「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

ネットユーザーの自由な組織と新しいメディア 5

2020-11-29 16:45:43 | 日本文学の革命
しかしそんな「流砂の民」のようなネットユーザーも、ある一つの結びつき―「絆」にまで発展し得るような結びつきを持っている。

それはインターネットの原体験とも言えるものだが、「パソコン画面の向こうに誰か自分と同じような人間がいる」という実体験なのである。

例えばパソコン画面で掲示板に何かを書き込むと、それに応答して返事をしてくれる人間が現われてくるのである。フェイスブックで写真をアップすると「いいね♪」をしてくれる人間が現われてくる。ツィッターで何かつぶやくと同じようにつぶやきを返してくる人間が現われてくる。チャットを使えばそのどこの誰とも分からない人間たちと友達のような会話をすることもできるのだ。

この「パソコン画面の向こうに誰かがいる」という感情。世界のどこにいる誰かとも分からないが、自分と応答してくれる存在であり、心の交流さえできる存在なのである。その存在と今つながっているという体験。これはまさにインターネットというメディアが持つ原体験であり、ネットユーザー同士のつながりであり「絆」なのである。

ネットユーザーの活動場所が「自分の部屋」「自分のプライベート空間」であることもこの際重要と成る。

「自分の部屋」とはいわばその人間の「魂の空間」である。生活的にもアイテム的にも自分の好みや魂が宿る場所であり、社会の公式の場では隠していた自分の本来の魂が生き生きと活動している場所なのである。そこにダイレクトにつながってくるのが「パソコン画面の向こうにいる誰か」なのである。向こうも「自分の部屋」自分の「魂の空間」から応答してくる。勢いその交流は「魂の交流」となってくるのであり、ネットユーザー同士をつなぐ「魂の絆」にまで発展し得るのである。

「パソコン画面の向こうにいる誰か」―それはインターネットのメディアとしての能力からいって“全世界”だと言ってもいい―「その誰かと魂の交流をしたい」という原感情は、今日の現実の世界にとって実は死活的に重要なものなのである。

今日世界の国々はまさに一つにつながっているといっていい状態にある。世界中が一蓮托生の運命にあるのであり、どこかの国が勝手な思い込みや自国中心主義でテロを起こしたり核ミサイルを飛ばしたり平気で公害を垂れ流したりしたら、たちまち全人類が存亡の危機に立たされるのである。

この時代にまさに必要なのが、「世界との対話」「世界との相互理解」である。「世界のどこかに今生きている人々」との心の交流。価値観が異なる相手かも知れないがその心の内を深く理解しようとする「魂の交流」。それが現代の世界にとって死活的に重要であり、必要不可欠な要請になっているのである。

その意味でインターネットとはまさに現代が必要としているメディアだと言ってもいいだろう。


ネットユーザーの自由な組織と新しいメディア 4

2020-11-29 16:40:21 | 日本文学の革命
このように実に大きなパワーと可能性を持っているのが「ネットユーザー」なのだが、これまでのところその可能性を十分に出しているとは言い難い。

その大きな原因は「ネットユーザー」が今に至るまで全く組織らしい組織を持っていなかったことにある。

「ネットユーザー」といえば自分の部屋の中で一人カチャカチャとパソコンを叩いているような孤独な存在であり、相互のつながりや絆をほとんど全く持たない個々バラバラな人間たちなのである。それぞれが思い思い好き勝手にネットを楽しんでいるだけで、相互をまとめるような有効な力はほとんど働くことができず、互いにてんでバラバラな方向を向いていて何らの統一的行動も取れない「流砂の民」のような存在なのだ。

これが現実社会なら政治的強制やら経済的利害やらマスコミ的洗脳やらの様々な力が働き、好むと好まざるとに関わらず我々をまとめ上げて統一的パワーを発揮させてゆくのだが、しかしネット空間ではそういう力はほとんど効力を失ってしまうのである。そこはまさに「自由空間」であり、誰もが自由に好きなことができる空間であり、無責任に何でもできる「仮想空間」でもあり、またそれがネットの大きな魅力でもあるのだ。

