「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

電子同人雑誌の可能性 187 「コンピュータの本質―「通信の01化」と世界を統一するメディア」

2019-03-22 15:49:45 | 日本文学の革命
様々なものが「01化」され電子情報化されてゆくのを今まで見てきた。画像も音声も文字も、触覚や味覚などの情報もどんどん「01化」されてゆき、果てはわれわれの人生さえも丸ごと「01化」されかねない所まできた。そして最後に考察したいのが「通信の01化」である。このような「01化」され電子情報化されたものがどのように伝達されてゆくかというメディア的な問題についてである。

まず指摘したいことはこの「01化」された電子情報が極めて微細だということである。塵やほこりや芥よりもはるかに小さく、原子よりも小さく、まず目にすることができないような微細な存在なのである。重さも極めて微細であり、厳密に計測すればあるのだろうが、まああってないようなものである。それでいてこの電子情報の内に高精細な画像も大容量の動画も緻密にプログラミングされた実行ファイルも何でも収めることができるのである。
これを長い間人類のメディアの主役であった紙と比べてみると、その差は歴然である。紙は数枚程度ならペラペラして軽いもので、そよ風に乗っても飛ばされてしまう存在だが、これが束となって一冊の本を形成するようになると途端にズシリとしてくるのである。これが数十冊数百冊となるとすさまじい重さになってしまい、引っ越し業者の人を苦しめることになる。これを遠方に輸送しようとするとさらにたいへんで、トラックや重機やコンテナを動員しての大労力が必要となってしまう。それでいて情報量としてはたいしたことないのである。この『電子同人雑誌の可能性』もどんどん膨れ上がって今では一冊の本になるほどの分量になり、よくもまあここまで書いてきたなあと感慨深くなるが、さっき情報量を調べてみたらたった437キロバイト。メガにも達していないのである!写真数枚程度の情報量である。こんなのだったらインターネットを使えば鼻歌感覚で送信できる。たとえ何十冊何百冊の本を送信することになっても、やはり造作なくできてしまうのである。

この微細な電子情報を送信するエネルギーもたいしてかからない。テレビがテレビ情報を伝えるためには高い塔の上から巨大な電圧とものすごいエネルギーをかけて全国に電波を飛ばす必要がある。これほどのパワーとコストを発揮できるのは政府機関や大企業ぐらいなもので、自然テレビは彼らの独占事業となり、上から一元的に管理された一方向的メディアというテレビの特質を構造づけている。しかしこれほどのパワーを発揮しても、せいぜい国内にしか届かないのである。海外のテレビ、地球の反対側のテレビを受信できるかというと、まず無理なのである。
それに対して電子情報の場合は送信エネルギーがほとんどかからない。スマホで海外にいる友達に写真付きのメールを送るとしよう。その際スマホが海外まで情報を飛ばそうとヤッキになり、エネルギーを酷使して熱くなって、スマホが触れないほどになってしまう、ということはもちろんない。海外だろうがどこだろうが苦もなくメールを飛ばせるのである。動画だって送れてしまう。多少送信時間がかかる程度である。しかも動画サイトを利用すれば無料で送信も公開もできてしまうのである。
微細で重さゼロ、それでいて緻密で大容量の情報も扱える「01」情報を使えば、どんなメディア情報でも世界中に簡単に送信できる。そんなとてつもない時代が到来したのである。

その速度もすごい。光ほどではないが電子もすごいスピードで移動するのである。たしか一秒で地球数周する筈である。一秒以内に世界のどこにでも行き着くことができる訳である。『八十日間世界一周』というような原始的な速度を遥かに超えて(ただロマンチックな時代だったが)、世界が秒単位で送信し合い交流し合うという、これまた空前の時代が到来したのである。

電子同人雑誌の可能性 186 「コンピュータの本質―人生と非合理的情熱」

2019-03-17 14:00:30 | 日本文学の革命
情報化社会とは情報とそれによってもたらされる合理的行動を何より重視する社会である。合理的行動を取ったり取らせたりすることによってこの社会は成り立っているのである(ただその究極の形はAIやロボットの社会なのだが。AIは合理的行動を取らせる究極の存在であり、ロボットは合理的行動を取る究極の存在だからである)。では人間がよくしてしまう非合理的行動には何の意味もないのか。それは排除すべき無駄でしかないのかというと、実はそんなことはないのである。

