「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

ネットユーザーの自由な組織と新しいメディア 30

2020-12-30 16:35:55 | 日本文学の革命
冒頭に述べた人々も電子同人雑誌では元気に溌剌と活躍できるようになる。

若者たちは魂的に最も伸びしろがあるし、仲間も欲しがっているし、「ネットの申し子」的存在だし、この「新しいメディア」で大活躍しそうである。ここはまったく自由な世界であり、ワクワク楽しみながら何でも試せるし行えるし、仲間や友達を増やすこともできるし、若者たちにとって天国のような世界なのだ。うるさい親や上司の監視もないし、既成の古い重苦しい価値観もぶち壊すことができるし、自分たちの若い力を思う存分発揮して、新しい時代にふさわしい「新しいメディア」を作りあげてゆけるのである。

老人たちもこのメディアを楽しむことができる。なにしろ痛む体を引きずって外に出ないでも、自宅に居ながらにして参加できるし、人々との様々な交流を広げることができるのである。彼らがつちかってきた経験や知識も役に立つだろうし、様々な社会活動や社会貢献もすることができるだろう。暇がある分誰よりも多くの時間を雑誌活動に割けるかも知れない。呆けたようにテレビを見ているより、どれだけ楽しいか分からないメディアなのである。

ニートやフリーターや引きこもりも活躍できる。彼らは既成の日本社会からはじかれた人々だが、ある意味自分自身がそう望み、自分の魂の促しによってそうなった人々なのである。魂的には独自で深いものを持っているのだ。学歴も職歴も何も問わない電子同人雑誌の世界には彼らも自由に参加できるし、彼らの深い精神性をいい形で発揮することができるかも知れない。戦前の日本文学の同人雑誌で活躍した日本文学者たちも、実はこのようなタイプの人間たちだったのだから、彼らの活躍も大いに期待できるのである。

地方の人々も活躍できる。インターネットでつながればどこに住んでいようと関係ないから、どこに暮らしていてもこのメディアに参加できる。何も都会に出て来なくても(魂に促されて都会に来たいんだったら来てもいいが)、自分の地方に居ながらにしていくらでも活躍することができるのである。かえって地方の方に深い精神性、埋もれていた魂が眠っているかも知れない。地方の中で独自のネットワークを築くこともできるし、その地方発で新たな価値を持ったネットワークを生み出しそれを全国に広めてゆくこともできる。地方と都会の差などなく、アイデアや創意工夫次第で様々に活躍してゆくことができるのである。

もちろんサラリーマンの人たちも参加できる。これからの時代ビジネスの現場でも「人間的魂」は重要になってくるし、単なる専門知識や滅私奉公的がんばりだけではAIやロボットに駆逐されてしまうかも知れない(AIやロボットは専門知識を一瞬で習得してしまうし、24時間フル稼働で働かせても文句一つ言わないのである)。AIやロボットに勝てる可能性のあるのが「人間的魂」であり、それはビジネスの現場でも様々な付加価値を生み出し得るのだから、この「人間的魂」を成長させるために貴重な時間を割いて電子同人雑誌の世界に参加することは、ビジネスマンたちにも大切なものになるだろう。様々な雑誌、様々な人々に接することで自分の世界が広がるし、自分の人間としての魂を大きくしてゆくことができる。アイデアや刺激も得られるし、豊かな人脈を築いてゆくこともできる。ビジネスマンとしてより一層大きな活躍ができるようになるのである。

電子同人雑誌は、どうかすると無価値、無用、役立たずと見なされていた人々にも活躍の機会を与え、その人間的パワーを引き出すことができるメディアなのである。


ネットユーザーの自由な組織と新しいメディア 29

2020-12-28 03:19:55 | 日本文学の革命
このようなことは書いてるだけでも気が滅入ってくるが、しかし今の日本社会や日本経済のそこかしこからビンビンと響いてくるものである。人々は意識的無意識的にそれを聞かされ続けているのであり、当然お先真っ暗感がどんどん強まってゆき、人々を深いところから意気消沈させ、日本社会から活力を奪っているのである。

しかしそうはいっても我々にはどうすることもできない。我々はこの巨大な機構に完全に組み込まれているのであり、そこから抜け出すなんて不可能なのである。どこかの会社で働かないことには食ってゆくことができないし、そこからはじかれたらたちまち生活の困窮となり、さらには死ぬハメになるかも知れない。また何かしたくっても、お金もないし暇もないし知恵だって湧かない。巨大な機構は個々人に完全服従を要求してくるし、それに少しでも逆らったりしたら実にひどい目にあわされる。すべてお手上げなのである。