しかし自分の孤独な部屋の中で、しかも匿名性と無責任の陰にかくれて好き勝手なことをするということは、しばしば自分の中の普段は隠している暗部や低劣な部分の噴出を呼び起こし、ネット名物の罵詈雑言、誹謗中傷、荒らし、炎上、いじめ、ストーカーなどの噴出となってしまっている。パソコンという強力なパワーを持った道具がこの噴出する「負の精神」と結びつくことによって、ネット世界にひどい混乱と無価値性をもたらして“不毛の荒野”にしているといっていい。

ネットなどはおバカな連中が好き勝手なことばかりしている場として、自主的に何か価値あるものを創造してゆくような一人前のメディアとは見なされていないのが現状である。



ネットユーザーの自由な組織と新しいメディア 3

2020-11-29 16:34:25 | 日本文学の革命
この「ネットユーザー」は従来の市民や国民とはまた違ったタイプの人間たちである。

市民や国民としての高い知性と教養を持ちながらも、地域や国家と固く結びついていた従来の市民や国民と異なり、地域をやすやすと越えてしまうし、国境まで簡単に飛び越えてしまう存在が「ネットユーザー」なのである。日本のへぼドラマを見るよりもネットで韓国ドラマを見てる方が心にグッとくるという日本人主婦は多いし、日本のアニメがこれほど世界中でファンを獲得し遠い島国の奇妙な異人が作ったアニメが世界の人々を魅了できたのもネットがあればこそだった。

ネットの世界では事実上もう国境というものがなくなっているのであり、自動翻訳ソフトがもっとマシなものになって言語の障壁がなくなったなら、この傾向はさらに加速してゆくだろう。ある意味国境のない世界を自由にフワフワと生きているのが「ネットユーザー」なのである。

また「ネットユーザー」は従来の大衆とも異なった存在である。
大衆のように受動的存在ではなく、きわめて能動的な性格を持っているのだ。

大衆のメディアの代表といえばテレビだが、テレビ画面とはいわば「光り輝く壇上」みたいなものである。選ばれたスターだけが上がることを許されていて、大衆はおとなしく観客席に座って見ているだけであり、光り輝くスターに見惚れ、歌やドラマに感動し、それを共感することによって大衆的一体感を得ているのである。

しかしパソコンの画面とは「対等の画面」なのである。

画面の向こうにいる人間もこっちとたいして変わらないような同じ人間であり(おもしろいことにマスコミ的スターもネット画面に入るや否や「対等」の存在に見えてしまう)、対等に対話し合うことができる相手であり、罵倒したり突っ込みを入れたりもできる存在なのである。

画面の向こうにいる人間とこちらは「対等」な人間として向かい合い、様々な交流や相互作用をすることができるのである。いわば画面の中に能動的に参加することができるのだ。この能動的参加性も「ネットユーザー」を特徴づけているものである。

ネットユーザーの自由な組織と新しいメディア 2

2020-11-29 16:27:08 | 日本文学の革命
以下でこの「新しいメディア」の概略を描いてみよう。

現在世界規模で新しいタイプの人間たちが生まれ出ている。
パソコンやスマホを自在に駆使しそれによって社会や世界とつながっている「ネットユーザー」という人間たちである。

このパソコンやスマホはコンピュータテクノロジーの結晶であり、現代科学の精華であり、原理的にはどんなことでもできるという万能の道具である。

これがあれば高度な仕事もこなすことができるし、アートやミュージックや様々なクリエイティブなこともできる。世界中から情報を集めることもできるし、こちらから世界へ向けて思いや情報を発信することもできる。好きな音楽や映画を楽しむことができるし、図書館いらずで本を読むこともできる。買い物もできるし、出前やタクシーも呼べるし、様々なお役立ちソフトを使うこともできる。ゲームだって楽しみ放題だ。

