しかしそんな「流砂の民」のようなネットユーザーも、ある一つの結びつき―「絆」にまで発展し得るような結びつきを持っている。
それはインターネットの原体験とも言えるものだが、「パソコン画面の向こうに誰か自分と同じような人間がいる」という実体験なのである。
例えばパソコン画面で掲示板に何かを書き込むと、それに応答して返事をしてくれる人間が現われてくるのである。フェイスブックで写真をアップすると「いいね♪」をしてくれる人間が現われてくる。ツィッターで何かつぶやくと同じようにつぶやきを返してくる人間が現われてくる。チャットを使えばそのどこの誰とも分からない人間たちと友達のような会話をすることもできるのだ。
この「パソコン画面の向こうに誰かがいる」という感情。世界のどこにいる誰かとも分からないが、自分と応答してくれる存在であり、心の交流さえできる存在なのである。その存在と今つながっているという体験。これはまさにインターネットというメディアが持つ原体験であり、ネットユーザー同士のつながりであり「絆」なのである。
ネットユーザーの活動場所が「自分の部屋」「自分のプライベート空間」であることもこの際重要と成る。
「自分の部屋」とはいわばその人間の「魂の空間」である。生活的にもアイテム的にも自分の好みや魂が宿る場所であり、社会の公式の場では隠していた自分の本来の魂が生き生きと活動している場所なのである。そこにダイレクトにつながってくるのが「パソコン画面の向こうにいる誰か」なのである。向こうも「自分の部屋」自分の「魂の空間」から応答してくる。勢いその交流は「魂の交流」となってくるのであり、ネットユーザー同士をつなぐ「魂の絆」にまで発展し得るのである。
「パソコン画面の向こうにいる誰か」―それはインターネットのメディアとしての能力からいって“全世界”だと言ってもいい―「その誰かと魂の交流をしたい」という原感情は、今日の現実の世界にとって実は死活的に重要なものなのである。
今日世界の国々はまさに一つにつながっているといっていい状態にある。世界中が一蓮托生の運命にあるのであり、どこかの国が勝手な思い込みや自国中心主義でテロを起こしたり核ミサイルを飛ばしたり平気で公害を垂れ流したりしたら、たちまち全人類が存亡の危機に立たされるのである。
この時代にまさに必要なのが、「世界との対話」「世界との相互理解」である。「世界のどこかに今生きている人々」との心の交流。価値観が異なる相手かも知れないがその心の内を深く理解しようとする「魂の交流」。それが現代の世界にとって死活的に重要であり、必要不可欠な要請になっているのである。
その意味でインターネットとはまさに現代が必要としているメディアだと言ってもいいだろう。
それはインターネットの原体験とも言えるものだが、「パソコン画面の向こうに誰か自分と同じような人間がいる」という実体験なのである。
例えばパソコン画面で掲示板に何かを書き込むと、それに応答して返事をしてくれる人間が現われてくるのである。フェイスブックで写真をアップすると「いいね♪」をしてくれる人間が現われてくる。ツィッターで何かつぶやくと同じようにつぶやきを返してくる人間が現われてくる。チャットを使えばそのどこの誰とも分からない人間たちと友達のような会話をすることもできるのだ。
この「パソコン画面の向こうに誰かがいる」という感情。世界のどこにいる誰かとも分からないが、自分と応答してくれる存在であり、心の交流さえできる存在なのである。その存在と今つながっているという体験。これはまさにインターネットというメディアが持つ原体験であり、ネットユーザー同士のつながりであり「絆」なのである。
ネットユーザーの活動場所が「自分の部屋」「自分のプライベート空間」であることもこの際重要と成る。
「自分の部屋」とはいわばその人間の「魂の空間」である。生活的にもアイテム的にも自分の好みや魂が宿る場所であり、社会の公式の場では隠していた自分の本来の魂が生き生きと活動している場所なのである。そこにダイレクトにつながってくるのが「パソコン画面の向こうにいる誰か」なのである。向こうも「自分の部屋」自分の「魂の空間」から応答してくる。勢いその交流は「魂の交流」となってくるのであり、ネットユーザー同士をつなぐ「魂の絆」にまで発展し得るのである。
「パソコン画面の向こうにいる誰か」―それはインターネットのメディアとしての能力からいって“全世界”だと言ってもいい―「その誰かと魂の交流をしたい」という原感情は、今日の現実の世界にとって実は死活的に重要なものなのである。
今日世界の国々はまさに一つにつながっているといっていい状態にある。世界中が一蓮托生の運命にあるのであり、どこかの国が勝手な思い込みや自国中心主義でテロを起こしたり核ミサイルを飛ばしたり平気で公害を垂れ流したりしたら、たちまち全人類が存亡の危機に立たされるのである。
この時代にまさに必要なのが、「世界との対話」「世界との相互理解」である。「世界のどこかに今生きている人々」との心の交流。価値観が異なる相手かも知れないがその心の内を深く理解しようとする「魂の交流」。それが現代の世界にとって死活的に重要であり、必要不可欠な要請になっているのである。
その意味でインターネットとはまさに現代が必要としているメディアだと言ってもいいだろう。