「日本文学の革命」の日々

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電子同人雑誌の可能性 174 「コンピュータの本質―文字の「01化」」

2018-11-28 05:40:21 | 日本文学の革命
視覚や音を数値化「01化」してコンピュータ内に取り込めることが分かった。これらは画像や音声としてコンピュータ画面で大活躍しているのだが、しかしこれらに優ってコンピュータの画面上で大活躍しているものがある。それが「文字」である。パソコン画面の中で文字が占める比重は相当なものである。各種メディアの中では本に次いで多いと言えるだろう。なぜこんなに文字の比重が多いのか(ちなみに現実世界では「文字」なるものは、ほとんど全く存在していない。自然界にはもともと無いものだし、人間以外の全動物も文字を全く認識できず、彼らに文字を見せたとしても完全無視するだけである。文字が存在するのは、街中や仕事部屋など人間の居住空間だけである)。
それはコンピュータが情報のメディアという性格を持っているからである。

われわれは情報を言葉や文章、文字情報としてやり取りしているのである。「オッケー グーグル。この辺で安くておいしいランチのお店を教えて」という文章によって一つの情報をゲットしようとしているのであり、このような文章なしに複雑な情報のやり取りはできないだろう(コンピュータ同士なら「01」の数値情報だけで直接情報のやり取りができるのだろうが、人間には無理である)。コンピュータ画面で文字が活躍しているのは、それが情報をやり取りするための伝達手段となっているからである。文字を「01化」してコンピュータに取り込むことは、情報のメディア・コンピュータにとって不可欠なのである。

この文字の「01化」は実に簡単にできる。一つ一つの文字を「コード化」してしまえばいいのである。「2・12」というコードはこの文字、「3・F」というコードはあの文字、というふうに対応させてゆけば、一つ一つの文字をコードという形で数値化することができる。漢字などという何万もある文字も、根気よくコード化してゆけばすべての文字をコード化してしまえる。あとはそれを「01化」された数値データとしてコンピュータに計算処理させればいいだけである。
コンピュータはこの際、文字の意味などはまるで理解していない。ただ数値的コードとして把握しているだけである。しかしそれでも様々な判断を下すことができるのだ。たとえばある男性の検索文字コードに高い割合で頻出してくるコードがある。数値コードを文字に直してみると「淫乱」「萌え系」「人妻」「女子高生」などとある。すると「コイツ。アダルトビデオばかり見てるな」という判断が下せるのである。

コンピュータが文字の意味など理解せずに、ただ数値コードとして把握していることには、大きな利点もある。それは文字情報を高速で処理できるという利点である。
先ほどの「安くておいしいランチのお店」を検索するには、膨大な量の情報処理が必要とされるだろう。まず半径数百メートル以内の外食店が片っ端からかき集められる。店の名前の意味などいちいち考えずに、外食店らしき文字コードを自動的にかき集めるから瞬時にできるのである。ついでそれぞれの店の過去ログや口コミ情報やネットでの評判から「おいしい」という文字コードの頻出具合を調べて、その割合の高い店をピックアップしてゆく。またそれぞれの店のランチメニューの値段を調べて、価格の低い店を調べ上げてゆく。そして「おいしい」と「安い」の組み合わせを行ってゆき、最適の組み合わせを持った店を判断してゆく。そして最後に地図上の一点を表示して「ここのカツ丼定食が安くておいしいですよ」とユーザーに教える訳である。
このような高速処理は、文字の意味をいちいち読み取っていては行えない。文字をコード化数値化し、数値情報として処理するからこそ、膨大な情報処理も瞬時に行われるのである。

電子同人雑誌の可能性 173 「コンピュータの本質―音声の「01化」」

2018-11-25 14:22:16 | 日本文学の革命
人間にとって視覚に次いで重要な感覚は聴覚「音」である。これがどれほど大切なものかは、聴覚を失った人の不自由で困難な生活を知れば十分分かるであろう。『朝ドラ』でもあったように、半分耳が聞こえないだけでもたいへんな違和感を持って生活しなければならないのである。この重要な感覚もコンピュータに統合したい所である。

