「日本文学の革命」の日々

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電子同人雑誌の可能性 139 「同人雑誌の本質」

2018-04-28 06:34:41 | 日本文学の革命
またこのような給料制的定期収入は、団体のメンバーには強大な経済的束縛ともなるのである。人は誰しも給料には弱いものである。給料を手にしたときは心からホクホクして、さあ今日は何か御馳走を食べようとか何か買い物をしに街に出かけようとか、嬉しくなるものである。逆に給料が断たれたときは目の前が真っ暗になり、ああこれからどうしよう、家賃や家のローンが払えなくなる、毎日の生活費にも事欠くようになる、このままではホームレスに追い込まれる、もう終わりだおしまいだ、と絶望してしまうものである。給料を断たれるということは現代の人間にとって死に直結するほどの重大事なのである。

しかしまあ人間というものは案外たくましいもので、給料を断たれたぐらいではすぐには死なないものなのだが。食べ物がないなら野山に出かけていってウサギやイノシシを狩って来ることができるし、栗や木の実を拾うこともできる。川や海に出かけて魚を釣ったり突き刺したりすることもできるし、海の底にもぐって貝やアワビを取ってくることもできるのだ。家がないなら木を切り倒して手作りのログハウスを作ることもできるし、着るものがないなら動物の皮を剥いでなめして毛皮を作りそれを身にまとうこともできるのである。現在の人類が誕生して20万年ほどになるというが、そのほとんどの期間を人類はこのようにして生きて来て、槍一本を手にして家族を引き連れて、世界中に拡散して行ったのである。現代の人間にもこのようなたくましいパワーは残っているはずだし、ロビンソン・クルーソーや『サバイバル』の少年のように何かの拍子で自然の中に取り残された人間は、たちまちこのパワーを取戻してたくましく生きてゆくものなのである。人間は給料を断たれたぐらいでは死なないのだ。

ちなみに会社を首にされて困ったあげく自殺するという者が跡を絶たず、リストラが横行する現代日本ではますます増えているが、実際に命を絶った人にはからかっているようで申し訳ないのだが、これには大きな論理的矛盾があるのである。
会社を首にされて何が困るのか。給料が断たれるからである。給料が断たれて何が困るのか。食えなくなるからである。食えなくなって何が困るのか。食えないと死んでしまうからである。とここまで論理的連関をたどってゆくと、会社を首になって困るのは死んでしまうからである、という結論に到達する。
しかしここでおかしな論理的矛盾が起きるのだ。会社を首にされて自殺するとは、会社を首にされる=死んでしまう、それが困るそれが怖い、だから自殺する、ということになってしまう。つまり死ぬのが怖いから自殺するという妙な矛盾に落ち入ってしまうのである。
会社を首になって自殺するとは、このように論理的には破綻しており、また実際的にも先に述べたように人間はたくましいもので会社を首にされたぐらいではそう簡単に死なないのである。会社を首になって自殺することには、何かもっと別の原因があるのだろう。おそらく精神的なものであり、会社的価値観、会社的世界観を絶対のものと思い込み、それからはずれたら生きていけない、生きる価値がない、と絶望し、そのあげくに自ら命を絶つのだろう。一つの絶対を要求する価値観が人々を追いつめているのである。

電子同人雑誌の可能性 138 「同人雑誌の本質」

2018-04-25 05:27:16 | 日本文学の革命
同人雑誌内のメンバーには厳格な肩書や位階や序列が存在しない。また強大な規律も存在し得ない。そしてそれと並んでもう一つ、それらのものに優るとも劣らないほど強大な力―これがあったらメンバー全員を意のままに支配できるほどの―が同人雑誌内には存在しないのである。それは経済的束縛である。より具体的に言えば同人雑誌のメンバーはその活動を通して定期収入を得ていないのである。明確に規定された報酬を得ていないし、それを目当てに働いているわけでもないのである。ぶっちゃけ言って給料制が存在しないのだ。

たとえばある同人が自分はこれだけの記事を書いたんだからこれだけの報酬を寄こせ、これだけの時間雑誌のために働いたんだから時給換算してこれだけの給料を寄こせ、と当然の如く要求するのは、同人雑誌では有り得ないのである。それはボランティアに来た者が働いたあとで金品を要求するのと同じくらいあり得ないのである。同人雑誌に集まって来た者は金目当て給料欲しさでやって来た訳ではないのである。もちろん同人雑誌は発売されるメディアであり、売れたらいいなあ、いっぱいお金が入ってきたらいいなあと思うのは人情である。しかし第一次的にそれを目当てに行動しているのではないのである。

