「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

閑話休題 「日本の歴史」

2018-05-30 02:24:45 | 日本文学の革命
毎日毎日いろいろなことに追われて落ち込むこともしばしばだが、『電子同人雑誌の可能性』は明るく楽しく書いている。これは明るい希望や大きな可能性を描こうとするものなので、まず自分自身が明るく楽しく希望に満ちていなければ始まらないからだ。これからもユーモアやジョークを満載して書いてゆこう。
同時にこれを書き終わったあとただちに始める予定の『「こころ」と太平洋戦争』の準備も行っている。これを書く上で最も重要なのは「日本の歴史」である。太平洋戦争の根本原因も、つまるところ「日本の歴史」に発しているからである。

よく日本の歴史なんかに興味がない、歴史など自分とは全然関係ないと思っている若者がいるが、そんな若者に対しては「歴史をなめちゃダメだぞ。これまで2千年の間日本の歴史でおこったこと、そのすべてが君の中にも流れ込んでるんだぞ」と言ったりするが、これは僕の基本的な信念である。
実際にわれわれ一人一人の中には今も日本の歴史が息づいているのである。気づいていないだけだと言ってもいい。たしかにそれはわれわれを制約する重みではあるが、同時に今現在のそして未来へ向けての“無限の宝物”でもあるのだ。

『「こころ」と太平洋戦争』に必要なのは「日本の歴史」である、ということで今中公文庫の『日本の歴史』を読み返している。これは1960年代から70年代に出版されたもので、50年も前に書かれた古いものだが、今読んでも実に面白いし斬新な感じすらする。戦争中の皇国史観から解放された当時の新進気鋭の歴史学者たちが、思いっきり新しい目で日本の歴史をとらえ直したいという溌剌とした情熱で書いたからだろう、今でも新鮮であり、名著であると言っていい。
これを読みながら日本の歴史の実相に思いを馳せ、そしてそのすべてを『「こころ」と太平洋戦争』に“注ぎ込み”たい。これをすればするほど『「こころ」と太平洋戦争』として書いてゆくものが厚みを増すからである。

今から書きたくて書きたくて腕がムズムズ(ウズウズ?)している。

閑話休題 「ネット詐欺 ?」 2

2018-05-29 05:22:29 | 日本文学の革命
3千円利用しただけなのに請求額が「10万9千円」…

何かの間違いなのではないか。
初めて出した広告なのでこっちが間違った広告の仕方をしたのか。たとえば広告対象を「全世界」にしてしまったとか。しかし送られてきた領収書メールを合計しても3千円弱にしかならない。

次いで頭に浮かんだのが「詐欺に引っかかったのではないか」というものだった。ネット詐欺でこのような不当な高額請求をしてくることはよく聞くところである。請求額が「10万9千円」というところもあやしい。これは僕のカードの利用上限額と正確に一致するのである。カードで奪い取れるだけのものすべてを奪い取ってやろうとする意図が感じられる。

しかし天下のフェイスブックがこんなあからさまな詐欺をしてくるだろうか。
実は今までやってきた広告のすべてがフェイクで、その背後に詐欺集団がいたのだろうか。それにしてもカードの口座情報はフェイスブックしか知らない筈なのに(僕は貧乏なのでネットでの買い物などまるでしない。口座情報をネットに流したのはフェイスブック広告をしたいためだけだったのである)、フェイスブックから口座情報が流出したのだろうか。

ともかくフェイスブックに問い合わせしようとしたのだが、コールセンターなど何もないのでどこに問い合わせていいのかも分からない。領収書メールも機械が自動的に送ってきたものだとかで返信不可である。ようやくヘルプセンターのコミュニティーとかいうところでメッセージを送れたので送ってみた。何日かして「nana」と称する人物からメッセージが届いたのだが文面から察するところフェイスブックの専属スタッフらしい。「調べましたところ確かにお客様の利用額と請求額との間に乖離があるみたいですね」と書いていた。「乖離」どころじゃねえよ!と頭に来たが、ともかく調査して「乖離」があることを向こうが認めたことにはホッとした。しかしこれ以上は金銭が関わることなので別のところに相談して下さいと、振りだしに戻されてしまった。

また相談できるところを探したのだが、なんのことはないホーム画面の「問題を報告」から相談メッセージをフェイスブックに送れることが分かった。送ってみたら「受理しました。数日お待ちください」と返答があったので、今待機中である。