現実世界をどのように「音」として聴き分けるか、これも様々な動物によって様々に異なっている。象などは額から出る赤外線のようなもので象同士のコミュニケーションをしているそうである。まるでテレパシーような感知の仕方である。鯨がその大音声を発すれば海底を通ってなんと数百キロ先の相手に思いを伝えることができるのだそうだ(インターネット並みにすごい!)。鹿やガゼルのような草食動物の耳は、耳というよりもレーダーのような働きをしていて、これによって自分を襲おうと抜き足さし足で近づいてくる肉食動物の気配を鋭敏に感知してしまうのである。

音もまたそれを感知する生物の生存様式の違いによって、様々な聴かれ方がするのであるが、ここでちょっと気になるのがわれわれ人間の蚊の音に対する異常なほどの鋭敏さである。われわれが安らかに寝ている時でも、蚊の羽音を耳にするやビックリして飛び上がってしまい、急いで蚊取りマットのスイッチを入れるのであるが、なぜこれほどの聴こえ方がするのだろう。蚊の方ではもちろん出していない筈である。蚊にとってみれば忍びやかに近づいて血を吸い、また忍びやかに立ち去ってゆくのが一番いいに決まっている。これはやはり蚊が人間を襲ってくるある意味一番危険な生物だからであろう。百獣の王・人間を襲おうとする動物など滅多にいない。虎や熊でさえ人間が近づいて来る音を聞くと「ヤバい。人間が来た」とすごすごと逃げてゆくほどである。狼なども犬として人間に飼い馴らされてしまった。そんな中常時人間を襲って来るのが蚊なのである。人間の血を狙って襲ってくるのであるが、ただ吸うだけであればほんの一滴か二滴だけだし人間にとってたいしたことではないのだが、蚊はそれだけではなくかゆみや、そして決定的に恐ろしいことには伝染病まで人間にもたらしてくるのだ。悪性の伝染病が蔓延すると人類の大量死まで引き起こされてしまう。人間にとって実に恐ろしい相手が蚊なのである。われわれに蚊の羽音がやけに大きく聞こえるのは、鹿やガゼルのように襲って来る危険な存在を鋭敏に感知する、そのために発達した音感だからだろう。

この「音」は波形として捉えることができる。音の高低も、音の強弱も、音の長さも、楽器音の違いのような音の音色まで、一つの波形図形として把握することができるのである。昔数学の授業で習ったようなサイン・コサインカーブみたいな形で描き出せるのだ。音がそのような形で表現できるのなら、もう数値化のまな板の上に乗ったも同然である。図形やサイン・コサインカーブを数値化することなど、数学の得意技であるから、すべての音を数値化「01化」して、それをコンピュータの中に取り入れることが可能なのである。
しかし一つの音の波形は複雑な形をしているし、しかも常に連続音として表れるために(映像でいえば常に動画再生しているようなものである)、膨大な処理能力が必要とされ、そのため昔のコンピュータでは単純でいかにも機械が作ったという音しか出せなかった。だがここでもコンピュータの計算処理能力の向上とともに複雑で滑らかで豊かな音も出せるようになり、今ではフルオーケストラの演奏でも問題なく聴けるようになっている。

われわれが外界の世界から聴き取っている音のうち、最も重要な音が実は「声」である。同じ人間の「声」がわれわれには最も重要で、かつ最も心に響く音なのである。われわれの生活の中で人々との会話や電話や様々なメディアを通しての言葉のやり取りは、実に大きな比重を占めている。心の中で飛び交っている「声」も入れたら、われわれは音声に包まれて生きていると言ってもいいほどである。またときには「声」は死活にかかわるほどの重要さを帯びる時もある。商談交渉の際の相手との「声」のやり取り(ビジネス上の決闘といってもいい)、就職面接時の面接官との受け答え(人生の未来がかかっている)、口説こうとしている女性との心を込めた会話(遊びではなく結婚に持ち込もうとしている時には特に)などの時は、この「声」という音声が必死の重要性を帯び、この「声」を聴き分けそれにうまく対応して発話することに、これからの人生すべてがかかってくるほどの重大事となってしまうのだ。

