「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

電子同人雑誌の可能性 204 「コンピュータの本質―関数と西洋文明」

2019-09-29 09:01:46 | 日本文学の革命
人間はともすれば“自分の世界”こそが絶対なものだと思い込んでしまう。自分が毎日日常的に、見たり、聞いたり、嗅いだり、感じたりしている世界、この世界以上に確かに実感できる世界は存在しないし、彼に与えられた唯一の世界なのだからそう思っても当然ではある。しかしどのように見たり、聞いたり、嗅いだり、感じたり、さらには考えたりしているかは、人間一人一人によってそれこそ千差万別なのである。一人として同じものはないと言ってよく、一人一人の人間はそれぞれ別の世界を生きているのである。

同じ人間同士だと、姿・形・性向がよく似ているので違いが分かりにくく、自分と同じような思いで生きているんだ!という「美しい誤解」に陥りがちなのだが、これを他の生物に拡大してみるとそれぞれの“自分の世界”の違いが鮮やかになってくる。

たとえば魚にとっては海こそが“自分の世界”であり、絶対的な世界である。自分の肉体のすべては海に適合するように作られており、海の中で自由に楽しく思う存分に泳ぎ回り、腹いっぱい食事も取れて、結婚相手も見つけることができてと、まさに完璧な世界のように思えるだろう。しかし釣り針や網にかかって海から引き上げられたとき、別の世界が存在することを思い知らされるのである。そこは絶対に思えた海の世界とは全く異なる世界で「なんだここは!いくら体を動かしてもスカスカして前へ進めないぞ。ああ息ができない!」とジタバタしながら死んでゆくしかない恐ろしい世界なのである。
それに対して陸で暮らす人間にとっては、魚にとって恐ろしい死の世界である陸地こそが“自分の世界”なのである。野原を自由に歩き周りながら人間は「なんてさわやかな風なんだろう。あたたかい日ざしも心地いい。花や草木も咲き乱れているし、なんて美しい世界なんだ!」と魚とは反対の感想を持つだろう。逆にこの人間を海に蹴落としてやれば「ああ海に蹴落とされたぞ。いくら手足をバタつかせてもどこにも進まない。泳ぎが苦手なので沈んでゆくばかりだ。ああ息ができない!」と今度は人間の方がジタバタしながら死んでゆくことになるのである。
陸上を自由に闊歩している人間から見たら、地上をよちよちと不恰好に歩いていて人間に物乞いのように近づいてくるハトなどは、実に哀れで惨めな生物に見えるだろう。しかしハトにとってみたら地上に降り立ったときの姿などは仮の姿に過ぎないのである。彼らの肉体は大空を飛びまわることに全面的に適合しており、自由に気持ちよく飛び交うことができる空こそが彼らの本来の生活の場であり、彼らの“世界”なのである。果てしない大空を自由に駆けめぐっているハトが、地上に釘づけにされ地上をのたうつように歩いている人間を見たら、「可哀そうだなあ、彼ら。いつもあんなふうにのたうってばかりいて」と絶対思っているはずである。
様々な生物には様々な世界があり、それぞれ独自の“自分の世界”を生きているのである。

一人一人の人間に独自の“自分の世界”があるように、一つ一つの諸文明や文化圏も独自の“世界”を持っているのである。数百年数千年の歴史が積み重なっているだけに一層深い色どりを持って異なっている“世界”で、一人の人間の周囲を空気のように取り囲み、その人間をその色どりを持って染め上げているのだ。たしかにそれは一つ一つの生物の間ほど異なっているものではなく、相互理解も十分可能なのだろうが、しかしそこに属している人間をその世界観で染め上げ、その世界観以外でものを見ることを不可能にしていることも事実なのだ。

一つの文化圏に属しているある人間が世界の根本法則や根本原理を解明しようと突き進んだとき、そこに現われるのは“自分の世界”の根本法則(ある意味“自分自身”だと言ってもいい)なのである。すべての世界に共通する根本法則というよりも、“自分の世界”にだけうまく適合する法則なのである。その法則によって世界のすべてを解明できるかも知れない。世界の森羅万象を知的支配下に置くことができるかも知れない。また同じ文化圏に属する人々から「そうだ。そうだ。その通りだ」と賛同を得られるかも知れない。しかし違う文化圏、違う世界に属している人間から見たら、その法則は何か違和感を感じさせるもの、自分の世界にストレートに適合できないもの、どこか間違いがあるんじゃないかと思わせるものに映るのである。現代の人間がピラミッド作りに狂奔している古代エジプト人を見たらやはりどうしようもない違和感を感じるだろう。どんなに彼らの数学が完璧で巨大建造物を見事に作り上げる力を持っていても「なんでそこまでやるんだろう…」という違和感を拭い切れないのである。三角形や四角形を前にして考え込んでばかりいる古代ギリシャ人を見てもやはり違和感を感じる。猫がパソコン画面の前でカチャカチャキーボードを叩いている人間を見て「この人なにしてるんだろ」と感じるような違和感であり、彼らがそれぞれの数学に基づいて「絶対の真理」を探究しているのだとはどうしても思えないのである。

