「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

電子同人雑誌の可能性 124

2016-11-29 04:44:05 | 日本文学の革命
「周りから押し上げる力」や「上から引き上げる力」について考察してきたが、では電子同人雑誌ではこの二つの力はどのような形態を取るのだろうか。まず「周りから押し上げる力」について考察してみよう。

テレビの新しい人材の発掘原理は、大衆に「受ける」人材を発掘することだった。その美貌、その歌や演技、その人柄やそのパフォーマンスなどで大衆に受けそうな人材を登用し、マスコミ的スターとして活躍してもらうことがその狙いであった。賞取りシステムの発掘原理は「売れる」作家を作り出すことである。売れそうな作家や作品を選別し、日本文学の権威を借りて世の中に大々的に押し出して流行作家に祭り上げ、その後も「売れる」作家として活躍するよう後押しをしてゆく。しかもそれを企業体として最適のコストパフォーマンスで合理的能率的に行い、半年に一回というペースで「売れる」作家を継続的に量産してゆく。そういう狙いで行われているものであった(ちょうど工場で合理的能率的に工業製品が作られてゆくのと同じような感じで作家が量産されてゆくのである)。
では電子同人雑誌の発掘原理は何かというと、それは「趣味や志ざしの共鳴」だと言えるだろう。

いままで様々な電子同人雑誌を考察してきたが、それらはその雑誌を作っている人々の様々な「趣味や志ざし」によって作られたものだった。人々は電子同人雑誌を作ってゆくことによって、自分の趣味や志ざしをさらに深め高めてゆき、その趣味や志ざしに共鳴する人々と仲間になり交流の輪を広げてゆき、雑誌作りを楽しんだり面白がったり遣り甲斐のある活動として日々の生活に取り入れたりしているのであった。このような活動を通して、彼らの「趣味や志ざし」はさらに発達し、研鑽が積まれ、その分野に関する彼らの見識や鑑識眼を磨いてゆくことだろう。
この「趣味や志ざし」は、それぞれの人々の人間的な魂が具体的な形態を取って表れたものとも言える。人々は電子同人雑誌を作ることによって自分の人間的な魂を深めたり高めたり成長させたりして、同時にそれに共鳴する人々と心の交流・魂の共感を行っているのである。
創作家たちも実は同じことをしていて、絵や歌や文章などの表現技術―そこに彼らの「趣味や志ざし=魂」が詰まっている―を深めたり高めたり磨きをかけたりすることによって、各人の「趣味や志ざし」を成長させてゆき、その表現技術を駆使して作品を作ることにより自分自身の魂や社会や世界の魂を捕え、造形化し、未来へ成長してゆくような記念碑にまで高めようとするのである。そしてそのような造形化された魂を通じて、人々との間で大々的に心の交流・魂の共感を行おうとするのである。彼らが複雑な交響曲を作ったり、緻密な絵画を描いたり、凝りに凝った文章を書いたりするのも、すべては自分や社会や世界の魂に具体的な形態を与え、それを広く人々に伝えたいという思いからなのである。つまり電子同人雑誌の制作者と創作家たちは同じことをしているのであり、ただ創作家の方が技術的な表現手段を身につけている分より純粋で結晶化されたものを作れる可能性があるという程度の違いがあるだけなのだ。

電子同人雑誌の可能性 123

2016-11-27 02:52:18 | 日本文学の革命
こういう判断や決断は企業体としては当前のことである。どの会社も新商品が売れるかどうかの企画会議をし、どの商品を売るかの決断を行い、また常日頃商品を売るための知恵と努力を積み重ねているのである。このような判断や決断は企業にとって最高の経営判断であり、その叡智と腕前の見せ所だと言ってもいい。しかし文学的にはやはりおかしいのである。高い文学性という価値基準から、売れる商品という価値基準へ、選考の過程ですり替わってしまったからである。

このようにして受賞した作品や作家は、ひな壇に上がってマスコミのスポットライトを浴び、大々的に社会に発表されることになる。作品や作家が面白そうであれば大ヒットが可能であろう。そのようにしてデヴューを飾った作家は、しかしすでに三つのものに服従している。一つは彼を実質的に選別してくれた出版社であり、もう一つは彼を大々的に報道してくれたマスコミであり、最後が彼の作品を買ってくれて多額の富をもたらしてくれた読者大衆である。彼は今後もこの三つに奉仕するような作家活動をしてゆくことになる。出版社に対しては売れる作品を量産してゆき、マスコミに対してはマスコミ受けする派手なパフォーマンスを繰り返し、読者大衆に対しては彼らの喜ぶような作品を提供し続けるのである。彼はたしかに見事なまでに「売れる」作家である。しかしかつて同人雑誌に結集し文学の発展のために命を懸けたような作家たちとは根本的に異なってしまっているのである。