このカードは携帯の支払いにも使っているのでこのままでは携帯料金も払えなくなる。なんとか早く解決したいところだ。
これがフェイスブック広告を利用した「ネット詐欺」でないことを祈っている。

閑話休題 「ネット詐欺 ?」 1

2018-05-29 05:18:10 | 日本文学の革命
しばらく『電子同人雑誌の可能性』を進めて来なかったが、別に停滞していた訳ではなく、この間全体の理論的な整備を行っていたのである。いくら『猫』的に自由に面白くある意味デタラメに書いてゆくとは言っても、そこは評論であるから論理的な筋道は必要であるので、これから書いてゆく内容を理論的に整備し、実現可能なものにしてゆき、全体の設計図を描いていたのである。もう完結部に至るまで十分に出来た。『電子同人雑誌の可能性』をどんどん完成させてゆくことができる!

『電子』だけではなく、『「こころ」と太平洋戦争』(まさにこれが“決定的”著作になる)も順調だし、日本文学を復活し新しい文学世界を築いてゆきたいという悲願が実現可能になろうとしている。
そこでこの活動を広く世の中に知ってもらいたい、それだけの値打ちもあるということで、その手段として「フェイスブック広告」を試してみることにした。

「フェイスブック広告」はフェイスブックユーザーならみんな知っているだろうが、フェイスブック内で誰もが有料で行える広告機能である。自分の投稿や活動やビジネスを広く友達以外にも知ってもらう広告機能で、フェイスブックが(金が欲しいのだろう)強く推奨している機能である。これをお試し的にやってみることにした。『「こころ」と太平洋戦争』に関する投稿を一つ(こちらの費用は千円で三日間)、それからフェイスブックページとして出している『新しい日本文学』の広告を一つ(こちらの費用は2千円で10日間)、計二回広告を出してみた。

広告の申請をしてからわずか数十分で審査を通り、フェイスブックから嬉しそうに「審査が承認されました !」というメッセージが届いた。それからというもの僕のホームでは連日広告の状況が映されるようになり、「今日はこれだけの人数にリーチしました(ユーザーの眼に触れたという意味だろう)」「今日はこれだけの人が「いいね」しました」とリアルタイムに流れ、広告マネージャーなるものを開くとグラフで進捗状況が刻一刻と分かり、「おお。メカニカルだなあ」と面白く思った。領収書メールも進捗状況に合わせて次々に送られてきた。

この広告の結果500人にリーチし、その内20人から「いいね」をもらった。3千円払って20人…高いのか安いのか分からないところだが、これがはじめてお試し的にやってみたフェイスブック広告の結果であった。
あるフェイスブックの本を読んだところ、フェイスブックページで200人の「いいね」をもらうとビジネスの糸口となり、2000人の「いいね」をもらうとあとは広告を出さなくても自然にファン層が増大してゆくそうである。
2千人に「いいね」してもらえたら自然に拡大してゆくという「拡大モード」に入れる…
それは確かに魅力的だが、しかしそのためには単純計算30万円ものお金が必要となる。いったいどこからそんな金を工面すればいいのか…
いっぺんには無理でも今みたいに日雇い派遣でシャカリキに働き、月々2,3万円づつ工面してゆけば、1年もしたら出せない金でもないな…

とそんなことを考えている間にフェイスブックから広告料金の請求が来たのだが、それを見て目が点になってしまった。
請求額が「10万9千円」となっていたのである !

閑話休題 「機構としては完璧である。だが魂的には死んでいる」 2

2018-05-22 05:32:50 | 日本文学の革命
しかし問題もある。このようにして見事なまでに完璧な機構で製造される雑誌が、今日全然面白くないのである。コンビニや書店に並んでいる雑誌を見ても、「わあ。面白そう」とか「手に取るとワクワクしてくる」とか感じさせるものが全然ない。綺麗に体裁よく並んでいるが、こちらの魂に響いてくるものがないのである。昔はマンガ雑誌が「心の友」のように感じられた時もあり、また雑誌が流行やオシャレの発信源となり「雑誌が時代を作る」と言われた時もあった。コンビニでの雑誌の立ち読みがそれ自体オシャレな流行だった時代もあったのである。ところが今の雑誌にはそのように感じさせてくれるものがない。文字通り「ソウル」がないのである。