電子同人雑誌の可能性 203 「コンピュータの本質―関数と西洋文明」

2019-09-23 07:29:01 | 日本文学の革命
西洋文明が見い出した数「関数」とは何か。形態は実にはっきりしている。われわれが高校生のときに覚え込まされたy=f(x)と表わされる数式である。このf()の部分が狭義の意味での関数だが、それは実に様々な形をとることができる。y=x+2だとかy=x(の二乗。すいません…。僕のパソコンでは累乗が表現できません)+3x+5だとかy=x(の三乗)+2x(の二乗)+3z+2だとか無限とも言えるバリエーションで様々な関数が構成できるのである。有名なE=MC(の二乗)も関数の一つで、科学法則の多くも関数の形態をとっている。

この関数を見て気づくのはこれが具体的な数ではないことである。何か確定した大きさを持つ数ではないのである。エジプトの数学の基礎となった「石」はまぎれもなく確定した大きさを持った物体である。この石を切り出したり、運搬したり、積み重ねたりすることに古代エジプト人は彼らの「数学」を見い出したのであり、これを用いて見事な建築物を作り出すことこそ(ピラミッドは今は石がむき出しでぼろぼろの状態だが、建設当時は白亜の外壁に覆われて真っ白に輝いており、砂漠に聳え立つ巨大な正三角形を成していたのである)彼らの数学の「解」であり、彼らの数学の成果なのであった。ギリシャの数学の基礎となった個物(その最高の形態が人間の肉体である)も具体的な形と大きさを持った量的存在である。アラビアの代数学の基礎となった「謎のX」も今は隠れているが代数学的追及によって明らかにすることができる確定した数であった。ところが西洋の関数にはそのような具体性がないのである。たしかに代入すれば具体的な数が出てくる。xに何か具体的な数を代入すればyのところに具体的に確定されたものとして一つの数が出てくる。しかし関数にとってそれはほんの一つの「場合」に過ぎないのである。そんな「場合」はそれこそ無限にあるのである。そのような個々の「場合」、個々の確定した量や個物を超越したところにある何かの法則性、それが関数だと言えよう。

ここで数についてちょっと定義めいたことを述べてみよう。数とはなにか。それは「その世界の根源にあるものを量的に把握しようとしたもの」と言えるだろう。それはエジプトでは宗教的な意味を持った「石」だったのであり、ギリシャではやはり宗教的に聖化された「肉体的個物」だったのであり、アラビアでは「謎のX=神の摂理」だったのであり、インドでは無や輪廻転生であり、中国では道や天の運動だったのである。

ここで重要なのは「根源」とは言ってもあくまで「その世界」に限ったものであるということである。砂漠や石の荒れ地に囲まれたエジプト人にとっては「石」こそが世界の根源にあるもの、世界の秘密に通じるものと認識されたのだろう。しかしそういう環境に生きていない民族、たとえば日本人の場合は、たしかに大きな石には何か畏敬を感じて時には注連縄で飾るときもあるが、別に世界の根源とまでは思っていない。ギリシャの風土であるエーゲ海、どこまでも青い海とそこに彫刻のように聳え立つ美しい島々の世界、そこではその美しい島々のような「個物」こそが世界の根源である(なにしろ彼らはその島々の上で、またその島々を行き巡りながら生活していたのである)と認識され、彼らの研究意欲をかき立てたのだろう。しかしアラビア人にしてみたらそのような「個物」や「肉体」を聖化することはまさに偶像崇拝であり、神の不興を買って地獄に落とされてもおかしくないような罪悪なのである。

電子同人雑誌の可能性 202 「コンピュータの本質―関数と西洋文明」

2019-09-11 06:19:35 | 日本文学の革命
これから「関数と西洋文明」という表題でコンピュータの本質について書いてゆくが、はっきりいって自信がない。なにしろ数学なんて大の苦手で生きてきたし、コンピュータのテクノロジーもたいして詳しくない。そんな人間が関数やコンピュータの本質について書こうというのだから、書くこと自体がそもそもの間違いなんじゃないかと自分でも思えてくる。しかしこれはこれから書いてゆく最終章「電子同人雑誌とそのネットワーク」の前振りとして是非とも必要となるので、仕方なく書いてゆくというのが本当のところである。