最後に賞取りシステムに関する重要な秘密について述べておこう。賞取りシステムで受賞した作品はマスコミに発表するだけで自動的に売れに売れてしまうが、その不思議な現象についてである。
賞取りシステムで受賞した作品は実によく売れ、中にはベストセラーを記録するものもある。現在ではたしかに売れなくなってきたが、それでもかなりの確率で大ヒットするのである。しかし出版社といえば、別にたいした企業努力もしていない。原稿を選別する作業など数十人のアルバイトを雇えば事足りてしまうし、もちろん原稿自体も出版社はまるでその制作に関わっていない。最終決断も数人でできるし、最終選考も先生方を料亭に呼ぶだけの手間暇だ。マスコミなどは呼ぶ手間暇もいらず、向こうの方から勝手に押し寄せてくる。そしてそこで受賞作と作家を発表するだけで自動的に本が売れてゆくのである。
これはたしかに不思議な現象なのである。たとえば自動車の新型車など新製品の発表会は数多く開かれているが、ただマスコミを集めて発表したからといって、その瞬間からその商品が売れに売れ始めるなどということは通常あり得ない。発表会などは事始めに過ぎず、そこから営業マンたちの身を粉にした営業活動が始まり、店の店員たちの顧客獲得合戦が始まるのである。企業が製品を売るために最も大切にしているのが、その製品をいいものとして作ることである。いい製品を作るために隅々までこだわり、磨きをかけ、立派な売り物として完成させてゆくのである。そのような企業努力に支えられてはじめて、その製品はいい製品として売り上げを伸ばしてゆくものなのである。
ところが賞取りシステムが生み出した受賞作は、そんな努力を全くしないでもマスコミへの発表だけで自動的に売れてゆくのである。しかも一度や二度のことではない。60年間もずっとなのである。そういう通常ではあり得ない不思議な商品が賞取りシステムの受賞作なのである。ちなみに「賞」の受賞作だから、という訳でもない。世間には賞はいくらでもあるが、受賞したら自動的にどんどん売れてゆく、どんどん人気が出て来る、などという賞は滅多にないだろう。「賞」自体がこの現象をもたらしている訳ではないのである。

ではこの不思議な現象をもたらしているものは何か。
それは「日本文学の権威」なのである。戦前の日本文学者たちが確立した「日本文学の権威」がこの常識では考えられない現象をもたらしているのである。

夏目漱石や芥川龍之介たち戦前の日本文学者たちは歴史に残るような偉大な文学的成果を残した。彼らの文学は広く深く日本国民に刻み付けられるものとなった。戦後初頭の太宰治や坂口安吾の文学も日本人に実に深い影響を及ぼした。そのような日本文学の権威と影響は戦後数十年の間は衰えることなく続いたのである。人々は日本文学に深い愛情と尊敬の念を感じ、日本文学の発展に大きな期待を寄せていたのである。
だからこそ芥川の名を冠した文学賞は日本人の間で大きな話題となったのである。人々は芥川賞受賞のニュースを聞くと、権威と伝統に包まれた昔の日本文学者が現代に再生したかの如き感じを覚え、畏怖と期待の念を抱きながら新しい受賞者に注目したのである。だからこそマスコミもこれを事件として取り上げ、大々的に報道したのである。そしてだからこそ受賞作が飛ぶように売れたのである。「日本文学の権威」― それこそが賞取りシステムを可能にした根底的要素だったのである。

しかし今やその「日本文学の権威」もすっかり失われてしまった。賞取りシステムの長い不毛な騒ぎの末、日本文学そのものが今や見捨てられようとしている。
また賞取りシステムの不可欠の要素だったマスコミと大衆社会も今や大きく変質して別のものになろうとしている。
本もどんどん売れなくなり、本屋もどんどん潰れてゆき、ベストセラーもほとんどなくなってしまった。ところが賞取りシステムは今もこのベストセラー作家のみを作家として望んでいて、それ以外の作家には作家としての生存権すら与えようとしない。今や紙の本の世界ではほんの一握りの作家しか作家として生活できず、このままでは作家という職業自体がなくなりつつあるのだ。読者もいない、作家もいないでは、日本文学は本当におしまいである。この時代的役割を終え、破滅的なものになった賞取りシステムは、なんとしても乗り越えて、新しい制度を創造しなければならない。

電子同人雑誌の可能性 122

2016-11-27 02:48:57 | 日本文学の革命
次いで現在の出版界の発掘制度「賞取りシステム」について見てゆこう。これには誰の意向が働いているのだろうか。
賞取りシステムの選考基準は「売れる」作家を作り出すことにある、と見て間違いないだろう。受賞作家が世間の話題となり作品が売れると大いに成功ムードが漲り、逆に受賞作家があまり話題にならず作品も売れないと幻滅ムードが漂うことからも、それが推測できる。もちろんこんな選考基準があることなど出版社の人間は決して口にしないが、前に書いたような出版社の本音「売れる本こそ価値があり、売れない本は皆クズだ」に照らし合わせてみても、十分推測できるところである。

