最近話題の『鬼滅の刃』はこの『進撃の巨人』を意識して作られたものだが、そこに出て来る「人食い鬼」とは「巨人」とは真逆の存在のようである。「巨人」が桑田佳祐や僕を含めたその共感者たちなら、「人食い鬼」とはズバリ「外国主義」のことのようなのだ
『鬼滅の刃』の舞台は日本昔話に出て来るような昔の日本であり、天狗やひょっとこなども現われる日本の古典的な世界である。そこを舞台にして現われるこれまた古典的な妖怪や魑魅魍魎たちが「人食い鬼」なのである。一見するとハイカラな「外国主義」とはまるで無関係に見える存在なのだが、実は「外国主義」とは日本の歴史と風土にこの上なく深く根づいた存在であり、日本の古典文明そのものと言ってもいいほどの「日本文化」なのである(このことについてはここでは深く追求できない。これを日本の歴史や文化に沿って詳しく追及しようとしたら膨大な―おそらく書けるかどうかも分からない―大著を書くはめになるだろう)
この物語の時代設定が「大正時代」なのも意味あることである。「大正時代」とは、明治維新で日本が開国し、京都から東京に都が移り、西洋新文明が日本の中に滔々と流れ込み、もうあと戻りが出来なくなった時代である。それまでの伝統的な京都文化の正当性が失われ、いわば京都文化が日本を滅ぼす「人食い鬼」になってしまった時代なのである。
『鬼滅の刃』の主人公たちはこのとてつもない強敵に立ち向かってゆくのだが、その際興味深いことがある。主人公の少年炭次郎(なんだか江戸っ子的な名前ではある)の妹が「鬼」であるということだ。鬼に喰われ自らも鬼にされてしまった少女で、人を食べないようにいつも竹(こちらはかぐや姫を連想させる)を咥えている。この妹がここぞという時にすさまじい霊力を発揮して兄を助けるのだ。「鬼」は敵であるばかりでなく、もっとも頼もしい味方にもなってくれるのだ。倒されてゆく「鬼」たちの心の中にも踏み込み、その心情に深い共感も示している。『進撃の巨人』の「巨人」たちが機械的に人を喰らうだけのデクノボーと描かれているのに対して、こちらの方が格段に優れている。
もちろん対立する相手を一方的に「鬼」だとか「巨人」だとかと決めつけてスパスパと切ってしまうのはよくないことだ。肝心なことはこの二つの対立する相手がいかに調和できるか、融合できるかなのである。
日本文学の本質は、二つの対立する相手―京都文化と江戸・東京の文化、公家の文化と武士の文化、日本の女性性と日本の男性性、、この二つの相異なり合い相争い合っている相手を一つに結びつけることにあるのである。相手を「鬼」だとか「巨人」だとか言って殺し合うのではなく、新しい調和をもたらすことが日本文学という文化の目指してきたものなのである。それこそが「新しい愛」「新しい日本文化」を実現することになるのだ。
『進撃の巨人』でブルーになったが『鬼滅の刃』でまた励まされることになった
「日本文学の復活」とその課題の実現のために、がんばってゆこう♪
『鬼滅の刃』の舞台は日本昔話に出て来るような昔の日本であり、天狗やひょっとこなども現われる日本の古典的な世界である。そこを舞台にして現われるこれまた古典的な妖怪や魑魅魍魎たちが「人食い鬼」なのである。一見するとハイカラな「外国主義」とはまるで無関係に見える存在なのだが、実は「外国主義」とは日本の歴史と風土にこの上なく深く根づいた存在であり、日本の古典文明そのものと言ってもいいほどの「日本文化」なのである(このことについてはここでは深く追求できない。これを日本の歴史や文化に沿って詳しく追及しようとしたら膨大な―おそらく書けるかどうかも分からない―大著を書くはめになるだろう)
この物語の時代設定が「大正時代」なのも意味あることである。「大正時代」とは、明治維新で日本が開国し、京都から東京に都が移り、西洋新文明が日本の中に滔々と流れ込み、もうあと戻りが出来なくなった時代である。それまでの伝統的な京都文化の正当性が失われ、いわば京都文化が日本を滅ぼす「人食い鬼」になってしまった時代なのである。
『鬼滅の刃』の主人公たちはこのとてつもない強敵に立ち向かってゆくのだが、その際興味深いことがある。主人公の少年炭次郎(なんだか江戸っ子的な名前ではある)の妹が「鬼」であるということだ。鬼に喰われ自らも鬼にされてしまった少女で、人を食べないようにいつも竹(こちらはかぐや姫を連想させる)を咥えている。この妹がここぞという時にすさまじい霊力を発揮して兄を助けるのだ。「鬼」は敵であるばかりでなく、もっとも頼もしい味方にもなってくれるのだ。倒されてゆく「鬼」たちの心の中にも踏み込み、その心情に深い共感も示している。『進撃の巨人』の「巨人」たちが機械的に人を喰らうだけのデクノボーと描かれているのに対して、こちらの方が格段に優れている。
もちろん対立する相手を一方的に「鬼」だとか「巨人」だとかと決めつけてスパスパと切ってしまうのはよくないことだ。肝心なことはこの二つの対立する相手がいかに調和できるか、融合できるかなのである。
日本文学の本質は、二つの対立する相手―京都文化と江戸・東京の文化、公家の文化と武士の文化、日本の女性性と日本の男性性、、この二つの相異なり合い相争い合っている相手を一つに結びつけることにあるのである。相手を「鬼」だとか「巨人」だとか言って殺し合うのではなく、新しい調和をもたらすことが日本文学という文化の目指してきたものなのである。それこそが「新しい愛」「新しい日本文化」を実現することになるのだ。
『進撃の巨人』でブルーになったが『鬼滅の刃』でまた励まされることになった
「日本文学の復活」とその課題の実現のために、がんばってゆこう♪