しかしそんな中でも一つの有効な手がある。
それは自分の魂を取り戻すことである。

自分の魂―多くの人々が巨大な社会機構に順応するために捨て去るよう洗脳されていたものだが―それを取り戻すことは割合簡単なことである。なにしろもともと自分の中にあったものだし、それとともに人間として育ってきたのだし、たとえ社会的洗脳で一時忘れ去っていても、依然として自分の中にあるはずなのである。それを見つけ出すのにお金はまったくいらない。特別な技術や資格も必要ない。ただ生活のわずかな時間を割いて自分自身と向き合えばそれでいいのである。

自分自身の魂を取り戻せばそこから様々な活力が湧きあがってくる。もともとそれこそが自分の人生の原点であり、自分の生命や情熱の源であり、自分を支え突き動かしていたものなのである。それに立ち返ることでふたたび新たな活力を得ることができるのだ。それは様々な夢や憧れ、趣味や嗜好、何かをやりたいという情熱や活動、人々に対する友情や友愛、あるいは創作的情熱として現われてくる。それらを素直に楽しみ、生活のわずかな時間でもいいからそれらに身をゆだねることによって、魂は開けてゆくのである。

もちろん社会機構の方ではこんな個人的な魂などは圧殺した方がいいのである。個々人の力を100パーセント社会機構に動員した方が儲けが増えるし、剰余価値を最大限に搾り取ることができるし、規律を維持するためにも都合がいい。リフレッシュしてまた仕事にがんばれるように休日に旅行をしたり遊んだりする程度なら許せるが、異なる価値観を生み出しかねない「自分の魂」などはむしろない方がいいのである。

しかしその社会機構の方が衰退化し腐敗化し、どうにも信用できなくなっている昨今、そんなものに100パーセント自分をゆだねる必然性などどこにもないのである。もちろん社会機構も大切なものであり、これなくしては社会が崩壊してしまうし自分の生活の質も失われるし、それを維持・発展させるために相応の努力はすべきである。ただ100パーセント与えて相手を喜ばせても、現状ではそんな儲けなどどこかつまらない所に消えてゆくだけだし、虚しいだけである。せいぜい7割8割程度でいいし、残りの労力は自分の魂のために使っていいのである。そしてそのようにして自分の魂を育て、個々人が新鮮な活力、新しい視点を得る方が、実は衰退している日本経済を救うことになるのである。

電子同人雑誌というメディアは、自分の魂を発見し、それに活躍の機会を与え、それを成長・発現させてゆくメディアである。見失っていた魂を取り戻し、そこから個々人が新たな活力を汲み取れるメディアなのだ。そしてそのことによって日本社会全体にも、新たな活力、溌剌とした元気、そして豊かな創造性をもたらし得るメディアなのである。

ネットユーザーの自由な組織と新しいメディア 28

2020-12-28 03:16:38 | 日本文学の革命
電子同人雑誌が成立したときどのような社会的効果が生じるのか、次に考えられるのが「日本社会の活性化」である。

今の日本社会は活力とか元気とか創造的な精神だとかがどこにも感じられない社会となっている。石川啄木の言うような「時代閉塞の現状」に再び突入したかのような時代状況になっているのだ。

若者たちは何気に絶望しているし(「バブル超えの就職内定率」なんだからもっと嬉しがってもいいはずなんだが、自分たちの未来が暗いものになるということにうすうす勘づいているのかも知れない)、中高年のオヤジたちは首切りやリストラに脅え自分たちの利権を守るために必死だし、老人たちは国冨を食い尽くすほどの莫大な社会保障費を使う人間たちとして社会から白い目で見られ、孤独のうちに部屋に閉じこもり呆けたように暮らしているし、ニートやフリーターや引きこもりなど社会から何の役にも立たないヤツと見なされている層も増大しているし、地方では恐ろしいほどの人口減少が起きているし、人が集まって来る都会でも人々は意味も分からずにただ目まぐるしくこき使われ、都会の孤独の中で暖かい居場所さえ見つけられず、疲れ果て意気消沈している。

どうしてこのような社会になってしまったのか。やはりベースとしてあるのが、日本社会の屋台骨である日本経済そのものが衰退しているからだろう。冷戦終結後もう日本を庇護しなくなったアメリカは、ヘッジファンドやIT企業などを先頭に日本を攻撃するようになり、それに対して日本はさんざんに敗北を重ね、外国のモノマネをするのは得意だが自分の頭でモノを考えることができないという日本の欠陥をさらしまくった形で衰退していったのである。また下からは韓国や台湾そして中国に追いつかれ、日本の経済的パイはさらに縮小してゆく一方となった。