実際のところは賞取りシステムの選考過程はベールに包まれていて分からないことが多い。出版社に集まった数千の原稿がどのようにして選別されてゆき、最終的に数冊に絞られて選考委員―出版社によって選ばれたプロ作家たち―のもとに届き、そこで最終選考にはかられるのか、判然としないのである。最終選考まで来れば選考委員たちが何を読みどういう感想を持ったか、一応分かるが、問題はそれ以前の過程である。数千冊もの原稿を読んで選別しているのは無名作家たちがアルバイトでしているらしい。毎日数冊数十冊の原稿をひたすら読んで選別しているそうなのだが、そんな読み方で作品の本当の良し悪しなど到底分かる筈がないだろう。せいぜい小説として体裁が整っているもの、ちょっと面白いものを上にあげる程度のことしかできないだろう。

マンガ原稿ならこの程度の読み込みでもかなり効果的に選別できる。マンガなら一目見て作画の良し悪しの判断がつくし、ストーリーも30分程度で読んでしまうことができる。応接室で少し時間を割いてマンガ家の卵が持ってきた原稿を読むだけで、有望マンガ家をセレクトしてゆくことも可能なのである。
しかし小説を読んで理解することは、たいへんなことなのである。難しいし、面倒だし、何回読んでも理解できないことも多い(しかもいい作品ほどそうなのである)。評論家やプロの鑑識眼など超越してしまうものまである(それこそ超絶にいい作品である)。江藤淳は権威のある大評論家で通っているが、彼の漱石作品に関する評論などお粗末極まるものである。漱石作品を一生かけてもまるで理解できず、ただ漱石の悪口を言うためだけにこの世に生まれてきた人間だと言ってもいいほどだ。こういう連中、あるいはこれ以下の連中が、毎日数冊数十冊の原稿を飛ばし読みしながら、半分寝ぼけ眼で選別しているのが実態だとしたら、これはもう文学作品の評価機関として始めから機能していないと断言してもいいほどだ。戦前の同人雑誌の評価方法―具体的な交流をベースにして人間的に向かい合いながら読んでゆくというもの―の方が遥かに優っているのである。

さてこのように選別され上がってきた作品群の中から、さらにどのような選別がなされるのか。一応小説としての体裁は整っている。面白いものもある。そういうものを上げてくるからである。しかしこの中から真に価値ある文学を見い出してゆくことなど、やはり不可能である。何年かけようが不可能な筈である。それに代わる分かりやすい評価方法や選考基準を導入しなければならない。それが「売れるもの」「売れそうなもの」という選考基準である。あるいは世の中で話題になりそうなもの、マスコミ受けしそうなもの、作家のキャラが世に受けそうなもの(たとえば「10代のかわいい女の子が書いた!」とか「お笑い芸人が書いた!」とか)、などと言い代えてもいい。これなら分かりやすいし、それ相応の勘や知識を持っていればかなり的確迅速に判断がつくのである。
おそらく出版社内のどこかの企画会議室に何名かの熟練スタッフが集まり、出揃った作品を俯瞰しながら、「これは売れそうだ」「これは受けそうだ」「よし!今回はこれで行ってみよう!」という決断が成されて最終候補が出来上がっている筈である。それは実際に受賞した作品の多くが、時流に乗ったような、世間に媚びたような作品であることからも推測がつく。もちろん文学賞の権威を保つために時々は生真面目な文学を受賞させる必要もあるが。


電子同人雑誌の可能性 121

2016-11-27 02:45:57 | 日本文学の革命
次に我々に馴染みのあるメディアとその発掘制度について述べてゆこう。上から引き上げる力はどのようなものなのか。その選考基準にはどのような意向が働いているのだろうか。まずはテレビについてである。
テレビ(映画も加えていいだろう)は、様々なオーディションを行ったり、プロダクションの人間が頭を下げて連れて来たり、プロデューサーが鵜の目鷹の目で探したりして、新しい人材の発掘に努めているが、その際の選考基準はマスコミ的に「受ける」ことである。つまり大衆に受けることである。大衆を魅了し、大衆の心をつかみ、大衆の視線を一手に集めることができるような人材、それこそが理想の人材である。そのような人材を見つけ出せれば、その関係者にとっては金の成る木、金の卵を産む七面鳥を手に入れたようなものであり、その人材は歌に演技にパフォーマンスにとテレビ画面内で大活躍し、巨額の報酬を関係者にもたらしてくれるだろう。またその人材つまりマスコミ的スターこそが、大衆の目をテレビ画面に釘づけにするのであり、そのことを通して大衆を満足させ、大衆の期待に応え、同時に様々に洗脳することで大衆を操作してゆくというテレビの使命に応えることができるのである。