やっちゃいけないことだが企業や政府機関のパソコンに忍び込んで機密情報やお宝をゲットすることもできるし、気に入らないヤツをいじめたりさらしものにしたりもできる。修練を積んだ人間なら一からシステムを構築してソフト開発をすることさえできる。

このような高度な機能を発揮できると同時に、パソコン自体が一つのメディアであり、人々をつなげる機能を持っており、原理的にはそれは全世界とつながっているのだ。

まさにパソコンやスマホは万能の道具であり、テクノロジーの宝庫なのだ。そしてそれを自由に使いこなし、ある意味それと一体化している存在が「ネットユーザー」なのである。

馬と一体化した人間が遊牧民となったように、肥沃な土地を耕す技術を獲得した人間が農民となったように、コンピュータという革新的技術と一体化した「ネットユーザー」は新しいタイプの人間たちだと言ってもいいのである。


ネットユーザーの自由な組織と新しいメディア 1

2020-11-23 04:34:51 | 日本文学の革命
『鬼滅の刃』のような作品が現われて「外国主義」が日の当たる場所に引きずり出されたこと―これまでは目の前であからさまに活動しているこの現象を一部の人間を除いてはほとんど誰もが気づいてもいなかったのである!―しかもそれがこれほど多くの国民に、しかも若者たちに受け入れられたということは、たしかにいいことではあるが、他方危険な面も持っている

ヘタをすると「外国主義」に対する憎しみや排撃が沸き起こり、戦前のような国粋主義にまで発展する可能性があるからだ。またもや「外国主義」と国粋主義の激闘、相互の滅ぼし合いが起こるのであり、それは不毛な結果しか招かないのだ

そうなるのを防ぐためにも僕にできることをできるだけ早くやるしかない。つまり『こころと太平洋戦争』を書くことで、太平洋戦争とその破滅の真の原因を実証的かつ文学的に描き上げることなのである(太平洋戦争の破滅の真の原因とは、京都文化と江戸・東京の文化、公家の文化と武士の文化(外国主義と国粋主義と言いかえてもよい)、日本の女性性と日本の男性性、その二つの世界の分裂状態と相互の滅ぼし合いにあるのである)

ただそうは言っても『電子同人雑誌の可能性』も書いてしまわなければならない。これこそが衰退してゆく出版文化を救う切り札になるかも知れないし、「賞取りシステム」のような今や弊害を通り越して無用無価値なものになっている制度を克服するものにもなる

さらにもっと重要なものがある。これが日本社会を活性化させる「新しいメディア」に成り得るかも知れないからだ

『鬼滅の刃―無限列車』を観てきた ♪ 2

2020-11-19 14:22:29 | 日本文学の革命
内容的にはやはり「外国主義」がテーマだった。全編に渡って「外国主義」を思わせる暗示や象徴がてんこ盛りになっている。

夢を操る鬼が登場してくるのであるが、相手に次々と夢を見させて夢の中に閉じ込め、その隙に相手の心の「中核」を破壊して、餌食にしてゆくことは、「外国主義」がよくやることである。
「夢が見たい」という少年少女たちを操って隊士たちを突き刺させることも、「外国主義」が今でも普通にやっていることだ。
舞台となっている機関車自体も、明治の文明開化の時代には西洋文明の象徴であり、西洋への夢と憧れの「塊り」だったのだ。当時の人々は機関車の内部に乗りながら、夢見心地で西洋文明への夢と憧れに耽っていたのである。

この映画の重要人物「煉獄杏寿郎」は武人的であり武家の嫁的な母を持っておりさつま芋が大好物であり、かなり「薩摩隼人」的性格を持っている。実はこの「薩摩隼人」こそが明治の初期文明開化と激闘を演じ、そして滅びていった存在なのである。

『鬼滅の刃』にはこのように「外国主義」が様々な形で描かれている。普段は無意識の中に姿を隠して活動している「外国主義」を意識化するには、この映画は大きな効果を発揮するだろう。

