「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

岡本太郎の教え

2008-09-30 07:35:56 | 日本文学の革命
どうもあなたは「出来ない!」と頭から決め込んでますが、あとほんの少しで出来るんですよ(笑

信用できないかと思いますが

僕がなぜ「日本文学の革命」を成し遂げる!と誰はばかることなく公の場で宣言するかというと、岡本太郎の影響もあるんですよね
彼の本は大好きで何度も何度も繰り返し読んできましたから

彼の『今日の芸術』という本には次のような文章があります

「(日本的な“謙譲の美徳”を批判して)「私なんか…」と頭を下げて、ついでにかゆくもない頭をかいてみせ、「へへへ」と笑ったり」「謙虚という“型”をたてに、そのかげで大ずる小ずるがまさに百鬼夜行」「権力者には無条件で頭をさげる。ちょうど封建時代に、しもじもの民衆が大名行列に出会うと、ただすわりこんで地面に頭をこすりつけるのと同じで」

「私は謙虚というものはそんな、人の前で、おのれを無にするとか低くみせることでは絶対にない、むしろ自分の責任において、おのれを主張することだと断言します。つまり謙虚とは、権力とか他人に対してではなく、自分自身に対してこそ、そうあらねばならないことなのです」
「私は、これを身をもって示し、この習慣的な偽善と退屈さをたたきつぶそうと思っています。そこで私は声たからかに「おれこそ芸術家だ」「おれはピカソを乗り越えている」と、まったく傍若無人に言いはなって、いわゆる「謙虚の徒」を呆然とさせるのです。しかし呆然としたのちに彼らは、これもまったく型どおりにせせら笑います」

「自分がそうであると公言することは、けっして得することではありません。およそ、その反対です。ことに日本では、自分では言わないで人に言わせるというのが権威になる条件だからです。他人や仲間に言わせることの名人はたくさんいます。本人が言ったのでは―しかしこれが一番正しいはずなのですが―けっして信用したがりません。なまいきだと反感をもつか、せせら笑うか、いずれにしても、あとは意地悪く、いつ、つまずくかと楽しみに見物しているやつらばかりです。ここらが、いちばん日本的です」
「公言は公約です。「おれこそ芸術家である」と宣言した以上、すべてそれ以後のわざわいは、おのれだけに振りかかってくるのです。だまっていれば無事にすんだものを。しかしノッピキならない立場に自分を追い込まなければいけない。言ったばかりに徹底的に、残酷なまでに責任をとらなければなりません。言ったことが大きければ大きいほどそうなんです。…だからうぬぼれていられるどころではありません」

「自分を積極的に主張することが、じつは自分を捨ててさらに大きなものに賭けることになるのです」
「よかれあしかれ、何ごとにつけても、まず飛び出し、自分の責任において、すべてを引き受ける。こういう態度によってしか、社会は進みません」

まあ こういうような岡本太郎の教えを、身をもって実践しているわけなんですよ(笑

あと一問!

2008-09-21 22:19:43 | 日本文学の革命
「新しい文学」を目指して今までいろいろな問題に挑戦してきたが、そのほとんどはもう出来てしまった

残るはあと一問だけだといっていい
漱石が未完成のまま遺した『文学論』を完成させること
これが最後に残った問題なのである

これもあとほんの一押しでできる
文字通りぎりぎりのところまで追いつめているのである

これができたら「日本文学の革命」も実現する
『明暗』と『文学論』という漱石が残した二つの未完成地点で日本文学の発展は止まっていた
それをふたたび前へと前進させることができるのである

ここまで来るのにホントたいへんな年月がかかった
人生をこれに捧げてしまったようなもんだ
こんなことをしてないで、10年前にあの「花屋の人」と結婚していたら、もっといい人生を送れたんじゃないかと、ときどき後悔に苦しむことがある
もう今さらどうしようもないが

ともかくあともう少し

こうなりゃこの人生をすべてここに捧げ切ってやるつもりだ

『ポニョ』を見てきた 3

2008-09-15 12:26:59 | 日本文学の革命
では実際『ポニョ』を見てみて、どうだったか

残念ながら、物足りないのである
あまりにもアッサリし過ぎている。薄っぺらな感じがする
『ナウシカ』や『ラピュタ』だったら作品の中にグイグイ引きつけられて、作品世界に没頭し、一喜一憂できるのに、『ポニョ』ではそういうことができない
一言でいえば面白くないし、感動もしないのである

