「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

これから書いてゆくあらすじ 4

2023-04-06 08:32:56 | 日本文学の革命
これが『電子同人雑誌の可能性』や『こころと太平洋戦争』として書いてゆくあらすじだが、できるだけ早く書いてしまいたいものだ。特に『こころと太平洋戦争』は得意の歴史分野だし、漱石の『こころ』は熟知しているし、バンバン書いてゆくことができそうである

その他にも「電子同人雑誌の発行」もなんとしても行いたい。今の日本社会は幕末の封建社会を思わせるほどの身動きのできない閉塞感に覆われている。ガチガチの組織ですべての人々を縛りつけ、一切の自由を許さず、沈滞し衰退化し、外圧にも押される一方である。「電子同人雑誌」はこのような状態に風穴を開けるものになり得るし、日本社会を活性化させるものにもなり得る。また潜在的需要は莫大なものがあるからビックビジネスにすることもできるだろう。なんとか人々の協力を得て、これも実現したい

「新しい文学」も実現させたい。重要といえばこれが一番重要である。なにしろ漱石の「則天去私」を実現させるものだし、桑田佳祐の「奇跡のドア」もまさにこれによって開かれるのである。これも機が熟している。今まさに実現できるのだ!

このような方向性をもってこれからも歩んでゆこう
諦めずへこたれず、がんばって毎日歩んで行けば、必ず実現できる!

これから書いてゆくあらすじ 3

2023-04-06 08:29:22 | 日本文学の革命
このあと『こころ』からしばらく離れ、「太平洋戦争」について書いてゆくことになる。まずはある意味『こころ』の「先生」のモデルとなった乃木大将の人物から始めることにする。この乃木大将は日露戦争で旅順要塞を落とした英雄として有名だが、実際には部下を死なせることしかできなかった凡庸な指揮官で、旅順を陥落させたのも別の人物だったのである。彼は若い青年の頃に自分の過ちや卑劣な行為によって「心の傷」を受けてしまい、それを生涯に渡って持ち続けることになる(ちょうど「先生」がKの自殺によって受けたような)。それが西南戦争であり、このとき政府側の指揮官だった乃木は卑劣な裏切り者と化して自分の恩人や実の弟まで死に追いやり、そして西郷軍に対しては惨めな敗北を被った。このときの「心の傷」は彼を生涯苦しめ続け、彼が西南戦争から三十五年後に自殺する際遺書に記したほどである(これもやはりKの死から数十年後に自殺する「先生」と共通している)。かつて自分たちが絶滅に追いやった西郷軍、彼らが持っていた思いや理想あるいは怨念を抱えて生きてきた乃木大将、その彼が明治の終焉時に明治天皇に殉死して切腹自殺したとき「太平洋戦争」への道が開かれたのである(三島由紀夫の切腹自殺はこの「乃木大将の殉死」の再現を狙ったものであった。三島は自分が腹を切ることにより日本人の中に眠っていた「武士の魂」を再び蘇らせようとしたのである。しかしこれは三島的な頭でっかちの計画であり、乃木大将のような「至誠」も無かったために失敗に終わったが)

次に時代を遡り西南戦争の時代を描いてゆく。この時代は西郷派と文明開化派が日本の未来をめぐって激しく争った時代であった。この西郷と文明開化派の激烈な闘争をドキュメントタッチで描いてゆきたい。いったい西郷は何を思い何をしようとしたのか。それが中心テーマとなる

西郷派が敗れたあと文明開化の時代が始まる。この文明開化ー形や内容を変え、今でも脈々と続いているーその文化的本質は何なのか。それに迫ってゆきたい

大正時代に入ると日本に豊かな繁栄の時代が訪れるが、しかしその裏では世界的なパラダイムシフトが起こっていた(ちょうどバブルのあとの米ソの冷戦終結の時のような世界的大変動であった)。その結果日本はもう文明開化政策ができなくなってしまったのである。大正時代の束の間の繁栄の後には日本を滅ぼしかねないほどの破滅的な危機が次から次へと押し寄せてきた。文明開化派はそれに対処することができず、失策に失策を重ねていったのである。文明開化の欠陥と限界が露呈した形となり、日本は破滅の淵に立たされることになったのだ