「声」という音声はわれわれの生活で実に重要な比重を占めている音なのだが、しかしこれをコンピュータに認識させるには今でも大きな壁がある。それは人間の音声が十人十色でいちいち異なっているからである。
たとえば「つらい」というたったひとつの単語でも、話す人間によって十人十色、様々な音声の波形となってしまう。性別によって異なる波形になるし、年齢によっても異なる波形になる。関西の人間なら関西のイントネーションで「つらい」と喋るだろうし、昔の江戸っ子に喋らせたら「つれえ」と字形まで変わってしまう。看護婦さんから「つらいんですか」とやさしくされたら癒される心地になるのに、同じセリフを男性看護師に言われても別に何も感じない。女性の場合は男性医師から「つらいんだね」とやさしく語りかけられたら、同様の癒される心地になるのだろう。このように音声というものはひとりひとりによって、さらには話すシチュエーションによっても、大きく異なる波形となってしまうのである。

この千差万別、個性と雑音といい加減さに満ちた音声というものを、コンピュータはこれまでうまく認識できなかったのだが、最近ではここでもコンピュータは目覚ましい発達を見せている。膨大な人々から音声データを収集し、それをサンプリングしてゆき、どんな音声がやって来ようともそこから正しい言葉を見い出せるようになろうとしている(最近ケータイを使っていると用もないのに「音声検索を試してみませんか」としつこく要求してくるが、どうも声のサンプルが欲しいからやっているらしい)。コンピュータは音声認識でも日進月歩で進化している。コンピュータがわれわれとまるで人間同士と同じような複雑な会話を行い、われわれの音声世界に深く介入してくる時代が、そう遠くないうちにやって来るのだろう。

電子同人雑誌の可能性 172 「コンピュータの本質―視覚の「01化」」

2018-11-23 11:00:53 | 日本文学の革命
この現実世界において人間にとってもっとも重要な感覚世界が「視覚」である。人間とは視覚を異常発達させた動物であり(そのためか視覚以外の感覚は他の動物に比べると驚くほど貧困なものになってしまったそうだが)、人間の世界とは「目の世界」と言ってもいい過ぎでないほどなのだ。人間にとって「見えるもの」こそが実在するものであり、確固として感じられるものなのだ。逆に目で見えない世界―光のない闇夜など―は人間にとって不確かなものあり、不安感すらかき立てる居心地の悪い世界なのである。

もちろんこれは人間にとってという意味であり、人間は現実世界をこのように感じ取るようにあらかじめ肉体的に出来ているのである。夜行性の動物にとっては逆に夜こそが居心地のいい「我が世界」であり、太陽がギラギラ輝く昼間の世界はむしろ不安で不安で仕方なく感じられるだろう。(鳥なども人間と同様夜目であり、夜になると飛ぶことができず、巣の中でいつ襲って来るか分からない外敵に怯えて不安な夜を過ごしているのだろう。朝方明るくなった頃、よく鳥たちが樹上でピーチクパーチク騒いでいるが、あれなどは「夜が明けたぞ!」「みんな無事か!」「今日も無事に夜明けを迎えられてよかったなあ!」と歓喜の声をあげているのかも知れない)
動物たちはこの現実世界を、それぞれのやり方で様々に捕えて生きている。モグラなどは視覚などなくても全然平気である。それを補って余りある感覚が他にあるからである。コウモリなどは自らレーザービームのように超音波を飛ばしてそれを視覚代わりに知覚するというハイテクな生き方をしている。すばしっこいハエの目から見たら人間の動きなどすべてスローモーションのように見えるそうである。コアラやナマケモノの目にはおそらく動体視力などほとんどなく、世界は彼ら自身と同じようにいつも眠っているように見えるのだろう。我々の友人―犬も独特の世界に生きている。彼らはその鋭敏な嗅覚を駆使して「匂いの世界」を生きているのである。匂いで形成されている世界など、人間にはとても想像もつかない世界だが、犬はこの現実世界を匂いによって捕えて、そこから人間の視覚並みの情報を得ているのである。
その他にも月の満ち欠けや地球の磁場や天体の運行すら感知する動物がいて、動物がこの現実世界を捕えるやり方は実にバラエティーに富んでいる。