こういうスターの卵を見つけ出すことは容易ではない。単に顔がきれいだからとか、歌がうまいからとか、それぐらいのことでマスコミ的スターになれはしない。何か大衆の求めているもの、その期待に応えるものがなければならない。人を引きつけるオーラみたいなものも必要である。街を歩いているときファンから追いかけ回されるぐらいでなければダメなのである。ファンにしてみればそれはスターを直に見れ直に近づける千載一遇のチャンスなのである。そんな機会にも追いかけて来ないとあれば、テレビ画面に映っているときはなおさら見ないであろう。それではマスコミ的スターとして失格なのである。
ただテレビには「やらせてみる」というポピュラーな発掘手段もある。テレビ番組は映画や本みたいに一作一作が勝負ではなく、ガッチリ構成されてもいず、新人を入り込ませる余裕が十分にあるのである。やらせてみて、ダメだったら切ってしまえばいいし、良かったらどんどん登用してゆけばいい。そういう風に実験的にやらせてみて、その結果を見て判断を下すこともできるのである。
どういうスターが「受ける」のかは、時代によっても異なってくる。石原裕次郎や三船敏郎が受けた時代もあるが、今あの手の濃い顔を出されても、おそらく前ほど受けないだろう。70年代にはヒッピー・ムーブメントとともにジーパン、長髪のキャラがマスコミ的スターになった。80年代後半のバブルのときはイタリアンスーツに身を固めた石田純一タイプの男やお笑いタレントなどがマスコミ受けするようになった。
時代の嗜好を探り当て、大衆の意向を嗅ぎ分け、テレビ関係者の日々の実践的な努力の中から新たなマスコミ的スターが発掘されてきたのである。


電子同人雑誌の可能性 120

2016-11-27 02:42:57 | 日本文学の革命
周りから押し上げる力は、その社会や時代や人々がどのような人材を待望しているかに大きく依存しているが、上から引き上げる力にはさらにもう一つ“権力”という要素が重要な役割を持つことになる。上から引き上げる力とは巨大で集中的な力であり、誰を引き上げるかという判断も一任されていて(たとえば部下の昇進権を握った上司がサラリーマン社会でどれだけの権力を得るか思い出して欲しい)、一つの権力の行使なのである。また誰を引き上げるかは、どのような人物を文化的リーダーの地位に就けるのかということなので、それはメディアにも社会にも極めて重要な影響を及ぼす人事問題となるのである。それ故にしばしば必然的に、この権力の行使権を握った者たちの意向が、上からの引き上げ行為に反映されるということが起きるのである。

たとえば北朝鮮のような独裁主義国家において何かの文化賞が創設されたとしよう。それは北朝鮮政府が何を言おうと100パーセント間違いなく北朝鮮政府の意向が反映しているはずである。北朝鮮の国家体制をベタ誉めした作品は賞を受賞し、それを批判したような作品は間違いなく落選、いや落選を通り越して作者は強制収容所に送られてしまうだろう。スターリンがやったように―彼の肖像画を書かせた画家(最高権力者の肖像を描くのだから当時の画壇の第一人者だったに違いない)があまりにリアルなスターリンの肖像画を描いたので、彼を銃殺させたのである―銃殺されてしまうかも知れない。ここには最もどぎつい形で受賞の背後に権力者の意向が反映しているのである。

もし漱石たちの阻止が功を奏せず、明治政府が文学賞を創設していたら、日本文学もどうなっていたか分からない。明治政府の意向は不逞な文学者たちを取り締まることにある。当然彼らが創設した賞制度には(明治政府が表向きどんな美辞麗句を述べようと)その意向が反映すると見て間違いない。日本文学者から自由な気風や溌剌とした気概が失われてゆき、政府に睨まれないようお体裁のいい作品ばかり作る作家や政府に阿諛追従する魂を失ったエセ文学者ばかりが幅を利かすようになっただろう。日本文学からは活力が失われ、その発展も頭打ちになり、せいぜい明治の画壇程度の発達で日本文学も終わったかも知れない。

これは賞制度ではないが、賞と同じように社会的名誉的報酬を与えることで「望ましい人材」を作り出そうとするものに、戦後日本の受験制度がある。この制度の「望ましい人材」とは日本の高度経済成長時代に望ましいとされた人材に他ならない。この受験制度で養成された人材こそが、日本経済の発展にとって真に望ましい有用な人材なのだと当時の政財界のトップが判断したのだろう。戦後初頭アメリカ的自由主義教育が一世を風靡したのだが、それを断固としてはねのけてこのような教育制度を築いたのだから、これはこれで立派な決断ではある。しかし最近ではこの受験制度が大いに揺らいでいるのだが、これは高度経済成長が過去のものとなり、従って「望ましい人材」像も揺らいでしまったので、それが反映しているのだろう。

