人間はともすれば“自分の世界”こそが絶対なものだと思い込んでしまう。自分が毎日日常的に、見たり、聞いたり、嗅いだり、感じたりしている世界、この世界以上に確かに実感できる世界は存在しないし、彼に与えられた唯一の世界なのだからそう思っても当然ではある。しかしどのように見たり、聞いたり、嗅いだり、感じたり、さらには考えたりしているかは、人間一人一人によってそれこそ千差万別なのである。一人として同じものはないと言ってよく、一人一人の人間はそれぞれ別の世界を生きているのである。
同じ人間同士だと、姿・形・性向がよく似ているので違いが分かりにくく、自分と同じような思いで生きているんだ!という「美しい誤解」に陥りがちなのだが、これを他の生物に拡大してみるとそれぞれの“自分の世界”の違いが鮮やかになってくる。
たとえば魚にとっては海こそが“自分の世界”であり、絶対的な世界である。自分の肉体のすべては海に適合するように作られており、海の中で自由に楽しく思う存分に泳ぎ回り、腹いっぱい食事も取れて、結婚相手も見つけることができてと、まさに完璧な世界のように思えるだろう。しかし釣り針や網にかかって海から引き上げられたとき、別の世界が存在することを思い知らされるのである。そこは絶対に思えた海の世界とは全く異なる世界で「なんだここは!いくら体を動かしてもスカスカして前へ進めないぞ。ああ息ができない!」とジタバタしながら死んでゆくしかない恐ろしい世界なのである。
それに対して陸で暮らす人間にとっては、魚にとって恐ろしい死の世界である陸地こそが“自分の世界”なのである。野原を自由に歩き周りながら人間は「なんてさわやかな風なんだろう。あたたかい日ざしも心地いい。花や草木も咲き乱れているし、なんて美しい世界なんだ!」と魚とは反対の感想を持つだろう。逆にこの人間を海に蹴落としてやれば「ああ海に蹴落とされたぞ。いくら手足をバタつかせてもどこにも進まない。泳ぎが苦手なので沈んでゆくばかりだ。ああ息ができない!」と今度は人間の方がジタバタしながら死んでゆくことになるのである。
陸上を自由に闊歩している人間から見たら、地上をよちよちと不恰好に歩いていて人間に物乞いのように近づいてくるハトなどは、実に哀れで惨めな生物に見えるだろう。しかしハトにとってみたら地上に降り立ったときの姿などは仮の姿に過ぎないのである。彼らの肉体は大空を飛びまわることに全面的に適合しており、自由に気持ちよく飛び交うことができる空こそが彼らの本来の生活の場であり、彼らの“世界”なのである。果てしない大空を自由に駆けめぐっているハトが、地上に釘づけにされ地上をのたうつように歩いている人間を見たら、「可哀そうだなあ、彼ら。いつもあんなふうにのたうってばかりいて」と絶対思っているはずである。
様々な生物には様々な世界があり、それぞれ独自の“自分の世界”を生きているのである。
一人一人の人間に独自の“自分の世界”があるように、一つ一つの諸文明や文化圏も独自の“世界”を持っているのである。数百年数千年の歴史が積み重なっているだけに一層深い色どりを持って異なっている“世界”で、一人の人間の周囲を空気のように取り囲み、その人間をその色どりを持って染め上げているのだ。たしかにそれは一つ一つの生物の間ほど異なっているものではなく、相互理解も十分可能なのだろうが、しかしそこに属している人間をその世界観で染め上げ、その世界観以外でものを見ることを不可能にしていることも事実なのだ。
一つの文化圏に属しているある人間が世界の根本法則や根本原理を解明しようと突き進んだとき、そこに現われるのは“自分の世界”の根本法則(ある意味“自分自身”だと言ってもいい)なのである。すべての世界に共通する根本法則というよりも、“自分の世界”にだけうまく適合する法則なのである。その法則によって世界のすべてを解明できるかも知れない。世界の森羅万象を知的支配下に置くことができるかも知れない。また同じ文化圏に属する人々から「そうだ。そうだ。その通りだ」と賛同を得られるかも知れない。しかし違う文化圏、違う世界に属している人間から見たら、その法則は何か違和感を感じさせるもの、自分の世界にストレートに適合できないもの、どこか間違いがあるんじゃないかと思わせるものに映るのである。現代の人間がピラミッド作りに狂奔している古代エジプト人を見たらやはりどうしようもない違和感を感じるだろう。どんなに彼らの数学が完璧で巨大建造物を見事に作り上げる力を持っていても「なんでそこまでやるんだろう…」という違和感を拭い切れないのである。三角形や四角形を前にして考え込んでばかりいる古代ギリシャ人を見てもやはり違和感を感じる。猫がパソコン画面の前でカチャカチャキーボードを叩いている人間を見て「この人なにしてるんだろ」と感じるような違和感であり、彼らがそれぞれの数学に基づいて「絶対の真理」を探究しているのだとはどうしても思えないのである。
