「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

もう勝利は約束されたようなもの

2006-07-30 13:26:39 | 日本文学の革命
今日も朝早くから文学をやっていた

「意識の波と言語の融合」をどう具体的にやってゆくか
その手順を考えていたのだが、十分できるようになった

今やもうすべてが出来てしまう
「日本文学の革命」も「反外国主義運動」も成し遂げてしまえる
『夏目漱石の継承』をはじめとする様々な作品もみんな完成できる
そしてこれから「新しい文学」をどんどん書いてゆき、日本文学の事業の「後半部」をどんどん押し進めてゆくことができるだろう

文学の道に志して以来、実に10年以上に渡って悪戦苦闘の苦しい日々を送ってきた
どんなに苦しかったか(掲示板とかではほとんど書いてこなかったが)、筆舌に尽くしがたいものがあった
しかしその努力の甲斐あって、今大きな成果が現れようとしている

まだ最後のつめが残っているが、ここまで来たら勝利は約束されたようなものだ
拍車をかけて突き進んでゆこう

麻丘めぐみの「芽ばえ」

2006-07-29 19:00:16 | 日本文学の革命
韓国ドラマを借りるために休日には近くの蔦屋によく行っている
(ただ最近では主要な韓国ドラマは見てしまったために、借りるものがなくなってきたが)
そこではCDもレンタルしているので、ときどき借りてくる

この前 70年代に流行った懐かしの青春ソングとかいうものを借りてきた
昔の曲は、そのときは大いにもてはやされたかも知れないが、今聞くと全然興味がわかないのも多い
「雨にぬれながら佇む人がいる…」なんて曲、今聞いても全然おもしろくない
「ウララ、ウララ、ウラウラで…」昔日本中を楽しませた山本リンダの曲も、今は聞くに堪えない
「しとしとぴっちゃん、しとぴっちゃん」と子づれ狼の曲が流れてきたときは、すぐにスキップしてしまった

そんな中 この曲はいいな、と思えるものがあった
今でもちらほらテレビに出てくる麻丘めぐみの「芽ばえ」という曲で、彼女がまだ若々しいアイドルだったときに歌っていたものだ
以下に歌詞を載せておこう

「もしもあの日あなたに逢わなければ
 この私はどんな女の子になっていたでしょう

 足に豆をこさえて街から街
 行くあてもないのに
 涙で歩いていたでしょう
 悪い遊び覚えて
 いけない子と
 人に呼ばれて泣いたでしょう
 今も思い出すたび胸が痛む
 もうあなたのそばを離れないわ
 離れないわ

 もしもあの日あなたに逢わなければ
 この私はどんな女の子になっていたでしょう

 白い薔薇の匂いも鳥の声も
 まだ気づくこともなく
 ひっそり暮らしていたでしょう
 誰か人に心を盗み取られ
 神の裁きを受けたでしょう
 今も思い出すたび恐くなるわ
 もうあなたのそばを離れないわ
 離れないわ         」

最も重要なところを攻め落とした

2006-07-27 07:07:43 | 日本文学の革命
最後の城を攻め落とすために毎日毎日がんばっているが
どうやら最も重要なところを落とすことができたようだ

「意識の波と言語の融合」

言葉で表現したら、このようになるものだ
これが十分にできるようになったのだ
これは「仏教と文学の融合」と言ってもいいものだが、これができるようになると、ドミノ倒し式にすべてが一挙に実現できてしまう

この「意識の波と言語の融合」とは、夏目漱石の未完の大著『文学論』の中心主題である
『明暗』を書き上げたあと、漱石は再びこの『文学論』に回帰して、これを完成させ、その向こうに新しい日本文学の発展を開こうとしていた
今まで書かれてきた日本文学が「前半部」に当たるなら、この『文学論』の向こうに開ける新しい文学世界は日本文学の事業の「後半部」に相当する

これが開けるようになったのだ

もうここまで来たら、一直線に「日本文学の革命」を実現できてしまう!

