ系の戦後の同人雑誌である。マンガを書くことが大好きな若者たちが集まって作った雑誌で、自由に夢を追うメルヘンチックなマンガが主体だが、マニアックでかなりエロなものも多いという、全体として一部の趣味に特化し「隅っこ暮らし」を続けているというマイナーな世界を形成している。こういうマイナーで狭いサークルの中で、ほっこりと心暖まる交流を重ねることは、同人雑誌というものの基本的な性格だし、電子同人雑誌でも大いにあっていいものである。しかし電子同人雑誌にはさらにもう一つの性格ー戦前の同人雑誌的な性格をも持っているのだ

戦前の同人雑誌は文学が主体であり、日本文学を支える社会的制度という性格を持っていた。名もない文学青年たちが集まって作った雑誌だが、世の中に向かって大真面目に旗幟を振りかざし、文化や社会をリードしようとし、実際有名になった同人雑誌では実に強い影響力を社会に与えたのである。また作家の養成・輩出機関としても機能し、夏目漱石や芥川龍之介、志賀直哉や武者小路実篤、戦後活躍した三島由紀夫に至るまで、日本の歴史に残るような作家たちを続々と生み出したのであった

戦前の同人雑誌がこのようなパワーを持ち得たのは、それが独自のネットワークを持っていたからである。「同人内ー同人間ー文壇のネットワーク」とでも言うようなものであり、同人雑誌のメンバー同士の間で友情と切磋琢磨に満ちた交流をするとともに、自分たち以外のさまざまな同人雑誌ともージャンルや主張を超え、ライバル的な雑誌も含めてー交流してネットワークを広げ、さらには文壇という社会的上層部に属する層とも強い絆で繋がっていたのである。この「同人雑誌のネットワーク」こそが、戦前の作家たちを育て、発掘し、活躍の機会を与えて、日本文学や日本文化を大発展させたのであった。戦前の同人雑誌はまさに日本文化を発展させる一大機関として機能したのであった

このような性格は戦後のマンガやコミケ系の同人雑誌にはないものである。同人雑誌の間の繋がりはほとんどなく、せいぜい年2回開かれるコミケ・マーケット(一種のお祭りである)に集まる程度であり、そして決定的なのは上層部に繋がるネットワークがなかったのである。マンガ系の同人雑誌からプロの作家が生まれてくることは稀であり、プロの漫画家になりたい若者たちは出版社に直接原稿を持って行くのである。そこで出版社の人間に認められたら作家デビューの道が開けるのだ。マンガでこういう新人発掘ができるのは、マンガが実にわかり易いメディアであることが大きい。小一時間もあれば簡単に読めるし、ストーリーや絵のタッチを見れば売れるか売れないか、伸びるか伸びそうもないか、仕事で忙しい出版社の人間でもちょっと時間を割いて面接するだけで判別できてしまう。このようにプロ作家たちが出版社に一本釣りされてしまうために、プロの漫画家とマンガ系の同人雑誌の間には分断が生じ、相互の間になんの絆もネットワークも生まれなかったのである

それに対して文学は難しいのである。読むだけでも数時間や数日はかかってしまうし、理解するには大変な知力と労力がかかるし、その作品が本当に優れているかどうか、この新人作家が伸びてゆくかどうか、その判別はさらに一層難しい。会社の事務に追われている出版社の人間がちょっと時間を割けば分かるというものではなく、それが分かるためには高度の文学的能力を持った人間たちー自身作品を書いていると同時に、革新的にさまざまな可能性を切り拓いてもいて、そのような活動を通して「具眼の士」となった人物が必要なのである。「芥川」を見い出すためには「漱石」という人物が必要だったし、「三島」を見い出すためには「川端」という人物が必要だったのである