派手なアクションや奇想天外な動きは随所にある
しかしどうもリアリティが感じられない
これが『未来少年コナン』だったら(宮崎駿の初期の大傑作であり実に面白いアニメ)、どんなにコナンが「あり得ない」動きをしようが見ている方にはリアルに感じられて、実際にコナンが見事そんな動きをしたかのように拍手喝采を与えたものだが、『ポニョ』の場合にははじめからリアルに感じられずに、派手なアクションが展開していても見ている方はただ白けて見つめているだけなのだ

この作品の重要なテーマは「母親との調和」である
この中には三人もの母親が出てくる
一人は老人ホームで介護されているトキというおばあさんで、これは宮崎駿も言っている通り、病気で半身不随になった彼自身の母をモデルにしている
もう一人は宗介の母リサで、彼女はおそらく病気になる前の宮崎駿の母、宮崎駿が五歳頃のまだ元気で活発に生きていた時の母をモデルにしたものらしい
そして最後の一人が海の女神。グランマンマーレという名のグレートマザー
これはおそらく日本の太母神だろう
彼女の夫でフジモトという名の日本人が出てくる
これは僕の言葉でいう外国主義者を描いたものに違いない
外国主義とは突きつめていくと、この太母から生じるものであり、彼女の伴侶、もしくは下僕的存在なのである

物語の中ではポニョが人間世界にやって来て以来、たいへんなことが起こる
大津波が襲ってきて町が水没したり、月と地球が衝突しそうになったり、大破局寸前の事態になるのだ
(ただその割にはここでもリアリティが感じられないが。大洪水から逃げてきた家族たちが出てくるが、まるでピクニックでも楽しんでいるようにのんびりしている)
この破滅的事態に際して、海の女神がポニョを宗介に託すという形で決着がつき、調和が生み出される「世界のほころびは直った」

しかしこれもなんだか釈然としない
こんな簡単な形で決着がついていいのだろうか
何の試練もない、何の苦悩もない
アッサリし過ぎている
「調和」というハッピーエンドに向かって、無理やり物語をまとめた感じである

結論としていえば、この『ポニョ』もまた中途半端で不十分なものに終わったようだ
明るい希望はあるし、一応ハッピーエンドにもなった。さらには海の女神すら味方してくれるようになった
しかし実際にはまだ“呪いからの解放”は実現していないし、将来に先送りになった感じだ
(映画の完成試写会で宮崎駿が宗介を思わせる男の子を連れてきたところからみると、未来を宗介に託したのかもしれない)

“呪いからの解放”いまだ成らず

僕もこれを目指している一人で、このために文学をやってきたと言ってもいいのだが、なんとしてもこの人生を尽くしてこれを成し遂げたい
夏目漱石の文学事業を継承発展させれば、それが出来るのである

『ポニョ』を見てきた 2

2008-09-15 12:25:37 | 日本文学の革命
前に宮崎アニメの中心テーマは“呪いからの解放”であると書いた
『紅の豚』では主人公が謎の呪いにかかって豚にされて出てくる
『もののけ姫』ではアシタカが死に至る呪いをかけられ、その呪いを解くためにもののけ姫が住む森へと旅立ってゆく
『千と千尋の神隠し』では千尋の両親が豚にされてしまい千尋も名前を奪われて、そこからの解放が主題となっている
『ハウルの城』では18歳の娘ゾフィーが呪いにかけられ90歳のおばあさんにされてしまい、ハウルに会うことでそこから解放されてゆく
『風の谷のナウシカ』でも腐海に覆われた“呪われたような”世界が舞台となっている