まだまだこれからも困難な道のりが続くが
必ず成し遂げてしまおう

宮崎アニメと「呪いからの解放」

2006-07-23 15:26:42 | 日本文学の革命
先日の金曜日 残業があったので家に帰ったのは9時すぎだったのだが、帰ってテレビをつけてみると『ハウルの動く城』がやっていた。前に映画館に行って見ていたので、いい加減なところで消そうと思っていたが、グイグイ引き込まれてしまい、結局最後まで見てしまった。やはりいい映画なんだな

いい機会だから宮崎アニメについて書いてみよう

宮崎アニメ―とくに『紅の豚』以降のすべての作品において、繰り返し一つのテーマが取り上げられている
それは「呪いからの解放」である

『紅の豚』では主人公の飛行機乗りが何かの呪い(魔法でも同じことだが)にかけられて豚になって登場している
これがもっとも重要な謎になって物語りが展開してゆく
『もののけ姫』では物語りの最初でアシタカが死に至る呪いをかけられ、その呪いを解くために旅に出ることからストーリーが始まってゆく
『千と千尋の神かくし』でも、千尋の両親が呪いにかかって豚にされてしまう。どうすれば両親にかかった呪いを解くことができるかが、千尋に託されることになる
そして今回の『ハウルの動く城』でも中心となるテーマは「呪いからの解放」である。ソフィーが荒地の魔女の呪いにかけられてお婆さんにされてしまう。この呪いからどうやったら解放されるか、ハウルたちと出会いながらこの難問を解決してゆくことが、この物語りの中心テーマである

もう一つ言うなら、宮崎アニメの重要な出発点であり金字塔ともいうべき『風の谷のナウシカ』、これにも呪いがかかわっていると言っていい
猛毒の臭気を発し恐ろしい虫たちが跳梁する「腐海」に覆われた世界
これが『ナウシカ』の舞台となる世界だが、これはもう「呪われた世界」と言ってもいいものだ
ただこの世界は単純に「呪われた世界」ではなく、その奥深くでは、巨神兵に象徴される破滅的な人為の文明をこの「腐海」の自然が濾過している、という構造があるのだが(「虫は世界を守っている」)
「腐海」を焼き払ってしまえ、という動きにナウシカは激しく抵抗するのだが、だからといってこのままでいいという訳ではなく、エピローグのところではまさにこの「腐海」が緑豊かな世界に変わっている姿が描かれている
こういうふうになりたいという意味だろう。つまりここでも「呪いからの解放」が主題なのである

なぜ宮崎駿は、こうまで繰り返し繰り返し「呪いからの解放」をテーマにしているのか
それは彼自身が「呪い」にかけられていると自覚しているからであり、そこからの「解放」を切望しているからに他ならないからだ
しかも重要なのは、彼はこの「呪い」が自分だけにかけられているとは思っていないことだ
彼を取り巻く社会全体に「呪い」がかかっていると思っているのだ
それはちょうど、あの「腐海」に覆われた世界のイメージとぴったりと重なっていると言っていいだろう

宮崎駿が生きている社会といえば、この日本社会のことに他ならない
それが「呪い」にかけられている?
いったいどういうことだろう
別に表面だけ見れば、自由で平穏でそこそこ楽しい普通の社会じゃないか
「腐海」みたいに数分で人を殺してしまう、そんな猛毒に覆われた世界のわけがないじゃないか

ところが宮崎駿と同じような見方をしている人間は、結構多いのである
明治の文学者北村透谷は自分が暮らしている日本社会のことを「我が牢獄」と呼んでいたし、夏目漱石は『明暗』の中で「悪魔の重囲」と書いていた
井上陽水は「氷の世界」という言葉で、中島みゆきは凍てつくような「荒野」という言葉で、この日本社会を象徴化している

彼らは芸術家だけに一般の人間よりも鋭敏な感性と深い洞察力を持っている
普通の人間が見えないものを見ているのである
その彼らが確信をもって言っていることだけに、このようなものの見方には何か深い真実性があるのではないだろうか

『ナウシカ』以降、とくに『紅の豚』以降の宮崎アニメは、このわれわれにかかっている「呪い」をどうやったらはらすことができるか、どうやったらそこから「解放」されるか、が中心テーマになっている
たしかに、それぞれの作品は一応ハッピーエンドで終わっている
『紅の豚』では、主人公はアメリカ人との殴り合いのあと、もとの人間に戻れたようだし(しかし曖昧のままに残されているが)
『もののけ姫』ではアシタカは一応快癒した
『千と千尋の神かくし』でも、両親は豚から人間に戻って、皆は何事もなかったかのように帰ってゆく
そして『ハウルの動く城』でもソフィーは若い娘に戻れた(髪は白髪のままだったが)

