「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

スピードと漱石的執筆法 3

2019-12-25 06:15:56 | 日本文学の革命
ではこの漱石的執筆法の本質とはどのようなものなのだろうか。

漱石の『夢十夜』の中に「運慶の夢」がある。漱石が夢の中で鎌倉時代にいてたくさんの群衆とともに運慶が仏像を彫っているところを見ている夢である。運慶は木の上に鑿を振るい勢いよく仏像を彫ってゆく。その鑿の振るい方はまったく無造作で気楽なもので、何のためらいもなく勢いよく彫っているのだが、木の中からは見る見る鮮やかに仏像が彫り出されてゆくのである。漱石が感心してその様子を見ていると群衆の中の誰かから「あれは木の中にもともとあるものを取り出しているだけだから、あんなに無造作でも彫れるんだよ」という声が聞こえてきた。という話である。

漱石の執筆法とはまさにこれなのである。「自分の中にあるもの」を取り出しているだけなのである。この「自分の中にあるもの」のことを漱石は「思想」だとか「理想」だとか「人格」だとかいろいろな言葉で呼んでいるが、長い人生遍歴を通して自分の中に知らず知らずの内に形成された何かのことを指しているのである。しかもその何かは発現することを求めているのである。発現し、成長し、昇華されることを求めているのだ。その何かを捕え、生き生きとしたそのままの形で取り出すこと、それが漱石の執筆法なのである。自分の中にすでにあるのだから、いちいち下調べや熟考をする必要はなく、むしろ即興的場当たり的に生き生きと取り出した方がいいのである。

もちろん取り出すためには「鑿」もいる。この「鑿」を自在に繰り出すことによって「自分の中にあるもの」が掘り出されくるのである。文学の場合この「鑿」に当たるものは「文体」だろう。自分の中にある「思想」「理想」「人格」とピッタリ合致した文体を見い出し、「自分の中にあるもの」とその文体がシンクロした時、文章を書くことがそのまま「思想」や「理想」や「人格」の発現となるのである。それは「自分の中にあるもの」をそのままの形で写し出すものであり、一見無造作に気楽に書いているように見えるが、天真爛漫な大自在の境地にまで達した「自然な文体」なのである(漱石の文体のことは『「道草」と私小説』で詳しく論じるつもりだが、僕はこれを「三統一の言文一致体」と呼んでいる。江戸・東京の言葉である東京方言を言語的基盤として、その上に漢文・和文・西洋語という三つの相異なる言語世界を一つに統一した文体なのである。まさにこれが漱石の文体であり、さらには漱石を越えて日本文学全体の大様式となったものであり、ついには現在我々が使っている現代日本語ともなったのである)。

さらに付け加えるなら、漱石の執筆法とは「自分以上のもの」に書いてもらう執筆法だと言ってもいいだろう。「自分の中にあるもの」とは確かに自分の中にあるのだが、ある意味自分を越えた存在なのである。我々の意識や自我ではそのほんの一部しか捕えることができない。そんな小賢しい自我や意識で書くのではなく、それを越えたもので書くのである。この「自分の中にあるもの」それ自体に書いてもらうのである。手を動かして書いているのはたしかに漱石だが、実際に書いているのは彼以上の存在なのである。ちょっと巫女や霊媒師の憑依現象にも似ている。彼が即興やスピードや場当たり的な執筆法を好むのも、それによって自分の意識や自我や小賢しい知恵が働くのを封じて、この「自分以上のもの」が発現するのを促すためなのである。

漱石の執筆法についていろいろ書いてきたが、この方法で書いてゆけばスピードと内容を両立できるはずだ。のろさを克服して、スピード感を持ってバンバン書いてゆくことが可能かも知れない。僕の中にも何かしらは形成されているはずだし、漱石とは比べものにならないがとりあえずは文体も持っている。あとは「自分以上のもの」が現われることを願って書いてゆくだけだ。

運を天に任せて、また初期時代の漱石のように面白おかしく楽しんで、バンバン書いてゆこう!

スピードと漱石的執筆法 2

2019-12-25 06:09:11 | 日本文学の革命
漱石の執筆法には一つの特徴がある。それは“ものすごいスピード”で書いてゆくというものである。

漱石は『吾輩は猫である』で創作に目覚めたあと、ものすごい勢いで小説をかいてゆくことになった。『猫』を書きながらそれと同時並行して、『漾虚集』としてまとめられた諸短編、『坊っちゃん』、『草枕』などの作品を次々と生み出していった。『坊っちゃん』などは冬休みの間に二週間で書いてしまったほどだ。創作の勢いは止まらず『二百十日』『野分』『虞美人草』と次々と中編・長編小説を書いてゆき、『坑夫』や『夢十夜』のような幻想的な小説を書いたのもこの頃である。さらには『文学論』や『文学評論』という評論作品までこの間に発行している。『三四郎』以前を漱石の初期作品ととらえるなら、彼はこの3年半ほどの初期時代の間に計11冊もの作品を―しかもどれも個性的で歴史的な傑作ぞろいである―書いているのである。

朝日新聞に入社して職業作家になったあとも彼の創作の勢いはものすごいものだった。なんと彼は一年に一冊のペースで長編小説を書き続けていったのである。半年ほど小説を書いて、半年ほど休んで、翌年にはまた新しい長編小説を書いてゆくというのだから、まさに驚異のハイペースである。しかもそれらは流行作家のように薄っぺらのものを書き流しているというものではない。一冊一冊に奥深い内容が込められており(いずれ『こころと太平洋戦争』でその一端をお見せすることになるが)、文体まで一冊一冊異なっているのである!修善寺の大患で倒れた年を除いて彼は毎年このペースで書いてゆき、計八冊もの長編小説を矢継ぎ早に書いていったのである。

