「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

「転職ブルー」

2019-07-27 11:35:04 | 日本文学の革命
だいぶ長い間投稿してこなかったが、この時期さまざまなゴタゴタが生じたためにものを書く余裕がなかったのである。実はこの間突然の首切りにあい、新しい仕事を探すために慌ただしい思いをしたので、ものを書く精神的余裕が持てなかったのだ。
精神の視界が大きく開けいろんなものが書けるようになり「さあ これからバンバン書いてゆくぞ〜!」と意気込んでいた矢先に首切りにあい、わずらわしい仕事探しに追い立てられ(しかしこれをしないと貯金も何もない僕の生活は途端に窮地に追い込まれる)、出鼻を挫かれた形で書くことができなくなったのである。

この首切りをしてきた会社は待遇的には何の未練もない会社である。週五日みっちりと働いても12万円台の給料しか寄こさないのである。もちろんこれでは暮らしてゆけないので日雇い派遣の仕事もしていたのだから、週六日働いてやっと暮らしていた状態だった。ただよかったのは家から自転車で30分の距離にあることで、文学のための時間が少しでも欲しい僕にはこれが有り難かった。それもあって続けてきたのである。
またこの会社の上司にも何の未練もない。岡山から来たというこの会社の所長は裏で策略ばかり弄してくる親父で、自分が私腹をこやすこと、自分が勝ち逃げすることしか関心がない、他の人間はすべてそのための使い捨てと決め込んでいるような男で、好きになれなかった。「お前は一切ものを喋るな。特に女性従業員にものを喋ったら即刻首!」などと無茶苦茶な命令までされていたので、いなくなって清清しているくらいだ。

ただ未練に思うのはこの職場で一緒に働いていた人々である。2年前この職場に来たときは文学的にたいへんなスランプに襲われて絶望的な状態にあった。なんとかこの絶望から抜け出そうと毎日必死の努力をしていたのだが、そのとき支えてくれたのがこの人々だったのである。

僕は職場では自分の文学活動や書いている作品についてはできるだけ話さないようにしている。自分の作品を職場の人間に見られるようになったら、そのうち首に追い込まれるからである。別に公序良俗に反する悪い内容を書いているつもりはない。十分まっとうな内容を書いているつもりである。しかし会社の上層部の人間にとっては、それが目障りなものに映るのだ。会社は上からの命令一下、すべての従業員が歯車のようにくるくる回り、整然と業務をこなしてゆくことが求められる機構である。そんな中、会社の業務とはまるで関係ない、別の内容を考え発信している歯車がいたとしたらどうなるだろう。一応おとなしくくるくる回っているのだが、頭の中では別の事を考えている、会社の業務に集中すべきなのにどうかすると眼中にすら入れない、しかもその内容を発信してそのような精神態度を周りにも感染させてゆく、こんな歯車があったらそのうち我慢しきれなくなって不良部品のように取り換えられてしまうのである。その会社が従業員の創造性や自主的な活力に依存しない、決まり切った作業をこなすだけの旧来型の産業であればあるほどそうなるのである。そういう意味では僕のような文学活動をする者は会社内での「公序良俗」に反しているとも言えよう。

ところが先の会社では僕の文学活動がすぐにバレてしまったのである(あの親父がわざわざ僕の名前で検索して探り出したのである)。たちまち職場内のすべての人に知れ渡ってしまい、当初は四方八方から監視されているようで嫌でたまらなかった。しかしそのうち共感と理解の輪が広がっていったのである。抑圧的な社内風土で、口にできるものといえば会社にへつらうような会話内容ばかりという環境なので、僕に直接文学に関する話をする人はいなかったが、様子や雰囲気を見ればよく分かる。いいものを書けばいい好印象の雰囲気が感じられ、情熱を込めて書けばその情熱が伝わったという確かな感触を感じ取れるのである。おかげで自分の文章について大いに自信を持つことができた。スランプを脱しようともがき苦しんでいたときに、このあたたかい見守りに実に元気づけられたのである。

職場内の若者たちにも大いに元気づけられた。彼らが「電子同人雑誌」に大きな関心と期待を寄せてくれたからである。若者は「未来」である。「未来」を担う存在が若者なのである。その若者たちが電子同人雑誌に関心と期待を寄せてくれたとすれば、電子同人雑誌はまさに未来的メディアに成り得るのである。時代遅れの旧来型の産業ばかりがのさばり、その古い機構ですべての人間を支配し、若者たちまで使い捨てにして未来を奪い、日本を衰亡させようとしているのが今の日本社会の現状である。このような現状に「電子同人雑誌」で一つの風穴を開けてやりたい。そうすればひどい抑圧と使い捨て状態にある若者たちの前に大きな未来的可能性を開くこともできる。これからがんばってなんとしても書き上げてしまおう!

首切りと転職によってこのような人々と切り離されて、今さびしいブルーな状態である。だがともかく書くための十分な体制は整った。書くべき内容がどんどん溢れてくるし、スランプ状態を完全に脱してどんどん前へ進んでゆくことができる。あの人々に感謝しながら書いてゆき、日本の未来を切り拓いてしまおう!

