「日本文学の革命」の日々

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全集中常駐で行こう

2023-03-11 11:25:08 | 日本文学の革命
『電子同人雑誌の可能性』そして『こころと太平洋戦争』をドンドン書いてゆくことができるようになった🎵

どのようなものを書いてゆけばいいのかはっきりと見えているし、書くための材料や手段も揃えることができた。そして書いていける自信も十分にある。これからこの二つの大著を次から次へと書いてゆきドンドン完成させてゆこう!

その際スピードも大切である。毎日は無理としても週3本ぐらいのペースで書いてゆき、できるだけ早く完成させてしまいたい。世の中を驚かせるほどのものが書けそうである!(笑

この二つの作品を書いてゆくことは確かに実に困難なことである。内容が多岐に渡り、実に広大で難しいことを書かねばならない。小説を書いているときのように思いや感情にまかせて好きに書いていい訳でもなく、コンピュータの構造だとか、『こころと太平洋戦争』では歴史的な史実だとか、そういうものを正確に調べた上で書かなければならないので、余計手間暇がかかる。全精力を集中させて厳しい戦いをしなければならないのだ

そこで「全集中常駐」で行こうと思う。『鬼滅の刃』では(近くのショッピングモールの映画館でワールドツアー上映を観てきた(笑 『刀鍛冶編』も楽しみである)ここぞという時に繰り出す必殺技として「全集中!」を発揮して相手に立ち向かってゆくが、柱クラスになると常日頃から「全集中」状態にあるのだという。普段の生活においても「全集中」を保っており、食事をしている時も談笑している時も眠っている時(!)でさえも「全集中」状態にあるのだそうだ。これを「全集中常駐」と呼び、強力なパワーを生み出す奥義なのだという

まあ要するにいつでもマックスな臨戦体制にいて文学という戦いに挑もうという訳である。常に意識を書くことに集中させ、食事をしている時も談笑している時も働いている時も眠っている時でさえも心のどこかで常に今日書くものを思い描いている。造次顛沛の際にも決して忘れない。意識で集中するだけでなく無意識のレベルで抱き続けるのである。まさに全存在をもって書くことに集中し続けるのだ

このような「全集中常駐」で臨めば『電子同人雑誌の可能性』と『こころと太平洋戦争』を書くという困難な仕事も成し遂げることができるだろう

同時に「電子同人雑誌の発行」もいよいよ始めるつもりである。これも待ったなしで今始めなければならない。アメリカのビジネスマンや起業家は「世界を変える」ような製品やサービスを生み出すと分かると目の色を変えて猛烈に働くそうだが、電子同人雑誌も実現できれば「世界を変える」ようなものに十分なり得る。「本とネットの融合」でもあり、地盤沈下している出版業界に新しい活力をもたらすこともできるだろう。アメリカのビジネスマンにならって猛烈に頑張りたいところである

目の前には実に大きな可能性が広がっている。まさにここが頑張りどころ。「全集中常駐」も駆使して、ドンドン成し遂げてゆこう!

電子同人雑誌の可能性 264 「コンピュータの本質ー数学とは何か 11 」

2023-03-10 16:47:44 | 日本文学の革命
前にも書いたことだが人間を人間たらしめてきた極めて重要な動作に「打つ動作」がある。これは何かをしっかりと握り、ひじを梃子にしてそれを振り上げ振り下ろし、その何かで何かを打ちつけるという動作である。原初の時代ではその何かとは石であり、我々の祖先は石を握りしめ、それをひじを梃子にして振り上げ振り下ろし、それでもって骨を打ち砕いてその中の骨髄を食べていたのである。乾燥期に森林を追われた人類は草原に出てきたが、まだ狩りをする能力を持たず腹ペコでさまよっていた。そんなとき肉食獣が食べ残した動物の骨を見つけ、その中には栄養豊富な骨髄があることを発見し、なんとかそれを食べようとして生み出したのがこの「打つ動作」なのである。この「打つ動作」は今でも人間の労働の基本である。ハンマーで叩いたり斧で切ったりすることはまさにこの「打つ動作」の進化形だし、鎌で刈ったり棒でなめしたりパンをこねたりすることも「打つ動作」のバリエーションである。包丁でトントン切ることも食事を作る際に行われる「打つ動作」に他ならない。様々な「打つ動作」によって自然界にあるものを人間の役に立つように加工してゆくことが人間の労働の基本なのである