しかも彼は執筆に際して下調べとか題材の熟考とかをほとんどしていない。ぶっつけ本番出たとこ勝負で書いていて、長編小説まるごと一冊を即興で書いているふしすらある。またその書き方は実に無造作で、勢いよくバンバン書くだけで、字句や文章にこだわる様子も見せない。作家の中には字句や文章に凝りに凝って書く者もいるが、彼にはそういう様子がなく、ただ筆のおもむくまま自由自在に書いているだけで、推敲の跡すらほとんど留めていないのである。

漱石のこの執筆法は新聞小説という形態とベストマッチするものであった。新聞とは毎日毎日発行されるメディアであり、新聞小説もそれに合わせて毎日毎日書かれなければならない。遅滞や欠稿は絶対に許されず、書いてゆくそばからすぐに活字にされ世に出されてゆくのである。まさに「はい!次」「はい!次」というわんこ蕎麦状態であり、まった無しのハイスピードで作品を書いてゆかねばならないのだ。

作家としては過酷な執筆状況だが、しかし漱石はむしろそれを望んでいたようなのである。漱石の文名が高まり文学で財を成したあとでは、いつでも新聞社などは辞めて、締め切りに追われることなくじっくりと創作に取り組むこともできたであろうに、彼はそのような道を取らず、死ぬまで新聞小説という形態で小説を書いていったのである。彼のこの超スピード執筆法は彼の創作スタイルとベストマッチしていたのだ。

スピードと漱石的執筆法 1

2019-12-25 05:57:35 | 日本文学の革命
だいぶ長い事投稿してこなかったが、この間じつは一生懸命していたことがある。それは「いかにスピードをあげるか」という問題を解決することである。

とにかく今のペースでは遅すぎるのだ。「日本文学の復活」は今や十分達成できる位置に立っているのだが、こうまでペースが遅いと出来るものもできなくなってしまう。週五日経済的な仕事のために多くの時間を割かなければならないという厳しい制約は持ってはいるが、そんなことは今に始まったことではないし、仕事からも様々ないい影響を受けていることだし、言い訳にはならない。なんとかもっとペースを上げてバンバン書いてゆく必要があるのだ。

だがこれから書いてゆくものが実に難しいものであることも事実なのだ。
今「関数と西洋文明」の所を書いているが、これはコンピュータやインターネットの本質を文学的に明らかにしようという試みであり、ある意味文学によってコンピュータに戦いを挑むようなものなのだが、しかしこれはドンキホーテが痩せ馬に乗って水車に突進したような無謀な行為に近く、はじき飛ばされて当然であり、実に困難でヤケクソ的に行っている仕事でもあるのだ。要するに難しいのである。

次に書いてゆく最終章「電子同人雑誌とそのネットワーク」もたいへんな仕事で、何もないところから想像力だけで一つの社会制度を創設しなければならないのである。しかも誰もが参加したがるような、ワクワク面白くて楽しい、夢や希望にあふれた明るいヴィジョンとして描かなければならない。しかも単なる空想ではなく実現可能なリアリティーあるものとして書かなければならない。やはり要するに実に難しいものを書くことになるのだ。

このすぐあとにいよいよ取りかかる『こころと太平洋戦争』。これも実に難しい。
これは漱石の代表作『こころ』に関する評論だが、この『こころ』は書かれてから100年以上経つ小説で、日本文学最大のベストセラーとなったほど人々から読まれ続けた作品だが、しかしいまだに謎に満ちた小説なのである。今まで書かれた『こころ』についての評論でこの謎に迫れたものは一つもないと言ってもいい。あまりに訳の分からない小説なので、島田雅彦などは「漱石ホモ説」などという珍説まで出してきたほどだ。「先生とKとの間にあるのはホモ感情だ。それは漱石の隠されたホモ感情が投影されたものだ」というのである。『こころ』という漱石最高の作品と新宿二丁目の本屋に置いてあるようなホモ雑誌とを同一視する噴飯ものの説だが、こんな説が幅を利かせているのだからまさに今の文学界は末期的である(評論の迷走ぶりに対して「この作品になぜかひかれる」「読んでみる価値がある」と100年に渡って読み続けてきた一般読者の方が、評論家などより遥かに見識が高かったのである)。

『こころと太平洋戦争』でこの謎に迫ろうとするのだが、100年も謎のままだったものに挑むのだから、超絶にたいへんな仕事なのである。しかもそれを「太平洋戦争」という今でも日本人のトラウマになっている巨大な歴史的事件と一体化して論じようというのだから、さらに倍増してたいへんなものになる。実に困難な難しい題材を書いてゆくことになるのだ。

このようなただでさえ難しい内容に加えて、さらにスピードまで加速させて書いてゆくことが可能なのだろうか。フェイスブックの一つの投稿を書くだけでも実にたいへんなのである。それを毎日のように矢継ぎ早に書いてゆくことができるだろうか。これから書いてゆく超難しい内容をわんこ蕎麦状態で次から次へと息つく暇もなく書いてゆくハメになるのである。しかも「もうお腹いっぱい…。ギブアップ…」することも許されず延々と書いてゆかなければならない。たいへん困難な課題が課せられることになるのである。

この「スピード」問題に一生懸命頭を悩ませていたのだが、なんとか解決策が見えてきた。ここでも漱石がヒントを与えてくれた。「漱石的執筆法」で書いてゆけばいいのである