「貧すれば鈍す」と言うべきかあるいは今の日本の硬直化し腐敗化し既得権益化した官僚制の成せる技というべきか、今の日本の会社は活力だとか溌剌とした元気だとか創造性とかいうものがまるで感じられない組織になってしまっている。誰もが首切りやリストラに怯え、ひたすら上の者の顔色をうかがい、怖くて自分の思っていることを口にも出せないという、北朝鮮の「恐怖政治」に近い状態になってしまっているのである。人々は周囲の空気をうかがい、それと付和雷同し、中には「昆虫の擬態」のように周囲に完全に同化して姿を全く消すことによって身を守っている者もいるほどだ。

「使い捨て」も横行している。派遣やバイトや外国人労働者など使い捨てしやすい人間たちはもちろん、中高年のサラリーマンなどの正社員にもそれは及び、まつりさんの例のように新入社員でさえ使い捨てを前提に雇われているフシがある。

本来であれば「人間のやったことは、人間がまだやれることの100分の1にすぎない(豊田佐吉)」とか「一本のピンもその働きは国家につながる(豊田喜一郎)」とかの人間の持つ豊かな可能性についての正しい認識を土台にして、その可能性を生かす方向に仕事や組織を構築してゆくべきなのに、儲からない無能な企業に限って人件費に音をあげて「うちは無駄飯喰らいの役立たずが多すぎる。もっとビシビシ打ち叩いてコイツらを働かせろ!」とやりたがるものである。

しかしビシビシ打ち叩いて倒れるまで働かせ、倒れたら捨てるという「使い捨て」の論理は、実は奴隷制経済の論理なのである。奴隷制経済の例としては、古代ローマの奴隷制が有名であり、また旧ソ連の強制収容所経済なども奴隷制経済の一種であり、そして現在の中国で行われている億単位の農民工を使役した社会主義的工業経済(間違いなくこれも奴隷制経済の実態を持っている筈である!)などがあるが、いずれも今述べたような無慈悲で残酷な論理に貫かれているのであり、日本では通用しないし、決して許されないものなのである(付け加えるならマックス・ウェーバーによれば、奴隷制経済というものは案外儲からないもので、製品の質も劣るし、結果的に高くつくそうだ)。

かつての日本人が経済発展に託して夢見てきた「バラ色の未来」も色あせてしまった。経済的効率、経済合理主義を追求して経済発展をしてきた結果、AIやロボットのような合理主義の怪物のようなものも生み出してしまったのである。これが人間を排除してゆくことは間違いないし、人間が排除されたくないとがんばるのなら自らがAIやロボットと融合して機械人間になってゆくしかない。たしかにそれは「究極の進化」ではあり、機械の体を得れば宇宙空間だって自由に飛び回れるようになるだろうが、しかしそれによって旧型の人類―人間の肉体をごく自然に持っているわれわれのような―は絶滅してゆくのである。

「経済発展によって人間はついに自然を征服した!」とはよく聞かされることである。たしかにその通りで、全自然界は今や人類の知能と工業力の前にひれ伏している。しかし同時に奇妙なことも起こっている。人間によって征服されたはずの自然が今次々と姿を消しているのである。全世界の動物や植物が次々と猛烈なスピードで絶滅していっており、その規模は今まで地球の歴史で何度も起こった「生物の大絶滅」に匹敵するほどのものなのである。シベリアの大噴火(アメリカ大陸並みの広さで噴火が起こったそうである)でも生物は大絶滅したし、巨大隕石の落下でも恐竜を先頭に生物の大絶滅が起きた。今回の地球生物の絶滅はそれに匹敵するほどの大絶滅であり、そして今回それを引き起こした原因は「人間」なのだという。

人間は自然を征服してその上に立った。その途端足元から自然そのものが姿を消していったのである。経済発展がもたらしたなんとも皮肉な結果である。

ネットユーザーの自由な組織と新しいメディア 27

2020-12-24 15:43:39 | 日本文学の革命
最後に電子同人雑誌が「新しいメディア」として成立したときどのような社会的効果が生じるのか、いくつか考えられるものを述べてみよう。

まず一つが「AI社会への対抗」である。

電子同人雑誌について今までいろいろ書いてきたが、その中で「魂」だの「人間的魂」だのという言葉をやたら使ってきた。クドイくらいに連呼してきたといっていい。これは同人雑誌というものの本質を考察する上で必要だったという面もあるが、それ以上にこの「人間的魂」というものがこれからの時代にたいへん重要なものになってくると考えているからだ。

これからの時代で不可避的に拡大してゆくものに「AI社会」がある。AI人工知能が社会の様々な面で巨大な力を振るうようになり、人間を凌駕し、人間を支配してゆくという社会である。

経済においてはもう様々な現場にAIやロボットが進出しており、物流倉庫でも、コンビニのレジでも、宅配自動車でも、人間を排除した無人化を行おうとしている。銀行や証券などかつては最高級の知性が行っていた仕事にもAIが進出し、銀行マンや証券マンがどんどん首を切られているという。政治でもAI化が進み、いずれは「コンピュータ官僚制」みたいなものも出来そうである。人間の官僚が行っていた業務をコンピュータが行うというもので、コンピュータが文書を読んだり作ったりできるようになったら実現するのだから、いずれわれわれ人間はコンピュータによって合理主義的に管理・支配されて生きていくようになるかも知れない。