なぜ宮崎駿はこんなにも繰り返し繰り返し“呪い”とそこからの“解放”をテーマとした作品を作り続けているのか

おそらく理由は、実に簡単明快なものだろう

“呪い”が現実に存在しているからである
自分にも実際にかかっているからである
さらには自分の周辺世界―東京にも、東京を中心とした現代日本にも、この“呪い”がかかっているからである
(特に東京には最も強力にかかっている。桑田佳祐はこの“呪い”のことを「東京は雨降り」というフレーズで歌っている。しかし“呪い”が強烈だからこそ、そこから解放されたときの可能性も、また大きいのであるが)
実際に多くの日本人が宮崎アニメにある通りに、あるいは豚に変えられたり、あるいは死に至る呪いを刻印されたり、あるいは腐海の毒に苦しんだり、あるいはいつのまにか90歳のおばあさんに変えられたりして、自分でも気づかないうちに“呪い”を受けているかもしれないのである

“呪い”というと前近代的感じがするが、これを”文化的欠陥”と言いかえてもいい
現代日本文化・日本文明には、ある重大な“文化的欠陥”があるのである
この“欠陥”からさまざまな弊害や苦しみが湧き起こり、ペストのように蔓延して、時には社会を破滅に追いやったりもして、現在を生きているわれわれにたいへんな苦しみをもたらし続けているのである

この“呪いからの解放”を目指していたのは宮崎駿だけではない
昔の日本文学者たちもこの“呪い”を克服しようと悪戦苦闘してきたのである

最も重要なのは漱石の『明暗』である
もしこの漱石の挑戦が成功していたら、現代のわれわれがこんなに苦しむ必要もなく、日本人はとっくの昔に“呪い”から解放され、より高い新たなステージに立てただろうにと、悔やまれてならない
芥川龍之介も『地獄変』でこれをやろうとした。といっても臆病な芥川的に、ちょっとやってすぐにやめてしまった程度のものだが
志賀直哉は『暗夜行路』でこれをやろうとした。こちらは12年もの歳月をかけてやったのだが、内容的には中途までしかできなかった
戦後間もなくの混乱期には、太宰治が『斜陽』と『人間失格』を書いてこれをやろうとした。非常に重要な仕事をしたのだが、しかし解決には至らなかった
三島由紀夫も『豊饒の海』でこれをやろうとした。それまでの作家とは正反対の立場に立ってこれを成し遂げようとしたのだが、やはり失敗してしまった

宮崎駿のおそらく最後の作品になるであろう『崖の上のポニョ』も、この系統に属する作品なのである
すなわち“呪い”から日本を“解放”しようとしたものなのだ

もともとは『もののけ姫』で決着をつけるつもりだったのだが、どうもうまくいかなかったので今度こそと『千と千尋』に取り組み、それでもまだダメなので『ハウル』をやってみて、それでもまだ納得できない、それで『ポニョ』に至ったというわけだ

海と陸地、自然と人間、無意識と意識の接点にある崖の上の家
海の女神グレートマザーという根源的な存在
その娘が海から人間のところにやって来る
そこで男の子と恋に落ちる
二つの対立する世界の融合
愛の実現

これはまさに“呪いからの解放”を期待させるものなのだ

『ポニョ』を見てきた 1

2008-09-15 12:23:14 | 日本文学の革命
先々週の日曜日 渋谷の映画館で『崖の上のポニョ』を見てきた

前に『紅の豚』を見たときもこの映画館で見たのだが、お子様連れの家族ばかりに取り囲まれて、子供たちが泣くは騒ぐはでほとほとまいってしまった
それにこりて次の『もののけ姫』は歌舞伎町のど真ん中にある映画館で見た。ここならお子様連れは来ないだろうと思って
案の定来なかったのだが、その代わりに回り中カップルだらけで、別の意味で閉口してしまった

まあ どっちもどっちだから今回は渋谷にしたのだが、やはり家族連れが多かった
楽しそうな家族連れの中で1人だけポツンといると、なんだか身の置き所がなく、さびしい
もうとっくの昔に結婚していてもおかしくない年なのに、文学なんかに身を捧げたために、いまだに独り身だ
とくに父と母が死んでからは家族が作りたくてたまらなくなった
しかしいろいろ努力しても失敗ばかり…
もう無理かな、とも思う
でも最後まで希望を捨てずに、がんばってゆきたい