人間がこの現実世界を捕えるための最高の感覚が視覚である。人間は視覚で捕えたものを「リアルである」と感じるのである。逆に人間の視覚さえ満たしてやれば、人間はそれをリアルな実在と感じてしまうのだ。テレビ画面の表面に映し出されている光景―それが野球中継にしろ韓国イケメン俳優たちのドラマにしろ―それは現実に目の前に実在している事物ではない。ただテレビ画面の表面に電磁気的に映し出された映像に過ぎない。しかしそれを人間はリアルなもの、迫真なものと認識してしまい、画面の前でこぶしを振り回したりポロポロ涙を流したりして、よく飼い猫たちから「この人。何してるんだろう?」と不思議がられるのである。(ちなみに猫も視覚よりも嗅覚が発達した動物である。猫はよく飼い主のひざの上で眠りたがる。別にあたたかい場所なら他にもいくらでもあるし、また飼い主の気まぐれ次第でいつでも放り投げられるというのに、そんな場所を好むのは、そこだと飼い主の匂いに包まれることができるからである。安心の出来る飼い主の匂いに包まれて、心安らかに熟睡できるからひざの上で眠りたがるのだろう)
人間にリアルな現実感を持たせるものとして、視覚ほど重要なものはない。だから人間の視覚情報を数値化し「01化」して、それをコンピュータの中に流し込むことができれば、人間の現実世界のもっとも重要な部分をコンピュータ内部に統合することができるのである。

そしてコンピュータはそれを見事に成し遂げたのである。人間の視覚は「赤(R)」「緑(G)」「青(B)」の三つの色の組み合わせとその濃淡でほとんどすべて表現できることが、科学的に実証されている。それぞれの色の濃淡を数値で表し、それを(R、G、B)という配列でまとめたなら、この「RGBデータ」で人間の視覚世界を見事に表現できるのである。RGBデータは一つの数値であり「01化」できるものであり、従ってコンピュータ内部に流し込みその計算処理の対象にできるものである。
これをコンピュータの画面上に映し出す。コンピュータ画面には数学的な座標系のようにX軸Y軸が張り巡らされており、ちょうどエクセルのセルのようなボックスが極小な形で―しかも横長でなく正方形な形で、ぎっしりと詰まっている。この目に見えない点のようなボックスにRGBデータによって表現された色を流し込んでゆけば、リアルに感じられる映像を再現できるのである。さらにこれを瞬間瞬間に変化させてゆけばリアルな動画も映し出すことができるのだ。

コンピュータ画面上に膨大に存在するこのボックスに様々な色を流し込んでゆくことなど、しかもそれを瞬間瞬間に変化させて映し出すことなどはなおさら、人間技では不可能なことである。一昔前のコンピュータでも困難だったことで、写真一枚映し出すにも数分数十分かかり、その間ぼーっと待っていなければならなかった。しかしコンピュータの計算能力がさらに向上した今日、写真などは瞬時に映し出されるようになり、動画もスムーズに鮮やかに再生できるようになっている。もっと向上すれば三次元的空間の中でも映像データをリアルに映し出すことができるようになるだろう。コンピュータは人間の視覚世界をコンピュータ内部に取り込むことに成功したのである。