もし同人雑誌のメンバーに給料制的に定期収入が支払われたら、たちまちこの団体は会社組織みたいになってしまうのである。人々に毎月毎月給料を支払い続けるということはたいへんなことである。前に書いたが出版社のような会社組織が雑誌を制作・運営するためには億単位の金が必要となるのである。アバウトな同人雑誌ではそんなにかからないだろうが、やはり重大な圧力になるだろう。勢い雑誌の運営は経済的利益を優先するものになるだろう。売れる雑誌が第一義的に目指されることになり、経済的利益の確保や拡大が優先されるようになる。売れそうもない企画やアイデアはスルーされたりつぶされたりするようになる。団体のメンバーには経済的能率性が求められ、経済に効果のない交流や交際や無駄話などは極力抑えられるようになる。経済的利益という一つの合理的目標が追及されることになり、メンバーはそれを実現するために一つの組織体として整然と動くことが要求されるのである。要するに一つの会社組織と変わらない存在になってしまうのである。

電子同人雑誌の可能性 137 「同人雑誌の本質」

2018-04-18 05:35:42 | 日本文学の革命
これがネット環境で成立する電子同人雑誌となると、さらに決定的になる。「鞭」を振るうためには最低でも相手が「鞭」が届く範囲内にいてくれる必要があるのだが、ネット環境ではそれすらも確保できないのである。ネットで結ばれている相手は、通常そばにいないことが多い。相手は札幌にいるのかも知れないし、熊本にいるのかも知れないし、この国際化時代パリにいるのかも知れない。インターネットのテクノロジーによってまるですぐそばにいるように緊密に接することはできるが、しかし実際にはそばにいないのである。もし物理的にそばにいたなら「ちょっと来て」と相手を裏に呼んで、いきなり胸ぐらをつかんで「テメエそんなことしていいと思ってるのか!」とどやしつけて規律を守らせることもできるのだが、ネット画面だけでつながっていて物理的に遠く離れている相手に対しそんな手段を取ることはできないのだ。物理的基本的に「鞭」の振るいようがないのである。

しかもネットでつながっている相手はしばしばどこの誰か分からないのである。顔も分からない、本名も分からない、どこに住んでいるのかも分からない、現われては消え、消えては現われ、つかみどころもない存在なのである。そんな存在に対して「鞭」をぶち当ててやろうとしても、もぐら叩きゲームをするよりももっと難しいだろう。しかも運よく「鞭」をぶち当てたとしても、それで相手が大人しく規律に従うようになるかというと、そんなことはない。「鞭」で叩かれて怒った相手は、「ぷつりと消えてしまう」というネットユーザーの得意技を行使するだけだろう。つまり「鞭」を振るっても何の成果もあげられず逆効果に終わっただけなのである。
たまにおとなしく鞭打たれ続け、厳しい言葉や脅しに従順に従い、もっと打ってという素振りさえ見せてくる相手がいるかも知れない。しかし実は裏でチャッカリそれらの言葉や脅しを録画録音していて、それをネットやマスコミに流し、鞭打ってきた相手を逆にさらし者にしてやるという挙に出て来るかも知れない。ネットユーザーとは黙っておとなしく鞭打たれるような存在ではないのである。

どうかすると「愛の鞭」すら受けつけないのである。出会い系サイトなどで「親とケンカして家出してきました。泊まるとこないです。泊めてくれる人募集してます(17歳女子)」という書き込みがあったとしよう。するとエサの匂いを嗅ぎつけたシャチのように、美味しそうな小羊を見つけた狼の群れのように、男どもの書き込みがわんさと集まってくるはずである。そんなとき誰か心ある人間が少女をたしなめようとして「君。この書き込みをしてくる男たちはやさしさや親切でして来るんじゃないよ。君のことを大切になんか思っていないよ。君のことをほんとに大切に思っているのはご両親なんだから、今はケンカしていてもご両親のもとへ帰った方がいいよ」と愛の鞭的に叱っても、おそらく何の効き目もないだろう。「コイツ ウザい」と思われるだけで、スルーされるかメッセージ送信を不可にされるかだけで終わるだろう。