これは今雑誌作りの現場で、人々が「ソウル」を無くしているからだろう。雑誌作りの現場は今、毎日過酷なルーティンワークに追われ、荷重労働と厳しい仕事環境の中で呻吟し、余裕も夢見る機会も喪失し、雑誌を作ること自体が自己目的化しているという。こんな環境の中で人々の魂が喪失してしまい、ただ商品として体裁よく雑誌を作っているだけで、中身はどんどん希薄になり、その結果軒並み「ソウル」のない雑誌ばかりとなったのだろう。

「機構としては完璧である。だが魂的には死んでいる」
これは雑誌に言えるだけでなく、今日の日本社会全体に言えることであり、今の日本の根本問題だと思う。
機構が完璧であり巨大で圧倒的であればあるほど、その「車輪の下」に押しつぶされて人々の魂は死んでしまうのである。そして人々の魂が死んでしまうと、それがやがては社会全体に反映して、社会をミイラ化し衰亡させてゆくのである。
今日の日本の衰退的状態、その大きな原因の一つはここにあると思っている。

僕が「電子同人雑誌」を書いているのも、この失われた日本人の個人的な魂を回復させ、ふたたび活力あるものにしたい、なって欲しい、と願うからである。

工場の見事な機構に感心した、見惚れていた、と書いたところでなんだが、実はこの機構はすべて電子の雑誌では必要ないものなのである。紙による雑誌の製造工程はほとんどすべて必要ないし、流通機構も必要ないし、販売組織も必要ないである。これら大手の組織でなければ運営できない機構はすべて必要なく、雑誌の製造―流通―販売が個人でも容易に行えるのだ。個人が雑誌を作れる時代がふたたび訪れようとしているのである。そしてそれとともに個人の魂がふたたび溌剌と活性化するようになるかも知れない。
それを願いつつこれからも『電子同人雑誌の可能性』を書いてゆこう。

閑話休題 「機構としては完璧である。だが魂的には死んでいる」 1

2018-05-22 05:26:29 | 日本文学の革命
昨日の日曜日も日雇い派遣の仕事に行った。夜勤の仕事で埼玉県の北本という場所である。
はじめて行った所に到着したときの「ここはどこ…」という感覚は旅情を感じさせるものであるが、夕暮れ時に着いたので哀愁も感じさせた。

どこに連れて行かれるかも分からないまま送迎バスに乗り込んで埼玉の奥地を20分ほど揺られていたのだが、着いたのは日本を代表するような印刷会社の巨大な工場だった。そこで夜通し12時間も働いたのだが、これが実にいい体験になった。そこは雑誌を作る工場だったのである。僕が働いたのは『レオン』というちょい悪オヤジのファション雑誌を作っているラインで、その製造工程をつぶさに見れて実に面白かった。「電子同人雑誌」という新しい形態の雑誌を構想している最中なので、雑誌の製造工程を実際に見れるなんて興味津々なのである。この機会に製造工程を頭に叩き込んでやろうと熱心に観察した。

雑誌は1ページづつ印刷するのではなく何ページも同時に巨大な輪転機で印刷し、それを折り畳んで雑誌サイズの小冊子にするのである。その小冊子の束を人の手で(僕がしていた仕事はこれ)所定の場所にはめ込んでゆき、そこから空気の吸引力と回転機械で小冊子を一枚づつ惚れ惚れするほど器用に取り出して高速で流れるベルトコンベアーに落とし込んでゆく。ぞれが続々と行われるので小冊子がみるみる雑誌にまで成ってゆく。雑誌大にまで成ったところで片面に何やら白い液体で糊付けされる。これも機械が高速で行い、ガラス窓越しに見れて実に面白かった。そこに表紙がつけられ雑誌の形になったものが続々と流れ出て来る。まだ出っ張りが残っているが、これもギロチンのような機械で次々と鮮やかに切断されてゆく。真新しい雑誌となったものはこれも自動的に梱包されてゆき、自動的に積み上げられてゆき、フォークリフトで運び去られてゆく。
膨大な数の雑誌が秒単位で続々と作り出されてゆく。すべての工程が綿密に計算されており、最高度に能率的で機能的で、感心しながら見つめていた。

工場の中ではアーム型のロボットが稼働しており、無人のフォークリフトも(まだ実験中らしくそろそろとしたペースだが)動いていた。ロボット化の波がここにも来ているんだなと感じさせた。

