「新しい文学」―長年目指してきたゴールであり、踏破しようと悪戦苦闘を重ねてきた山の頂であり、「日本文学の革命」を成就させるものであるこの文学― それがついに実現できた!
厳密に言えば、まだ「開けた」というだけで具体的な作品化にまでは至っていないが、いわば受精卵がうまく受精できて、一つの命という有機的な発展が始まり、今まさに活発な細胞分裂を開始し出した、というところである
あとはもう加速度的に分裂を繰り返して、背骨も心臓も、目も鼻も手足も、どんどん出揃ってゆくだろう
途中でおろしたりせずに大事に育ててゆけば、新しい生命の誕生 間違いなしである
決め手はやはり漱石の『文学論』だった
漱石の『文学論』の中心命題―「仏教と文学の融合」に成功できたことが、この実現をもたらしたのである
漱石の『文学論』は、長い間訳の分からない著作として放置されてきたが、その中心にあるテーマは仏教と西洋近代文学の融合に他ならない
この『文学論』はイギリス文学を中心に文学や言語現象というものを広大な見地から論じた大評論である
一見すると文学のことしか論じていないように見える
だがそれは一面に過ぎず、別のもう一つの面では、この著作は仏教のことを徹底的に(しかも“現代的な”観点から)論じているのである
文学のことを論じている、しかもそれは同時に仏教のことでもある、この二つのものの融合
仏教という東洋の最も深遠な思想と、西洋文明の華ともいうべき西洋近代文学、この二つのものの融合、そこから生じる新しい言語世界の地平
それを切り拓こうとしたのが漱石の『文学論』なのである
これを成し遂げることがどれだけ大変だったか!
ただ評論として書くだけなら、『文学論』がどのように文学を論じたのか、またそれが同時にどのようにして仏教でもあるのか、それを漱石がすでに書き残しているものを用いて実証的に証明してゆくだけですむ(前に『文学論』が完成したと書いたのはこの意味である)
しかしそこからさらに進んで、漱石が進めなかった地点まで―つまりこの二つの融合から新しい言語世界をもたらすところまで、「新しい文学」を築くところまで行こうとしたら、とんでもない困難が生じることになる
その場合 人のやってきたことを評するだけの評論家・傍観者ではなく、自らが実行者となり、新しいものを生み出してゆかなければならないからである
これを成し遂げようとさまざまなことをやってきた
あの難解きわまる謎だらけの仏教に挑んできたことは言うまでもない
漱石が『文学論』を書く際に依拠してきたウィリアム・ジェームズの『心理学』にも取り組んできた
ユングの著作(ユングと漱石は実によく似ているのである。同じことをしているんじゃないかと思えるほどだ。一方は西洋人の立場から東洋へ、他方は東洋人としての実存から西洋へ)も研究してきた
老荘思想も研究してみた
『古今和歌集』も分析してみた
社会学的観点からこの問題を捉えようとマックス・ウェーバーの宗教社会学にも取り組んだ
シュペングラーの『西洋の没落』に展開されている“魂の社会学”も大いに参考になった
関係があるらしいということで量子力学の本まで読んだりした
そういう努力を積み重ねてゆき、つい先頃、10日ほど前、ついに「仏教と文学の融合」が実現したのである
この二つの融合の道はここにある、という具体的な観点を得ることができたのだ
やれやれ これで大きな山を越すことができた、と一満足得ることができた
だがそれで「新しい文学」が開けたとは思わなかった
ところがしばらくしてこの問題を考えていると、意外にも「新しい文学」が出来たんじゃないかと思うようになった
「仏教と文学の融合」 これだけの新しい言語的可能性があるのなら、ここから新しい文章表現、新しい文体を導き出すことは、十分確実にできる
もう頭の中では様々な実現可能性が渦巻いている
またこれを現代日本語とその伝統(三統一の言文一致体と呼んでいる。漢文・和文・西洋語この三つの言語世界を東京方言を地盤に三統一したものが現代日本語であり、またこれが日本文学全体に共通する大様式となったのである。漱石の文体はその典型である)にしっかりと根づかせることもできる
この新しい表現で描き出すべき題材 それも十分見当がついている
インターネットのようなメディアもこの文体に統合できそうだ
具体的な文学原理、具体的な表現、具体的な題材、すべてそろっているのである
これで出来ないというわけがない
確実に出来てしまうのである
つまり 「新しい文学」は開けた
もう確実に実現できてしまうのである
ついにここまで来れた
よくまあ辿りつけたものだ
途中で遭難しても全然おかしくなかったのに
これで「新しい文学」は確実に実現できる
これによって「日本文学の革命」も出来てしまうだろう