このとき沸き起こって来たのがかつて西南戦争で滅ぼされた西郷の理念である。それはものすごい運命的とも言える力で日本人の中から沸き上がって来て、やがて「軍部」という形をとって日本全体を支配していった。かつて滅ぼされたお返しとばかりに文明開化派を弾圧してゆき、日本の支配権を獲得したのである。そして太平洋戦争に突入していった。この経緯も歴史的事実を考察しながら解明してゆきたい

この「太平洋戦争」のあとふたたび『こころ』に戻り、最終章の「先生の遺書」を書いてゆく。この「太平洋戦争」のあとだからこそ「先生の遺書」という謎のような章が理解できるようになるのである。それは「先生」の行った「もう一つの殉死」の意味を問うことであり、太平洋戦争への道とは異なる日本が本来歩むべきだった「もう一つの道」を明らかにすることなのだ。対立や戦争や滅ぼし合いの道ではなく、対立するものを調停し融合してゆく道ー日本における「愛の実現」の道ーそれを指し示しているのが「先生の殉死」であり、『こころ』という小説の本質なのである

これから書いてゆくあらすじ 2

2023-04-06 08:23:57 | 日本文学の革命
そしていよいよ『こころと太平洋戦争』に取りかかる。今からもう書きたくてウズウズしているこの作品にいよいよ取りかかることができるのである!

夏目漱石の『こころ』は「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」の三章から成り立っているが、まずは「先生と私」から論じてゆく。ここで描かれているのは「先生」という謎のような人物である。その大きな特徴は「何もしない」人物であることだ(実際には「何もできない」状態に追い込まれていたのである)

東京の街の片隅で奥さんと一緒にひっそりと暮らしているだけの人物で、仕事もしないし(親の遺産のおかげでつつましく暮らしていけるだけの収入は持っていた)、趣味や娯楽に打ち込むこともないし、社会とほとんど何の関わりも持たず、家に引きこもっているだけの人物なのである。帝国大学を卒業したエリートであり、弟子である「私」を感服させるほどの学問や教養を持っているのだが、それを用いて何かをしようとすることもない。ただ家の中にひっそりと隠れるような生活をもう何十年も続けてきたのである!先ほど「引きこもり」という言葉を使ったが、まさに彼の客観的状態は「引きこもり」であり「対人恐怖症」でさえあるのだ。今日の日本社会でも「引きこもり」や「対人恐怖症」は日本人の巨大な病理と成っているが、先生もまたそのような病理を抱えていたのである。『こころ』はこの「引きこもり」や「対人恐怖症」が如何にして生じたのか、その発生のメカニズムを解き明かす小説でもあるのである

また「先生と私」は純粋な師弟関係が生じる物語でもある。「先生」と「私」との間にーフォーマルなものではないがそれ故にむしろ純粋なー「師」と「弟子」の関係が生じたのである。「私」は鎌倉の海水浴場で初めて「先生」と出会ったのだが、その時「先生」から何か深淵なもの、こちらの魂に響くもの、興味関心をかき立てられるものを感じたのだ。よく子供や若者はこういう鋭い直感力を発揮するものだが、この場合もまさに正しい直感であり「先生」はまさに「深淵」なものを抱えていたのである。その頃の「先生」はもう完全に追いつめられていて、あと残された道は死ぬしかないというところまで来ていた。そんな時に現れたのが帝国大学に通う20歳の学生であり、正直で真っすぐで前途有望な若々しい若者だったのである。しかも彼は「先生」が誰も寄せつけなかった秘密の場所ー「Kの墓場」に現れたのである!「先生」にとってもこの若者は特別な存在になっていった。「私」は「先生」から教えを乞いたいと願い、何か自分の本当の血肉となるような痛切なものを求める。「先生」は自分の経験・自分の魂をこの若者に注ぎ込み、自分ができなかったことをこの若者に実現してもらうよう望むようになる(実際には『こころ』という小説を読んでいるすべての読者がこの「私」の立場に立つことになる)。二人の間に一つの純粋な師弟関係が形成されたのである