この「打つ動作」で主役ともいうべき役割を果たしたのが我々人類の「原初の道具」である石である。この石のおかげで我々は厳しいサバンナを骨髄をすすって生き延びてこれたのである。石によって木の実をかち割ったりすり潰したりして様々な食糧を得ることもできただろう。また石は肉食獣から身を守る護身用の武器ともなったし、放り投げれば攻撃用の武器ともなった。そして決定的なのはこの石を棒の先にくくり付けたときである。このとき槍が誕生したのであり、まさにそれによって人類もまた狩りができるようになったのである。まさに石は我々の生活と生存を可能にしてきた「原初の道具」なのである

しかし石も自然界にあるそのままの形では十分な道具として活用できなかった。十分に活用するためには石を用途に合わせて加工する必要があったのである。そしてその際にも「打つ動作」が大活躍することになった。石を振り下ろし石に打ちつけることによって、つまり「打つ動作」を石に適用することによって、石の加工が可能になったのである。大きな石をガンガン叩いて手頃なサイズになるよう加工してゆく。獲物にズブリと突き刺さるように尖端部分を鋭く尖らせてゆく。深く突き刺さり致命傷を与えられるように全体を鋭利に磨きあげシャープな形にしてゆく。また用途に合わせて目的に適った合理的な加工をしてゆく。マンモスを倒すためには鋭さに加え大きな重量のある重砲弾のような石にしなければならない。鹿やウサギの場合には素早く逃げる相手に合わせて軽量で遠くまで届くシャープな作りの石が求められる。骨や木の実を砕く場合は逆に鋭いものはダメでトンカチのような頑丈な形のものにしなければならない

この石の加工を通して、我々人類は精密な観察力、精妙な手作業、実験的な設計、見事な加工力・造形力を養成していったのである。自然界にあるでこぼこな原石を人間の目的や用途に合うような「理想の形」に作り変えていったのだ。日本の縄文時代のヒスイ石の加工などは実に見事なものである。見事な曲線美になるまで刻まれ磨きあげられたその形はまさに芸術品であり、しかも真ん中にはどうやって掘り抜いたのかと感心させられるほどの美しい穴まで開いてある。これはもう狩りのための加工という域を超えて「理想の形」それ自らを生み出すために作られた純粋な結晶体なのである

この石の加工とともに我々人類はもう一つの武器を手に入れた。それは「火」である。石と石を打ち合わせて石の加工をしているとき、我々の祖先はそこに火花が生じることに気づいたことだろう。石と石とを打ち合わせるとまるで小さな雷のような鋭い光が生じるのである。目にも鮮やかな面白い現象であり、しかも石さえ持っていればいつでも起こせる現象である。はじめは仲間の誰かの顔の近くで火花を発生させて、熱がらせて面白がる程度だったのだが、そのうち乾いた藁屑など可燃性の物の近くでこの火花を発生させると「火」が生じることを発見したのである。この「火」を使えば暖房になるし煮炊きに使えるし、闇の中で輝く明かりにもなり猛獣を追い払う武器としても使える。まさに万能の可能性を持った「原初のエネルギー」を人類は手に入れたのである。しかもそれは石さえあればいつでも発生させることができるのだ。石はその際このような火を自在に発生させるための「原初のスウィッチ」となったのである