ある若者がリヤカーを引いてアフリカ大陸を縦断する計画を立てた。リヤカーに寝床だの食料だのマンガ雑誌だのを積んで、それを自力で引いて、アフリカ大陸の北端から南端までサハラ砂漠や熱帯ジャングルを貫いて歩いて縦断しようという計画である。彼はたいへんな情熱に駆られてこの計画の実行に突き進んでいった。しかしこんなことをしてももちろん何の得にもならない。何か給料が入る訳でもないし、アルバイトで貯めた多額の資金を無駄に浪費するだけである。何か立身出世に役立つ訳でもなく、逆にこんなことをするヤツは日本の会社では敬遠されて面接で落とされるだろう。それどころか強盗やマサイ族やイスラム原理主義者に襲われて命を落とす危険性もある。合理的に考えてみたら、全く割が合わない非合理的行動なのである。
しかしこの一見すると非合理的な情熱や行動も、かつて人類の発展に多大の寄与をしたのである。数万年前人類はアフリカから出て世界中に拡散して行った。「グレートジャーニー」と呼ばれる人類の大移動であり、アジアやヨーロッパや南洋、果てはアメリカ大陸の南端にまで到達したという人類の大旅行であり大冒険行である。この結果人類は今日にまで通じるような大発展を獲得したのである。この「グレートジャーニー」を可能にした原動力は原始人類の「情熱」だったろう。ただ単に獲物がいそうだからとか暮らしやすそうだからとかそういう理由だけで、雪原や山脈や荒波をかき分けて万里の道のりを旅できる訳がない。やはりそこには原始人類の胸の内に熱い「情熱」が燃えていたのであり、その非合理的な力に突き動かされて人類は「グレートジャーニー」を達成できたのである。
そう考えるとこの若者の無謀で非合理的で何にもならない行動にも、実は意味があり、かつて人類を「グレートジャーニー」に突き動かした熱い情熱が彼の中でむやみに燃えあがったのである。それはたしかに現代社会では、意味もなければ用もない非合理的情熱だが、かつてはこれによって人類は大躍進を遂げたのであり、またこれからの時代にもあるいは役に立つ時が来るかも知れないのである。

人間のこのような非合理的な情熱や行動は、まったく計算に合わない非論理的でバカげたものかというと、案外そんなこともないのである。非合理的な情熱や行動に賭けた方が、普通の合理主義よりもより合理的な結果がもたらされる場合もあるのだ。
ある女の子が舞台女優になりたくて劇団の面接を受けにやって来た。ただその女の子は背が低くまるっとした体型のちびまる子ちゃんだった。舞台女優には到底向いていない体型の持ち主だったのである。劇団の人たちもそのことを指摘して彼女に舞台女優になる夢を諦めさせようとした。「やはり舞台女優というのはこう、宝塚女優みたいにね、スラリとして、八頭身で、ああいう体型をしていないと務まらないものなんだよ。君みたいなちびまる子ちゃんには無理なんだよ」と説得したのだが、その女の子はまったく諦めようとせず、劇団に入れてくれと迫るばかりである。困った劇団の人たちは最新のAIソフトを使って彼女が舞台女優になれるかどうか予想させてみた。結果は「3.7%」。間違っても無理という数字である。しかし女の子は諦めようとしない。何がなんでも舞台女優になりたいのだという。それには理由があり、彼女が小学生のとき旅周りのシェイクスピア劇団が彼女の学校に来て体育館で『ヴェニスの商人』の上演をした。同級生のみんなと一緒に見たのだが、その楽しいこと楽しいこと、ワクワクしながら舞台に見入っていた。ハッピーエンドでヒロインと主人公がキスしたときには(顔を隠して振りをしただけだったが)会場中にどよめきと歓声が沸き起こり、会場全体が一体化したような喜びに包まれた。彼女にとっていつまでも忘れられない素晴らしい体験となり、いつか自分もああいう風に舞台に立って人々を喜びと感動で包みたいと舞台女優に憧れるようになったのである。それから何年が経っても彼女の情熱は高まるばかりだった。残念ながらその間背丈は伸びず、ちびまる子ちゃんになってしまったが、彼女の情熱は衰えることなく劇団に入れる年齢にもなったのでこうして劇団員に応募したのである。
このちびまる子ちゃんが舞台女優になれる確率は「3.7%」である。しかしこれはその時その場での一回限りの確率のことであり、失敗にめげることなく何度も何度も挑戦を繰り返してゆけばなれる確率は高まってゆくのである。それが50回に達したとしよう。すると成功確率は「97%」まで高まってしまうのである。大成功間違いなしの数字だが、何度も何度も繰り返していると確率論的にそうなってしまうのである。ちびまる子ちゃんでいえば50回もオーディションに落ち続けるということであり、それに耐えて修行を積み挑戦し続けるということはたいへんな精神力が必要であるが、彼女の情熱がそれに打ち克てるほど強かったならついには成功確率「97%」まで至ることができるのだ。ある時ある監督がちびまる子ちゃんの姿を見て「なんて惚れ惚れするほど小さいんだろう。まるっとしている所もかわいい。今度の舞台の主演女優にピッタリだ!」と合格の通知をしてくる日が必ず来てしまうのである。
彼女に成功をもたらしたのは、彼女の―無謀で非合理的であるが―不撓不屈の情熱である。なんとしても成し遂げたいという熱い情熱が道を開いたのである。彼女の非合理的な情熱や行動が「無理だ」という合理的判断に打ち勝って舞台女優になるという彼女の夢をかなえたのであった。