雑誌の製造工程―その印刷も、ベルトコンベアーでの流れも、糊付けも切断も梱包も、どれも見事なほど鮮やかであり完璧であり、大企業ならではのパワーをかんじさせるものであった。
雑誌の製造だけでも大変なものがあるが、これからさらにこの雑誌をいたる所に流通させ、全国の書店やコンビニで販売するという気も遠くなるほどの大変な業務がある。雑誌の製造―流通―販売が会社組織のような巨大パワーなしでは行えないのがよく分かる。


電子同人雑誌の可能性 143 「同人雑誌とインターネット」

2018-05-20 07:03:53 | 日本文学の革命
インターネットは「世界との魂の交流を求める」メディアであると書いた。ここで「世界との」という漠然とした曖昧な言葉を入れたが、インターネットにはこうとしか表現できないような特徴が確かにあるからである。
ただ「魂の交流を求める」だけならペンフレンドでも作ればいいだけの話だし、また身近な所で仲間や友人を作るのもいい方法だしまた本来の方法でもある。しかしインターネットはそれにとどまらず、あるいはそれ以上に「世界との」魂の交流を求めているのである。

この「世界」の範囲も曖昧なものであり、どこまでの人々を想定しているのか判然とし難い。原理的にはインターネットは世界中の人々とつながっている。国境などないも同然で世界中どこの国の人々とも交流できることになっているし、実際している。しかしスリランカの人からいきなり「Hello ♡」と言われても、どうしていいか分からないし、言葉も通じないし、対応に困ってしまうが。またラインのように仲間内だけにこもって「世界」とは無縁そうなメディアも、仲間をどんどん増やすという形で範囲を際限なく拡大させている。
「世界」の範囲が曖昧なようにこのメディアが結びつけようとしている「人々」も曖昧である。いったい誰が誰と何のために結びつきたいのか、このメディアが対象として想定している人々は誰なのか、判然としないのである。19世紀の出版メディアが対象としていた人々は「市民」であった。20世紀のテレビメディアが対象としていたのは「大衆」であった。じゃあ現代のネットユーザーは何者なのか。「地球市民」か。しかし北朝鮮や中国のように自立的市民は存在してはならないとされている国もネットで盛んにつながっているし…。

ここでこの問題についてもっと詳しく考察してみよう。
なぜインターネットは「世界との魂の交流を求める」メディアなのか。
その実態はどのようなものなのか。
それを追及してみたい。

電子同人雑誌の可能性 142 「同人雑誌とインターネット」

2018-05-12 05:08:55 | 日本文学の革命
さてこのように同人雑誌という団体には、肩書や位階や序列もない、強力な規律も存在しない、経済的束縛もないと、ないないづくしだが、まさにそれゆえに魂の自由な交流には適した環境になるのだ。
肩書や位階や序列は政治的権力に発展し得るものであり、強力な規律は軍隊的秩序を生み出すものであり、経済的束縛は強大な経済的支配をもたらすものである。このような強大なパワー・強大な権力は個人を全体に統合しようとするものであり(それはそれでたしかに大切なものなのだが…)、個人や個人の魂などは抑圧しようとしてしまう。このような力を前にしたら個々人やその魂の交流などは、可憐でかよわい草花同然で、いつ踏みにじられてもおかしくないしいつブルドーザーで根こそぎにされてもおかしくないのである。
しかし同人雑誌にはこのような巨大な力は存在し得ない。このような力の支配から免れている珍しい団体の一つなのである。そこでは人々の自由な魂の交流が可能なのであり、逆にそれが第一の目的になってさえいるのだ。同人雑誌とは「魂によって結びついた自由な共同体」であると定義してみた。まさに同人雑誌は人間の魂の交流―成長―発現を目指して結成された団体だと言っていいだろう。

そしてここにおいて、同人雑誌はインターネットと結びつく可能性が生じるのである。なぜならインターネットは、その重要な特質の一つとして、「世界との魂の交流を求める」メディアであるからだ。