このように上から引き上げる力―賞制度もその一つである。昔は王様や殿様がよくお気に入りの人間を文化的リーダーに引き上げていたが、この場合はまさに権力者の意向そのままである―には、どうしてもその権限を握る者たちの意向が反映してくるのである。ノーベル賞などはかなり公明正大な選考を行っているが、これにも公明正大な文化国家としてのスウェーデン―それは公明正大な福祉国家にも通じている―を世界にアピールしようというスウェーデン政府の意向が感じられなくもない。スウェーデンは文化的にはたいしたものを残していない。思いつく限りではアンデルセンぐらいだろうか(失礼!デンマークだった)。フランスやイギリスやドイツのような文化大国の人間から見たら、何でスウェーデン風情に文化を受賞されなくちゃならないんだ、と思うことだろう。しかしこのように公明正大に世界的な文化賞を授けてゆくことにより(たしかにそれは世界の文化を発展させてゆくものではある。別にスウェーデン人が直接やっている訳ではないが)、ある意味スウェーデンは国自体が文化的リーダーの地位に就くことができるのである。

電子同人雑誌の可能性 119

2016-11-27 02:38:51 | 日本文学の革命
ブレイクポイントについて述べてみたが、ここでいよいよ発掘制度について考察してゆきたい。

戦前の同人雑誌とそのネットワークは日本文学者たちの養成機関であり活躍の舞台であったと同時に、彼らの発掘機関でもあった。多くの優れた文学者たちがこのネットワークから続々と登場してきて、日本文学と日本文化の発展を押し進めてきたのであった。同じようなことが電子同人雑誌でもできるだろうか。電子同人雑誌とそのネットワークから様々な創作家たちが続々と登場してきて、日本文学はもちろん様々な文化の促進者発展者となり、日本文化の新たな発展を実現する機関となることができるだろうか。今日構造的な衰退状態にある賞取りシステム―このままだとこのシステムもろとも本業界も日本文学そのものも滅亡しかねない―を乗り越える新たな作家発掘システムに成り得るだろうか。

先に述べたように創作家を目指す者たちは、電子同人雑誌を用いて様々なアピール活動ブレイク活動を行うことができる。自分の雑誌に創意工夫を凝らして自分の創作を載せて世に発表することができるし、電子同人雑誌というアピールの拠点で同人や協力者たちと力を合わせて様々なアピール活動を行うこともできる。様々な電子同人雑誌と交流することで交流の輪を広げてゆき、交際を楽しみ見識を広めてゆくと同時にそれで自分の同人雑誌をアピールすることもできる。自分の創作作品によって人々を感動させ、人々にアクションを起こしてもらい、ネット上に拡大してゆくこともできる。
しかしそのような自主的努力と同時に、周りから押し上げる力や上から引き上げる力も、構造的・システム的に必要なのである。素人や無名作家の力は、やはりどんなにがんばっても微弱なものなのである。そのような力がないと、たとえ有望な創作家がいても無名の創作家たちの莫大な渦の中に没してしまい、いつまでも底辺をうろつき回るだけで、上に出る機会が生涯現われないかも知れない。そのようにして貴重な才能がむざむざ潰されてしまうことにもなるのである。

この周りから押し上げる力や上から引き上げる力は、時代や社会の在り方やメディアの性格よって様々の形態に成り得る。
まず周りから押し上げる力に関しては―今身近な例が思い浮かばないのでちょっと飛び過ぎてしまう例をあげると―イエス・キリストの登場がある。無名の青年だった彼が教会堂や広場に現われて説教し始めると、彼の行った病人を癒す奇跡効果も手伝って、大勢の民衆が行く先々で熱狂的に彼の周りに集まり、彼に付き従うようになり、今の言葉でいえば一躍彼をスターダムのトップに押し上げてしまったのである。これは彼が現われた社会や人々がもともと救世主信仰の宗教を持っていたので、それを彼に投影し、その巨大な力で彼を押し上げたのである。このような救世主信仰を持っていない国―たとえば日本で同様な預言者が現われたとしても、おそらく人々はキョトンと見ているだけで、このような熱狂的な押し上げ現象は起きなかっただろう。
ヒトラーも登場したときは無名の青年であり、何の力もなかった。一つだけあったのが演説の才能である。彼はこの演説の才能を発揮して、今日のトランプ氏を上回る過激発言を繰り返したのだが、彼がビヤホールなどで演説をすると、ドイツの人々は熱心に彼の周りに集まってきて、心酔するように彼の演説に聞き惚れたのだった。人々は第一次世界大戦で破滅したドイツの再建、ヒトラーが連呼したドイツ民族の歴史的使命の達成を彼に期待するようになり、またここにもあった救世主信仰を彼に投影したのである。彼の周りには続々とファンや協力者や彼の政党への加入者が現われるようになり、みるみる内に彼を政治の頂点に押し上げていったのである。
今身近な例を思いついたのでここに書くと、お笑いやコメディアンは大阪では特別な存在であり、クラスでお笑いがうまい者がいるとたちまちクラスの人気者になるという。大阪のメディアでは文化的リーダーもお笑いやコメディアンがなるそうだ。それは80年代のお笑いブームとともに東京にも飛び火し、東京のメディアでもお笑い芸人たちをトップに押し上げるようになり、今も続くお笑い芸人の大活躍を生じさせたのである。それ以前にはこういう現象はなかったのである。大阪の文化とその東京をも巻き込んだ影響力がこのような押し上げ効果を生んだのだった。


