「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

『風立ちぬ』と日本文学 2

2013-08-24 15:57:49 | 日本文学の革命
宮崎駿の言葉に「動作には思想が表れる」というものがある。人々の動作には、その人の人柄や感情や思想性が表れていて、それを捕え表現化することが宮崎駿のアニメの中核なのだという
だとするとあのゼロ戦開発史の人々の「動作」にも思想が表現されているはずである
西洋文明に感嘆しそれに匹敵するものを作りたいという若々しい情熱、空に憧れ空を自由に飛びたいという夢、一つ一つの部品にまでこだわり精密な芸術品のような飛行機を完成させたいという熱い苦闘
そのような情熱や思想がゼロ戦開発史に携わった人々の「動作」には込められている
そしてそれは実は日本文学の開発に携わった人々の情熱や思想と共通のものなのである
夏目漱石や芥川龍之介や堀辰雄のような日本文学の開発に携わってきた人々も、西洋文学に匹敵するような文学を作りたいという情熱を持ち、自己の作品を立派な芸術品として完成させたいとう熱い苦闘を行い、「則天去私」という言葉が示すように「空」を目指す情熱すら持っていたのである
宮崎駿が描いたゼロ戦開発史は、動作とそこに現われる思想という点で、日本文学の開発史と共通のものを持っているのである

ただゼロ戦開発史なら、堀越次郎の関連書籍を数冊ぐらい読めば、簡単に知ることができる
飛行機が大好きでメカに詳しい宮崎駿なら存分に精通しているだろうし、それをもとにして具体的にアニメ化してゆくこともできる
しかし日本文学の開発史となるとー日本文学がどのように誕生し、発展したのか、その本質は何か、何を目指して進もうとしているのかーこれを知ることは実に難しい
ほとんど誰にも分からないし、宮崎駿にも分からないだろう。したがって具体的なアニメ化もできない

しかしゼロ戦開発史を描き、その人々の「動作と思想」を描き出すことによって、その「動作と思想」を共有する日本文学開発史も間接的に描くことが可能なのである
動作を生き生きと描き出すアニメという手法を使って、ゼロ戦開発史と日本文学開発史を一体化することができるのである
ゼロ戦開発史という外的手法を利用して、その内に日本文学開発史を描き出すのだ(まさに「中身は堀辰雄」である)
(いろいろ物議をかもした庵野秀明の主人公の声も、期せずして日本文学と結びついている。彼は『エヴァンゲリオン』で碇シンジという一人の対人恐怖症者を主人公にして作品を作った。庵野自身も対人恐怖症者の一人なのだろう。この対人恐怖症者とは、太宰治に代表されるように、日本文学と深い関係があるのである。この対人恐怖症者こそが「遥か未来を目指すための羽根」を持っているのである)

そうなると「菜穂子の物語り」も俄然として重要性を帯びることになる
日本文学の開発にとって最も足りなかったもの、それは菜穂子のような「女性的なるもの」だったのである
一例をあげれば、漱石とその妻・鏡子の夫婦関係がある。鏡子は漱石を助けてその「女性的なるもの」を与えるどころか、ありとあらゆる手段を駆使して漱石を潰そうとしてきたのである(殺そうとさえしたのである)
これは一例ではあるが、日本文学は「女性的なるもの」に欠乏してきたのであり、それが日本文学の発展を、その「テイクオフ」を妨げてきたのだ
『風立ちぬ』のゼロ戦開発史=日本文学開発史において、菜穂子は次郎と結びつき、彼女の命を尽くしてその「女性的なるもの」を次郎に与えてゆく
それは日本文学に最も欠けていたものを補完してくれる行為に他ならないのである

人々の熱い努力と菜穂子の献身によって、ゼロ戦は完成し、大空に舞いあがってゆく
その姿は、日本文学が発展し、その最大の欠陥を補われて完成し、吹き上がった風(「風立ちぬ」)に乗って、大空へ舞い上がった時でもあるのだ

ゼロ戦は太平洋戦争の初戦で大活躍をしたが、やがて米軍機に圧倒され、最後は神風特攻となって全滅してゆく
しかし日本文学の発展はこんなものではなく、さらなる未来へ、日本の新しい可能性、「新しい日本」を築くものとして、未来へ向かって羽ばたいてゆくのである

『風立ちぬ』と日本文学 1

2013-08-24 15:54:30 | 日本文学の革命
先週『風立ちぬ』を見てきた
みんなが涙する感動の映画だというし、「戦前の日本の悲劇とそこからの再生」を描いた素晴らしい名作になりそうな予感がして、期待に胸を膨らませて見に行った

渋谷の映画館で見たのだが、いつもジブリ映画では子供たちに悩まされるのだが夜の九時過ぎに行ったせいか子供の姿はほとんどなかった
かわりにカップルばかりで、別の意味で悩まされることになったが

さて映画をみての感想…

イマイチだった

長々とゼロ戦開発史が描かれてゆくのだが、正直に言って退屈で面白くない
菜穂子との物語りもアッサリし過ぎていて、たいして感動もしなかった
大震災も、大恐慌も、軍国主義化も、崩壊してゆく日本の姿も、たいして描かれず、そこでも拍子抜けだった
結局 最初から最後まで退屈なゼロ戦開発史が続き、ラストの少し前でゼロ戦が飛び立つ。そこから急にラストになり、夢の世界で何もかもがアッサリ片付けられて終わってしまう