そんな時代に対抗的に重要なものになってくるのが「人間的魂」である。実はこの「人間的魂」はコンピュータに結晶化したような西洋合理主義文明よりも巨大なものなのである。この「人間的魂」の方がより広く、より深く、より深淵なものであり、西洋合理主義文明さえ凌駕してしまうほどのものなのだ。

西洋合理主義文明はたしかに優れたものであるが、しかしそれは「人間的魂」の一つの現われに過ぎないのである。この辺のことは今『電子同人雑誌の可能性』の本編の方で、苦手な論理だとか数学だとかを考察しながら四苦八苦して書いているが、要するに証明したいのは上記のこと、つまり西洋合理主義文明もコンピュータも絶対のものではなく、世界中の各地の文化文明と同じように「人間的魂」が生み出した一つの成果に過ぎない、というものなのである。

電子同人雑誌というメディアの中心にあるのは「人間的魂」である。たしかにコンピュータを駆使しコンピュータのお世話になっているが、やりたいことは「人間的魂」の交流であり、成長であり、発現なのである。社会全体がAI化ロボット化してゆき、人間を排除し人間さえ無用なものにしてゆくというのなら、ここでより深い根底を持つ「人間的魂」を発現させてAI社会に一発かましてやり、人間的誇りを取り戻してやるのも一興ではないか。

さらにはこの「人間的魂」は新たな時代の付加価値にもなり得る。経済の合理化、人間を排除した機械化が進むと、はじめは人件費がかからず大いに儲かるのだが、その内に儲けというものが不思議なくらいに消えてゆくという怪現象がある。かつての主力産業、繊維や鉄鋼も、機械化が進展し自動化が進めば進めほど、儲けが薄くなって縮小していったし、自動車や銀行業もいずれそうなってゆくかも知れない。やはり「価値の源泉は人間である」という昔の学説には一理があるかも知れないのだ(ちなみにこの「儲け」という漢字の原義は「人」が「多い(諸)」という意味である)。

電子同人雑誌はこの「人間的魂」を楽しみ、それを成長させてゆくというメディアである。様々なアイディアや企画が生まれ、様々な創意工夫や新機軸が試され、様々な人間的価値が生み出されてゆくという世界なのだ。AI化・機械化がこれから大々的に行われ、逆にそのことによって本当の価値というものが失われてゆく社会の中で、それに対抗して積極的に人間的価値を生み出してゆくというメディアなのである。

ネットユーザーの自由な組織と新しいメディア 26

2020-12-24 15:37:26 | 日本文学の革命
ネットユーザーのところから始め、インターネットの理想を体現し得るメディアとしての同人雑誌について考察し、それが多種多彩で広大な広がりを持ち得ること、また質的にも高度なものを持ち得ることを考察してきた。ではこのようにして出来た電子同人雑誌とそのネットワークは、一つの「新しいメディア」に成り得るかどうか、それを最後に考察してみよう。

メディアとして機能するためにはまず第一にそれ独自の端末が必要になる。出版メディアであれば本や雑誌や新聞などの印刷物であり、テレビメディアであればアンテナやケーブルやテレビ受像機である。電子同人雑誌の端末といえばもちろんパソコンである。あるいはケータイでもいいしキンドルでもいいしIPADでもいい。どの端末でも電子同人雑誌は閲覧可能だし、文字も動画もきれいに再生できるし、またこのメディアにとって重要なものになるコミュニケーションもどの端末でもすることができる。

次に重要なのは課金システムである。出版でいえば本屋さんへ行って本を買うことであり、テレビでいえばCMがそれに当たり、視聴者は番組の合間にCMを見せられることで「大衆的洗脳」を受け、それによって料金を支払わない形で課金させられているのである。電子同人雑誌の場合はネットで購買しネットで送られてくるというものであり、ネット課金の一種である。このネット課金も今は様々なものが出て来て、あらゆる商品がネットで買えるようになり、ヤフーオークションやメルカリなど双方向的な売買も生じ、電子書籍の売買も広く行われるようになった。電子同人雑誌でもこのネット課金は―電子同人雑誌を格納する巨大データベースが必要になるが―問題なく出来てしまうのである。

メディアにとって最も重要なコンテンツも、今まで様々に述べてきたように電子同人雑誌は実に様々なものを生み出せるのである。コンピュータテクノロジーやネット技術や創意工夫を駆使すれば、実に様々な種類の多種多彩なコンテンツを生み出すことができる。おバカなネタや一発芸ものからネットリーダー層が生み出す質的に高度なものまで、あふれるほど豊富なものを生み出し得るのである。しかもそれらにはすべて「ネットでの交流」という新たな要素が加わっているのであり、そのような新メディアとしての魅力も備えているのだ。