情報化社会の中合理的な判断や行動ばかりが求められているが、非合理的な情熱や行動にも意味はあるし効用もあるのだ。もしかしたらこの非合理的なものの方が人間にとってより重要かも知れない。岡本太郎は尊敬する人物で、彼の本も長い年月愛読してきたが、その中の一節を引用しておこう。
「生きる―それは本来、無目的で、非合理だ。科学主義者には反論されるだろうが、生命力というものは盲目的な爆発であり、人間存在のほとんどといってよい巨大な部分は非合理である。われわれはこの世に何故生まれて来て、生きつづけるのか、それ自体を知らない。存在全体、肉体も精神も強烈な混沌である。そしてわれわれの世界、環境もまた無限の迷路だ。
だからこそ生きがいがあり、情熱がわく。人類はその、ほとんど盲目的な情感に賭けて、ここまで生きぬいてきたのだとぼくは思う」

電子同人雑誌の可能性 185 「コンピュータの本質―情報による「人生の01化」」

2019-03-15 13:13:32 | 日本文学の革命
実は情報も「人生の01化」なのである。現代は情報化社会と言われ、コンピュータやインターネットも情報を得たり発信したりすることが第一の任務のようになっているが、この情報も「人生の01化」だと言ってもいいのである。仮想現実ほど鮮やかに人生を取り込むものではないが、やはりこれも人間の人生をコンピュータ内部に統合しようという試みなのである。

情報とは「ある目標に向かって合理的で最適な選択行路を取らせる知識」と言ってもいいだろう。A・B二つの選択行路があるとき、どちらの行路を選択した方がより合理的最適な形で目標に辿りつけるか、それを教えてくれるのが情報なのである。
たとえば横町の飲み屋で酔っ払うことが大好きなあるおやじが、新橋で一飲みしたあと、行ったことはないが最近有名な赤羽の飲み屋街に行ってみたくなったとしよう。地図アプリで検索してみたらすぐに最適なコースが表示された。「京浜東北線で30分か。割と近いな」と行ったことがない赤羽でも、すでに酔いが回っている彼でも、迷うことなく合理的で最適なコースで赤羽駅に辿り着くことができるのである。もしこのような情報ソフトがなかったなら、酔った勢いで山手線に乗ってしまい、いつまでも赤羽駅に辿り着けないまま車内で酔いつぶれていたかも知れないのである。また旅行に出かけるときも「トリバゴ」や「トラベルコ」のサイトを使えば安くて最適なホテルや旅館をもっとも合理的な形で予約することができる。商品の比較サイトを使えば様々な商品の価格を比較でき、合理的な選択を行うことが可能になる。たとえば「家電量販店で買うよりもネットで買った方が安いや」ということが露わになり、家電量販店を青ざめさせることもできるのである。
アップルとソニーの株どちらを買う方が資産運用に望ましいのかを教えてくれるのも情報だし、新製品の部品をどの会社から調達すれば最適なのかを決定してくれるのも情報である。資本主義社会ではより合理的な選択をした者やより合理的な機構を築いた者が、儲けを得ることができるのであり、この社会の勝利者になることができるのである。だからこそ合理的選択を可能にしてくれる情報というものはこの社会で必要不可欠なものなのだ。