一応それぞれにおいて「呪いからの解放」は実現したかに見える
しかし実際にはそうではないみたいだ
いつでも曖昧なクエッションが付いている
そこでハッピーエンドに終わっているようで、実はその先につながっている
いわば未来への希望をこめて、問題を先送りしている感じなのだ
それは『紅の豚』以降の宮崎アニメの、何か釈然としない印象にも如実にあらわれている

まだまだ この見えざる「呪い」からの解放は、実現していないのだろう



ミスチルの新曲

2006-07-16 18:17:05 | 日本文学の革命
先々週の七夕の日にやっていた「ミュージックステーション」を録画しておいた
ミスチルが出て新曲を歌うというし、僕の好きなCoccoも出てくるし、録画して保存しておこうと思ったのだ

Coccoといえば、彼女長い間沖縄に戻っていて、最近復帰したばかりなのだが、その復帰したてで「ミュージックステーション」に出たとき、これも録画して見た
そのとき彼女は「流星群」という歌を歌ったのだが、これを聞いて驚いた
いつのまにか心を変えて、どうやら僕たちを応援しているようなのである

Coccoが「強く儚いものたち」でデビューしたとき、それは僕たちの運動―つまり桑田佳祐やミスチルや中島みゆきたちが押し進め、僕もその一人として加わった「反外国主義運動」のこと―にとってたいへんな脅威だった
彼女のこの曲を聴いたとき、僕もアマテラスの直撃を受けたかのように震撼したものだ
(といっても彼女の歌は大好きで、全部買い集めているが)
今でも覚えているが、シングルCDを今のように大判にして売り出したのは(それ以前は小さなサイズだった)彼女のこの曲が最初だった
面白いのは、それからしばらくして中島みゆきがCoccoに対抗するかのようにシングルCDを大判にしたことだった(これがたしか大判サイズ化の二番目だったはずだ)
やはり彼女も脅威を感じて、対抗しに出てくれたらしい

ところが、長い沈黙のあとに出したこの「流星群」を聴くと、どう聴いても僕たちを応援してくれてるようなのである
「廻れ 星よ 光 放ち
 進め 前へ 前へ
 走れ そして 
 手を取るのは いつか 
 どこか 辿り着いた時に」

これはどう見ても応援歌である
あの彼女が、思いもかけず「反外国主義運動」の応援をしてくれるようになった
こんな頼もしいことはない

ところで 今回のミスチルの新曲
なかなかいい
諦めないで希望を持ち続けるところが実にいい
以下に歌詞を載せておこう

「…でもね 僕らは未来の担い手 人の形した光
 暗闇とじゃれ合っては 眩しくきらめく 箒星
 心配事ばっかり見付けないで 慌てないで探してこう
 いつか必ず叶うって決め込んで
 路頭に迷った祈り

 目をつぶっても消えない光 夜空に託した祈り
 今日もどこかで光ってる 誰の目にも触れない場所で
 悪いとこばっかり見付けないで 僕ら一緒に探そう
 ずっと優しく淡く弧を描いて
 夜を撫でてく 箒星
 