電子同人雑誌の可能性 118

2016-11-23 18:51:47 | 日本文学の革命
さて 電子同人雑誌に収益性がある以上、それをつくっている創作家たちもそれで収入を得たいと望むだろう。彼らの多くがまともな就職をしていないことが考えられるので、その望みは一層切実である。できるだけ大きな金額、できれば巨万の富をゲットしたい、そう願う者も多いであろう。たしかに文芸作品はひとたび当たれば巨額の報酬を得ることができるし、実際それを実現した先輩作家たちを目の当たりにしているので、彼らがそれを夢見るのも当然である。またそういう夢があるからこそ、彼らは苦しく危険な生活に耐えて、前へ進めるのである。
と言っても本当に実現できるかは全く定かではない。成功するのはほんの一握りという厳然たる事実もある。彼らの多くは一生懸命努力しても、金銭的にはほとんど報酬を得られないだろう。そう考えると創作家というものは自己犠牲の人生を送っているとも言える。毎日懸命に努力して文化の発展に己の人生を捧げてきたのに、見返りはないのだから、これは立派な自己犠牲である(もちろん本人たちはそう思っていず「いつかビッグになってやる!」と思っているものだが)。しかし創作家たちの努力は無駄になる訳ではない。それは必ずなんらかの形で一国の文化の発展に寄与してゆくのである。

電子同人雑誌の経済的側面については前にも書いたが、250円という最低限利益が出る価格で発売して230人に売れたら4万円の収入になる。とすると700人に売れたら12万円になるので、同人雑誌の代表一人くらいの生活費にはなるだろう。700人もの人々に売れるというその文化的効果はたいへんなものになるが、金銭的にはたしかに少ない。

ではブレイクポイントはだいたいどの辺だろう。小説などの文芸作品はある一線を超えると幾何級数的に利益が膨らんでゆくものだが(出版社でよく言われる本を刷っているというよりも「お札を刷っている」状態である)、紙の本だとだいたい10万部程度だろう。電子同人雑誌だと6000人に売れたら100万を超える収入になるが、だいたいその辺かも知れない。というのは戦前の同人雑誌でもそこまで来ると立派なブレイクだったからである。
夏目漱石は『吾輩は猫である』で一躍世間の脚光を浴び大ブレイクした、とよく文学史などでは書かれている。ではどのくらい売れたかというと、漱石の高浜虚子に宛てた手紙から推測できる。『猫』を書き始めてから1年4か月後のことだが、『猫』で人気が高まったこの時期虚子は『ホトトギス』の値上げを試みようとしたのである。その際の返答で漱石は「雑誌五十二銭とは驚いた。今までの雑誌で五十二銭のはありませんね。それで五千五百部売れたら日本の経済も大分進歩したもの」と書いているのである。この「五千五百部」とは総印刷数のことで、当然売れ残りもあるだろう。つまり『猫』でブレイクしたと言ってもせいぜい数千冊しか売れてなかったのである。それでも当時は立派な大ブレイクだったのである(ちなみに今も商業誌として活躍している『中央公論』は当時の総印刷数は六千部であった)。数千部とは言っても、それは当時の知識階級に確実に届いていたこと、また当時も同人雑誌は同人たちの手作りで行われていたので数千部でも巨額の収入を得ることができたということ、などを考慮するとやはりこれは大ブレイクにふさわしい数字なのだろう。