この「A・B二つの(複数でも構わないが)選択行路のどれを選べばより合理的なのか」は、一つの「二値化」であり「01化」であり、アルゴリズムで表現されるようなコンピュータの思考法に特徴的なものなのである。情報とはコンピュータ的思考法と言ってもいいかも知れない。われわれ人間は情報化社会の中で、知らず知らずの内にコンピュータ的思考に染まってゆき、その中に取り込まれてゆくのである。

情報―つまり合理的行動をとらせるもの―を自ら望んで得ている内はまだいい。これが強制的なものになり、無理やり合理的行動をとらせようとしてくると、人間にとって苦痛となってくる。
某有名ネット企業の巨大倉庫で一日働いたことがある。本のネット通販用の巨大倉庫で、見渡す限りに棚が並び、その中に何十万冊もの本が並べられてある。それを注文書に沿ってピッキングしてゆく作業なのだが、作業の前にバーコードを読み取るハンディが渡された。それは小型コンピュータが搭載されたハンディで、小さな画面があり、そこに指示された命令に従って棚からピッキングしてゆくのである。小型コンピュータが「A棚の13番に行って三冊取って来てください」と指示したらカートをガラガラ押して指示通りの場所まで歩いてゆき本を取ってくるのである。次に「B棚の4番へ」と指示されたらB棚の4番へ、次に「G棚の56番へ」と命令されたらG棚の56番へと歩いてゆき、それが際限なく続くのである。もっとも合理的な形で指示してくるのだろうが、こちらにしてみたらまるでロボット扱いである。さらにはバーコードの押し方が悪いだとか「もっと早く歩いてください」と文句を言われ、しまいには「あなたの現在のピッキング作業能率は最低のCランクです」と言ってくる始末。だんだんこのハンディが憎たらしくなって「うるせえんだよ。この野郎」とつぶやきたくなったほどである。そうやって人に命令してくるくせに、自分はしばしばフリーズしたり、電池切れで消えてしまったりするのである。しかも戻ってきても「ごめんなさい」の一言もない。相も変わらず合理的な命令を強制してくるだけである(作業能率の低さについて言い訳させてもらうと、実は作業をしながら本の背表紙を読んでいたのである。実に様々な本が並べられているので、本好きの僕としてはどんな本があるのか興味津々である。中には手にとってよく見たりもしていた。まったく非合理的行動をしていたので、作業能率も悪くなるわけである)。
先日テレビで見たのだがこの企業の倉庫は今や全面的にロボット化されていた。お掃除ロボットを一回り大きくしたような機械が棚をかかえて走り周り、作業を行っていたのである。ロボットとは合理的行動のかたまりであり、プログラムされた合理的行動しかしない究極の合理的存在である。もちろん人間みたいに文句も言わないし、非合理的行動もしない。情報企業にとってはまさに使い勝手のいい存在なのだろう。

情報による「人生の01化」について、もう一つ言いたいことは「われわれ自身の情報化」である。
ソビエトや東ヨーロッパなどの旧社会主義国では民衆一人一人を支配管理するためにその個人の「台帳」(たしかこんな名前だったが、正確には覚えていない。ただ中国にはまだ現存している)なるものが作られていた。これはその個人の年齢・性別・出身地・経歴・職業・家族構成などありとあらゆる情報が記載されているもので、一人分が電話帳数冊分にもなる程の膨大な量で書かれている。よくもまあここまで個人情報を調べ上げたものだと感心するが、旧社会主義国は「国家という名の収容所」と呼ばれるほどの厳格な支配体制を敷いていたので、その基礎としてこのような個人情報の把握が必要だったのだろう。ここまで綿密に調べ上げられたら、まさに個々人にはどこにも隠れようがないのである。向こうはこちらのことを何でもお見通しなのであり、いくらでも支配下におくことができ、いくらでも思うがままに動かすことができるのである。
これと同じような事態が今起ころうとしているのである。コンピュータやインターネットを使えば使うほどその個人の情報が知らないところで蓄積されてゆくことになる。年齢も性別も居住地も、家族構成や買い物履歴も、個人の活動履歴から生じた情報がどんどん積み上がってゆく。その個人の趣味や言動や思想状況も情報として記録されてゆき、その個人の性格を特定するのに役立つことになる。「このエッチなビデオを夜中こっそり見てただろ」というような人に知られたくない情報まで筒抜けになって記録されてしまうのである。その情報量はたちまち旧社会主義国の「台帳」に匹敵するものになるだろう。個人はこのような「情報の総和」として把握されてしまうのである。いくら「個人情報の保護」を唱えたところで、盗み出すヤツはいくらでもいるし、権力や金力をカサに着て見てしまうヤツもいる。中国みたいに国家ぐるみでやっている国もある。個人を「情報の総和」として把握してしまうと、いわば計算可能な対象として合理的に(「思うがままに」と言いかえてもいい)操作することが可能になるのだ。われわれ自身がひとつの情報と化し、情報として支配されるようになるのである。
これなどはまた違った意味での情報による「人生の01化」だと言ってもいいだろう。