同人雑誌に集まった文学青年たちは、この難しい文学を社会に認めさせるために必死の努力をしなければならなかった。協力してくれる仲間を集めたり、懸命になってスキルを磨いたり、大度胸を発揮して社会に向けて必死のアピールもしなければならなかった。無理解な世間の中、生活的にも困窮し、ノイローゼや若死に至った者も数多い。極限状態の中で必死の努力を積み重ねていたのである。そしてその声がネットワークを伝わって文壇層にまで届き、その中の「具眼の士」に認められたならーこの「具眼の士」もまたかつてはこのような無名の文学青年だったのであり、彼らに対して深い絆とシンパシーを抱いているのだー一躍活躍の機会が与えられ、スターダムの頂点にのし上がってゆくことも可能だったのである

このような厳しい環境の中で己れを鍛えあげていった昔の文学青年たちは、下からのし上がって来た「荒野の狼」のような性格を築いていったのである。それは彼が作家デビューしたあとでも持ち続け、彼の文学人生を支えるものとなり、そしてこの彼らによって日本文学は真に偉大な文化として発展したのであった。それに対して出版社が上から与える文学賞によって作られた作家たちは、「出版社の乳牛」のような性格を持っており、大衆受けする作品を量産することはできたが、日本文学を真に発展させることはできなかったのである

「同人」になってなってくれた人がまた現れてくれた!🎵

2022-09-14 20:13:51 | 日本文学の革命
また嬉しいことが起きた!(笑 。「同人」になってくれた人がまた一人現れてくれたのである。都内の出版社に勤めていて、そこで雑誌制作の仕事をしている女性であり、タイトルデザインなどの担当もしているという。僕は雑誌を作る作ると言いながら、雑誌を作る技術というものを全く持っていない人間である。雑誌の表紙を作りたくても、タイトルもデザインも全くお粗末なものしか作れない。どうしようかと悩んでいた時にこのような人が力を貸してくれると言うのである。こんなに嬉しいことはない!またこの人のお姉さんはマスコミでも活躍しているような女性作家である。何か商業ベースに乗せられないトンガった作品でも頂けたらと、そのようなことも期待してしまう(笑

ここでちょっと気になった人もいるかも知れない、なぜ「同人」が女性ばかりなのかと。これは僕が「女性好き」という性格を持っていることも大きいがーただ単なるスケベエだと言うわけではなく、女性というものを心から尊敬しているという意味での「女性好き」なのだがーフェイスブックで親しくなった人たちを中心に「同人」を集めていることが大きい

フェイスブックでよく「もしかして友達?」と友達候補を紹介してくるが、その際注目してしまうのがやはり容貌の美しい女性たちである。男の顔写真などを見せられても、黙ってスルーし、やはり見入ってしまうのはこういう女性たちの素敵な写真である。その写真をクリックしてプロフィールを見てみる。ああなんてすごい活動をしているんだ、顔だけじゃない、なんて素晴らしい女性なんだ、と早速友達申請をしてしまう。友達になれたらそれだけでも嬉しい。さらにはその美しく素晴らしい女性たちから「今度コンサートにいらしてくださいね」「劇の公演を見に来てください」「私が出版した本を買ってくれませんか」とお願いされたら、実に嬉しくて大喜びで承諾してしまう。そういうことを繰り返してきた結果、フェイスブックで親しくなった人がそういう女性ばかりになってしまったのだ

本当は昔の「文学青年」的な男性たちも集めたいのである。昔の日本文学の同人雑誌は、文学というものに理想と野心と情熱を抱いた、裸一貫の荒野の狼のようなこの「文学青年」たちによって担われていたのである。しかし今やこういう「文学青年」はまったく消え失せてしまった。フェイスブックでもー僕がよく見ていなかったせいもあるだろうがーまったくと言っていいほど御目にかからない。しかしやはりどこかにはこういうタイプの人間が今もいる筈である。なにも文学だけではなく、音楽でもアニメでもその他の芸術でもいい。あるいはインターネットの世界で何事かを成し遂げたい、そういう理想や野心や情熱を持っている若者でもいい。さらには年齢にもこだわらず、若者だろうが年配だろうが裸一貫熱い情熱を持って何かを成し遂げようとする者は、やはりこういうタイプの人間たちである。そのような男性たちもこれから集めたいものである