電子同人雑誌の可能性 141 「同人雑誌の本質」

2018-05-04 12:28:28 | 日本文学の革命
このような経済的束縛は、肩書や位階や序列、あるいは規律と同じように、個人を全体の中に有効有益に組み込み、個々人ではとてもできないような巨大な能力やパワーを発揮させる効果を持っている。しかし同時に個人や個性を抑圧し、個人を全体の中に解消して、人々の自由な魂の交流を妨げてしまう効果も持っているのだ。
ここで魂の交流の中でも最も強いものの一つ、純愛を例にして考察してみよう。

『ロミオとジュリエット』といえば純愛のドラマとして名高いものである。二人は舞踏会で初めてお互いを目にするや、たちまち二人の間に愛の炎が燃えあがる。それは実に純粋で強烈なものであり、二人はお互い相手が誰かも知らずほとんど会話も交わさないまま、引きつけられるように近づいてゆきそのままキスをするのである。舞踏会が終わったその日の夜には、もう窓辺で結婚の誓いをしている。そして翌日には二人で結婚式を挙げてしまうのである。まさに理非も分別も計算づくもない火矢のような激しい恋愛だが、彼らは物語の中で計5回しか会っていないのである。始めが舞踏会、2回目が窓辺、3回目が親の目を盗んだ結婚式、4回目が幸福の絶頂であったろうベッドイン、そして5回目が墓場と、この5回だけである。この5回の間に後世にまで残るような恋愛を成就したのだから、どこまで純愛なのかといいたくなるほどの純愛である。
このような純粋な愛の炎は、世間体だとか打算だとか身の安全とかを全く考慮せずに燃えあがるので、手に負えない火災のように周囲に広がってゆき、トラブルや破壊を巻き起こしてゆく。『ロミオとジュリエット』の中でも、紛争、喧嘩、殺人、毒殺、決闘など大変なトラブルが頻発し、ついには若い二人の命まで失われてしまうのである。最後に二人の間に燃えあがった愛の作用によって対立していた二つの家が和合するという大団円とはなるが、それにしても魂の交流というものが持つ非合理性、時として巨大なものになるそのパワーを感じさせる物語である。

もし今たとえば会社組織の中で『ロミオとジュリエット』のような激しい純愛が生じたりしたら、どうなるだろう。ロミオとジュリエットのように一目見て愛し合い、理非も分別もへったくれもなく激しく求め合う男女が現われたらどうなるだろう。会社組織は経済的利益を最大限に追求する組織である。個々の会社員も会社全体もそれを合理的能率的に行うことを第一にしているのであり、恋愛などはそれを妨げる邪魔者でしかないのだ。ことに純愛などは紛争やトラブルの源でありセクハラ問題を発生させるかも知れない。整然と動いている機械の中にいきなり鉄棒をねじ込むようなもので、会社にとっては迷惑千万な代物なのだ。だからこのような恋愛が起こったら―できれば起きる前に。それが一番能率的で賢いやり方である―会社員たちは、モンタギュー家やキャピュレット家の人間のように二人の仲を裂こうとするだろう。ちょうど機械の中に異物が入り込んだのでそれを取り除くように、あるいは調子を壊してうまく回らなくなった部品を取り換えるように、この問題に対処するはずである。

今の日本の会社で社内恋愛が厳しく禁止されているのも、同じ理由によるのであろう。昔の日本の会社ではもっと大らかなところもあったのだが、経営が厳しくなり、またセクハラ問題も頻発するようになった昨今、社内での恋愛はもっとも忌まわしい犯罪行為のように見なされ、それを芽の内に摘む努力も会社規模で成されている。もちろん社内規定や契約条項などの明文によって禁止してはいないが(そんなことをしたら「いまどきそんな封建的なことをしてる会社があるの」とマスコミが興味を持って近づいて来るからである。またその前にこのような規定があることを知った女子社員が大量退職してしまうからである)、実質的には厳然と禁止されている。ただ例外はあり、会社にとって役に立つ社員―たとえば優秀だがなかなか結婚しない社員だとか、結婚させて身を固めさせ末永く会社に縛っておきたい社員など、そういう相手には社内恋愛を許すどころか会社の方から女子社員をプレゼントしてくることもある。この場合会社の機構がゆらぐどころか、さらに一層うまく回るようになるからである。(最近の日本では恋愛まで会社によって管理されているのかも知れない)
このようなことをすることによって会社組織はなるほどうまく回るだろう。しかしこれによって魂の交流の一つ―人間にとって最も大切なものの一つ―が失われてしまうことも確かなのである。