同じ人間同士だと、姿・形・性向がよく似ているので違いが分かりにくく、自分と同じような思いで生きているんだ!という「美しい誤解」に陥りがちなのだが、これを他の生物に拡大してみるとそれぞれの“自分の世界”の違いが鮮やかになってくる。
たとえば魚にとっては海こそが“自分の世界”であり、絶対的な世界である。自分の肉体のすべては海に適合するように作られており、海の中で自由に楽しく思う存分に泳ぎ回り、腹いっぱい食事も取れて、結婚相手も見つけることができてと、まさに完璧な世界のように思えるだろう。しかし釣り針や網にかかって海から引き上げられたとき、別の世界が存在することを思い知らされるのである。そこは絶対に思えた海の世界とは全く異なる世界で「なんだここは!いくら体を動かしてもスカスカして前へ進めないぞ。ああ息ができない!」とジタバタしながら死んでゆくしかない恐ろしい世界なのである。
それに対して陸で暮らす人間にとっては、魚にとって恐ろしい死の世界である陸地こそが“自分の世界”なのである。野原を自由に歩き周りながら人間は「なんてさわやかな風なんだろう。あたたかい日ざしも心地いい。花や草木も咲き乱れているし、なんて美しい世界なんだ!」と魚とは反対の感想を持つだろう。逆にこの人間を海に蹴落としてやれば「ああ海に蹴落とされたぞ。いくら手足をバタつかせてもどこにも進まない。泳ぎが苦手なので沈んでゆくばかりだ。ああ息ができない!」と今度は人間の方がジタバタしながら死んでゆくことになるのである。
陸上を自由に闊歩している人間から見たら、地上をよちよちと不恰好に歩いていて人間に物乞いのように近づいてくるハトなどは、実に哀れで惨めな生物に見えるだろう。しかしハトにとってみたら地上に降り立ったときの姿などは仮の姿に過ぎないのである。彼らの肉体は大空を飛びまわることに全面的に適合しており、自由に気持ちよく飛び交うことができる空こそが彼らの本来の生活の場であり、彼らの“世界”なのである。果てしない大空を自由に駆けめぐっているハトが、地上に釘づけにされ地上をのたうつように歩いている人間を見たら、「可哀そうだなあ、彼ら。いつもあんなふうにのたうってばかりいて」と絶対思っているはずである。
様々な生物には様々な世界があり、それぞれ独自の“自分の世界”を生きているのである。
一人一人の人間に独自の“自分の世界”があるように、一つ一つの諸文明や文化圏も独自の“世界”を持っているのである。数百年数千年の歴史が積み重なっているだけに一層深い色どりを持って異なっている“世界”で、一人の人間の周囲を空気のように取り囲み、その人間をその色どりを持って染め上げているのだ。たしかにそれは一つ一つの生物の間ほど異なっているものではなく、相互理解も十分可能なのだろうが、しかしそこに属している人間をその世界観で染め上げ、その世界観以外でものを見ることを不可能にしていることも事実なのだ。
一つの文化圏に属しているある人間が世界の根本法則や根本原理を解明しようと突き進んだとき、そこに現われるのは“自分の世界”の根本法則(ある意味“自分自身”だと言ってもいい)なのである。すべての世界に共通する根本法則というよりも、“自分の世界”にだけうまく適合する法則なのである。その法則によって世界のすべてを解明できるかも知れない。世界の森羅万象を知的支配下に置くことができるかも知れない。また同じ文化圏に属する人々から「そうだ。そうだ。その通りだ」と賛同を得られるかも知れない。しかし違う文化圏、違う世界に属している人間から見たら、その法則は何か違和感を感じさせるもの、自分の世界にストレートに適合できないもの、どこか間違いがあるんじゃないかと思わせるものに映るのである。現代の人間がピラミッド作りに狂奔している古代エジプト人を見たらやはりどうしようもない違和感を感じるだろう。どんなに彼らの数学が完璧で巨大建造物を見事に作り上げる力を持っていても「なんでそこまでやるんだろう…」という違和感を拭い切れないのである。三角形や四角形を前にして考え込んでばかりいる古代ギリシャ人を見てもやはり違和感を感じる。猫がパソコン画面の前でカチャカチャキーボードを叩いている人間を見て「この人なにしてるんだろ」と感じるような違和感であり、彼らがそれぞれの数学に基づいて「絶対の真理」を探究しているのだとはどうしても思えないのである。