また僕の性格として絶対を主張してくるもの、こちらを強制的に洗脳してくるほど絶対的であろうとするものに対しては、ついつい反撥してしまうところがある。北朝鮮に生きていて金正恩がどんなに超絶に偉大だと聞かされても「あのデブの若造が…? 冗談は髪型だけにしてほしい」くらいのことは言ってしまいそうで、「おまえ!今将軍様のことをデブだ若造だと言ったな!髪型までバカにしたな!コイツを強制収容所にたたき込め!公開処刑にしろ!」とたちまち粛清されてしまうタイプの人間なのである。前に人間の諸感覚がコンピュータに統合されてゆく「仮想現実」について書いたときも、コンピュータは人間の感覚を支配するほど絶対的なんだということで、ついつい皮肉やジョークの連発となり、さんざんに茶化してしまった。今回もそれと同じことで絶対を主張するものに対しての茶化しやうっぷん晴らしという程度であり、前振りとしての効果さえあればいいので、気楽に書いてゆこう。

シュペングラーによれば西洋数学の中心にあるものは「関数」なのだという。シュペングラーが生きた20世紀前半は「文化相対主義」が起こった時代で、それまで西洋文明こそが絶対とされていたのを見直し、世界の諸文明にも独自の価値があるという思想が起こった。トインビーやマックス・ウェーバーなどがその代表でシュペングラーもその一人なのだが、彼に言わせると他文明の数学と比較して西洋独特の「数」となったものこそ「関数」なのだそうだ。

前に書いたことだが数学とは一種の魔術であり、世界の根本法則を見い出し、それを知的に支配し、それでもって死の世界やそこからやってくる恐ろしい悪霊たちを撃退しようとする人間的理性の試みなのである。世界の諸文明はさまざまな形で独自の「数」を見い出してきた。エジプトのように石とその建築技術の中に「数」を見い出した文明もある。メソポタミアのように天空をめぐる星々の内に世界を支配する規則的な法則を見い出そうとした文明もある。ギリシャなどはモノの形や大きさの内に美しい数的法則を見い出した。イスラムは「謎のX」を求めることでこの世界の隠れた真理を求めようとした。インドのように無や輪廻転生を数学化しようとした文明もある。中国のように空間的数には関心がなく、時間的な数とその法則性―人間の運命や歴史として現われる―を易という手法を使って追及した文明もある。日本のように人工的な論理や法則性には興味を抱かず、巡り動く自然の移り変わりの内にまさに自然的な法則性を見い出した文明もある。

世界の諸文明はさまざまな形で「数」を見い出し、独自の数学を築いてきたのだが、西洋文明が見い出した「数」こそ「関数」なのである。次にこの「関数」について考察してみよう。

電子同人雑誌の可能性 201 「コンピュータの本質―インターネット発展史とニッポン敗戦史」

2019-09-08 15:08:14 | 日本文学の革命
暗い話ばかり書いてきてしまったが、また実際今の日本社会には暗い閉塞感ばかりが蔓延しているが、これから書いてゆく章「電子同人雑誌とそのネットワーク」―これが長く続いてきた『電子同人雑誌の可能性』の最終章になる!―では思いっきり明るい希望を描こうと思っている。できるだけ楽しく面白い、そして大きな可能性を持った新しいメディアとして、実現可能な明るいヴィジョンを描きたいのだ。

もともと現行の社会制度「賞取りシステム」を克服しようとして、戦前の社会制度「同人雑誌」―この「同人雑誌」の時代に日本文学は真の発展を遂げたのである―を現代に復活させようとしたのが「電子同人雑誌」だが、これを考察すればするほど実に大きな明るい可能性があることが分かってきたのだ。暗い閉塞感と息がつまるようなよどんだ空気に満ちている今の日本社会に、明るい天窓を開くような、さわやかな空気を招き入れるような、そして大いなる活性化をもたらすような、そんな明るい可能性に溢れているのである。

まず第一にこのメディアは「ネットユーザー」のためのメディアである。現代の社会にはコンピュータを使いこなしインターネットで世界とつながっているというこれまで存在しなかったタイプの人間たち「ネットユーザー」が存在しているが―しかも世界規模で大量に!―彼らが自由に自主的に参加し、思い思いに楽しみ、思う存分活躍できるメディアなのである。またこれまで「ネットユーザー」はバラバラな流砂のような存在だったのだが、彼らに一つのまとまりを―彼らのパワーと能力を有効に引き出すようなまとまりを―もたらすことも出来るのである。