電子同人雑誌の可能性 184 「コンピュータの本質―仮想現実」

2019-03-10 13:31:27 | 日本文学の革命
仮想現実と現実の人生を区別できるもう一つの特徴が「予測できないことが起こる」ことである。われわれの現実の人生行路はこの「予測できないこと」に満ち満ちているのである。
子供時代にどんな体験をするのか、誰と友達になるのか、どんな遊びに興じどんな趣味を持つのかは、本人はもちろん親兄弟にも誰にも予測できない。学校時代に何を学ぶのか、どんなクラブ活動をするのか、どんな進路に進んでゆくのかも前もって予測することはほとんど不可能である。どんな職業に就くのかも、誰と結婚するのかも(おとぎ話で占い師が若い娘に未来の夫の姿を水晶の玉の中に見せてやる話があるがこれなどはロマンチックでよろしい)、その後どんな人生遍歴を送ってゆくのかも、ほとんどが運次第である。どんな子供が生まれるかも、その子がどのように育つかも、果たして孫が見れるかどうかも、そしていつどのように自分が大往生を遂げるのかも、誰にも予測できない人生の神秘なのである。現実の人生は予測のできない力に支配されていて(この力はよく「運命」と呼ばれている)、合理的な計算によってその行路を予測することは―極めて近視眼的なものを除いては―できないのである。

ロールプレイイングゲームでは結末の予想がつかず、プレイヤーによって異なってくるから、多少人生に似ていることは確かだが、しかしどんな結末になろうがそれは「想定内」のこととして予測可能なのである。実験用のラットの前にA・B・C三つの道を用意してその向こうにエサを置いておく。エサに向かったラットがA・B・C三つの道のどれを通るかは確かに分からない。しかしどれかを通るのは確かなのであり、そういう意味で「想定内」のことであり予測可能なことなのである。

これが一人一人の人生が織りなされてつむぎ出される巨大な織物―「歴史」になると、この予測不可能性がより一層はっきりしてくる。歴史はまさに「予測できないこと」に満ち満ちているのである。
たとえば幕末から今日に至るまでの日本の歴史を見てみよう。三百年の太平無事の世を謳歌していた江戸末期に突如黒船がやって来るなどほとんど誰も予想しない驚天動地の出来事だった。それからわずか15年で巨大な江戸幕府が崩壊してしまうことなど誰一人予想できなかったに違いない。その後西洋新文明の大流入が起こることも、それを吸収した日本がわずか30年で日清日露に勝利して列強の仲間入りすることも、ほとんど誰も予想していない出来事だった。列強の一つになってこれから発展してゆくだろうと思った日本がその後急速に衰退し(漱石のように日露戦争後の日本を見て「滅びるね」と予言した少数者を除き)太平洋戦争を起こして滅んでしまうとは一体誰が予測できただろう。
戦争末期ほとんどの日本人が「日本はもうこれでお終いだ。日本民族はもう滅亡だ」と絶望し自決した者までいたのに、その後また予想をはるかに上まわる事態が起こった。日本人の生命の大高揚が起きたのである。国家も社会も崩壊した廃墟と焼跡の中、食べ物も満足に得られないという環境の中で、日本人の生命がものすごい勢いで燃えあがったのである。三島由紀夫はこの時代を生きた人物だが、彼はこの戦争直後から10年ほどの時代のことを「真夏の時代」と呼んでいる。「この時代には退屈だとか倦怠だとかを感じた者は一人もいなかっただろう」とまで述べている。それほどまでに熱い時代であり、人々の生命が燃えあがった時代なのであった。ベビーブームも沸き起こり保育園も子ども手当もないのに女性たちがバンバン子供を産んで出生率が大上昇した時代でもあった(今日の日本―繁栄し食に溢れ生活保障も行き渡っているのに、多くが「退屈だ」「虚しい」と生命感を失っている時代と、好対照である)。この「真夏の時代」を生き抜いた人々がその後の世界に冠たる日本経済を築きあげたのである。日本は滅びるどころか、誰も予想しなかった空前の繁栄期に入ったのである。
高度経済成長を経て、バブルの金満期が到来し、誰もが日本のこの繁栄はいつまでも続くと確信していた。しかしここでもまた予想を裏切る事態となる。バブルが崩壊し、日本は止めどもない長期衰退期となったのである。世界最強を誇った日本経済は衰退し、日本的経営も崩壊し、日本は日増しにじり貧になってゆくばかりとなったのである。そしてこれからどうなってゆくか。日本がどのような運命をたどってゆくかは、やはり誰にも予測できないのである。