 光り続ける 箒星  」

そろそろ探し出したいものだ

決定的な一歩

2006-07-09 14:53:56 | 日本文学の革命
どうも決定的な一歩を踏み出せたようだ

「新しい文学原理」が確立したようなのである
平凡な文章―われわれから見たらあまりに平凡陳腐な“文章というもの”
その背後にたいへんなものがありそうなのである

これを発掘することができたら、優に「新しい文学」を生み出すことができる

これが決定的な一歩になるだろうか

楽しい想像

2006-07-02 21:32:42 | 日本文学の革命
勝負の月7月に入って、もうとにかく全力でぶつかろうと頑張っている

あともう少しという手ごたえはつかんでいる
具体的には次の二つができたら、すべてが実現するのである

○新しい文学原理の確立
○「自由韻律」を見い出してゆく

この二つを紙に書いて机の前の壁に貼り付けて、なんとしても実現しようと毎日努力を繰り返している

一つは「新しい文学」の方法論になるものであり
もう一つは生命になるものだ
そしてどちらもほとんど出来ているのである
あとは発想一つ、発想一つで決まってしまうのだ

だがその発想がいつ来るのかが分からない

まあ 焦ってもしかたがない
こういうときは楽しいことを想像しよう

これができたらどうなるか

まず第一に「日本文学の革命」が実現してしまう
衰亡しつつあった日本文学が力強く復活し、ふたたび前へと―いまだ書かれていない「後半部」へと前進をはじめてゆく

考えてみればこれはたいへんな大事業だ
専門の学者や文学者にも出来やしない(事実してこなかった)
中央省庁のエリート官僚が束になってかかっても、出来っこない
これほどの大事業を今まさに成し遂げようとしているんだから、もっと誇りを持っていい(ともすれば自信喪失して自分を見失いがちだから、もっと自身を持て)

第二に、「反外国主義運動」も成就できる

90年代に起こったこの運動も、たしかに大きな成果をあげたが、今ではだんだん風化しつつある
桑田佳祐もミスチルも、誰もこの先どう進んでいけばいいのかわからないので、勢いをなくしているのだ

この運動の向こうには、実に大きな可能性がある(文化的にはもちろん、将来の日本社会にとっても)
それが実現しないまま立ち消えようとしている
これも防ぐことができそうだ

第三に、作家になれるかも知れない
新しい独自の文学をどんどん書いてゆけるようになったら、そうなっても当然だろう(今が大正時代のような文学的に溌剌とした時代だったら、今だってそうなっても全然おかしくないのである)

まあ 今の僕にはつまらない名誉欲などないし、金持ちにもなりたいわけではないが、モノを書いて食ってゆけるようになったら、こんなに有り難いことはない

最後に、結婚もできるかも知れない
これも楽しい期待だ

まあ 楽しいことを考えて自分を励ましつつ
がんばってゆこう

則天去私と自然随順

2006-07-01 07:11:14 | 日本文学の革命
>関場さんは、日本語に潜む「則天去私」が浮き出すような韻文を用いて書くつもりなのか。
「則天去私」それ自体を作中のテーマとして扱った作品になるのか。
あなた本人が「則天去私」の状態になって小説を書くのか。
あるいはその全部なのか。何をしようとしているのでしょうか?


則天去私は非常に曖昧模糊とした机上の概念のように思われるかも知れません
しかしそれは日本人にとって非常に馴染み深い概念と密接に結びついているのです
それは「自然随順」です

この自然随順は和歌以来の古典文学に一貫して流れている中心概念です
今でもほとんどの日本人はこれを生きていると言っていい
しかし明治以降これが時代に合わなくなってきているのです

日本人はかつて日本の自然を絶対視してましたが、明治以降になると世界には様々な「自然」があることを思い知らされるようになりました
巨大な砂漠も自然だし、アマゾンの大ジャングルも自然だし、アメリカの大平原も、宇宙空間も自然の一つです
日本の自然は、そういうものの中で相対的な一つに過ぎないものであり、日本でしか通用しない箱庭的なものになってしまったのです
かつて日本人があれほど絶対視した「四季の流れ」でさえ、今では地球の公転軸が太陽に対して何度傾いているかの結果に過ぎないとされてしまいました

そしてその日本の自然自体が今や、西洋の合理主義文明(それは資本主義という形で世界を改造しようとしています)によってさんざんに押しつぶされて、息も絶え絶えの状態です

自然随順は島国時代の日本にはピタリと適応していましたが、しかし今やそれは根底から揺らいでいるのです

その限界を乗り越えようとして現れて来たのが則天去私なのです
これは自然随順と兄弟姉妹のような関係にあります
自然随順の生命を発展的に継承して、今日の日本にふさわしい新しい世界を築こうとするものなのです

この則天去私を文学という形で実現してゆきたい
それが漱石の目指していたものであり、僕もその道を向かいたいと思っているのです

>「意識の波」が元のジェームズの「意識の流れ」ではいけない理由は?

やはり微妙に異なっていますし(ジェームズは仏教を意識していませんでした。それは彼にとって想定外のことだったのです)、なによりも漱石の『文学論』の用語を尊重したかったから、「意識の波」としたんです