電子同人雑誌の可能性 196 「コンピュータの本質―インターネット発展史とニッポン敗戦史」

2019-07-04 05:23:01 | 日本文学の革命
コンピュータやインターネットの発展―それはつまり日本にとっては今のところ敗戦の歴史でもあった訳だが―は今でも続いており、ついに日本経済最後の牙城自動車業界にも押し寄せようとしている。電気自動車化と自動運転化という二つの流れが自動車産業を直撃しているのである。

日本の自動車産業は世界でもトップクラスの大産業であり、日本経済の稼ぎ頭となっているが、それを根本的なところから支えているのが「日本の労働者」である。
日本の労働者ほどよく働く労働者は世界でも稀なのである。勤勉であり、真面目であり、実直であり、努力家であって、仕事に実に誠実に熱心に取り組む。フランスやイタリアの労働者のように今夜のデートやパーティーのことばかり考えて昼間は半分呆けている労働者とはえらい違いである。また日本の労働者はタフであり頑強であり、辛くたいへんな労働でも黙々と粘り強くこなしてゆく。すぐにヘタレて文句ばかり言う中国や韓国の労働者とは対照的である。また日本の労働者は「マイスター」に憧れるドイツの労働者のように職人とその匠の技に憧れと尊敬を持っていて、誰に言われなくても自分の労働技術をコツコツと高めてゆこうとする。また日本の労働者は真面目であり誠実であり、道徳的に気高い立派な人間たちが多いのである。それこそ中国の労働者たちとは―できるだけ手を抜いて働いて、隙さえあったら会社の備品まで盗むと言う―正反対の存在なのである。

そして決定的に重要なのは、日本の労働者が労働を喜びとしていることである。働くこと自体が楽しいのである。たとえそれがどんなにつまらない単純作業でも日本の労働者はそこに楽しみや喜びを見い出し、さわやかな汗をかいて気持ちよく働くことができるのである。その喜びには「人々との交流」という意味合いもこもっている。働くことで人々と交流し、働くことを通して仲間を作ってゆくことができるのである。かつての日本の職場では、一緒に働くことで仲間になれる、共に働くことで分かり合える、楽しい家族のような有意義な関係を築くことができる、という雰囲気が確かにあった。この「人々との交流」という意味合いも加わり、日本人は労働に喜びと生きがいを感じていたのであり、世界最高ともいえる日本人の勤勉性はまさにこれを土台としていたのである。

この日本人の勤勉性の上に築かれたのが日本の自動車産業だった。トヨタなどの日本の自動車企業はこの日本人の勤勉性を生かし、それをフル活用することを経営の柱にして、それを見事に成し遂げたのである。その際重要だったのは日本人労働者に「誇りや名誉」の感情を与えたことである。どんな些細な労働にも大きな価値があると正しく認識し、労働者一人一人を大切にして彼らに「誇りや名誉」を持たせ、労働者を蔑視し使い捨てにすることなどせず、彼らの持つ能力と力を十二分に引き出したのである。この「誇りや名誉」の感情は実は極めて重要なものであり、マックス・ウェーバーという偉大な社会学者は「名誉感情は社会のあらゆる機構の主柱である」とまで言っている。単なる付けたしの感情ではなく社会の「主柱」となるほどのものが、この「誇りや名誉」という人間的な感情なのである。自動車工場でやっている仕事は日本でもアメリカでもベルトコンベアーでやっている単純労働である。しかし黒人や移民労働者が嫌々やっているアメリカの労働に比べ「誇りや名誉」喜びと生きがいを持ってやっている日本の労働者の仕事は、根本的なところから違いが生じるのである。いわば労働に魂がこもり、製品に科学的には計測できない優れた品質が生じるのである。「主柱」となるべき最も重要なものが製品の中にこめられるのであり、それがアメリカをも圧倒するような実力を日本製品に与えたのである。
日本の自動車産業は日本人労働者の勤勉性をフル活用することによって、世界に君臨する大産業となったのである。

ところがこの自動車業界にもIT化の波が押し寄せようとしている。その一つが「電気自動車」で自動車をガソリンエンジンではなく電気モーターで動かすものにしようというものだが、これが起きると自動車作りが実に簡単なものになるのだという。部品の数が大幅に減り、パーツをポンポン組み合わせるだけで誰にでも簡単に作れるものになるというのだ。今は自動車作りに数万もの部品が使われており、その一つ一つを日本の労働者が丹念に磨きをかけて作り上げ、日本ならではの最高品質の車を作っているが、電気自動車になるとそのような労働が必要なくなってしまい、日本の労働者が活躍できる場が失われてしまうのである。

もう一つ波が「自動運転」である。コンピュータやインターネットのテクノロジーを使い、人間が運転しなくても車が自動で運転して目的地まで走ってくれるというものである。「どこそこまで行ってくれ」と人間が命じるだけで機械の車が「了解しました」と自動的に走ってゆくのだから、まさにSFみたいな驚異のテクノロジーである。そしてここで生じるのがソフトの優位性である。従来の車は品質だとか安全性だとかモノとしての価値が決定的に重要だったのだが、自動運転の車では車を自動的に走らせる技術―まさにそれはコンピュータやインターネットのテクノロジーが結集したソフト的価値なのである―の方が決定的に重要になり、大きな価値を持つようになるのである。日本の労働者が生み出してきた製品的価値の優位性はここでも失われてしまうのである。

日本の自動車産業がこれからどうなるのか、予断を許さないような大波が今押し寄せているのである。またもや「ニッポン敗戦」にならないように願うばかりである。