電子同人雑誌でも数千人に売れたら100万円くらいの金は入って来る。しかしそれよりも遥かに重要なのが、この数千人の実態である。彼らは単なる雑誌の消費者ではないのである。彼らは一人一人がコンピュータやインターネットでいわば武装したネットユーザーなのである。彼ら一人一人の背後にはさらにネットワークが繋がっていて、彼らがアクションを起こしてネットワークに働きかけていったなら、たちまち巨大な力となって広く深くネット全体に影響を及ぼすことになり、その電子同人雑誌のブレイクを可能にしてしまうのである。
では彼らにアクションを起こしてもらうにはどうしてらいいか。ただ雑誌を読んだくらいでは自発的にアクションなど起こしてもらえないだろう。頼み込んでも無理、人はそんなことでは動かないし、かえって不愉快を与えるだけだろう。よくネットなどで知名度を上げようと「知って!」「知って!」と連呼している者がいるが、これなども逆効果でそんな「知って!」「知って!」で知らされたものなど、知ったそばから忘れてしまうし、嫌な感じが残るだけである。

ではどうすれば彼らにアクションを起こしてもらえるのか。彼らを「感動」させることである。彼らの心をつかみ、心情を揺さぶり、魂に感銘を与えるような「感動」をもたらすことである。「心にグッと来た」「感心した」「本当に面白い」「これは素晴らしい」「マジいいよ」そのような言葉が素直に出て来るような感動を覚えたとき、人は自分の魂にある成長ある拡大を感じ、喜ばしい気持ちになるのである。またこのような感動をもたらしてくれた人間に感謝と共感を覚えるのである。そしてこの感動と喜ばしい思いを他の人々にも伝えようと、自ら進んでアクションを起こし始めるのである。
数千人もの人々を感動させるということは、その感動が「普遍的」であるということである。それはネットワークが繋がる先々で同じような感動を連鎖的に引き起こしてゆくに違いない。数千の輪から始まった感動は連鎖的に拡大してゆき、ネットの世界に広がってゆき、ついにはその電子同人雑誌なり文芸作品なり創作家なりをブレイクさせることになるのである。

電子同人雑誌の可能性 117

2016-11-23 18:48:15 | 日本文学の革命
では電子同人雑誌のようなネット生え抜きのメディアならどうだろう。
ネットは組織ではなく個人が主体となって構成されているメディアである。その個人にコンピュータやインターネットのテクノロジーが加わることによって巨大なパワーを発揮し得るメディアなのである。電子同人雑誌も個人が集まって雑誌の制作・販売を行っているメディアで、その労力の多くもコンピュータやネットのテクノロジーに依存している。従って巨大組織のようにたいへんなコストがかかる訳もなく、雑誌自体も低価格で販売できるし、それでも大きな収益を期待できるのである。千円二千円もするものなら「盗んでやろう」という情熱も湧くかも知れないが、たかが百円二百円のためにわざわざ不正コピーするだろうか。その労力の方が高くつくのではないだろうか。
またあながち不正コピーも損するばかりではないのである。コピーされ大量にばら撒かれるということは、それだけ多くの人に読まれるということである。本当は金を払わなければならないのに無料で読めるということで、かえって読む気を起こさせるかも知れない。きっちり金は取れるが少部数でいいか。それともほとんど金は取れないが大量に読まれた方がいいか。電子同人雑誌のそもそもの意義から考えたら、後者の方がいいかも知れない。

盗用・不正コピーが多大な貢献をした事例もある。世界の日本アニメブームである。これも当初は(今でも?)世界各地の日本アニメの愛好家たちが、日本アニメを不正コピーし、それぞれの国のネットで大量にばら撒いたことで広まったのだろう。日本アニメなどという得体の知れないものを、向こうの一般の人々が金を出してまで見たがるとは思えない。無料でネットで出回っていて、無料なのでつい見てしまったら、面白かった。あれこれ数多く見ている内に(もちろん無料で)日本アニメのファンになってしまった…という経緯で日本アニメのブームが起こったのだろう。
とするとこの不正コピーと不正配信は、たいへんな経済効果を日本にもたらしてくれたことになる。年間数千万という外国人観光客もこのおかげである。日本料理の世界的ブームもこれがきっかけである。世界各地での日本に対する好印象と親しみの感情もこのおかげである。不正コピーが行われず、チマチマとした有料配信に限定されていたら、このような大ブームは起きなかったかも知れない。結果的に不正コピーと無料配信は、莫大なプラスの効果をもたらしたのである。

場合によっては盗用された方がいいときもあるが、そういう不正をそもそも根本的に抑えるものも電子同人雑誌は持っている。電子同人雑誌の中核にあるのは、その内容と並んで“交流”なのである。人々が電子同人雑誌を買いたがる大きな理由が、その雑誌の人々と交流の輪を広げたいからなのである。よく言われるようにネットユーザーは情報には金を出したがらないが、交流には金を出すのである。ケータイで毎月数万円もの使用料を払っている女子学生はケータイでの交流費としてこれだけの金を蕩尽しているのである。雑誌の内容は盗むことができる。しかしその雑誌に関わる人々との交流は盗むことができないのである。その雑誌に関わっている人々と交流したいのなら、金を出して雑誌を買うのは最低限のマナーであり人間としての良心である。逆にそのようなこともしない人間は、最も本質的なところで人々と交流する資格はないし、おそらくできないだろう。