しかし現実世界そのものがコンピュータに取り込まれた訳ではないことに注意すべきである。現実世界は様々な生物によって様々な捕え方がされるものである(ついでにいえば、この現実世界は人間が現われる以前にも存在したはずだし、人間が消えた以降にも存在し続けるだろう)。この場合は人間の視覚で捕えられるような世界が、コンピュータ内で再現されただけなのである。ただそれは人間にリアル感を与えるには十分なものなので、人間に「ついに現実世界がコンピュータによって作られるようになった!」という錯覚を与えただけの話なのである。

電子同人雑誌の可能性 171 「コンピュータの本質―「01化」と現実世界の統合」

2018-11-21 05:36:28 | 日本文学の革命
かくしてコンピュータ内部において、論理的に完璧な世界、絶対に真なる世界、「デジタル空間の世界」が成立した。コンピュータには最先端の科学技術や最新のテクノロジーが注ぎ込まれているし、まさにコンピュータは西洋合理主義文明の申し子のような存在と言えるだろう。

しかしそれにしてもなぜ西洋人はここまで合理主義が好きなのだろう。この世界のすべて、生活のすべてを合理主義化しないと気が済まないのだろう。やはり2千年にも渡って神の下した絶対の律法(合理主義的と言えなくもないものである)に従って生きてきた影響だろうか。ほとんど宗教的な情熱で世界のすべてを合理主義化しようとしてくる。特にここ百年二百年の情熱はすさまじく、「呪術からの世界の解放」(マックス・ウェーバー)と名付けられた大運動を展開し、世界の合理主義化や非合理的なものの世界からの追放を押し進めてきた。特に目のカタキにされたのが幽霊や妖怪やあの世や呪術やらで、それらの欺瞞やトリックを科学的に暴いて迷信として処罰してゆくことが、中世の魔女狩りさながらに行われたのである。かくして世界の合理主義化が次々と達成されてゆき、現代ではこの種の非合理的存在はすべて存在しないものとされるようになった。(しかしもしある日突然幽霊が「ハーイ♡ 私 幽霊よ。ハウアーユー」と誰の目にも見える形で現われて、しかも科学的検証にも耐えられたとしたら、その瞬間全自然科学は崩壊してしまうのであるが…。まあ、あり得ない話でもない)

そして次に進められたのが、このデジタル空間の中にわれわれの生きているこの現実世界を統合しようとする試みである。まず現実世界とは別の場所―コンピュータの内部空間に、機械的人工的に完璧な論理的世界を作っておき、そこに現実世界を注ぎ込むことによって現実世界を論理化・合理主義化しようというのである。命題論理学はこの現実世界に直接挑んだ結果、その論理化・合理主義化に失敗した訳だが、今度はあらかじめコンピュータという形で合理主義的世界を作っておき、その空間内に現実世界を注ぎ込むことによって、現実世界を完璧な合理主義世界に変換させようというのである。命題論理学のリベンジをコンピュータで行おうという訳である。

その際重要となるのが、やはり「01化」である。現実世界の様々なものを「01」という形で数値化できたのなら、それをコンピュータの内部に統合し、溶かし込むことができるからである。

電子同人雑誌の可能性 170 「コンピュータの本質―論理的に完璧な世界の実現」

2018-11-16 12:08:28 | 日本文学の革命
足し算から始まって、四則計算ができるようになり、関数計算もできるようになり、コンピュータは独自の思考活動ができるようになって、独自の世界を作り出せるようになった。そしてここにおいてあの命題論理学が理想として追い求めていた世界が実現されたのである。それは論理的に完璧な世界、数学の体系のような絶対に真なる世界、どんな状況どんな場合にも真になる「絶対のトートロジー(恒真式)」の世界、それが実現されたのである。