電子同人雑誌の生み出すコンテンツを消費する者こそ「コンピュータやインターネットを駆使しそれと一体化している人間たち」すなわちネットユーザーである。彼らは常日頃ネット世界を行き交って、様々なところから情報を得、様々なコンテンツを楽しみ、様々な交流をしているのであるが、その彼らのネットワークの流れの中で電子同人雑誌とも出会い、それを購買してゆくのである。

しかも重要なことは彼らは単なる購買者・消費者ではなく、能動的参加者でもあり生産者ですらあるのだ。彼らは購買した雑誌に、応援者として支援者としてあるいはスタッフの一人として、様々な形で参加することができる。そして自分たちで自主的に電子同人雑誌を作り出すこともできる。自由にアイディアを出し、仲間たちを集め、自ら電子同人雑誌を立ち上げて、制作・販売をしてゆくことができるのである。

電子同人雑誌が生み出す豊富なコンテンツ。それを生み出す主体こそがネットユーザーに他ならないのである。

こうしてみると電子同人雑誌は一つの本格的メディアとしての資格を十分持っていると言えるだろう。それはネットユーザーという新しい存在とその自主自由な組織が生み出すインターネット上の「新しいメディア」なのである。



ネットユーザーの自由な組織と新しいメディア 25

2020-12-22 03:31:46 | 日本文学の革命
ネットリーダー層と電子同人雑誌のネットワーク全体との関係で最も重要なものは、ネットワークが抱いている「願いや希望」―それはジャンルごとに様々なものがあるだろうが―それを叶えてくれる存在がネットリーダー層であるというものだ。

たとえば先ほどの藤井聡太名人の例でいうと、近頃AIロボットの進化がすさまじく、碁でもチェスでもそして将棋でも人間の名人がAIロボットに完敗してしまうという事態が続出している。将棋愛好家たちには実に悔しいことだろうが、自分たちがどんなに努力しようと最強を誇るAIロボットに勝てるはずがない。AIロボットに勝って人類の屈辱を晴らしてくれる存在といえば、藤井聡太名人のような人間しかいないのである。

勢い将棋愛好家たちのネットワークは藤井聡太名人を支援するようになるだろう。彼に悲願を託して、精一杯の応援と支援を行い、将棋に集中できるように彼に十分な収入を与え、将棋以外のパワーも与えようと(これは将棋しかできないAIロボットにはできないことである)音楽を学ばせてみたり、座禅を勧めてみたり、素晴らしい恋人もプレゼントしたりして、彼を支援するのである。このネットワークの支援を受けて、藤井聡太名人はAIロボットに打ち勝つかも知れない。まさにネットリーダー層とネットワークが協働することによって、人類の悲願が実現されるのである。

もともとこのネットリーダー層とは電子同人雑誌のネットワークが生み出したものなのである。参入仕立てでまだ無名のペイペイの頃から、購読や応援や交流を通じて雑誌を支援してきたのもネットワークである。人気が出るのも、広まるのもネットワークのおかげである。雑誌をリーダー層に押し上げたり引き上げたりするのも、この雑誌を「面白い」と感じ何らかの期待や願いをこの雑誌に託したネットワークの人々なのである。

その期待や願いには様々なものがあるだろう。「楽しまして欲しい」「癒して欲しい」という願いもあるし、「さびれてゆく町を活性化して欲しい」とか「たいへんな子育てを支援して欲しい」とか社会的なものもあるだろう。昔の日本文学のように「時代の要請」に応えて新しい文化を生み出そうとする電子同人雑誌の活動もあるだろう。ネットワークの抱く様々な希望や願いに応える形で、それを付託された電子同人雑誌は引き上げられてゆくのである。それは人気投票であると同時に選挙みたいなものであり、ネットワークが自分の願いを実現するために自らの代表を選出するのである(もちろんその付託に応えられないようであれば上層から自然と引き降ろされてゆく)。

上層に達した電子同人雑誌は様々な支援を得ることができる。巨大化した電子同人雑誌のネットワークは同時に巨大市場ともなるから、潤沢な支援金が雑誌に注がれることになるだろう。様々なスタッフや技術者やプログラマーたちも周囲に集まるようになるだろう。もとからの同人たちもさらに活躍するだろう。協力しようとする電子同人雑誌も集まってくるし、有望な後継者も現われてくるかも知れない。人財やお金が数多く集まってくるのである。