日本人の中に眠っている巨大な可能性を、掘り起こすことができるというわけだ
厳密に言えば、まだ「開けた」というだけで具体的な作品化にまでは至っていないが、いわば受精卵がうまく受精できて、一つの命という有機的な発展が始まり、今まさに活発な細胞分裂を開始し出した、というところである
あとはもう加速度的に分裂を繰り返して、背骨も心臓も、目も鼻も手足も、どんどん出揃ってゆくだろう
途中でおろしたりせずに大事に育ててゆけば、新しい生命の誕生 間違いなしである
決め手はやはり漱石の『文学論』だった
漱石の『文学論』の中心命題―「仏教と文学の融合」に成功できたことが、この実現をもたらしたのである
漱石の『文学論』は、長い間訳の分からない著作として放置されてきたが、その中心にあるテーマは仏教と西洋近代文学の融合に他ならない
この『文学論』はイギリス文学を中心に文学や言語現象というものを広大な見地から論じた大評論である
一見すると文学のことしか論じていないように見える
だがそれは一面に過ぎず、別のもう一つの面では、この著作は仏教のことを徹底的に(しかも“現代的な”観点から)論じているのである
文学のことを論じている、しかもそれは同時に仏教のことでもある、この二つのものの融合
仏教という東洋の最も深遠な思想と、西洋文明の華ともいうべき西洋近代文学、この二つのものの融合、そこから生じる新しい言語世界の地平
それを切り拓こうとしたのが漱石の『文学論』なのである
これを成し遂げることがどれだけ大変だったか!
ただ評論として書くだけなら、『文学論』がどのように文学を論じたのか、またそれが同時にどのようにして仏教でもあるのか、それを漱石がすでに書き残しているものを用いて実証的に証明してゆくだけですむ(前に『文学論』が完成したと書いたのはこの意味である)
しかしそこからさらに進んで、漱石が進めなかった地点まで―つまりこの二つの融合から新しい言語世界をもたらすところまで、「新しい文学」を築くところまで行こうとしたら、とんでもない困難が生じることになる
その場合 人のやってきたことを評するだけの評論家・傍観者ではなく、自らが実行者となり、新しいものを生み出してゆかなければならないからである
これを成し遂げようとさまざまなことをやってきた
あの難解きわまる謎だらけの仏教に挑んできたことは言うまでもない
漱石が『文学論』を書く際に依拠してきたウィリアム・ジェームズの『心理学』にも取り組んできた
ユングの著作(ユングと漱石は実によく似ているのである。同じことをしているんじゃないかと思えるほどだ。一方は西洋人の立場から東洋へ、他方は東洋人としての実存から西洋へ)も研究してきた
老荘思想も研究してみた
『古今和歌集』も分析してみた
社会学的観点からこの問題を捉えようとマックス・ウェーバーの宗教社会学にも取り組んだ
シュペングラーの『西洋の没落』に展開されている“魂の社会学”も大いに参考になった
関係があるらしいということで量子力学の本まで読んだりした
そういう努力を積み重ねてゆき、つい先頃、10日ほど前、ついに「仏教と文学の融合」が実現したのである
この二つの融合の道はここにある、という具体的な観点を得ることができたのだ
やれやれ これで大きな山を越すことができた、と一満足得ることができた
だがそれで「新しい文学」が開けたとは思わなかった
ところがしばらくしてこの問題を考えていると、意外にも「新しい文学」が出来たんじゃないかと思うようになった
「仏教と文学の融合」 これだけの新しい言語的可能性があるのなら、ここから新しい文章表現、新しい文体を導き出すことは、十分確実にできる
もう頭の中では様々な実現可能性が渦巻いている
またこれを現代日本語とその伝統(三統一の言文一致体と呼んでいる。漢文・和文・西洋語この三つの言語世界を東京方言を地盤に三統一したものが現代日本語であり、またこれが日本文学全体に共通する大様式となったのである。漱石の文体はその典型である)にしっかりと根づかせることもできる
この新しい表現で描き出すべき題材 それも十分見当がついている
インターネットのようなメディアもこの文体に統合できそうだ
具体的な文学原理、具体的な表現、具体的な題材、すべてそろっているのである
これで出来ないというわけがない
確実に出来てしまうのである
つまり 「新しい文学」は開けた
もう確実に実現できてしまうのである
ついにここまで来れた
よくまあ辿りつけたものだ
途中で遭難しても全然おかしくなかったのに
これで「新しい文学」は確実に実現できる
これによって「日本文学の革命」も出来てしまうだろう
日本人の中に眠っている巨大な可能性を、掘り起こすことができるというわけだ