命題論理学はこの現実世界、それが反映された人間の思考世界や言語活動を数学的に論理化しようとしてきた。世界のすべてを「真」「偽」という形で二値化して、それを「または」「かつ」「でない」「ならば」などの論理演算子を使って計算化し、どんな場合にも真になる思考世界の法則のようなトートロジーを見い出してゆき、現実世界や人間の思考活動を数学的論理の上に基礎づけようとしたのである。それは人間の思考や言語活動を数学化・合理主義化するものであり、この世界そのものを根本的なところから数学化・合理主義化しようとする試みであった。
しかし命題論理学はこの試みに失敗したのである。理由は簡単なもので、この現実世界や人間の言語世界は論理だけで出来ている訳ではない、という単純な事実に気づかなかった、あるいは無視して強引に進んで行った、その当然の結果だったのである。さらにはすべての基礎に据えようとした数学自体が、西洋数学という西洋文化独自の数学であり、それで世界のすべての人間や言語を律しようとしたのだから、西洋人には嬉しいかも知れないが、他文化圏の人間にはいい迷惑である。現実世界や言語世界を合理主義化しようとした命題論理学の試みは、失敗すべくして失敗した、といってもいいだろう。

ところがコンピュータの世界では、それが出来たのである。なぜかというと、これも理由は簡単なもので、コンピュータがこの現実世界や人間の言語世界を始めからきれいに排除したからである。
コンピュータは命題論理学からすべてを二値化するという方法を受け取ったが、その二値化には命題論理学を混乱と迷走に陥れた現実世界の不可知性だとか言語的意味の非合理性だとかはまったく入っていない。ただ電流が流れているかいないかの物理的状態の二値化なのである。そしてそこに二進数という形で数字的意味だけを持たせたのである。現実世界や人間的意味などの非合理的で厄介なものは始めから端折ってしまったのである。
またコンピュータは「または」「かつ」「でない」などを電子回路として自分の内部で使っているが、それもただ数値計算のためだけに使っているのである。命題論理学ではこの「または」「かつ」「でない」などを使って人間の思考そのものに挑み、おかげで挫折したのだが、コンピュータはそんな面倒な領域に踏み込む真似はしないで、それを四則計算なり関数計算なりの数値計算のみに利用しているのだ。

数値計算なのだから、始めから正しいのは当然である。「2+2=4」は完璧に正しく、「4×4=16」はいかなる状況が来ても恒真的に真実である(「2+2=4」や「4×4=16」が本当に真実なのかどうか、難しく考えるといろいろ疑問が湧くのだそうだが、コンピュータはこの種の疑問もきれいさっぱり排除してしまうのである)。これらの計算をいくら積み重ねて拡大していっても、コンピュータは人間と違って計算間違いなどしないので、正しさが積み上がってゆくだけである。いわば出来レース的に、絶対に正しい世界、論理的に完璧な世界、どんな状況でも真になる絶対のトートロジーの世界が出来上がってゆくのである。
関数計算の場合はプログラマーという人間を通して様々な思惑やヘマが混入してくるが、その場合でもコンピュータの論理的形式に適合しないときにはコンピュータがバグや不具合や暴走を起こしてそれを排除してしまうので、コンピュータ世界での論理的完璧さは保たれることになる。

こうしてコンピュータ内部において、論理的に完璧な世界、絶対に真なる世界、どんなに拡張しても常に真になる絶対のトートロジーの世界が出来上がったのである。命題論理学のように現実世界や現実の人間に関わろうとせず、それらをきれいさっぱり排除することによって実現できた世界である。このコンピュータ内部で成立した世界のことを「デジタル世界」と呼んでいる。デジタル世界とは、計算によって作り出された世界のことに他ならない(我々の周囲に広がる現実世界がどのように作り出されているのか、はいまだに誰にも分かっていない。ただどこかの科学者が計算によって作り出したものではないことは確かである)。数値計算によって作られた世界なので、どこまでも数学的に正しく、論理的に完璧なのは当然である。コンピュータは命題論理学の様式を受け継いで、命題論理学では不可能だったことを―かなり自分に都合がいいように排除の論理を駆使してだが―実現させたのである。