ただ難をいえばこの映画は「外国主義」を悪く描き過ぎているところがある。「鬼舞辻無惨」の形姿もそうだか、「外国主義」をただの悪鬼、悪霊や悪魔として描き過ぎているのだ。

しかし「外国主義」はそんな薄っぺらな存在ではないのである
それはいくら強調しても強調し切れないほど深淵な「日本文化」なのである
日本の歴史の中でそれが果たしてきた役割は絶大なものであり、まさに「無限大」なのである
たしかに大正よりこっちは「人食い鬼」と化してしまったが、それ以前は逆に日本文化と日本人を守ってくれた存在なのだ
そしてうまくしたらそれは「鬼から人に戻って」ふたたび未来へ向けて生かすことができるのである!

難点はあるとはいえ、今現在この映画が爆発的な盛り上がりを見せていることは重大なことだ。日本人の新たな文化的発展が始まる合図となるかも知れない。

それを願って僕も負けずにがんばってゆこう

『鬼滅の刃―無限列車』を観てきた ♪

2020-11-19 14:12:59 | 日本文学の革命
先日の日曜『鬼滅の刃―無限列車』を観てきた

たしか昨日のニュースでは興行収入が230億円を突破したそうで、その記録を今も更新し続けているという大ヒット映画である。誰も映画館なんかに行きたがらないコロナ下の今、これだけの興行収入を叩き出しているのだからすさまじいほどの盛り上がりだ。
このままいけば歴代一位『千と千尋の神隠し』の興業収入300億円を超えるのではないかと言われている。『千と千尋』はあまり超えて欲しくないが、『タイタニック』や『アナ雪』あたりならいくらでも蹴散らして欲しい。お金や時間がないのでほとんど映画館に行かない僕だが、『鬼滅の刃』のアニメ26話を面白く見終わったことだし、僕も映画館に足を運ぶことにしたのだ。

場所は新宿歌舞伎町にある最新鋭の映画館にした。歌舞伎町のど真ん中にある巨大な映画館で、一度入ってみたいと思っていたところである。当日行っても入れるかどうか分からないのでチケットをネットで予約した。ネット予約に馴れてないのでどこでもいいやと予約したところ、「WAIMAX」という席を予約してしまった。途端にチケット代が1900円から2500円に跳ね上がってしまい「しまった!」と思ったが、面倒臭くなったのでそのままにした。
当日行ってみて分かったのだが、この「WAIMAX」とは最新の映像技術で、ゴーグルを付けてもいないのに映像が飛び出してくるように見えて、音響も四方八方から包み込んでくるように聞こえ、まるで映像世界の渦中に自分が入り込んだようなリアル感を感じさせるものだった。音響などは腹の底にまで響いて来るもので、まさにど迫力であった。

公開から一か月が経った今でも映画館は満席状態だった。場所柄子供連れの姿はなかったが代わりに20代の女子の姿がやたら多かった。『鬼滅の刃』は戦闘シーンばかりで、残酷な場面も多いのに、これは意外だった。

たしかに『鬼滅の刃』はファッション的にも面白いものがある。登場人物たちの「羽織」も実に鮮やかで面白いし、昔の日本人の服装もアニメにしてあらためて見ると実に面白く感じられる。ことに禰豆子のファッションが面白い。女性の伝統的な着物といえば着るだけで清楚な感じになってしまい、禰豆子も上半分は清楚に着物を着こなしているのだが、下半分は現代のスカートのようにセクシーな生足をむき出しにして、飛んだり駆けたりキックをかましたりして、大胆に振る舞っているのである。上半分と下半分のアンバランスが実に魅力的なのだ。

考えてみれば昔のヨーロッパ女性たちも踝まで隠すような分厚いロングスカートをはいて清楚に振る舞っていたのだが、女性の解放と社会的活躍化とともにそれがどんどん短くなり薄くなり現代のスカートにまでなったのだから、同じことが日本の伝統的な着物に起こってもおかしくないのである。いつかデザイナーたちがそのような「今に着れる」着物を生み出すかも知れない。