いったい何でこんなにゼロ戦開発史を描かなければならないのだろう
カプローニに憧れたり、ドイツに留学したり、どこかの会社に入って開発に携わったり、みんなして飛行機の部品を熱く語り合ったりしているが、ゼロ戦にも飛行機にも興味がない僕には全然共感がわかない
こんなのはNHKの1時間の教育番組でみんなやれてしまうものじゃないか
なんで五年もかけてアニメ化する必要があるのだろう
しかも宮崎駿ともあろう人が

そう思って憮然として席を立った
ちょっと映画館の中をを見回してみたが、涙している者など一人もいなかった。みんな僕と同じような憮然とした表情を浮かべていた。腹立たしいやら残念やらで、さっさと映画館をあとにした

それから何日間か『風立ちぬ』の意味について考え続けていた
(始めの悪印象にもかかわらず考え続けてしまう、というところがいい作品のいいところなのだが。つまらない作品だと見たそばから忘れてゆく)
疑問に思っていたのは、堀辰雄と日本文学はいったいどこに描かれているのか、というものだった
堀越次郎はゼロ戦開発史の主役として全面的に描かれている。しかしもう一方の主役であるはずの堀辰雄は(宮崎駿によればアニメの堀越次郎は「中身は堀辰雄」だという)菜穂子の物語りの借用以外では使われていないようなのだ

『ポニョ』の完成のあと宮崎駿はインタビューで、次回作は「大正時代の風俗を背景にして芥川龍之介を主人公にしたアニメを作りたい」と言っていた
実はこのインタビューのあと息子・悟郎が監督した『コクリコ坂』はこの言葉に沿った作品なのである
それは「日本文学の復活」をテーマにしていて、劇中に出てくる「取り壊されそうなカルチェラタン(文化の砦)」とは日本文学の象徴である。それを守ろうとしている青年が実は芥川で、それは彼の行動と髪型に反映されている

息子にこのような作品を作らせる一方、宮崎本人も同じテーマで競作のようにして作ったのがこの『風立ちぬ』なのである。芥川龍之介は関東大震災のあと行き詰まって自殺してしまったが、そのようにならず日本文学をさらに前へ進めようとした人物として堀辰雄を想定したのだろう
『風立ちぬ』というタイトルが示すように、この作品の中心テーマは日本文学なのである。それがどこにも見れないのはなぜなのだろう

そこでふと思いついたものがある
あのゼロ戦開発史
実はあれは「日本文学の開発史」でもあるんじゃないだろうか

平和への願いと第三の道

2013-08-04 14:45:26 | 日本文学の革命
桑田佳祐の新曲『ピースとハイライト』を先週の『ミュージックステーション』で初めてすべてを聴いて、驚いた
「地上に愛を育てよう」とか「互いの幸せを願う」とかのフレーズはCMで聴いていたので、『イマジン』みたいなラブソングなのかな、と思っていたのだが、これは実は日本と中国との関係について歌ったものだったのだ
尖閣問題で激しくいがみ合う二つの国の間に「愛を育てよう」と歌った政治ソングだったのである
しかもこれは憲法改正を目論む安倍政権に対抗するものであり、時の、しかも絶頂期にある政権に対してガチンコ勝負、真っ向勝負を挑みかけたものなのだ!

安倍のことを「裸の王様」と呼び(「本当におまえのことを支持している者などいないぜ」という意味なのだろう。実際その通りなのである)、「裸の王様に牛耳られた世は狂気!」とまで言い切っている
「都合のいい大義名分(かいしゃく)で争いを仕掛けて」とは、戦前の日本がさんざん中国や韓国に対してやってきたことであり、今でも石原やバカな右翼たちがやっていることである
そんなことは「20世紀で懲りたはずでしょう」とも言い、「悲しい過去や愚かな行為をなぜ忘れてしまう」とまでつめよる
「お互いにイイところを知ろうじゃないか」「互いの幸せを願うことがお伽噺だというのか」ともいう
実際中国人にはいい所もいっぱいあるのである。歴史的に見て、日本人以上にあると言って間違いない。なぜそれを見ようとしないのか

鳩山元首相も言っているように、日本が尖閣を領有したのは日清戦争で勝利した直後なのである。まさに戦利品として手に入れたものであり「盗んだと言われても仕方がない」のである
この日清戦争は日本がいわば中国を蹴落として、自分だけは列強の仲間入りをしたが中国の方は半植民地状態に転落させたものである。日清戦争は中国にとって長く苦しい「屈辱の時代」の始まりだったのである
ちなみに竹島の方は、日本がこれを領有したのは韓国併合の一年前であり、韓国人にとってこれは自国が日本に征服される始まりの合図ともいうべきものであった
だからこそ韓国人は竹島にこだわるのである。ここを領有することは、二度と自分の祖国が日本に併合されないことの象徴であり、いわば日本に対して結界を引く行為なのだろう

戦前の日本は、外国主義的発展が出来なくなり、行き詰って社会がおかしくなったとき、軍国主義・国粋主義の道を突き進むようになった
今もまた外国主義的発展が不可能になり、社会も行き詰まりおかしくなろうとしている
そしてそのときにまた憲法改正と軍事化の道、ネット右翼などの国粋主義の風潮が勃興してきている
まさに戦前の繰り返しだ

今日本に本当に必要なのは、不可能になった外国主義でもなければ、その反動として生じてくる国粋主義でもない
そのいずれでもない第三の道、新しい発展の道なのである
桑田佳祐や宮崎駿たちがなんとか切り開こうとしている道は(僕もその一人だが)、その道なのである

日本がふたたび戦前の軌道に乗ることは断固として阻止しなければならない
そして真の発展の道を一日も早く切り開かねばならない