「日本文学の革命」の日々

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電子同人雑誌の可能性 181 「コンピュータの本質―仮想現実」

2019-02-28 06:03:02 | 日本文学の革命
人間に仮想現実を体験させる方法は何も3D空間や3D画像だけとは限らない。脳に直接影響を及ぼして仮想現実のヴィジョンを見させる方法も考えられる。人間の頭にヘッドギアか何かをかぶせて外から影響を及ぼし、人間に思うがままのヴィジョンを見させるという方法である。

人体に残った最後の謎―脳を解明しようという試みも今長足の進歩を遂げている。脳科学や認知心理学の研究が発展し、脳波や脳内物質の解明も進んでいる。人間の脳もその内すっかり解明されてしまい、思うがままに操作することができるようになるかも知れない。また人間の脳を機械によって再現しようという実験も盛んに行われている。コンピュータのような電子回路に人間の脳を再現し、人間の脳を機械の中に移し替えてしまおうとするものである。こうすれば人間の脳もコンピュータ並みの計算能力を獲得できるかも知れないし(今のレベルではコンピュータに比べたら幼児並みである。猿並みかも知れない)、英単語を覚え込もうと必死に努力しなくてもソフトを注入するだけで一瞬で全英単語をマスターできるし、そしてなにより脳の永久保存ができるのだ。
人間の脳も年をとるに従い肉体的に劣化してゆき、物忘れがひどくなったりうまく回らなくなったり、どうかすると痴呆症になったりして、やがては消えてゆくものだが、これが機械の脳だといつまでも保存することができるのだ。肉体的に劣化することはないし、古くなったら別の機械にコピーすることもできるし、肉体的な限界を超えて一つの脳、一つの意識をいつまでも保存することができる。ある意識が時間空間を超えていつまでも存続する訳で、人類はいつまでも死なない「不死の脳」「永遠の意識」を手に入れることができるのだ。自分の自我を永遠不滅のものにするという人類の大理想を達成できてしまうのである。

しかし人間の意識というものは、その意識が生まれた時代によって不可避的に制約されているもので、時代を超えて長続きしないで、素直に時代とともに消えた方がいいという側面も持っているのであるが…。たとえば江戸時代に生きていた人間の意識が、真空パックされた形で現代にも生き残っていた場合のことを想像してみよう。その意識は現代を見てどう思うだろうか。

「おまえどもわしの家柄をなんと心得おるか。身分違いも甚だしい。無礼者め。控えおろう!」
「町人の分際で小賢しい知恵を使って金儲けばかりに励みおって。許せん!切り捨て御免で成敗してやる」
「忠孝仁義礼智信。これこそが人が学ぶべき最高の教えじゃ。これを守らん奴らは天道に反する屑どもじゃ」
「カ〜!!女の分際で男にたて突くとは何事じゃ!男に黙って従うのが女というもの。三歩下がって男の影を踏まず。それが婦徳というものじゃ」

こういう意識が時代を超えて現代まで生きていたら、周りの人間はたいへん困ってしまうし、迷惑なだけだろう。どうかすると憎たらしくなって、いじめてやりたくなるかも知れない。時代を超えて生き残ってきた本人にとっても、周りから反感や反撥ばかりを受け、憎まれたりいじめられたりするので、不幸な思いをするだけだろう。
意識というものはそれが生まれた時代によって育まれ、成長し、大成してゆくものであるから、その時代を超えてまで生き長らえようとしない方がいいのかも知れない。



電子同人雑誌の可能性 180 「コンピュータの本質―仮想現実」

2019-02-08 15:30:04 | 日本文学の革命
仮想現実が果たそうとしている機能やパワーとはどのようなものになるのだろうか。別の言葉で言えば、現実なんて誰の目の前にも当たり前のように広がっているものなのに(水や空気みたいなものである。ある意味これほど陳腐なものもない)、なぜわざわざ別の現実を作り出す必要があるのか。

