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『宮崎駿のドキュメンタリー』再放送禁止事件 5

2023-12-29 11:30:19 | 日本文学の革命
しかしこの「大叔父=高畑勲」という主張をこの番組ディレクターがしたのも、無理もないことだったのである。実は宮崎駿自身が「大叔父」のことを「パクさん(高畑勲の愛称)」と呼んでいたからである

番組の中では大叔父のことを「パクさん」と呼んでいる宮崎の姿が繰り返し映し出されている。イメージ画を指さして「ここに大叔父がいる。パクさんだよ」「どう。この大叔父の表情。パクさんによく似てるだろ」「(大叔父を指して)あまり言っちゃヤバいんだけどね、パクさん」あの山小屋では大叔父のことを述べたすぐあとで「パクさん、部屋の中で何してたと思う?」と聞いてくるし、高畑の葬式の後では高畑を大叔父のような一種霊的な存在として捕え「パクさんは雷神になったんだよ(笑 」と言ったり、「パクさん、そばにいるんだよ、話しかけてこないけどね」と言ったりしていた。消しゴムが見当たらない時には「誰が持っていったんだろう。パクさんか。おーいパクさん、消しゴム返してよ」と呼びかけたりもしていた(ただ冗談めいてニヤニヤしながらだが)

宮崎は大叔父に触れるたびに「パクさん」と言い換えてくるのである。「言っちゃヤバいんだけどね」と言いつつ「パクさん」を連呼しているのだ。これだけ宮崎駿本人が「大叔父=パクさん」と言っているのだから、番組ディレクターが「大叔父=パクさん」説を主張するのも当然なことである

しかし『スタジオジブリ物語』の中で宮崎と長年タッグを組んできた鈴木敏夫プロデューサーが述べているのだが、宮崎にはある特徴的な性格があるのだ。それは「公けの場では建前しか話さない」という性格である。宮崎は東映動画にいた頃労働組合の委員長を務めていて労使交渉などを行なっていたが、そういう経験もあるせいか公けの場では「建前」しか話さないという性格が骨の髄まで染み込んでいるのだという。そんな性格を持っている宮崎にとってテレビカメラの前とはまさに「公けの場」である。この前での発言が何千万人もの人々に伝わってゆくことは知り抜いているはずである。そんな彼がテレビカメラの前で本音をペラペラと喋るだろうか。しかも作品の根幹に関わるような重要な本音をである。たしかに長年の盟友であった高畑の死にはショックを受けていただろうし、惜別の念にも苛まれていただろう。また作品の人物を少しでも自分に近づけるために身近な人物を投影することも創作家のよくやることである。宮崎が大叔父の一部に高畑を投影しても少しも不思議ではない。しかしだからと言って「大叔父」が「高畑」である訳ではない。それはむしろ「建前」であり、「言っちゃヤバい」本音を隠すための建前こそが「パクさん」だったのではないだろうか

しかしそうは言っても番組の中で宮崎駿自身が「大叔父」のことを「パクさん」と呼んでいるのは事実なのであり、それは「大叔父=高畑勲」であることを宮崎本人が認めていることになってしまう。加えて番組デイレクターが「大叔父=高畑勲」であることを主張して番組全体を作ってしまっている。このままでは「大叔父=高畑勲」が『君たちはどう生きるのか』の「定説」になってしまうだろう。しかしそれでは『君たちはどう生きるのか』という映画があまりにも矮小化されてしまうのである。コンプレックスなどは誰もが持っているし、先輩コンプレックスに苦しんでいる者も多いだろう。そんなコンプレックスを克服するためだけに、これだけの大作アニメが作られたというのである。そういうことは個人的に解決するべきものだし、日本国民全体に向けて映画として訴えかけられても迷惑なだけだ。うまくコンプレックスが解消されたとしても「長年苦しんできた先輩コンプレックスをついに克服できました」という「三文話」ができあがるだけである。このままでは『君たちはどう生きるか』はつまらない「三文話」として片付けられてしまうことになるだろう

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1 コメント

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 (HAYAISAO)
2024-01-20 18:09:14
高畑勲の凄さを分からずに日本文学を語るつもり?
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