電子同人雑誌の可能性 263 「コンピュータの本質ー数学とは何か 10 」

2023-03-07 08:07:04 | 日本文学の革命
我々の周りに広がっている「外界」とは「死と隣り合わせ」の怖しい世界でもある。そこではほんのわずかな不注意や不運でさえも我々に死をもたらしかねないのである。しかし我々はこの「外界」に立ち向かってゆかなければならない。生きてゆくための日々の糧を我々はまさにこの「外界」から得ているのだし、「外界」からそれを勝ち取ってくることで我々の生存がはじめて可能になるのである。家族や友人や将来の伴侶など我々を助けてくれる人々がいるのもこの「外界」である。我々の夢や希望さらにいえば人生そのものを実現できる場所もこの「外界」に他ならない。我々はまさに生きるために「外界」に立ち向かって行くのであり、「外界」とリアルに対峙し、その性質を認識し、そこに存している「法則」を見抜いて自己の生存のために利用しなければならない。それは「外界」と我々との間の生死を賭けた知恵比べでもあるのである

原初の狩猟生活の時代から我々はそれをしてきたのである。まず我々は我々のいる地点を正確に知らなければならない。今自分がいる場所が草原なのか森なのか、あるいは山の中にいるのか海辺に近いのか、はっきりと認識することが生存のための基本である。自分が暮らしている地域が温暖の地なのか寒冷の地なのか、はたまた砂漠や荒野なのか、その性質をしっかり把握しておくことも重要である。太陽の運行や地形から東西南北の方向性を割り出し、どの方向に行けば何があるのかその正確な知識も得なければならない。南の方へ行けば豊かな森があり栗の実やドングリをたくさん拾うことができる。北の方には大きな草原が広がっていて獲物にできそうな動物たちがたくさん行き来している。東の方には川が流れていて水を飲むことができるし川魚やうなぎを捕まえることもできる。西の方にある洞窟が自分の住まいであり、雨風をしのげるし安全に眠れるし、何かあったら逃げ込むことができる貴重なマイホームである。このように「外界」を分析し、その特徴を把握し、生存のために必要な正確な知識を得ることは、我々が生きてゆく上で極めて重要な認識行為なのである

我々は「外界」にある事物も正確に把握しなければならない。栗の実や木の実は煮れば食べることができるし栄養豊富な食糧になる。たわわに実った柿やバナナは最高に美味しいしそのままいくらでも食べていい。しかし毒キノコや毒草を食べてしまったら七転八倒の苦しみを受けるし、二度とそのようなものを食べないよう注意しなければならない。鹿やウサギを見つけたら必死になって狩りをしなければならない。素早く逃げるので捕まえづらいが、捕まえたら肉という最高のご馳走になる。しかし熊や狼に出会ったら今度は自分が必死になって逃げなければならない。ヘタをしたら自分が肉にされてしまうからである。マンモスは巨大な肉の塊であり、これを狩れたら大家族を何ヶ月も養うことができる。しかし物凄く強い外皮やパワーを持っており、個々人が立ち向かっても敵う相手ではない。しかし狩り仲間たちを組織しいわば「原初の軍隊」を形成して集団で必死になって立ち向かえば、なんとか狩ることもできたのである。このように「外界」にあるたくさんの事物を正確に認識し、その性質や特徴をつかみ、それをうまく利用することによって我々は生き抜いてきたのである

この頃からもう「原初の数学」も始まっていた。たとえば4人で狩りをして1頭の鹿を捕まえたとしよう。そのときただちに1頭の鹿を4人で分配するという数学的問題が生じるのである。一頭の鹿を切り裂いて分割し、一人一人に対応するよう分配してゆく。すると4人目が自分の分がないと怒り出した。確かに肉は3人目で尽きてしまっていて、4人目に渡すものがもうない。4人均等に行き渡るためには肉をもう一つ分多く分割する必要があったのである。あらためて肉を分割し今度は4人全員に行き渡ったが、また4人目が怒り出した。なんで自分の肉は筋だらけの脛肉ばかりなのか。胸肉やもも肉などもっとおいしい部分も寄こせと訴えるのである。確かに肉を均等に分配するためには量だけでなく質的にも均等になるよう配慮する必要があったのである。いわば複雑な構成の鹿肉を「単位化」する必要があったのだ。このような原初の時代からすでに、「分割」や「単位化」や「配列」などの数学的問題が生じていたのである