さてこのような給料制は同人雑誌内にはたしかにないが(給料制を導入した途端それは同人雑誌ではなくなりマスコミ的な雑誌に変質してしまう)、しかし同人雑誌も発売されるものであり、金銭の流れが存在している。これをどのように処分するのか、とりわけ雑誌が売れて大きな利益があがったときどのように分配するのか、は非常に重要な問題であとであらためて考察しようと思うが、基本的には成功報酬制でいいと思う。つまり売れたら皆で利益を分配するが、売れなかったらゼロ、でいいと思う。またそれをどのように分配するのか、山賊のように豪快に山分けするのか、それとも会社のように人事評価に基づいて緻密に計算して配分するのか、様々なケースがあるだろうが、ただ同人雑誌内における金銭のやり取りは、経済社会におけるようなドライで厳しい価格交渉のようなものにはならないと思う。そこに生じるのは共同体的な、助け合い的な金銭のやり取りであり(ちょうど家族内親族内における金銭のやり取りのようなものである)、そのようなものが主流となると思うが、これについてもあとで同人雑誌の構成メンバーについて述べるところで考察してみたい。

電子同人雑誌の可能性 140 「同人雑誌の本質」

2018-05-04 12:23:17 | 日本文学の革命
しかしそうは言っても、やはり給料を断たれるということは怖いことであり、絶望的なことである。現代人にとっては死に直結するほど恐ろしいことなのである。だからこそこれは人々を支配する強大な鎖、強力な鞭となり得るのだ。
給料が欲しいからこそ人々は上からの命令に従順に従うのである。右向けと言われれば右、左向けと言われれば左、三回まわってワンとなけと言われれば三回まわってワンとなくのである。給料が欲しいからこそ言いたいことも言わない。給料が欲しいからこそしたいこともしない。給料が欲しいからこそ組織の意向に完全に従い組織の構造と完璧に同調するのである。日本の会社員に珍しくないのだが、周囲の組織環境と一体化し、カメレオンのように見事に同調し、身なりから話し方から雰囲気までも組織と同じになり、組織と個人の見分けがつかなくなるようなタイプの人間がいるが、このようなタイプの人間が生じるのもまさに給料制のおかげなのである。たしかにこのように組織と完全に同調し昆虫の擬態のように見分けがつかなくさせることは、外敵から身を守り、厳しい生存競争を生き抜くためには必要かも知れない。しかし同時にそれは個人の個性の喪失であり、自分自身の個性的な人生を生きることを不可能にもしてしまうのであるが。

前にインターネットでは「鞭」を振るうことはできないと書いたが、実はインターネットでも効果的に振るえる「鞭」があり、それがこの経済的束縛なのである。最近いろいろな企業でネット環境を利用した社外ワークが試みられている。ネット環境さえあれば何もいちいち社員を会社に集めなくても、在宅だろうが地方だろうが好きな場所で働かせて、その仕事の成果だけを会社に集めればいいじゃないか、という新しい働き方の試みである。企業がこういう試みに乗り出すことができたのも、経済という「鞭」さえ握っていれば、相手がインターネットの向こうにいても意のままに動かすことができるからである。
相手がどんなに遠くにいようが給料さえ握ってしまえば相手の死命を制することができる。よく働いた者には高い給料を振り込み、あまり働かない者には低い給料を振り込み、ダメなヤツには給料を断ってしまうことで、ネットの向こうにいる人間でも思うように動かすことができるのである。
またインターネットのように身元不明の人間がうごめいている環境でも、その人間の口座を握ってしまえばその人間を特定することができる。口座とその人間とは正確に直結したものであり(そうでないと誰か赤の他人に自分の給料が振り込まれるという悪夢が生じかねない)、個人の身元を特定する有力な手段に成り得る。ネットの中では「夢見る夢子」と名乗り、コリン星在住と書いていても、本名本橋直子、板橋区在住、とすぐにばれてしまうのである。中には闇口座を作ったり、不透明な金のやり取りをしたり、隠し資産を蓄えたりする輩もいるが、そういうことができるのはよほどの巨悪だけであって、普通の個人だとすぐに摘発されてしまうだろう。
口座とそこに振り込む給料さえ握ってしまえばその人間の首根っこをおさえてしまうことができるのだ。あとはこの鞭を使って如何様にも個人を動かすことができる。インターネット社会にも強大な経済的束縛が生じてしまうのである。