作家たちの背景には出版社の組織があり、作家を支え、出版メディアを活性化させるために活躍している。テレビ番組の背景にはテレビ局や制作プロダクションや芸能プロダクションがあり、個々の番組や芸能人たちを支え、その華やかな活動を生み出す土台となっている。

それに対してネットリーダー層にまで達した電子同人雑誌を支えているのはネットワークなのである。電子同人雑誌のネットワーク全体が個々の雑誌を支え、ネットワークの「願いや希望」を託された彼らの活動を支援するのである。このネットワークが持つ実力や能力は、まさに出版社やテレビ局に優るとも劣らないものがある。このネットワークに支えられることで、個々の電子同人雑誌はより一層のパワーを持つことができ、より高度な質の高い活躍ができるようになるのである。


ネットユーザーの自由な組織と新しいメディア 24

2020-12-22 03:26:05 | 日本文学の革命
このようなネットリーダー層は電子同人雑誌のネットワーク全体ではどのような意味を持つのだろうか。

まず第一に考えられるのが野心や立身出世の目標と見なされることである。「自分もあのような人たちのようになりたい」という憧れと言ってもいい。成功を収めて富や名声を得て、社会の上層で光り輝いている人々を見ると、やはり人情として自分もそうなりたいと憧れるのが当然である。しかもこのリーダー層の人間たちも元をただせば自分たちと同じような一同人雑誌の同人たちだったのであるから、自分たちも頑張れば上に登ってスターダムの一員になれるのではないか、そう思って当然だし、実際どの同人雑誌にもそのチャンスは開かれているのである。

もちろん実際にはそのようなチャンスをつかめるのはごく少数だろう。しかしそのようなチャンスを夢見て努力することはいいことだし、たとえ夢敗れても一生懸命頑張ったことはそれ自体素晴らしいことだ(電子同人雑誌は副業や兼業、趣味の延長としても大いにできるものだから、失敗したところで人生がフイになる訳でもない)。また野心や憧れはネット全体にもプラスに働く。誰もがリーダー層を見習って努力し、自分たちの同人雑誌を質的に向上させてゆくのだから、電子同人雑誌の世界全体が質的に向上してゆくのである。

このような光り輝くリーダー層を見ても、別にその地位を目指さない人も多いだろう。そんな上を目指さなくても、身近な人々と楽しく交流できればそれでいいのであり、生活を充実させ自分の仕事に励み「片隅の幸福」を楽しんでいる方が性に合っている。そのような人々も多いだろうし、そっちの方が魂的には健全なのである。

しかしそのような人々でも文壇層の人間と交流することにはやはり格別なものがあるだろう。たとえば将棋系の電子同人雑誌で普段はどんぐりの背比べのような相手と将棋を指している人たちが、あるいい機会に恵まれて藤井聡太名人と対局できるとなったら、これは嬉しいしエキサイティングなことだし、将棋愛好家冥利に尽きると言っていいだろう。人生の記念にできる名誉なことだし、このような対局の機会を持てた人々はこれからさらに一層将棋が好きになってゆくことだろう。

このような文壇層ネットリーダー層と一般の人々との交流は、昔の同人雑誌では普通に行われていたことだが、電子同人雑誌でも可能なことなのである。文壇層内の活発な交流を利用して、まずあまり有名ではないが文壇層のお目当ての人物と交流のある人間に近づいてゆき、その人間に紹介してもらうという形でお目当ての人物とコンタクトを取るのである。昔の文壇でよく行われていた「誰々の紹介」という手法である。これには文壇層の人間にも利点があり、膨大な人間たちが押し寄せてくるのをこれで防ぐことができるし、また「紹介者」たちによって審査され濾過されることによってタチの悪いヤツは排除されるからである。

ネットユーザーの自由な組織と新しいメディア 23

2020-12-22 03:20:49 | 日本文学の革命
電子同人雑誌においても文壇層は十分に形成し得る。

ある電子同人雑誌が「面白い」「感動する」「便利だ」ということでネットの人気を得て、口コミで評判が広がり、大ヒットして大いに売れ、ネットワークの上層に押し上げられてゆくことはいくらでも考えられる。様々な創作や活動、アイディアや創意工夫や新機軸で、人々を魅了し、ネットの支持を得るチャンスは実にたくさんあるだろう。インフルエンサーやその分野に詳しい「具眼の士」に見い出され、彼らの推奨を得て引き上げられることもあるだろう。戦前の同人雑誌のように「新しい価値」を見い出した人々が参入してきて、たくましく執念深くそれを成長させてゆき、本格的な文化を築いてのしあがってゆくということも、もちろんあり得る。