現実の人生の二大特徴として「あと戻りできないこと」と「予測できないことが起こること」をあげたが、実はこれと真逆のことがゲームや仮想現実の二大特徴なのである。つまり「あと戻りできるし何度でも繰り返すことができる」ことと「すべては計算可能であり予測可能である」ことである。この二つがゲームや仮想現実の本質的特徴を成しているのである。仮想現実がどれほど現実とそっくりになろうと、本質的な部分でそれは現実と異なっているのである。
たしかに仮想現実には現実の人生では味わえない面白い体験やあり得ない体験や夢みたいな体験を好きなだけできるというメリットもある。しかしその際われわれは現実の人生の運行から遮断されて「別の世界」に不可避的に入ってゆくことになるのだ。仮想現実が映し出される3D空間もあのカプセルも3Dゴーグルもある意味現実の人生からの遮断である(3Dゴーグルは現実からの「目隠し」みたいな印象がある)。そのような遮断された状態で「別の世界」に強制的に連れ去られてゆくのである。

このわれわれを連れ去ってゆく「別の世界」とは何なのだろう。実は先ほど述べたゲームや仮想現実の二大特徴は、そのまま科学や数学やコンピュータなどの合理主義的世界の二大特徴なのである。「何度でも繰り返すことができること。シュミレーションできること」は科学法則や科学実験の特徴的性格だし、「すべては計算可能であること。予測可能であること」は数学の理想であり一大特徴である。そしてこのような合理主義的世界の特徴はまさにコンピュータの特徴そのものなのである。
つまりこの「別の世界」とはコンピュータ内部のことだと言ってもいい。われわれは仮想現実に耽ることによってコンピュータ内部に取り込まれてしまうのである。これまで「視覚の01化」だとか「音声の01化」だとかで人間の諸感覚がコンピュータ内部に統合されてゆくことを書いてきたが、仮想現実はその究極の形なのである。それは「人生の01化」だと言ってもいいだろう。われわれの人生そのものがまるごとコンピュータ内部に統合されてしまうのである。
「人生の01化」それが仮想現実の本質なのである。

電子同人雑誌の可能性 183 「コンピュータの本質―仮想現実」

2019-03-07 06:05:37 | 日本文学の革命
仮想現実はこのように大発展する可能性を持った技術なのである。今のところまだ3Dゴーグルを付けて楽しんでいる程度だが、もっと技術が進んだなら3Dの立体空間にもリアルな映像を再現できるようになるに違いない。さらにもっと技術が進んだなら脳に直接作用して仮想現実を見させることも可能かも知れない。この脳に直接作用する方法が仮想現実としては一番効果的だろう。どんなに3D空間の仮想現実が精巧なものになっても、人間が自分の意識を働かせている限り、どこかに現実感覚が残っているものなのだ。どんなに仮想の空間に酔いしれていてもお腹が空くと「今日の夕飯。何にしようかしら」と思ってしまうものだし、どんなに仮想空間で戦闘バトルに夢中になっていても蹴りを入れたはずみで腰を痛めたら「アイテテテッ!腰を痛めた」とすぐに現実に引き戻されてしまう。その点脳に直接作用を及ぼすときは、本人は寝ていて日常の意識はない状態なので、現実に妨げられずにいくらでも仮想の夢を見ることができる。人間は実は目や耳で見たり聴いたりしているのではなく、脳が主体となって見たり聴いたりしているのだというから、その感覚の元締めである脳に直接作用を及ぼせるこの方法は仮想現実としてまさに理想的なのである。