またこのメディアは「交流」を第一の目的としたメディアである。普通の雑誌は「売る」ことを第一の目的としており、その雑誌を購入しても、見て、読んで、それでお終い。あとは何もすることがない。ところが電子同人雑誌の場合は雑誌を購入するということはその雑誌を作っている人々と「交流」関係に入るということなのである。雑誌を通じて実に様々な交流関係を築くことができるのであり、その関係は全世界に及ぶこともできる。「全世界と内面的につながりたい」というインターネットの理想―現在インターネットは物理的には全世界とつながっているが、「こころ」はつながっているとは言えない―その理想を実現するものに成り得るのである。

またこのメディアは「人間的魂」の交流―成長―発現を目指すメディアでもある。もともと同人雑誌とは―戦前の文学雑誌にしろ戦後のコミケにしろ―趣味や志ざしや創作として表れる自分の中の「人間的魂」を中核として結びついた団体で、その「人間的魂」を涵養し、成長させ、様々な形で発現させてゆくことを目指しているのである。この「人間的魂」はこれからの時代きわめて重要なものになってゆく。というのはこれから社会のAI化ロボット化が急速に進行し、人間を排除する時代が始まろうとしているからである。社会全体が自動化ロボット化してゆく中で逆に重要なものになってゆくのが「人間的魂」であり、様々な真の付加価値を生み出す源泉にも成り得るのである。この「人間的魂」の最大のものが世界の諸文明であり、現在始まっている諸文明が様々に交流し合う時代「文明の時代」にも対応可能なメディアなのである。

またこのメディアは―多少我田引水的なものだが―出版業界の復活にもつながって来る。「人間的魂」を成長・発展させるための古典的メディアが“本”なのである。人々は“本”との交流―読書―を通じて、自分の中の「人間的魂」を成長させてきたのである。しかし“本”は基本的には紙で作られた死んだ素材であり、またよほど教養を積み修行しないと訳の分からないもので、人々の立ち入りをシャットアウトしてしまう性格がある。ところが電子同人雑誌の場合はネットの向こうに“生きた”人間がいるのである。やろうと思えば会うこともできるのである。そしてインターネットのテクノロジーを通じて自分も能動的に参加でき、生きた人間同士の臨場感をもって活動できるのである。いわば“生きた本”“能動的に参加できる本”という性格を電子同人雑誌は持っているのである。これがもたらすものは「本とネットの融合」であり、ネットのパワーを取り入れて本や出版業界が復活できる可能性が生じるのである。

そしてこのメディアは―まさに戦前の同人雑誌がそうだったように―日本の文化的発展をもたらすものになり得るのである。従来のような経済的発展はもうこれからの時代不可能である。また政府が狙っているような軍事的発展も―あともう一度世界大戦が起きたら人類が滅びるというのに―正気の沙汰とは言い難い。ところが文化的な発展なら、日本にはまだ大きな可能性が残っているのである。東洋文明という土壌の上に成長してきた日本文化が西洋文明をも取り入れて「東洋文明と西洋文明の融合」という新しい文化を生み出す可能性を持っているのである。対立する諸文明の間に「大いなる和」をもたらすことができるかも知れないのだ。実はこれこそが近代日本文学という文化が目指していたものであり、夏目漱石たち昔の日本文学者たちの努力のおかげで実現可能な状態にあるのである。

「電子同人雑誌とそのネットワーク」という最終章でこのようなヴィジョンを実現可能なものとして描いてゆきたい。たしかにやたら壮大なヴィジョンとなり、実現可能かどうか書いてる本人もあやしくなってくるが、今はそんな疑念は払拭してできるだけ明るく希望に満ちた気分になって書いてゆこう。明るい夢や希望―これがヴィジョンを建設する際、最も重要な原動力となる。だから努めて明るい自由な気分で『電子同人雑誌の可能性』のフィナーレとなる壮大な希望を描いてゆこう!

その前に「コンピュータの本質」の章を片付けてしまわなければならない。これからAI化やロボット化が怒涛の勢いで進行してゆくことが予想されるので、この章を書いておくことも必要なのである。コンピュータの本質とは何か。それを明らかにしてゆこう。

電子同人雑誌の可能性 200 「コンピュータの本質―インターネット発展史とニッポン敗戦史」

2019-09-05 07:05:12 | 日本文学の革命
「インターネットの発展史とニッポン敗戦史」としていろいろ書いてきたが、バブルの破綻から現在に至るまで日本は実に長期に渡る衰退を続けてきた。この間のことを「失われた10年」だとか「失われた20年」だとか呼ばれてきたがバブルの崩壊が91年のことだからそろそろ「失われた30年」に成ろうとしている。いくらなんでも失われ過ぎだろと突っ込みを入れたくなるほどの凋落ぶりである。あのバブルの金満期、この繁栄がいつまでも続くと無邪気に信じて人々がお気楽極楽に暮らしていた時代が夢のようである。