電子同人雑誌の可能性 169 「コンピュータの本質―計算能力の獲得」

2018-11-11 12:56:53 | 日本文学の革命
コンピュータの唯一最大の能力が「足し算をする能力」であると書いたが、これを見てズッコケた人もいるのではないだろうか。「なに〜!コンピュータの唯一最大の能力が足し算をすることだとお?コンピュータに仕事が奪われるだとか、コンピュータに支配される社会が来るとか、さんざんに言われているが、足し算することしかできない奴に人類は脅えていたのか」と突っ込みを入れたくなるかも知れない。
事実はその通りで、この足し算ができる回路「加算器」こそがコンピュータの中枢にあるものなのである。コンピュータの頭脳はこの加算器の積み重ねと応用で出来ていると言ってもいいだろう。最新のテクノロジーの精華、人類を凌駕する能力を持つ機械、などと様々に謳われてきたコンピュータが、足し算しかできないと分かると「そうか…おまえ足し算しかできないのか…」と逆になでなでしてやりたい気持ちにもなる。

しかし足し算しかできないといっても、バカにはできないのである。足し算ができれば引き算もできるからである。ある「01」の数値のビットを反転させて1を足し、それで別の数値と足し算をすると、反転させる前の数値で引き算をしたのと同じ結果なるのだ。つまりちょっと工夫しただけで足し算で引き算をすることができるのである。
さらには掛け算もすることができる。二進数の掛け算はすべて「×1」しかなく、笑いが止まらないほど簡単なものだが、そうして積み重ねていったものを足し算すれば答えが出るのである。つまり掛け算も足し算で計算できるのだ。
さらには割り算もできる。割り算の場合は引き算の積み重ねという形で計算が行われるのだが、引き算は足し算として処理できる。つまり割り算も足し算の延長上に計算できるのである。

さらには「マイナス」の概念も扱える。「マイナス」の概念といえば、人類でも小学校に入った時分になってようやく理解できる概念だが、コンピュータの場合別に「マイナス」の概念を理解している訳ではなく、あるデータ範囲のここからこの部分をマイナス、ここからこの部分をプラスと勝手に決めておいて処理しているだけである。しかしそれでも計算的には十分「マイナス」計算ができるのである。
さらには小数計算もできる。かなり長いデータ列になるが、この部分は正負の値、この部分は指数の値、この部分は小数点以下の値と、やはり勝手に決めておいて計算すれば、小数計算もできるようになるのだ。
また西洋数学でよく使う累乗計算もお手のものである。この場合基本的にデータを左右にずらしていくだけでいいので、難しい累乗も赤子の手をひねるように簡単に扱うことができる。

つまり足し算をする能力を持っていれば、四則計算のすべてができるのである。「01」化され二進数化されたコンピュータ内部において四則計算を自在に行えるようになったのだ。

しかし四則計算ができるだけでは電卓と変わらない。電卓も数十年前に登場したときは画期的なマシンとして歓迎されパソコン並みの価格で買われたものだが、今や100円ショップで売られる存在となりパソコンのおまけソフトとしても扱われている。コンピュータで画期的なことは「関数計算」ができるようになったことである。つまり状況に応じて次々とダイナミックな計算ができるようになったのである。この場合にはこう、あの場合にはこうと入力状況に応じて様々な答えを導き出してゆき、この条件のときにはあそこにジャンプしろとか、この条件をクリアするまではこの計算を続けろとか、そのようなダイナミックで自動で動くような計算ができるようになったのだ。これがまさに「プログラミング」だが、あの命題論理学の「または」「かつ」「でない」「ならば」などの論理回路はここでも大活躍しているのだろう。

足し算しかできないにも関わらず、様々な工夫を凝らしてそれが四則計算に拡張し、さらにはプログラミングの力を借りて関数計算にまで発展した。ここまで来たらコンピュータは数学の全体を扱えるのであり、プログラミングの能力を駆使して人間的な思考にまで迫れるようになったのである。