しかしここで困ったことが起きる。仮想現実のテクノロジーがこうまで発展してくると、仮想現実と実際の現実の区別がつかなくなってきてしまうのだ。どちらがどちらだか分からなくなって、混乱してしまうのである。たとえば仮想現実の世界では蝶になるプログラムをオーダーして、一匹の蝶になって楽しく飛びまわり、のびのびと快適に過ごしていたのに、ふと目覚めたらいつもの自分に戻っていた。蝶であった時もまぎれもないリアリティーを感じていて、今の自分もまぎれもないリアルな自分である。「いったい自分が蝶になった夢を見たのだろうか。それとも蝶が自分になった夢を見ているのだろうか」と仮想と現実の区別がつかない困った状態に落ち入ってしまうのである。

しかし仮想現実がどんなに精巧になりリアルになっても、現実の人生と区別できる特徴が二つほど存在している。それは仮想とは異なる現実の人生の二大特徴と言ってもいいものである。まず一つが「あと戻りできないこと」である。

パソコンゲームなどに特徴的なものに「リセットできる」「あと戻りできる」「何度でも繰り返すことができる」という性格がある。同じゲームを勝つまで何度でも繰り返すことができるし、ちょっとヘマをしたらその前の状態にリセットして再び再開することもできる。このような「あと戻りできる」「何度でも繰り返すことができる」ということはゲームの一大特徴なのだが、しかし現実ではそうはいかないのである。たとえば恋愛シュミレーションゲームでは何度相手の女の子から「ごめんなさい」を食らおうが、手を替え品を替え勝つまで何度でも繰り返すことができる。しかし現実の女性に対して何度断られてもしつこくアタックしたら、不審や警戒の目で見られるようになり、その内警察に通報されるのがオチである。現実の人生は刻一刻と前へ前へと進んでゆくばかりで、シュミレーションゲームのように何度も同じ状態が繰り返されることはあり得ないのである。
もちろんリセットもできない。車を運転しているときほんの5秒だけスマホ画面に見入ってしまったために、交通事故を起こして人をはねてしまった。だからといって5秒前に戻ってリセットできるかというと、決してできやしない。一度やってしまったことはもう取り返しがつかないのである。どんなに本人が、ほんの5秒だけ注意をそらしていただけなんですよ、いつもはこんなことしないんですよ、と言い訳に必死になっても、警察も裁判所もそんな言い訳を許すはずがない。かえって「こんなヤツ。もっと重い罪にしてやれ」とより重罪にされるかも知れない。やってしまったことは厳格に本人にかえって来るのである。リセットもできないし、あと戻りもできないのである。

この「あと戻りできないこと」が現実の人生の特徴なのである。われわれは生まれてから死に至るまでの間、刻一刻と自分の人生を歩み続け、さまざまなことをやってゆき、そのすべてが自分の人生に積み重なってゆくのである。リセットもできないし、あと戻りも許されない。それが仮想現実と異なる現実の人生の一大特徴なのである。

電子同人雑誌の可能性 182 「コンピュータの本質―仮想現実」

2019-03-01 09:43:26 | 日本文学の革命
脳科学が進歩し、人間の脳波もすっかり解明され、外から人間の脳波を自由にコントロールできるようになったとしよう。そのテクノロジーを用いてどのように人間に仮想現実体験をさせればいいのか。
まず第一にその人間を眠らせることが必要だろう。人間は起きているとすぐに自分の意識を活動させて周囲を知覚してゆき、好き勝手に脳波を発生させてゆくから、邪魔で仕方がない。これを眠らせて真っさらな状態にしておき、そこに外部からヘッドギアなどを通して刺激を与え、人工的に脳波を発生させてゆくのである。ただ人間が眠っている状態とは非常に無防備な状態であり、モノが落っこちて来ると危ないし、女性の場合だと人前で寝てることはレイプを誘発する危険性すらある。そこで眠っている人間はカプセルの中などに閉じ込めておいて、関係者以外開けることができないようにしておく方がいいだろう。また容態などが急変したときすぐ気づけるようにカプセルは透明にしておいた方が望ましい。