この長期に渡る衰退の原因は、やはり発展の道を日本が失ってしまったことなのだろう。91年に東西冷戦が終結するまでは日本はアメリカのモノマネをすることによって大いに発展することができた。アメリカにしてみたら日本は共産主義から東アジアを守る砦だったので、大いに日本にモノマネさせたし、日本もその波に乗って大いに発展できたのである。しかし冷戦が終結して国際環境が激変してからは、アメリカは日本のモノマネを許さなくなり、逆に日本を攻撃してくるようになって、日本は戦後ずっと続いてきた発展の道を失ってしまったのである。

実はこれは戦前にも起きたことなのである。明治以降の日本は文明開化政策により西洋列強のモノマネをすることによって発展してきた。それは偉大な成功を収め、日本は国力を増大させ西洋列強の一つになるところまで発展できた。ところが第一次世界大戦の終結とともに文明開化という発展の道が不可能になってしまったのである。この大戦で日本がモデルとしてきた西洋列強が自滅してしまい、モデル自体がなくなってしまったのである。またロシア革命が起き、それまで日本が信じて来た価値観―国民国家も資本主義も帝国主義も(この内の「帝国主義」をやったことで日本は侵略国家の汚名を受けてしまったが、もともとは西洋列強がやっていたことを日本はモノマネしただけなのである)すべて否定されてしまった。これ以降日本は発展の道を失ってしまい、経済不況や大恐慌に襲われてどんどん衰退してゆき、ついに崩壊してしまったのである。
外国文明のモノマネができる内は発展し、外国文明のモノマネができなくなると行き詰まって衰退してしまう…。分かりやすい民族ではある。

冷戦が終結しバブルが崩壊した後も「夢をもう一度」と日本は様々な憧れの対象を求め、それによる発展の道を模索し続けてきた。アメリカがだめなら今度はラテン系の西洋に憧れようとJリーグが大ブームになったときもある。ウィンドウズ95が出たときには「これからはコンピュータの時代だ!」とコンピュータを学ぶ大ブームが起きた。しかしこれは発展どころかニッポンの敗戦になってきたことは縷々述べてきた通りである。まったく意外な対象、憧れるどころかそれまで蔑視してきた対象である韓国に対して、憧れが燃えあがった時もある。しかしいずれも新しい発展の道にはつながらなかった。またこれはパンダ外交以来の田中派の宿願なのだが、共産中国に対する憧れとモノマネを起こそうという動きもある。しかしこれは前の夫に捨てられて心細い思いで暮らしている女にヤクザ男が「おいで。おいで」しているようなもので、いったいどういう目に遭わされるか予想がつくので、やめた方がいいものなのだが。

外国のモノマネによる発展ができなくなると、それを見て国粋主義者が台頭してくる。「お前たち外国の猿マネをして恥ずかしくないのか!日本人としての誇りがないのか!」と世の風潮を糾弾してくる。外国のモノマネの反動として日本第一主義となり、外国をやたら蔑視するようになり、気に入らない外国人にはさんざんにヘイトスピーチをかましてやれ!という風潮になってくる。これも戦前にあったことで、この風潮の波に乗って戦前の軍部が台頭してきたのである。

まるで戦前と同じような形で衰退が進行しているのである。この先どうなるか不安になるばかりである。

しかし戦前には文明開化の時代と軍部の台頭の時代との間に「大正時代」というものがあった。これは文化とデモクラシーが栄えた日本文化の一つの黄金期だった時代だが、同時に外国文明のモノマネによらない新しい発展の道を開こうとした時代でもあったのである。これを主導していたのが夏目漱石のような日本文学者たちだったのである。彼らは“あともう一歩”で新しい発展の道を切り開くところまで到達していたのだ。しかし惜しくもそれができず、戦前の破滅の流れを変えることができなかったのである。

僕がやりたいことはこの残されたままの“あと一歩”を成し遂げることに他ならない。もちろんできるかどうか分からないし、そんな能力や資格がそもそも僕にあるのかどうかも大いに疑問である。しかしここに残された“あと一歩”があること、またそれを解決するためにはどうすればいいのか、それにアリアリと気づいてしまったことも事実なのである。気づいてしまった者の責任として、これはどうしてもやらなければならない。能力や資格うんぬんを越えて挑戦しなければならない。そう覚悟を決めて今日もそしてこれからも頑張ってゆくつもりでいる。