まず第一に考えられるのが、仮想現実を使うと現実ではできないような(その人間が今いる現実では、という意味である)様々な体験を居ながらにしてできるということがある。仮想現実を使えば居ながらにしてパリやニューヨークに行ったような体験をすることもできる。正確に再現されたパリやニューヨークの街中を自由に歩き回るようなドキドキの体験をすることができるのである。しかもちょっと仕事帰りに仮想現実ショップに行って、3D空間が映し出される部屋の中に入ればいいだけなので、低料金でいつでも海外旅行が楽しめるようなものである。
またこれはNHKの『ネクストワールド 私たちの未来』という番組で見たのだが、3D画像と専用のボディスーツを着れば自宅の部屋に居ながらにしてエベレスト登山を疑似体験できるようにもなるのだという。正確に再現されたエベレストの地形図に沿って、まるで実際にエベレストを登っているような負荷と感覚を得て登ってゆくもので、何度滑落してもまたそこから登ってゆくことができるし、ゲーム感覚でエベレスト登山を楽しむことができるのだ。
このような仮想現実の利用法は実に様々なものが考えられる。われわれが普段暮らしている現実空間―それは往々にして陳腐でつまらなく、そして重苦しいものである―の限界を超えて、様々な体験をすることができるのであり、たしかにこれはじつに面白い。やみつきになってもおかしくない仮想現実の機能である。

仮想現実の機能を使えば、現実では有り得ない体験も現実のように享受することができる。ゲームやアニメの世界は現実にはどこにもない世界である。われわれが空想的にその中に入って、楽しんでいるだけの世界である。ところが仮想現実の機能を駆使してゲームやアニメのキャラクター世界を3D空間に再現すれば、その世界を現実と変わらないものとして体験できてしまうのだ。自分たちが憧れていたキャラクターや世界が現実的感覚で目の前に現われて、双方向的にコミュニケーションがとれるし、戦闘バトルもできるし、恋愛シュミレーションだってできるのだ。これほど面白いものはないだろう。
さらには様々な立体アートを現出させることもできる。わざわざ箱根にまで行かなくても彫刻の森のようなアート世界を現出させることもできるし、ルーブルに行かなくてもルーブル美術館を立体的に堪能することもできる。しかも押すな押すなと押し寄せる観光客にわずらわされることなく、たった一人で全ルーブルを堪能できるのだ。
また新しい形での立体モダンアートも続々と作られるようになるだろう。サクラダファミリアを数百倍大きくしたような超巨大大聖堂の中に入って目もくらむような体験をすることもできるし、深海をリアルに再現した仮想現実アートの中で大王イカと触れ合うこともできる。薬物中毒者が見るというドラック体験も仮想現実で再現して(もちろんドラック体験者から聴き取るのである。あるいは製作者が実際に体験したものに基づくのである)、副作用の心配なしにグッドトリップやバッドトリップを体感することもできる。

仮想現実が将来的に大活躍すると思われる場が、宇宙空間である。宇宙ステーションや宇宙旅行、月滞在や火星進出などが現実のものになりつつあるが、そのような宇宙滞在者に非常に大きな需要となるものが仮想現実のように思われる。
宇宙旅行をするために数十億円もの費用を支払い、嬉々として宇宙に旅立ってゆく者がいるが、あれはちょっと行って、すぐ帰って来るから嬉々としていられるのである。もし宇宙空間に長期滞在したなら、あのように嬉々としてはいられない筈である。なにしろ宇宙空間とは何もない空間なのである。まさしく虚無なのである。地球環境に馴れ親しんだ生物にしてみたら想像を絶する空間であり、とてつもない孤独を感じさせる場ともなるだろう。宇宙の雄大な景色だって毎日見てたら飽きるだろうし、その内深刻なノイローゼに落ち入ってもおかしくない環境なのである。そんな宇宙滞在者に救いとなるのが仮想現実なのである。仮想現実で地球環境を再現した光景に浸れたら、どんなに救いとなることだろう。なにも富士山の絶景やカリフォルニアのロングビーチでなくても構わない。そこらの街の雑踏、ガード下の飲み屋、家族が安らっている公園、そんな陳腐な光景でも無限の郷愁を感じさせるものになるに違いない。「地球か…。何もかもみな懐かしい」と涙がこぼれ落ちて来るほどの感銘を与えるものになるのである。
宇宙空間という普段の現実と超絶にかけ離れた環境にいるからこそ、仮想でもなんでもいいからかつて自分が暮らした現実空間を再現したくなるのである。