そのようにネットワークの上層まで来ると、その報酬も大きい。有名になり名声を得ることができるし、電子同人雑誌は利益率が高いので大売れしたら巨万の富が入ってくる。職業や副業にして継続的に収入を得ることも可能になる。また同人雑誌がネットワークの上層にあがってくるということは、それを運営している同人たちも一緒にあがってくるということであり、彼らはそのまま同人雑誌のスタッフとして働くだろうし、名声や多額の報酬も得られるようになり、今までよりもより一層同人雑誌の活動に精を出すことだろう。

様々な利益が得られるようになるので、同人雑誌とそのメンバーたちはできるだけ長くその地位にとどまりたいとがんばるようになるだろう。つまりネットワークの上層部に固定的な階層が生じるようになるのである。それは様々な創作や活動や創意工夫によって成功を手に入れた同人雑誌群なのであり。ネットワークの支持を得て押し上げられてきた「リーダー層」といってもいい存在なのである。

戦前の文壇ではこのリーダー層はほとんどが文学者だったが、コンピュータを駆使して多彩な創作や活動ができる電子同人雑誌では、様々なジャンルの者たちがリーダー層を形成するようになるだろう。文学者だけでなく、マンガ家でも構わないし、劇団でもいいし、音楽家や美術家でもいい。様々な社会活動や地域起こしをしている人々がリーダー層に入って来てもいいし、学者や思想家や研究者でもいいし、あるいはジャーナリストやブロガーたちが集まって作ったニュース発行サイト的な同人雑誌でもいい。もちろんお笑いやアイドルが入って来てもいい。

電子同人雑誌の「文壇」とは広い意味での「文化的リーダーたちの団体」であり「ネットリーダー」とも言える存在なのである。

そしてこの「新しい文壇」は戦前の文壇と同じような性格―つまり「活発な交流団体」という性格を持つだろう。

上層に登った同人雑誌のメンバーたちは、さらに活発な交流や活動を行い、その高い地位にふさわしい雑誌を作ろうとがんばるだろう。ネットリーダー層同士の交流も盛んになるだろう。なにしろ交流を深めれば深めるほど頼もしい人脈が築かれてゆくのだから、やらない手はない。彼らに憧れて集まってくる中層下層のネットワークの人々との交流も盛んになるだろう。昔の文壇もそうだったのだが、それは師弟関係や先輩後輩関係を築くことでもあり、自分を支えてくれる強力無比な人脈になり得るのである。

ネットリーダー層の周りで巨額のお金が動くようになったら、様々な職業の人々も集まってくるだろう。デザイナーや写真家や映画監督、編集者やライターたちもやってきて、雑誌制作のサポートをするようになるだろう。ウェブデザイナーやプログラマーたちもやって来て、新しいソフトを開発してくれるだろう。ネット企業も集まってきて、その豊富な資金力を駆使して同人仲間では到底できないようなパワーや支援をもたらしてくれるだろう。

ネットリーダー層の周りで活発な交流が生じるのであり、それはネットリーダー層の文化的パワーをさらに高めるものになるのである。

ネットユーザーの自由な組織と新しいメディア 22

2020-12-20 10:21:26 | 日本文学の革命
「新しい価値」を見い出し、それを不撓不屈のたくましさで成長させてゆくことができた昔の日本文学者たち。しかしそれだけではまだ十分ではない。一人一人がバラバラで孤立した状態だと、やはり彼らの事業を十分に発達させることはできなかっただろう。

まさにここで「同人雑誌のネットワーク」が活躍するのである。このネットワークの中に入り込めば、数多くの仲間や協力者たちを得ることができる。有益・有効な交際を積み重ねることができる。文壇層にも人脈を築くことができる。ネットワークに入ることで昔の日本文学者たちは様々な有形無形のパワーを得ることができたのだ。

「同人雑誌のネットワーク」に入ることは割合簡単なことである。何かの作品を書き、仲間を数人集め、シンプルなものでもいいから雑誌という形態にまとめて世に出したら、それでネットワークへの入場権は手に入れたことになる。

このネットワークの中は全く自由な世界である。無名の人間だろうが青臭い若者だろうが、誰もが自由に活動し自由に発言できるのである。今の硬直化した日本企業のように「若いヤツラは黙って上からの指示に従っていればいいんだ!」「丁稚奉公20年!」などという無粋なことは強制されない。逆にその活動や発言が独創的であればあるほど注目されるという世界なのである。

臆して引っ込んでいたり、周囲に付和雷同していたりすると、かえって不利になる世界である。大きく旗幟を振りかざし、周囲にアピールした方が、仲間たちを集めることができるし、周囲の人々の関心をひくし、文壇層の目にも留まるようになる。活発に活動し盛んに交流すればするほど、ネットワークがどんどん広がりどんどん深まってゆき、それが彼らのパワーになってゆくのである。

優れたものを生み出せば文壇層から引き上げられるかも知れない。あるいはどんなに素晴らしい活動をしても文壇層が無視するようであれば、ネットワークで仲間を集め、ムーブメントを作り出し、実際に昔の同人雑誌の世界でよくあったように、下からの下剋上で既存の文壇層を追い落とすことだってできる。