電子同人雑誌の可能性 136 「同人雑誌の本質」

2018-04-14 06:12:07 | 日本文学の革命
しかし同人雑誌では厳格な肩書や位階や序列が存在しないように、このような強大な規律も存在しないのである。存在し得ないといってもいい。

規律を守らせるためには何らかの形での「鞭」が必要となる。幼い子供に規律を守らせるためには、叱りつけたり、引っぱたいたり、廊下に立たせたりして「鞭」を振るう必要がある。会社員に規律を守らせるためには、降格をチラつかせたり、首で脅したり、将来の生活不安を煽るという形で「鞭」を振るうのが効果的である。北朝鮮のような社会には、あの一糸乱れぬマスゲームが象徴しているように強大過ぎるほど強大な規律が存在しているが、その分「鞭」の方も強烈であり、少しでも規律に従わない者はただちに強制収容所にぶち込まれるか公開処刑されてしまうのである。よく北朝鮮のテレビで金家の指導者が現われると、人民たちが両手を挙げて喜んで、足を跳ね上げて踊り騒いでいる光景が映されるが、何が悲しくて彼らがあんなマネをするのかというと、あれをしないと彼らも彼らの家族もたちまち殺されてしまうからである。そのような恐ろしい「鞭」が彼らの喜びのパフォーマンスの背後に控えているのである。

しかし同人雑誌では規律を守らせるためにこのような「鞭」を振るうことはできないのである。もともとが趣味や志ざしを共通にするところから自発的に集まった仲間的な団体なのである。雑誌を制作するという共通の仕事はあるとしても、それは自分の趣味を楽しみたいからやるのであり、ボランティア的な気分でやるのであり、また仲間との交流を楽しみたいからやるのである。どこのどいつかによっていちいち鞭打たれるいわれなどどこにもないのである。鞭打たれるということは痛いことであり、不快なことであり、屈辱的なことでもある。同人雑誌でそんなことをしたら―サドマゾ愛好会のような一部の例外を除いて―たちまちみんな去ってゆき、その雑誌は雲散霧消してしまうだろう。

電子同人雑誌の可能性 135 「同人雑誌の本質」

2018-04-11 05:07:00 | 日本文学の革命
この同人雑誌という「魂によって結びついた自由な共同体」の内部に分け入ってみよう。
まず目につくのは、この団体のメンバーには厳密な肩書や位階や序列が存在しないことである。考えられる肩書としては、雑誌を創刊して全体を運営している代表があり、その雑誌に寄稿したりして制作に関わっている同人があり、その雑誌に同人ほどではないが様々な形で参加協力しようという協力者があり、またその雑誌を購読してやって時々応援メッセージを寄こすような購読者があり(マスコミ的雑誌とは異なり、同人雑誌ではこの購読者もメンバーの一人に数えても差し支えないのである)、だいたいその程度である。
しかしそれらも絶対的なものではなく、代表は複数いてもいいし、コロコロ変わってもいいし、今までは同人だった者がいつの間にか代表になっていてもいい。同人と協力者との間も流動的で、同人として積極的に活動していた者が次第にフェードアウトしてゆき協力者だった者がどんどん能動的に参加し始める、ということがあってもいい。購読者との間も流動的で、今までは雑誌を購読して黙って読んでいただけの者が突然「オレにも参加させろ!」と言い出し、やらせてみたら見事な成果を挙げたので、同人一同満場一致で彼に代表の座を任せる、というようなことがあってもいい。

これが会社組織だとこういう訳にはいかない。そこでは通常厳格な階層組織が存在するし、明確に分割された役職や権限が存在する。どの人間がどのような役職に就いていくかという昇進システムも明確に規定されていて、キャリアやノンキャリア、高学歴やそうでない者、正規や非正規の身分的区別も厳格である。それまで部長だった者が突然ヒラになるなどということは普通起こらないし、起こるとしたらリストラ人事か報復人事だけである。また社長が突然よく分からない形で代わるなどということはやはり普通起こらないし、起こるとしたらつぶれそうな会社か外部の資本に乗っ取られた会社かだけである。
会社組織は目的合理的に編成された組織であり、一つの精密機械のように整然と動くことを理想としている。組織のメンバーが思い思いに勝手な行動をしていたら、それは不良部品満載の機械やバグだらけのプログラム同然で、まともに動くことができずにすぐに破綻してしまうのである。だからこそ会社組織には厳格な階層的秩序があるのであり、またメンバー全員を律する強大な規律が必要とされるのである。