映画は実に面白く感動的だった。大迫力のアクションと美しい映像美にあふれていた。僕は原作漫画を読まないで見に行ったので、どうなるか分からないストーリー展開にハラハラドキドキだった。最後の場面ではホロリとしてしまい、涙が出そうになるほど感動した。

こうなったらもう命をかけて突進するのみ! 2

2020-11-12 12:13:14 | 日本文学の革命
しかしこうなったらもう後先考えずに突進するしかない!
座していても死を待つだけなんだから、一か八か命をかけて突進するのみだ!

いろいろ恐い中でやはり一番恐いのは、この事業が失敗に終わることだ
この事業が失敗したら「奇跡のドア」は開かれないし、日本文学の復活もできないだろう
大正時代末期と同じように日本文学はまたもや失敗するのであり、もう二度と立ち上がることはできないかも知れない。
それを思うと一番身がすくんでしまう

しかしもうそれも考えないことにした
成功失敗どちらでも構わない。「勝ってよし!負けてよし!」の精神
運命に身をまかせてひたすら全力を尽くすのみだ!

一番大切なことは「自分の道を歩み切る」ことだ
自分が運命として歩むべき道、ひたすら頑張れば自分でも歩んでゆける道
その道を最後まで歩み切ること
それこそが成功失敗を越えて一番大切なことなんだ

そうと分かった以上、あとはひたすら突進するのみ!

たとえ失敗しても日本文学をほんの少しは前へ進めることができる
未来の人のための足がかりを築くこともできるかも知れない
また精一杯やり抜いたという「さわやかな思い」も得ることができる

無駄にはならないことは確かだ
これから命をかけて突進することにしよう!

こうなったらもう命をかけて突進するのみ! 1

2020-11-12 12:07:01 | 日本文学の革命
ここ数か月ほどほとんど投稿しない日々が続いてきた
仕事をクビになったり、職探しをしたり、新しい仕事を覚えたり、近いうちに引っ越しをしなければならないハメになったりと、いろいろ厄介なことが続いたことも一因だが、一番大きな理由は僕がビビッていたことにある。

何をどうすればいいのか、どうやったら「奇跡のドア」を開くことができるのか、それはよく分かっているつもりだ。
「泥を舐め あがいても 目に見えぬ細い糸」(『竈門炭治郎のうた』 結構グッと来るね♪)と絶望している者が多い中で、はっきりと見えていることはそれ自体価値があることだ。
長年に渡る夏目漱石や日本文学の研究のおかげでつかめたもので、大きな希望や可能性にあふれており、あとは実行するだけだといってもいい。

また成し遂げるのは今しかないとも思っている。桑田佳祐や中島みゆきたちもさすがに力尽きようとしているし、スマップは解散したし宮崎駿の新作アニメもどうなるか分からないし、「反外国主義運動」は今や風前の灯状態にある。
日本文学もますます衰退の一途を辿り、本も売れず出版社もつぶれ、まだ成さなければならない大きな可能性を抱えながら、文化として死ぬ寸前に追い込まれている。
まさにやるとしたら今しかないという土壇場なのだ。

しかし今からやろうとしていることはもの凄く難しい事業なのである!
『電子同人雑誌の可能性』も『こころと太平洋戦争』も『新しい文学』ももの凄く難しいもので、次から次へと困難な課題を書いてゆかなければならない。「こんなもの書けるか!」とサジを投げたくなるほどのものが次々と押し寄せてくるのである。

たとえて言うなら、銃弾や砲弾が雨あられと降り注いでくる戦場の中へ突進してゆくようなものなのである。いつ銃弾を浴びてハチの巣にされたり、砲弾に吹き飛ばされて肉片にされても、おかしくないのだ。

そんな目に遭うことを思ったら、どうしても足がすくんでしまう。何のかんのと理由をつけて、突進するのはできるだけ先延ばししたくなる。
つまりビビッていたのである。