毎日順調に書いている
書くべき内容が次から次へと浮かんできて筆が追いつかないほどだ
毎日が新しい発見の繰り返しであり、今まで分からなかったことがどんどん分かるようになっている
今は毎日毎日が珠玉のように大切な日々だ。一日たりとも無駄にしたくない
ところで「新しい文学」はあと“もう一問”解決できたら実現できるだろう
その“一問”を書いてみるなら下のようになる
「韻律の秘密+魂の問題=新しい文学」
こんな感じのものだ
「韻律の秘密」とは新しい文学の様式的な面のことである
明治以降の日本文学は散文ばかりが発達してきて、韻文に関してはほとんど未発達なままだった。ここを開拓しようとしているのである
和歌の韻律が分かったのに引き続いて、つぎつぎと様々な韻律文学の秘密が明らかになってきている
和歌や俳句などの伝統詩はもちろん、もう一つの伝統的韻律文学である「平家物語」などもよく分かってきた。「今昔物語」から「平家物語」「太平記」「南総里見八犬伝」に至るこの韻律の流れも、実に面白く分析できそうである
シェイクスピアの韻律の秘密もよく分かるようになった。今日たっぷり分析したところだ
民謡や童話という民族精神の表れを基盤としたゲーテの韻律も、狂人や神経病者の言葉の中に詩的韻律を発見したドストエフスキーの韻律も、十分明らかにすることができるだろう
(なぜこの三人を強調するのかというと、この三人が西洋の「自由韻律」の流れをなしているからだ。和歌のような規則に縛られた形式的韻律を超えるものをこの「自由韻律」に期待しているのである)
その他にも仏教の陀羅尼やコーランや現代のニューミュージックや、人々の発声の様式、はては動物の鳴き声まで、韻律に関することならなんでもかんでも考察している
いずれも順調だ
「魂の問題」とは何かというと、「自然随順から則天去私へ」という問題のことである
明治以前の日本人の魂―自然随順(それは島国時代のものでありまた京都的なものである)が、明治以降の時代に合わなくなり、自己を変革せざるを得なくなり、そこに現れてきたのがこの問題なのである
日本文学が何をやってきたのか、その事業の本質は何かというと、まさにこの問題なのである。この問題を解決することこそが日本文学の本質なのである
この日本文学の事業は、まだ実現していない。中途半端な状態である
おおげさに聞こえるかもしれないが、現代日本人の魂の苦しみ、その困窮は、ここに起因しているものだと思っている
だからこそ、なんとしても解決したいとがんばっているのである
自然随順と則天去私
この二つの魂はそれぞれどういうものなのか
この二つはどのような関係にあるのか
どのような歴史を持ちどのような文化を生み出してきたのか
それぞれはどのような言語構造を成しているのか
「自然随順から則天去私へ」 これを実現するためにはどうしたらいいのか
そのようなことを日々書いているのだが、こちらの方ももうほとんどできている
長年に渡って『漱石』を書くことで、ズーッとこの問題を考え続けてきたのである
おかげで大半が解決済みなのだ
韻律や韻文とは何かというと、それは魂が発現したものなのである
もしこの「魂の問題」を解決して一つの魂を実現できたなら、そこに一つの韻律が発生するはずである
そのときが「新しい文学」が実現するときなのだ
最後に残ったこの“一問”
これを解決するために全力をつくしてゆこう
書くべき内容が次から次へと浮かんできて筆が追いつかないほどだ
毎日が新しい発見の繰り返しであり、今まで分からなかったことがどんどん分かるようになっている
今は毎日毎日が珠玉のように大切な日々だ。一日たりとも無駄にしたくない
ところで「新しい文学」はあと“もう一問”解決できたら実現できるだろう
その“一問”を書いてみるなら下のようになる
「韻律の秘密+魂の問題=新しい文学」
こんな感じのものだ
「韻律の秘密」とは新しい文学の様式的な面のことである
明治以降の日本文学は散文ばかりが発達してきて、韻文に関してはほとんど未発達なままだった。ここを開拓しようとしているのである
和歌の韻律が分かったのに引き続いて、つぎつぎと様々な韻律文学の秘密が明らかになってきている
和歌や俳句などの伝統詩はもちろん、もう一つの伝統的韻律文学である「平家物語」などもよく分かってきた。「今昔物語」から「平家物語」「太平記」「南総里見八犬伝」に至るこの韻律の流れも、実に面白く分析できそうである
シェイクスピアの韻律の秘密もよく分かるようになった。今日たっぷり分析したところだ
民謡や童話という民族精神の表れを基盤としたゲーテの韻律も、狂人や神経病者の言葉の中に詩的韻律を発見したドストエフスキーの韻律も、十分明らかにすることができるだろう
(なぜこの三人を強調するのかというと、この三人が西洋の「自由韻律」の流れをなしているからだ。和歌のような規則に縛られた形式的韻律を超えるものをこの「自由韻律」に期待しているのである)
その他にも仏教の陀羅尼やコーランや現代のニューミュージックや、人々の発声の様式、はては動物の鳴き声まで、韻律に関することならなんでもかんでも考察している
いずれも順調だ
「魂の問題」とは何かというと、「自然随順から則天去私へ」という問題のことである
明治以前の日本人の魂―自然随順(それは島国時代のものでありまた京都的なものである)が、明治以降の時代に合わなくなり、自己を変革せざるを得なくなり、そこに現れてきたのがこの問題なのである
日本文学が何をやってきたのか、その事業の本質は何かというと、まさにこの問題なのである。この問題を解決することこそが日本文学の本質なのである
この日本文学の事業は、まだ実現していない。中途半端な状態である
おおげさに聞こえるかもしれないが、現代日本人の魂の苦しみ、その困窮は、ここに起因しているものだと思っている
だからこそ、なんとしても解決したいとがんばっているのである
自然随順と則天去私
この二つの魂はそれぞれどういうものなのか
この二つはどのような関係にあるのか
どのような歴史を持ちどのような文化を生み出してきたのか
それぞれはどのような言語構造を成しているのか
「自然随順から則天去私へ」 これを実現するためにはどうしたらいいのか
そのようなことを日々書いているのだが、こちらの方ももうほとんどできている
長年に渡って『漱石』を書くことで、ズーッとこの問題を考え続けてきたのである
おかげで大半が解決済みなのだ
韻律や韻文とは何かというと、それは魂が発現したものなのである
もしこの「魂の問題」を解決して一つの魂を実現できたなら、そこに一つの韻律が発生するはずである
そのときが「新しい文学」が実現するときなのだ
最後に残ったこの“一問”
これを解決するために全力をつくしてゆこう