前に『ポニョ』の中に出てくる「宗介」は、漱石の『門』の主人公「宗助」から取ったのではないか、つまり「漱石」を暗示しているのではないか、と推測を立てておいた
もしそうだとしたら必ず映画の中でなんらかのほのめかしがあるはずだ
それがあるかどうか、推測が当たるかどうかも、この映画を見る楽しみの一つだった

で見てみて、実際それらしきものを見つけた
宗介たちが暮らす崖の上の一軒屋の中で、ときおり背景に本棚が出てくるのだが、それがちょっと普通ではないのである
本棚にはぎっしりと本が詰まっているのだが、その本がなんとも重厚で分厚くて難しそうな本ばかりなのだ
昔のヨーロッパの貴族たちが愛蔵していたような、革張りの立派な書物なのである
しかもそれは本棚の中だけでなく、テーブルの上にも積み重なったり並べられたりしている
そういうシーンが随所に出てくる

いったい誰がこんな難しい本を読んでいるのか
宗介のお父さんは船乗りで、お母さんは老人介護の仕事をしている人で、どちらもこんな本を読むタイプには見えない
崖の上の家にはこの二人以外宗介しか暮らしていない
となると本棚にあふれているこれらの本は宗介と関係があるということになる
もちろん5歳の宗介がこんな本を読めるわけがないが、いわば宗介の本質を暗示するものとして、これらの本を描いたんじゃないだろうか
宮崎駿はディテールに徹底的にこだわる人だから、ただ漫然とこんな不自然な本棚を書いたりしないはずだ
そこにははっきりとした意味が込められているはずである

本が並べられているシーンで「~全集」という表題があるのに気がついた
これが前にジブリ美術館で見た「夏目漱石全集」だったら完全に尻尾をつかまえられるんだが、あいにく「全集」の上の文字が画面からはずれてよく見えない
一番下の文字だけがかすかに見えていて、これが「石」だったら「宗介」=「漱石」に違いないと目をこらしたのだが、残念なことによく分からなかった

結局 確証は得られなかったが、まんざらはずれたわけでもなさそうだ

「新しい文学」 9割がた出来た

2008-09-09 07:19:52 | 日本文学の革命
ここが正念場と毎日がんばっているが、ここ二、三日 非常に大きな進展があった

今までどうしても掘り抜けなかった最も重要で最も頑強な箇所(「文章」とその“背後にあるもの”)、それが掘り抜けたのである
例によって「意識の波(仏教の根本原理)と言語の融合」に関してのもので、これが最後の最後まで出来なかったのだが、ようやくにして掘り抜くことができた
完全融合への道が開けたのである

これでもう「新しい文学」への障害は何もなくなった
あとは一直線に掘り進めて行って「新しい文学」を取り出せばいいだけである

もう何の障害もなく、原理的には出来てしまったのだから、「新しい文学」は9割がた出来たと言っていい

残すところ1割

といってもこれも頑強だから、油断せずにがんばってゆこう

「新しい文学」 誕生間近

2008-09-01 22:47:23 | 日本文学の革命
「新しい文学」の中核をつかめた、その根本原理を見い出すことができた、宝石がどこに埋まっているか分かった、と書いたが
今それを掘り出そうとその地点で一生懸命穴を掘っているところである

ありがたいことに今まで苦労して学んできたものがすべて後押ししてくれている
夏目漱石も日本文学も、古典文学も西洋文学も、仏教もユングやジェームズの心理学も、老子や古今和歌集、シェークスピアやドストエフスキーも、すべてがこの一点に流れ込んで、穴を掘り進める手伝いをしてくれてる
今までバラバラに追及していたすべてが「新しい文学」この一点に統一された感じだ

この中核、この根本原理、これが漱石のいうところの“天”なんじゃないか
最近そう思えてならない

ともかくここまで来たら、「新しい文学」は必ずできるだろう
もう臨月状態で、誕生間近なのである

これができたら日本文学は、長年続いた停滞を脱してふたたび前へ、その「後半部」へ向けて前進できるに違いない
日本文学が復活するのである
「日本文学の革命」を約束どおり実現できるのである

あともう少し!

どんどん掘り進めてゆこう