「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

「日本文学の革命」95パーセント完了!

2011-09-25 22:52:51 | 日本文学の革命
今 最後の問題に挑戦中である
これが出来たら「日本文学の革命」もついに実現できる、という問題である
他のものはすべて出来てしまったが、結局最後の最後まで残ったのはこの問題であった
それは何かというと、「五蘊の運動をつかむ」というものである

漱石の『文学論』のテーマが「仏教と西洋近代文学の融合」であることは何回も書いてきた。漱石はいわば東洋文明と西洋文明の融合を成そうとしていたのだが、このテーマをもっとフォーカスを当てて表現すると「五蘊と言語の融合」となる。この五蘊の運動をリアルに実証的に捉えることができたら、すべては実現するのであり、これが最後に残った課題なのである

「五蘊」というと聞きなれない言葉だが、「色―受―想―行―識」という五つのものが合わさったもの、あるいはこの五つの変化が生じてゆく過程、それが五蘊なのである。有名な『般若心経』の「色即是空 空即是色」の「色」はこの五蘊の一つに他ならない
『文学論』の中で(F+f)という有名な公式が出てきて、『文学論』のすべてはこの公式を解き明かすことを主眼としているのだが、この(F+f)こそ五蘊に他ならない。漱石は五蘊を(F+f)という壮大な“X”として捉え、これを言語の内に見い出そうとしたのである(これとは別に彼は五蘊のことを「意識の波」とも呼んでいる)

漱石の『文学論』は(F+f)が、つまり五蘊が、言語の内でどのように存在しているのか、そのおおよその所を捉えることに成功している。しかし五蘊がどのような内容を持っているのか、どのような実態なのか、それをリアルに捉えられなかったので、結果的にこの試みは未完に終わったのである
もし彼が仏門に入って何年も何十年も座禅をしていたら、まず間違いなく五蘊の実態をつかめていただろう。座禅こそが五蘊を認識する王道であり、仏典でよく述べているように座禅を積めば誰でも五蘊を認識できるし、ましてや漱石ならなおさら出来るはずだからである
ただその場合「文学者 漱石」はいなくなっていただろうが…

座禅によらずにどうやって五蘊を認識できるのか
それが結構いろいろあるのである。本物の仏教から見たら外道かもしれないが

まず第一にウイリアム・ジェームズの『心理学』がある。これは漱石も依拠したものだが、「意識の流れ」(意識の波と言いかえてもいい)がどのように人間の心理を形成してゆくかを大脳生理学的に捉えようとしたもので、「意識の波=五蘊」がどのように人間の心理において働いているかを実証的に教えてくれるものである

次いでユングの心理学がある。これはジェームズの『心理学』よりも一層広く、人間の人格の内で、五蘊がどのように働いているのかを捉えようとしたものと言える。ユングの心理学の全体は、この五蘊を近代的西洋的な見地で捉えようとしたものだと言ってもいい

次いでシュペングラーとマックス・ウェーバーがいる。彼らは人間の社会や文明の内で、五蘊がどのように働いているかを研究していたのである
シュペングラーは『西洋の没落』という大著を書いた哲学者で、彼の思想はナチスの思想の背景になったという忌まわしい過去があるが、彼がこの本で追及した「文明の論理」には大いに見るべき価値がある。それはまさに五蘊なのである。彼のこの本は、人間の社会や文明の内で五蘊がどのように働いているのかを、たっぷりと教えてくれるのである
マックス・ウェーバーもシュペングラーと基本的に同じ研究をしていたのだが、シュペングラーよりはるかに実証的であるところがいい

次いで量子力学がある。これもどうも五蘊みたいなのである。科学の門外漢の僕には詳しいことは言えないが、そうじゃないかという勘が働くのである。もしそうだとしたら、これは自然の内で働いている五蘊といえるだろう

そして仏教がある。仏教のすべてはこの五蘊を認識し、この五蘊にどう対処するか、という活動なのであった
老荘思想も、仏教とは少し視点が異なるが、やはり五蘊を認識しようとする思想だと言えよう

これらのものをいちいち理解し、そこから五蘊を読み取ろうとするなど、ずいぶんたいへんで根気のいる作業だが(だからこそこれだけ長い年月がかかったのである!)、それもほとんど出来てしまった
今はその総決算をしているのである。今まで見い出したものを一つにまとめ、そこに五蘊の生きた全貌を捉えようとしている所だ

この総決算が出来たら、いよいよこれですべてが実現する
そこで「完了まであと5パーセント」としたのである