電子同人雑誌の可能性 116

2016-11-23 18:44:06 | 日本文学の革命
電子同人雑誌は販売される雑誌であり、収益性を持っている。もちろん無料に近い雑誌も多いだろうし、また一般的に低価格ではあるが、お金を出して買う必要があるものである。となると心配になってくるのが盗用・不正コピーである。
ネットでよく問題となるのがこの盗用・不正コピーの問題である。映画や韓国ドラマなどがよく狙われ、不正コピーされた映画やドラマがネット上に流出し無料で見られてしまうという事態が発生し、映画関係者に悲鳴をあげさせていた。音楽や本なども簡単にコピーできるので、やはりネット上で無料で流通してしまった。作家やアーティストたちが自分の作品をネットにアップするのを嫌がるのは、ネットにアップしたが最後いとも簡単に不正コピーされ無料で流通してしまうからである。このネットによる盗用・不正コピーはメディアの経営基盤を根本的に揺るがすものとなるので、ネットは「文化の破壊者」とまで言われたこともある(最近は強力な不正コピー防止機能が開発されたようだが。しかしそうなると今度は「ほとんど見なくなる」という現象が生じ、別の意味でメディアの基盤を揺るがせているようだ)。

しかしこの盗用・不正コピーにさらされて困っているのは、ネット以外の他メディアなのである。他メディア―たとえば映画などは多数の撮影スタッフと高額ギャラの役者陣を用いて作られるものなので、観客にはきちんと劇場に観に行ってもらうか、もしくはビデオを購入して観るかしてもらわないとペイしないのである。音楽もCD工場で生産しそれを販売するという形でビジネスモデルが出来ているので、CDを買ってもらわないと赤字になってしまうのである。紙の本も、紙に印刷し、製本化し、全国の本屋に届けて販売するというビジネスモデルなので、本を買ってもらわないと経営が成り立たないのである。これらのメディアはすべてネット以前に成立したものであり、ネットのようなメディア―劇場もCDも紙もなくても、何の不都合もなく映画も見れるし音楽も聞けるし文字も読めるメディア。しかも不正コピーも不正配信もいとも簡単にできるという恐るべきパワーを持ったメディア―の存在を想定せずに自己のビジネスモデルを築いてきたのである。ネットにしてみたら自分が持ってしまったパワーを素直に使っているだけであり、なんでこっちが旧メディアに合わせなければならないのか、という不満もあるだろう。ネットとそれ以前のメディアの構造のずれが、盗用・不正コピー問題の根底にあるのだ。


電子同人雑誌の可能性 115

2016-11-23 18:38:24 | 日本文学の革命
「同人間」のところで書こうと思っていて、つい書きそびれてしまったのでここで書くが、電子同人雑誌の「総合サイト」というものも考えられるのである。かつてヤフーがホームページの総合サイトを作りあげ運営していたが(今もしているだろうが)、それと同じような感じのものである。そこには様々な電子同人雑誌がジャンルごとに分類整理されて枝分かれしている。人々は興味あるジャンルをクリックしてゆけば、「文学」―「小説」、「映画」―「アニメ」、「趣味」―「釣り」など関心のある電子同人雑誌に辿り着いてゆけるのである。

このような「総合サイト」を運営するのは、電子同人雑誌のアップロードを受け付け、同時に課金システムのサービスを提供しているネット企業だろう。もちろん一つだけでなく複数の「総合サイト」があってもいいし、アングラ的なものがあってもいいだろう。ホームページの総合サイトでは広告収入しか入らなかったが、電子同人雑誌はそれ自体が販売され収益を生むので、「総合サイト」の運営会社にはそこからの収入も入ってくる。アマゾンと同じにしたら電子同人雑誌の売り上げの3割が運営会社の取り分となるのである。つまり電子同人雑誌が売れれば売れるほど運営会社も儲かるので、運営会社は電子同人雑誌の売り上げアップのために大いに尽力してくれる筈である。

たとえば電子同人雑誌を効果的に作るためのソフトを開発したり、電子同人雑誌に使えるようなプログラミング・ソフトを提供したり、やはり電子同人雑誌に使えるイラストやデザインなどを提供するサイトを紹介したりと、いろいろ企業努力を傾けてくれるだろう。電子同人雑誌の販売促進のために、30分だけ雑誌を無料で読めるソフトだとか、同人の一人が書いてゆく雑誌宣伝用のブログとかも用意してくれるかも知れない。
このような企業の協力もあれば電子同人雑誌はさらに発展してゆくのである。