文壇層の方の姿勢も重要である。もし文壇層が明治の自然主義者のようにあるいは昭和初期のプロレタリア文学のように、党派的で偏狭で文学的能力も低かったら、たちまちこの文壇層は抑圧機関となってネットワーク全体を窒息させるようになるだろう。しかし自然主義と戦ってその偏狭な支配をはねのけた漱石やその後継者たちのように、戦前の文壇では常にこのような支配を打ち倒してしまう勢力が現われて「文壇に心持ちのいい空気を輸入(ある書簡の中での漱石の言葉)」し続けたのである。それがネットワーク全体を活発化し、溌剌なものにし、偉大な事業を達成できるほど創造的なものにしたのである。

「新しい価値」を見い出し、それを実現することを人生の使命とした人々が「同人雑誌のネットワーク」の中に参入してきて、そのネットワークの中で自由に活動し、ネットワークによって育てられ、そしてネットワークの随所にいる「具眼の士」や文壇層にどしどし引き上げられて、文壇の頂点で光り輝いて活躍する。そのような好循環が実現したのである。

「同人雑誌のネットワーク」は巨大な文化創造機関となったのであり、まさにこれが戦前の日本文学者たちの大活躍をもたらしたのであった。


ネットユーザーの自由な組織と新しいメディア 21

2020-12-20 10:16:59 | 日本文学の革命
このように昔の日本文学者たちは、何の地位も肩書も待たず“見捨てられた底辺”をさまようようにして生きていたのだが、そこにはもう一つの利点があった。それは「新しい価値」を発見できる位置に立っているという利点である。

大きな発展可能性を持った「新しい価値」を発見することは、実に難しいことである。それはどこにあるのか見当もつかないし、しばしば全く意外なところから現れるからである。人々が予想もしていなかったようなところ、軽蔑して見捨てていたようなところ、そのようなところからそれは生じてくるのである。

たとえばつんぼになった音楽家―つんぼになるということはまさに音楽家にとって致命傷であり、可哀想だがもう死んでゆくしかないだろうと誰もが思ったに違いない―その音楽家が、まさか次々と偉大な交響曲を作曲して西洋クラッシック音楽を完成させてしまうとは、いったい誰が予想できただろう。

あるいはローマ世界帝国に征服された中東のちっぽけな小国、そこで生まれた名もない大工の息子が広めた教えが、まさか巨大な世界宗教になってローマ帝国を征服してしまうとは、当時の人間たちが想像さえもできない途方もない事態だったろう。

こんな大きな例を引かなくても「マンガやアニメばかり見てないで勉強しなさい!」と親たちの叱りの対象になっていたそのマンガやアニメが、まさかこんなに世界中の人々を魅了して「日本最強のコンテンツ」と言われるほどの社会貢献をするとは、当時の親たちにはとても思い及ばなかっただろう。今頃になってやれ「クールジャパンは日本の誇り」だとか「マンガやアニメは日本の宝」だとか社会の上層部でも誉めそやしているが、昔はこういう連中こそが「マンガやアニメばかり見てないで!」と子供たちを叱りつけていたのである。

このように「新しい価値」は意外なところから生まれてくるのであるが、一番生まれてきそうもないのが社会の上層部である。そこは既存の価値観によって形成された場所であり、既存の価値観でガチガチに凝り固まっているところで、その既存の価値観を土台にすることで社会の上層部で傲然と聳えているのである。当然そこにいる人間たちも既存の価値観でモノを見るのであり、したがって「新しい価値」に気づくことに最も縁遠い場所なのである。

逆に「新しい価値」を発見できる場所が“見捨てられた底辺”なのである。「新しい価値」はたいていそこら辺に眠っているはずだし、捕らわれない目で探し求めているうちに思いもかけず発見できるかも知れないのだ。

その人間の魂が純粋であればあるほどその機会は高くなる。その人間の魂が「新しい価値」を嗅ぎつけてゆき、「こちらこちら」と教えてくれるのである。だからこそ無名の若者―若者の第一の特徴は「純粋な魂」を持っていることである―がしばしば「新しい価値」の担い手になるのであり、上層の権威の思いも寄らない価値を生み出してくる人間となるのだ。

昔の日本文学者たちも彼らの見捨てられた苦しい生活の中から「新しい価値」を見い出した人々なのである。そしてそれを断固守り抜き、不撓不屈のたくましさで育てていったのだ。彼らが社会の底辺で苦しみ抜いていたこと、それでも屈せずに自分の魂を成長させ発現させていったこと、それが彼らの文化的実力となり、日本文学や日本文化を発展させるという偉業を彼らに実現させたのである。