「日本文学の革命」の日々

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あと1、2年で「奇跡のドア」を開いてしまおう!

2023-06-07 12:47:02 | 日本文学の革命
誰もがそうだろうが、落ち込んだり、へこんだり、鬱々となったり、絶望的な気分に捕らわれたりすることが僕にもよくある。最近もそういう事態に落ち入り、鬱々として暗い気分に捕らわれていた。そんなとき漱石の『こころ』をあらためて虚心坦懐に読み返してみた。これから『こころと太平洋戦争』として書いてゆくものが、本当に正しいのかどうか、間違ってはいないだろうか、あらためて見極めてみようとして読んでみたのだ。「先生と私」「両親と私」と読み進んでゆき、最大の問題の章「先生と遺書」を読んでいった。果たして『こころと太平洋戦争』は書いてゆけるだろうが、書くだけの価値があるものだろうか、そういう問いかけを持ちながら挑戦するような覚悟で読んでいったのである

そうして読み終わったとき、はっきりとした確信を得ることができた。『こころ』とはまさに“それ”だ。“それ”を描き出すために漱石は『こころ』を書いたんだ。『こころと太平洋戦争』は書くことができる。実に立派な作品にすることができる。やった!漱石が後押ししてくれている。漱石に救われた!そういう確信を得ることができたのである。鬱々とした感情など吹き飛んでしまい、猛烈なやる気が湧き起こってきた

以前から気になっていたのだが『こころ』には「関さん」という人物が登場してくる。「両親と私」の章に出てくる「私」の妹の夫にあたる人物で、妹が妊娠中の身重の体で父親の看病に来れないから代わりに来たという設定になっている。別にセリフも何もないただ「来ている」だけの人物なのだが、「関さん」という名前は気になるところである。ことに『こころ』という小説は「私」「先生」「K」など固有名というものが全くない小説で(例外は「先生」の奥さんであり彼女には「靜」という固有名がある。これは乃木大将の妻が「静子」なので乃木大将と「先生」の関係を暗示するために例外的に付けたのだろう)、それによってこの小説が実は「こころの中の出来事」を描いたものであるという一種の抽象的な効果を発揮している。そんな固有名のないところに「関さん」なのだから「関場」の僕にはやはり気になってしまう

実は『明暗』にも「関君」なる人物が登場してくる。これは『明暗』の一番最後の所、漱石が生前書いた最後の文章に出てくる人物で、主人公の津田が清子と対話しているとき清子の夫として出てくる名前である。出てくると言っても文字通り名前だけで「朝から晩まで忙しそうにして」「いや僕のいうのは善い意味での酔興ですよ。つまり勉強家という事です」などという会話の中にヒョコっと顔を出すものに過ぎないのだが、やはり僕には名前を呼ばれているようで気になってしまう

まあ 描写する必要もないどうでもいい端役に名前を付けたのが「関さん」や「関君」なのかも知れないが、これから書いてその真の意義を明らかにしようとしているのが『こころ』だし、未完成に終わった『明暗』を完成させようともしているし、僕には何か因縁めいたものを感じずにはいられない。この「関さん」や「関君」もまた漱石が与えてくれた後押しの一つと見なして、がんばってゆきたいところだ

『こころと太平洋戦争』が書けると分かった以上、もうできないものは何もない。『電子同人雑誌の可能性』と『こころと太平洋戦争』を週3日のペースでバンバン書いてゆくことができるし、電子同人雑誌の発行も人々の協力さえ得られればドンドン実現できてしまう。「新しい文学」も今や「王手!王手!」の詰将棋の状態で、やればやるほどゴールが近づいて来る。もう全てはできるのである

あと1、2年もあれば、全てを実現させて「奇跡のドア」を開くことが十分に可能である。ついに目指すものが見えてきた。「奇跡のドア」にはすでに手がかかっているし、少しずつだが押せば押すほど開いてゆくのが分かる。長年の夢を実現させるのは、まさに今だ!

あと1、2年ひたすら押しまくって、「奇跡のドア」を今ここで押し開けてしまおう!