これから電子同人雑誌をドンドン発行してゆきたいので、「同人」は多い方がいい。これからもがんばって「同人」を集めてゆきたい

責任と覚悟

2022-09-10 09:41:27 | 日本文学の革命
酒の誘惑に負けそうになりながらも仕事終わりの禁酒を続けてきたが、なんとか習慣化できたようだ。酒を飲まないことが当たり前のようになってきたのである。禁酒という実に困難な課題をなんとか達成できたのだ!ただ時間がたっぷりある休日には飲んではいるが(笑 汗 。酒を飲むことも悪いことばかりではなく、人生の喜びの一つであり、たまにはハメをはずしてストレスを忘れることも大切なことだろう。ただ以前のように飲むのは週1回ぐらいに留め、その他の休日はせいぜい寝る前にチューハイ一本という程度にしている。以前は毎日のように飲んでいたのを週一回に押し込めてしまったのだから、これは大成功である

禁酒をなんとか実現できたのはーたいていの人が失敗するらしいーやはり「責任」を感じたことが大きいだろう。電子同人雑誌を発行しようと決意し実行してゆくという「責任」である。なにしろこれは人様を巻き込んでの活動となるので、それに応じて厳しい責任が生じるのである。人にお願いして力を貸してもらうのだから、自分が怠けている訳にはいかない。全力を尽くして頑張らなければならない。先送りも許されず、待ったなしの対応もせねばならない。そのためには電子同人雑誌を発行してゆくための時間をなんとしても確保する必要があるのである。そのような「責任」を痛感したからこそ、禁酒に成功できたのだろう

「酒時間」を潰したおかげで以前よりもはるかに自由に使える時間が増えた。それに応じてエンジンも全開になり、『電子同人雑誌の可能性』や『こころと太平洋戦争』を書くことも、「則天去私の文学」を生み出すことも(これまで「新しい文学」と呼んでいたもののことである。雑誌名を『新しい文学』とすることにしたので、これが使えなくなり、これからはこう表現するしかないだろう)、そして電子同人雑誌を発行することも、全てが全開となり、まさに今実現できるのである!

電子同人雑誌を発行するに当たってさらに「責任」を感じているものがある。それは対社会的な「責任」である。この電子同人雑誌の目標として掲げているものー「日本文学の復活」も「桑田佳祐たちの反外国主義運動の成就」もそして「インターネットに新しいメディアを築く」ことも、よく考えたらとてつもなく大変なことであり、これが実現したらその社会的インパクトは実に巨大なものになってしまう。このようなことを本気でやろうとしている、しかも着々と実現させていってる、そのような勢力が現れたら、「誰がこんなことをやっているのか」と社会が注目するのは当然だし、マスコミがやって来たり、満天下のお白洲のような場所に引きずり出され、厳しく尋問されるようなハメになるかも知れない。桑田佳祐が感じてきたような重圧やプレッシャーー僕も長年つぶさにそれを見てきたーそれを僕もまた負うようになるのかも知れない。想像しただけで気が重くなってくるような「責任」がのしかかって来るのである

しかし今これをしなければ、間違いなく「反外国主義運動」はその可能性を実現できないまま消滅してしまうし、日本文学もーやはりその可能性を十分に実現できないままー過去の文化として歴史の彼方に消えてゆくだろう。今やるしかないのである!まさにこれが僕の全人生をかけた「責任」である

西郷隆盛の言葉で僕の大好きなものに「ひたすら道を行い道を楽しみ、もし艱難に逢うてこれを凌ぎんとならば、いよいよ道を行い道を楽しむべし」というものがある。ひたすら辛く厳しい道を歩みながらも、同時にそこに楽しみも見い出すというこの精神、実にいい。艱難に会っても諦めたり折れたりすることなく、逆にその艱難をバネにしてさらにひたすら道を突き進んでゆく、その覚悟にも惚れぼれする

この西郷の言葉を胸に刻んで、「責任と覚悟」をもって歩んでゆきたい