「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

ラストスパート 3

2014-04-26 04:48:24 | 日本文学の革命
一番重要な仕事、夏目漱石の全作品を明らかにする、という気の遠くなるような仕事に取りかからねばならなかった
日本文学全体も理解してゆかなければならなかった
古典文学全体も理解してゆき、日本の歴史も独自の観点から把握していった
西洋文学の本質を捕え、シェイクスピアやドストエフスキーやトルストイの文学の秘密にも迫らなければならなかった
絵画や音楽の理解も深めていった
ジェームズやユングなど、漱石に近い思想家の研究も学んでいった
シュペングラーやウェーバーなど「五蘊」を西洋的に解析してくれる思想からも、実に多くのものを学ばせてもらった
数学や科学などの苦手な分野にもチャレンジし、量子力学がどうも「五蘊」らしい、という観点も得た
当時勃興してきたコンピューターも学び、それを利用して「日本文学の革命」という運動も始めた
とりわけ重要なのが、仏教や老荘だった。『文学論』の本質が「仏教と西洋文学の融合」「五蘊と言語の融合」だったので、まさにこれが本丸だったのだ
この「五蘊と言語の融合」は困難極まる作業だったが、これがまさに出来るようになったので、今ラストスパートが始まったと言ってるのである

長い長い歩みの果てに、ついにゴールが見え、ラストスパートが始まった
今度こそ、これを実現してしまおう!

ラストスパート 2

2014-04-26 04:44:03 | 日本文学の革命
当時「反外国主義運動」は桑田佳祐たちが大々的に行っていて、僕がやる必要性はもうどこにもなかった
また当時から「反外国主義運動」は、今は大々的に活躍しているが、しかしこのままではいずれ行き詰まってしまうと予測していた
決定的なものが開けないまま、反対勢力の巻き返しに会って、つぶされてゆくだろう、と
この決定的なものを開く力は日本文学が持っている
ならば僕が今すべき仕事は、今から日本文学の可能性を切り拓いてゆき、日本文学がこの決定的なものを開けるようにその発展を促してゆくことだ
そう思い、今まで進んできたのだった

しかし今思うと、多少後悔している所もある
必要があろうがなかろうが、あのまま「反外国主義運動」を続けているべきじゃなかったろうかと
当時「反外国主義運動」は、社会に衝撃を与え、爆発的な勢いで盛り上がっていたから、その波に乗って更に街頭活動を続け、出版社への働きかけも強めていたら、ブレイクすることも十分に出来たからである
なにしろこの運動を一番最初に始めたのは僕だったし、文学界でこの運動をやっているのも僕しかいなかった(その後もついにひとりも現れなかった)から、その可能性は十分にあったのである

しかし当時の僕は、ピュアで理想に燃える若者だったから、必要もないのに、ただ自分の立身出世のためだけに運動を続けること自体が嫌だった
目の前に「日本文学の新たな発展」という大仕事があるのに、それをうっちゃって街頭活動を続けることに情熱も関心も見い出せなかった
誰もやらないのなら、実際にやったようにたった一人でも街頭に立ってやり抜くが、桑田佳祐たちが大々的にやっている今、なぜ自分がやる必要があるのか
そんなこんなで、「反外国主義運動」が爆発的に大ブレイクしたとき、僕自身はこの運動から身を引いてしまったのである

どっちがよかったかは今も分からない
波に乗ってうまく職業作家になれたとしても、社会的なパフォーマンスに追われ、本質的なものがない作品を生活のために量産するよう強いられたら、生活苦はなくなるだろうが、本来の目的は達成出来なかったかも知れない
ともかく僕が始めたのは、周囲からの無理解や敵意や嘲笑さらには生活苦にさらされながら、地道に粘り強く、「日本文学の新たな発展」という仕事をコツコツと続けてゆくことだった(この間桑田佳祐たちの励ましの歌にどれだけ励まされたかは分からない。彼らとの精神的絆があったからこそ、今まで頑張ってこれたのだ)

ラストスパート 1

2014-04-26 04:41:45 | 日本文学の革命
長い長い年月やってきた「日本文学の革命」運動も、ついにようやくゴール目指してのラストスパートの段階に入った!
すべてが出来るようになり、すべてが一つの方向(つまりゴール―目標の実現)に向けてフル稼働するようになり、あとは突き進んでゆけばすべてが実現できる

思い返せばもうずいぶんと遠い昔、漱石の『文学論』との出会いが始まりだった
そのころの僕は、処女作『ふたつにしてひとつのもの』を書き上げ、それに続いて渋谷の街頭に乗り出して「反外国主義運動」を行っていた
燃え上がるような情熱にあふれた、熱い日々だった

ただあまりにも文学と運動にのめり込んでいたために、仕事なんかしている暇はない、とアルバイトを辞めてしまい、わずかな貯金だけで食いつないでいた
その貯金もなくなると、両親に「頼むから金を送ってくれ」と金を送ってもらい、なんとか運動を続けていた
しかしそれでも家賃が払えなくなり、滞納が一年分を超えたころ、ついに大家さんから「出ていってくれ」と言われ、住んでいたアパート(いまでも懐かしい日野の近く多摩丘陵沿いの自然豊かな所であった)を追い出されてしまった
仕方なく足立区にある両親の家に転がり込んだのだが、『文学論』との出会いはそこでであった

『ふたつにしてひとつのもの』を書いていたころから、日本文学を“発見”していた。自分のしていることが日本文学の伝統に則っていることも、今自分が書いているものが漱石の『明暗』と本質的に同じであることにも気づいていた。その日本文学がさんざんに書き尽くされ、手垢にまみれて衰退状態にあることも、しかしそれでも日本文学には大きな発展の可能性があり、とりわけ「反外国主義運動」が成功するかどうかは日本文学のこの発展にかかっていることにも気づいていた

そんな中、何か暗示でも受けるように気にかかっていたのが、漱石の未完の大著、難解で誰も分からない謎のような書物、『文学論』だった
ここにすべてを開く鍵が眠っているのではないか、そんな漠然とした思いがあったのだ
当時の僕は全く金のない状態だったので、いまは亡き母が一万円を出してくれて、『文学論』を取り寄せてくれたのだが、それが『文学論』との出会いだった

苦心惨憺してこの超難解な書物を解読してゆき、そしてここに決定的な鍵が眠っているという確信を得た
この未完成の書物を完成出来たとき、日本文学は再生し、「反外国主義運動」も成就し、新しい文学世界を開くことができる
この確信をもとに今まで行ってきたのが「日本文学の革命」運動だったのだ