第二章の「両親と私」は、「私」が大学を卒業したあと(当時の学制では6月が卒業式であった)北関東の郷里に帰って死んでゆく父を看取るひと夏の物語である。一見すると個人的出来事を描いているように見えるが、実はここで描かれているのは「明治の終焉」であり、父の死は明治天皇の死と重なっているのである。「明治の終焉」の現場・東京から遠く離れている田舎だからこそ、この重大な出来事が「謎のような大きな影」として浮かびあがって来るのだ。明治天皇の死からしばらくして今度は乃木大将の殉死のニュースがこの田舎にも届いて来る。この「乃木大将の殉死」は『こころ』の中で最も重要なキーワードである。というのは「先生」の自殺は乃木大将と同じように明治天皇と「明治の精神」に殉死したものであり、「先生」の殉死は乃木大将に対抗する「もう一つの殉死」だったのである。『こころ』という小説はまさにこの「先生」による「もう一つの殉死」を描くために作られたものなのだ

これから書いてゆくあらすじ 1

2023-04-06 08:16:35 | 日本文学の革命

結構長いこと投稿して来なかったが、別に死んだ訳でも諦めた訳でもなく、毎日必死になってがんばって前へ歩み続けている。今や僕の毎日の生活の全て、この人生の全て、泥臭い言葉で言えばこの命の全てをこの事業に捧げているので、毎日の一刻一刻で歩んでいない時はないほどなのである。もちろん快調に歩める日もあれば、悪戦苦闘しても数メートルしか進めない日もある。しかし日々進んでいることは事実である。具体的な目的地もはっきり見えている。この歩みを続けていれば、必ず辿り着けるはずだ!

ここでこれから書いてゆくあらすじを述べてみたい。おそらくもう変更することなく書いてゆくことになるからここで述べてもいいだろう

まず『電子同人雑誌の可能性』についてだが、今は「数学とは何か」を書いている。「外界」との関係において数学がいかに発生したのか、数学一般はどのような特徴を持っているのかなどを書き、エジプトの数学やメソポタミアの数学、イスラムやインドの数学などをあらためて取り上げて数学というものの本質を論じてゆきたい

ついで「ギリシャの数学」を書いてゆく。ギリシャ数学の特徴を成しているのはそれが「物の形の数学」であることだ。エジプトの場合は「石」でありメソポタミアの場合は「天空の星々」であり、イスラムの場合は「謎のX」、インドの場合は「0と三角法」がそれぞれの数学の根源を成していたが、ギリシャの場合は「物の形」が彼らの数学の根源を成しているのだ。これは前に書いたギリシャ文明の根源的魂「肉体の聖化」が影響しているのである。数学が苦手で、学校時代には図形や証明でさんざん苦められてきた僕が書くのだから、厄介な話だがなんとかがんばろう

ついで「中国と日本の数学」も書いてゆく。ここにも独特の数学があり、いわば「非合理的な数学」ー決して合理的には割り切れず、逆にそういう合理性を拒否してしまう数学ーが中国や日本では発展していたのである。これも書いてゆこう

このように世界の数学を一覧したあと、いよいよ西洋数学が来る。まずは「関数とコンピュータの構造」を書いてゆく。コンピュータのマシン的構造を具体的に論じてゆき、その数学的本質が「関数」であることを論じようと思っている。コンピュータとはいわば機械化されハイテク化され全世界を覆うほどに巨大化した「関数」に他ならないのである

そしてついに西洋数学そのものを書いてゆく。まさにこの「関数」こそが西洋数学の中核を成しているのである。この「関数」とは何なのか。一体どこから生じてきたのか。それを問うことはまさに西洋数学とは何か、その本質は何なのかを解き明かすことなのである。今まさにこの西洋数学とそれを体現したコンピュータが世界の全てを支配しようとしているのだから、その正体を明らかにすることは今日的で切実な問題であるだろう

最後に「賞取りシステム」とは何なのかも短く書いてしまいたい。もともと今や時代遅れになったこの「賞取りシステム」を克服するために「電子同人雑誌」を考案したのだから、最後に原点回帰してこれを書いてしまうことも必要なことだろう

これでようやく長い年月を費やした『電子同人雑誌の可能性』が完結することになる(笑