そのようにカプセルの中で眠っている人間の脳に直接刺激を与えて脳波を発生させてゆくのであるが、それは見ている本人にはちょうど夢を見ている時と同じようなものになるだろう。われわれが夢を見ている時にも、感覚器官などは一切使わず、ただ純粋に脳波だけで映像や感覚を得ているのだが、しかしそれは現実体験と全く変わらないほどのリアリティーでわれわれに感じられるのである。
ただ夢の場合は自由な操作が利かないという欠点を持っている。どんなに本人が強く望んでも望みどおりの夢を見れるとは限らない。引き離されたカップルがどんなに「夢で会いましょう」と誓っても、なかなか夢には出て来ないものなのである。お正月に「一富士二鷹三なすび」の絵を枕の下に敷いて寝てもそんな縁起のいい夢など都合よく出て来る訳ではない。かえって望んでもいない夢が出て来ることも多い。不可解な夢、不条理な夢、なんでこんな夢を見るんだろうと思うような夢、あるいは怖い夢、ゾッとするような夢、見なきゃよかったと後悔するような夢、そんな夢を見ることも多いのである。
ところが外部から人工的に操作するこの場合は、いくらでも望んだ夢、好きな夢を見ることができるのである。大富豪になってウハウハの生活を送ることもできるし、絶世の美女になってイケメンたちとラブロマンスを繰り返すこともできる。覇王になって天下を統一することもできるし、小公女になって逆境の中クスンクスンと泣くこともできる。作られたプログラムに沿っていくらでも好き放題に現実と全く変わらない体験を楽しむことができるのである。

SFやマンガでこのようなカプセルの中で仮想現実に耽っている人々を描いたものがある。映画の『マトリックス』や諸星大二郎のマンガがそれで、諸星大二郎は昔活躍したマンガ家だが―今では生きているのか死んでいるのかも分からない。このマンガも表題は忘れてしまった―現代にも通じるような異色のマンガを書く作家だった。
このマンガは主人公の少年が何気ない周囲の日常に違和感を感じ出すところから始まる。周囲の人々が全く型通りの反応しかしないことに気づいたのだ。いつも挨拶を交わす近所の人も全く型通りの挨拶しかしないし、少年の母親もいつも同じような小言で少年を叱るばかりだ。あるとき少年は母親とケンカして母親を突き飛ばした。すると母親は階段を転げ落ちてしまったのだが、その際母親はバラバラに分解しネジや破片をあたりに散乱して動かなくなった。母親はロボットだったのだ。驚いた少年はこの世界の謎を突き止めようとする。そして新宿駅の地下深くに巨大な倉庫を発見するのである。そこには見渡す限りたくさんのカプセルがズラーっと置かれていた。中にはヘッドギアを付けた人間が眠っていて、それぞれが自分好みの夢を見て仮想現実に浸っていたのである。少年の母親も眠っている一人で、彼女は地味で苦労の多い自分の人生に嫌気がさし、ここでマリー・アントワネットのような仮想の人生を生きていたのである。
ここを作ったのは世界征服をたくらむある男で、彼はこのようなシステムを作って人々を仮想の眠りに落ち入らせ、世界を征服しようとしたのだが、その内こんな面倒なことをしなくても自分がカプセルの中に入って世界征服の夢を見た方が簡単だということに気づいて、今ではカプセルの中で寝ている一人になっていた。この巨大倉庫の中で働いているスタッフも実は全員ロボットだった。少年は鉄棒を振るってスタッフやシステムを打ち壊し、システムを停止させた(しかしすぐに自動修復装置が働いて数時間後にはまた元に戻るのだが)。地上に出ると新宿の街はすべてが静止していた。動いている人間は一人もおらず、巨大な街にいる大勢の人が誰も彼も止まっていた。みんなロボットだったのだ。少年が生きている人間を求めて「おーい。おーい」と駆けてゆくところでこの物語は終わっている。