ではこの漱石的執筆法の本質とはどのようなものなのだろうか。
漱石の『夢十夜』の中に「運慶の夢」がある。漱石が夢の中で鎌倉時代にいてたくさんの群衆とともに運慶が仏像を彫っているところを見ている夢である。運慶は木の上に鑿を振るい勢いよく仏像を彫ってゆく。その鑿の振るい方はまったく無造作で気楽なもので、何のためらいもなく勢いよく彫っているのだが、木の中からは見る見る鮮やかに仏像が彫り出されてゆくのである。漱石が感心してその様子を見ていると群衆の中の誰かから「あれは木の中にもともとあるものを取り出しているだけだから、あんなに無造作でも彫れるんだよ」という声が聞こえてきた。という話である。
漱石の執筆法とはまさにこれなのである。「自分の中にあるもの」を取り出しているだけなのである。この「自分の中にあるもの」のことを漱石は「思想」だとか「理想」だとか「人格」だとかいろいろな言葉で呼んでいるが、長い人生遍歴を通して自分の中に知らず知らずの内に形成された何かのことを指しているのである。しかもその何かは発現することを求めているのである。発現し、成長し、昇華されることを求めているのだ。その何かを捕え、生き生きとしたそのままの形で取り出すこと、それが漱石の執筆法なのである。自分の中にすでにあるのだから、いちいち下調べや熟考をする必要はなく、むしろ即興的場当たり的に生き生きと取り出した方がいいのである。
もちろん取り出すためには「鑿」もいる。この「鑿」を自在に繰り出すことによって「自分の中にあるもの」が掘り出されくるのである。文学の場合この「鑿」に当たるものは「文体」だろう。自分の中にある「思想」「理想」「人格」とピッタリ合致した文体を見い出し、「自分の中にあるもの」とその文体がシンクロした時、文章を書くことがそのまま「思想」や「理想」や「人格」の発現となるのである。それは「自分の中にあるもの」をそのままの形で写し出すものであり、一見無造作に気楽に書いているように見えるが、天真爛漫な大自在の境地にまで達した「自然な文体」なのである(漱石の文体のことは『「道草」と私小説』で詳しく論じるつもりだが、僕はこれを「三統一の言文一致体」と呼んでいる。江戸・東京の言葉である東京方言を言語的基盤として、その上に漢文・和文・西洋語という三つの相異なる言語世界を一つに統一した文体なのである。まさにこれが漱石の文体であり、さらには漱石を越えて日本文学全体の大様式となったものであり、ついには現在我々が使っている現代日本語ともなったのである)。
さらに付け加えるなら、漱石の執筆法とは「自分以上のもの」に書いてもらう執筆法だと言ってもいいだろう。「自分の中にあるもの」とは確かに自分の中にあるのだが、ある意味自分を越えた存在なのである。我々の意識や自我ではそのほんの一部しか捕えることができない。そんな小賢しい自我や意識で書くのではなく、それを越えたもので書くのである。この「自分の中にあるもの」それ自体に書いてもらうのである。手を動かして書いているのはたしかに漱石だが、実際に書いているのは彼以上の存在なのである。ちょっと巫女や霊媒師の憑依現象にも似ている。彼が即興やスピードや場当たり的な執筆法を好むのも、それによって自分の意識や自我や小賢しい知恵が働くのを封じて、この「自分以上のもの」が発現するのを促すためなのである。
漱石の執筆法についていろいろ書いてきたが、この方法で書いてゆけばスピードと内容を両立できるはずだ。のろさを克服して、スピード感を持ってバンバン書いてゆくことが可能かも知れない。僕の中にも何かしらは形成されているはずだし、漱石とは比べものにならないがとりあえずは文体も持っている。あとは「自分以上のもの」が現われることを願って書いてゆくだけだ。
運を天に任せて、また初期時代の漱石のように面白おかしく楽しんで、バンバン書いてゆこう!
漱石の『夢十夜』の中に「運慶の夢」がある。漱石が夢の中で鎌倉時代にいてたくさんの群衆とともに運慶が仏像を彫っているところを見ている夢である。運慶は木の上に鑿を振るい勢いよく仏像を彫ってゆく。その鑿の振るい方はまったく無造作で気楽なもので、何のためらいもなく勢いよく彫っているのだが、木の中からは見る見る鮮やかに仏像が彫り出されてゆくのである。漱石が感心してその様子を見ていると群衆の中の誰かから「あれは木の中にもともとあるものを取り出しているだけだから、あんなに無造作でも彫れるんだよ」という声が聞こえてきた。という話である。
漱石の執筆法とはまさにこれなのである。「自分の中にあるもの」を取り出しているだけなのである。この「自分の中にあるもの」のことを漱石は「思想」だとか「理想」だとか「人格」だとかいろいろな言葉で呼んでいるが、長い人生遍歴を通して自分の中に知らず知らずの内に形成された何かのことを指しているのである。しかもその何かは発現することを求めているのである。発現し、成長し、昇華されることを求めているのだ。その何かを捕え、生き生きとしたそのままの形で取り出すこと、それが漱石の執筆法なのである。自分の中にすでにあるのだから、いちいち下調べや熟考をする必要はなく、むしろ即興的場当たり的に生き生きと取り出した方がいいのである。
もちろん取り出すためには「鑿」もいる。この「鑿」を自在に繰り出すことによって「自分の中にあるもの」が掘り出されくるのである。文学の場合この「鑿」に当たるものは「文体」だろう。自分の中にある「思想」「理想」「人格」とピッタリ合致した文体を見い出し、「自分の中にあるもの」とその文体がシンクロした時、文章を書くことがそのまま「思想」や「理想」や「人格」の発現となるのである。それは「自分の中にあるもの」をそのままの形で写し出すものであり、一見無造作に気楽に書いているように見えるが、天真爛漫な大自在の境地にまで達した「自然な文体」なのである(漱石の文体のことは『「道草」と私小説』で詳しく論じるつもりだが、僕はこれを「三統一の言文一致体」と呼んでいる。江戸・東京の言葉である東京方言を言語的基盤として、その上に漢文・和文・西洋語という三つの相異なる言語世界を一つに統一した文体なのである。まさにこれが漱石の文体であり、さらには漱石を越えて日本文学全体の大様式となったものであり、ついには現在我々が使っている現代日本語ともなったのである)。
さらに付け加えるなら、漱石の執筆法とは「自分以上のもの」に書いてもらう執筆法だと言ってもいいだろう。「自分の中にあるもの」とは確かに自分の中にあるのだが、ある意味自分を越えた存在なのである。我々の意識や自我ではそのほんの一部しか捕えることができない。そんな小賢しい自我や意識で書くのではなく、それを越えたもので書くのである。この「自分の中にあるもの」それ自体に書いてもらうのである。手を動かして書いているのはたしかに漱石だが、実際に書いているのは彼以上の存在なのである。ちょっと巫女や霊媒師の憑依現象にも似ている。彼が即興やスピードや場当たり的な執筆法を好むのも、それによって自分の意識や自我や小賢しい知恵が働くのを封じて、この「自分以上のもの」が発現するのを促すためなのである。
漱石の執筆法についていろいろ書いてきたが、この方法で書いてゆけばスピードと内容を両立できるはずだ。のろさを克服して、スピード感を持ってバンバン書いてゆくことが可能かも知れない。僕の中にも何かしらは形成されているはずだし、漱石とは比べものにならないがとりあえずは文体も持っている。あとは「自分以上のもの」が現われることを願って書いてゆくだけだ。
運を天に任せて、また初期時代の漱石のように面白おかしく楽しんで、バンバン書いてゆこう!