電子同人雑誌の可能性 168 「コンピュータの本質―「01化」と論理回路」

2018-11-09 14:00:49 | 日本文学の革命
よく知られているようにコンピュータの内部ではすべての情報が「0」「1」として処理されている。回路に電流が流れている状態もしくは帯電している状態を「1」とし、回路に電流が流れていない状態もしくは帯電していない状態を「0」として、すべての情報の処理や蓄積が行われているのだ。コンピュータの内部ではすべてが「0」「1」として二値化されていると言えよう。

この二値化されているところは命題論理学と共通している。命題論理学でもすべての命題は「真」「偽」によって二値化されており、事態が成立した状態を「真」、成立していない状態を「偽」として値づけている。ただ命題論理学の場合は、単位と成るものが命題―世界に現に渦巻いている様々な事象や事態、言語的に言えば文章なので、それ自体が意味を持っているのであるが、コンピュータの場合は電流が流れる流れないの物理的な状態だけで、それ自体には人間的な意味など持っていない。
この「真」「偽」二つの値を持ち得る命題を「または」「かつ」「でない」などの論理的演算子で繋ぐと様々な複合命題―式が生じる。この式に「真」「偽」様々な値を代入すると、計算結果として式自体の「真」「偽」も導き出されてゆく。たいていは日常経験に照らしてよく分かるように、運次第や本人の努力次第でどちらの値にも成り得る偶然式である。しかし中にはどんな値を入力しても結果は必ず「真」になるという「絶対真」の式もある。これが恒真式トートロジーであり、このトートロジーを見い出してゆくことで、世界の論理的法則性、世界の論理的足場を求めてゆこうというものが命題論理学であった。

コンピュータの「0」「1」も二値化なのだが、命題論理学のような意味性はそこにはない。ここにいくら「神は存在するのか否か」「彼女は僕を愛しているのか否か」と問いかけても本来馬耳東風で聞き流すだけである。しかしこの「0」「1」にもある一つの意味を持たせることができるのである。それが二進数であり、人間が使っている数字である十進数を二進数に変換することで、この本来電流が流れる流れないの物理的状態に過ぎないものに数字的意味を持たせることができるのだ。たとえば「0」「1」が並列的に並んだもの「00001100」は人間の数字では「12」であり、この無機質な「01」回路に人間的な「意味」を持たせることができるのである。

たしかにそれは言語的意味ではなく単なる数字的意味なのだが、それでもそこには大きな意味を持たせることができる。たとえばこの「12」が「12万」の意味であり、月の給料として銀行口座に記された値だとしたら、これを見た人間はガックリしてしまうだろう。週五日みっちり働いてたったこれだけ…としょげてしまうだろう。逆に値がちょっと変わって「120万」と記されていたら、「0」がひとつ加わっただけなのに受け取った人間はホクホクの満足顔になる筈である(大企業や中央省庁の役員クラスでは珍しくない月給である)。単なる数字にも様々な意味を持たせることができる。二進数によってコンピュータの「01」には人間的な豊かな意味性が付与されるようになったのだ。

コンピュータの「01」に数字という人間的意味を持たせることができた。数字化できたのなら次に計算をさせたいところだが、ここでも命題論理学がコンピュータに寄与することになる。あの命題論理学の論理的演算子「または」「かつ」「でない」などを電子回路化することによって、コンピュータに計算する道が開けたのだ。

二つの入力路がありそのどちらかに電流が流れたとき出力路にも電流が流れるのを「または」回路、二つの入力路がありそのどちらにも電流が流れた時だけ出力路に電流が流れるのを「かつ」回路、一つの入力路がありそこに電流が流れたときは出力路には電流を流さず、電流が流れないときは流して出すというひねくれた回路を「でない」回路として、それぞれ作り出すことができる。トランジスタを数個組み合わせるだけで出来るもので、夏休みの宿題としても出来そうである。

この「または」回路、「かつ」回路、「でない」回路をさらに複雑に組み合わせて新たな回路を作り出すことができる。この回路はまさに画期的なものであり、コンピュータの能力の中枢にあるものである。ある意味コンピュータの唯一最大の能力であると言ってもいい。
それは足し算をする能力である。