夜と並んで我々に死の存在を実感させるものに「死の目撃」がある。そしてこれもまた「外界」において我々が出会うものなのである
我々はよく動かなくなった昆虫を見かけることがある。ハエやハチのように普段は素早く逃げてゆく彼らが全く動かずに固まったままじっとしている。触っても弾いても何の反応もしない。もう死んでいるのである。同じように動かなくなった動物の姿もよく目にする。羽を広げて倒れているやせ衰えた鳩、潰されたカエルやミミズ、猫などもどういうわけか車によく轢かれるらしく、道端にそうした野良猫の死骸が転がっていて、それを目にした我々に痛切な気持ちを起こさせる。葬式に呼ばれれば人間の死体を目にすることになる。かつては生き生きと活動していた人が今や棺の中でじっとしていて全く動かない。人間もまた死んでゆくのである。一番痛切な死の目撃は、我々の肉親や愛する人の死の姿だろう。今までともに生きて来た人々、自分の人生の一部だったかけがえのない人々が死んでしまったのである。自分自身の最も大切な存在が奪い取られてしまったのであり、その衝撃と苦しみと喪失感は計り知れないものである
我々は「外界」においてさまざまな死を目撃するのであるが、そういう「死んだもの」には共通する特徴がある。それは全く動かなくなるということである。かつては生き生きと活発に活動していたものが死んだら全く動かない。何の反応もしないし、息すらもしない。外見は生きていた頃と変わりはないのだが、何か決定的なものー生命としか呼び得ないものーが失われてしまい、全く別の存在になってしまったのだ。やがて体全体が硬直して固結化してゆく。生命感の感じられない無機物と化してゆく。ただの「量的存在」に過ぎないまさに物質になってしまうのである
生命体は死ぬとこのような物質と化してゆく。道端の石ころよりは遥かに複雑な存在だが、やはり石ころと変わらない物質になってしまうのである。ただ石ころのようになってもミイラやレーニン像みたいに生前の肉体を保っているならまだいい。なんだか眠っているようでもあり、永遠の生を保っているようでもあり、復活の期待さえ感じさせるからである。しかし通常はそうはならない。死んだものたちはやがて腐ってゆくのである。恐ろしい臭気を発しながら至るところが腐ってゆき、見るもむごたらしい形で崩れてゆくのである。まるで生を嘲笑い恐ろしい死をまざまざと見せつけるかのように朽ちてゆき、最後には死の象徴である骨しか残らない
もちろん現代社会ではそんな恐ろしい姿になる前に救急車や葬儀会社が駆けつけて、遺体を運び火葬や土葬にして処理してしまう(このように死をできるだけ見せないようにすること、死を隠すこと、できればないことにしてしまうことは、現代社会の大きな特徴となっている)。火葬をして煙となって消えてゆくにしろ、土葬になって大地の中に消えてゆくにしろ、あるいは現代科学的に分子や原子にまで還元されて自然の循環の中に回帰するにしろ、死んだものたちはどこかに消えてゆくのである。そしてもう二度と戻って来ないのである(この「もう二度と戻って来ない」ことは生命体の本質なのである。それは死にだけ言えることではなく、生命体の生きている一瞬一瞬が実は「もう二度と戻って来ない」こと「もう二度と繰り返されることのない」ことの積み重ねでできているのだ)
いったいどこに消えていったのだろう。「外界」にいくら目を凝らしてみてもそんな場所を見つけることはできない。しかし「外界」の彼方に何かそんな「彼岸の世界」があるのかも知れない。死者たちが行き着き、そこで安らぐ世界があるのかも知れない。それは死の向こうに希望を見い出したいという我々の願望かも知れないが、そのような世界をどこか「彼方」に感じてしまうことも事実なのである
我々はよく動かなくなった昆虫を見かけることがある。ハエやハチのように普段は素早く逃げてゆく彼らが全く動かずに固まったままじっとしている。触っても弾いても何の反応もしない。もう死んでいるのである。同じように動かなくなった動物の姿もよく目にする。羽を広げて倒れているやせ衰えた鳩、潰されたカエルやミミズ、猫などもどういうわけか車によく轢かれるらしく、道端にそうした野良猫の死骸が転がっていて、それを目にした我々に痛切な気持ちを起こさせる。葬式に呼ばれれば人間の死体を目にすることになる。かつては生き生きと活動していた人が今や棺の中でじっとしていて全く動かない。人間もまた死んでゆくのである。一番痛切な死の目撃は、我々の肉親や愛する人の死の姿だろう。今までともに生きて来た人々、自分の人生の一部だったかけがえのない人々が死んでしまったのである。自分自身の最も大切な存在が奪い取られてしまったのであり、その衝撃と苦しみと喪失感は計り知れないものである
我々は「外界」においてさまざまな死を目撃するのであるが、そういう「死んだもの」には共通する特徴がある。それは全く動かなくなるということである。かつては生き生きと活発に活動していたものが死んだら全く動かない。何の反応もしないし、息すらもしない。外見は生きていた頃と変わりはないのだが、何か決定的なものー生命としか呼び得ないものーが失われてしまい、全く別の存在になってしまったのだ。やがて体全体が硬直して固結化してゆく。生命感の感じられない無機物と化してゆく。ただの「量的存在」に過ぎないまさに物質になってしまうのである
生命体は死ぬとこのような物質と化してゆく。道端の石ころよりは遥かに複雑な存在だが、やはり石ころと変わらない物質になってしまうのである。ただ石ころのようになってもミイラやレーニン像みたいに生前の肉体を保っているならまだいい。なんだか眠っているようでもあり、永遠の生を保っているようでもあり、復活の期待さえ感じさせるからである。しかし通常はそうはならない。死んだものたちはやがて腐ってゆくのである。恐ろしい臭気を発しながら至るところが腐ってゆき、見るもむごたらしい形で崩れてゆくのである。まるで生を嘲笑い恐ろしい死をまざまざと見せつけるかのように朽ちてゆき、最後には死の象徴である骨しか残らない
もちろん現代社会ではそんな恐ろしい姿になる前に救急車や葬儀会社が駆けつけて、遺体を運び火葬や土葬にして処理してしまう(このように死をできるだけ見せないようにすること、死を隠すこと、できればないことにしてしまうことは、現代社会の大きな特徴となっている)。火葬をして煙となって消えてゆくにしろ、土葬になって大地の中に消えてゆくにしろ、あるいは現代科学的に分子や原子にまで還元されて自然の循環の中に回帰するにしろ、死んだものたちはどこかに消えてゆくのである。そしてもう二度と戻って来ないのである(この「もう二度と戻って来ない」ことは生命体の本質なのである。それは死にだけ言えることではなく、生命体の生きている一瞬一瞬が実は「もう二度と戻って来ない」こと「もう二度と繰り返されることのない」ことの積み重ねでできているのだ)
いったいどこに消えていったのだろう。「外界」にいくら目を凝らしてみてもそんな場所を見つけることはできない。しかし「外界」の彼方に何かそんな「彼岸の世界」があるのかも知れない。死者たちが行き着き、そこで安らぐ世界があるのかも知れない。それは死の向こうに希望を見い出したいという我々の願望かも知れないが、そのような世界をどこか「彼方」に感じてしまうことも事実なのである