「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

電子同人雑誌の可能性 261 「コンピュータの本質ー数学とは何か 8 」

2023-01-31 10:17:45 | 日本文学の革命
夜と並んで我々に死の存在を実感させるものに「死の目撃」がある。そしてこれもまた「外界」において我々が出会うものなのである

我々はよく動かなくなった昆虫を見かけることがある。ハエやハチのように普段は素早く逃げてゆく彼らが全く動かずに固まったままじっとしている。触っても弾いても何の反応もしない。もう死んでいるのである。同じように動かなくなった動物の姿もよく目にする。羽を広げて倒れているやせ衰えた鳩、潰されたカエルやミミズ、猫などもどういうわけか車によく轢かれるらしく、道端にそうした野良猫の死骸が転がっていて、それを目にした我々に痛切な気持ちを起こさせる。葬式に呼ばれれば人間の死体を目にすることになる。かつては生き生きと活動していた人が今や棺の中でじっとしていて全く動かない。人間もまた死んでゆくのである。一番痛切な死の目撃は、我々の肉親や愛する人の死の姿だろう。今までともに生きて来た人々、自分の人生の一部だったかけがえのない人々が死んでしまったのである。自分自身の最も大切な存在が奪い取られてしまったのであり、その衝撃と苦しみと喪失感は計り知れないものである

我々は「外界」においてさまざまな死を目撃するのであるが、そういう「死んだもの」には共通する特徴がある。それは全く動かなくなるということである。かつては生き生きと活発に活動していたものが死んだら全く動かない。何の反応もしないし、息すらもしない。外見は生きていた頃と変わりはないのだが、何か決定的なものー生命としか呼び得ないものーが失われてしまい、全く別の存在になってしまったのだ。やがて体全体が硬直して固結化してゆく。生命感の感じられない無機物と化してゆく。ただの「量的存在」に過ぎないまさに物質になってしまうのである

生命体は死ぬとこのような物質と化してゆく。道端の石ころよりは遥かに複雑な存在だが、やはり石ころと変わらない物質になってしまうのである。ただ石ころのようになってもミイラやレーニン像みたいに生前の肉体を保っているならまだいい。なんだか眠っているようでもあり、永遠の生を保っているようでもあり、復活の期待さえ感じさせるからである。しかし通常はそうはならない。死んだものたちはやがて腐ってゆくのである。恐ろしい臭気を発しながら至るところが腐ってゆき、見るもむごたらしい形で崩れてゆくのである。まるで生を嘲笑い恐ろしい死をまざまざと見せつけるかのように朽ちてゆき、最後には死の象徴である骨しか残らない

もちろん現代社会ではそんな恐ろしい姿になる前に救急車や葬儀会社が駆けつけて、遺体を運び火葬や土葬にして処理してしまう(このように死をできるだけ見せないようにすること、死を隠すこと、できればないことにしてしまうことは、現代社会の大きな特徴となっている)。火葬をして煙となって消えてゆくにしろ、土葬になって大地の中に消えてゆくにしろ、あるいは現代科学的に分子や原子にまで還元されて自然の循環の中に回帰するにしろ、死んだものたちはどこかに消えてゆくのである。そしてもう二度と戻って来ないのである(この「もう二度と戻って来ない」ことは生命体の本質なのである。それは死にだけ言えることではなく、生命体の生きている一瞬一瞬が実は「もう二度と戻って来ない」こと「もう二度と繰り返されることのない」ことの積み重ねでできているのだ)

いったいどこに消えていったのだろう。「外界」にいくら目を凝らしてみてもそんな場所を見つけることはできない。しかし「外界」の彼方に何かそんな「彼岸の世界」があるのかも知れない。死者たちが行き着き、そこで安らぐ世界があるのかも知れない。それは死の向こうに希望を見い出したいという我々の願望かも知れないが、そのような世界をどこか「彼方」に感じてしまうことも事実なのである

電子同人雑誌の可能性260 「コンピュータの本質ー数学とは何か 7 」

2023-01-24 12:12:15 | 日本文学の革命
「外界」は我々とは一線を画す圧倒的な対象世界という性格を持っている。「量的存在」という特徴も持っており、また何らかの周期的に繰り返される「法則性」も感じられる。さらには「外界」はもう一つの意外な特徴も持っているのである。それは「死と隣り合わせの場所」という特徴である。我々の命を奪いかねない怖ろしくて容赦のない存在という特徴も持っているのである

これは我々が普通に感じる「外界」のイメージとは異なっているかも知れない。「外界」とはまず第一に広々とした活動の天地であり、夢や希望や憧れを持って我々が歩んでゆく生命に満ち溢れた場所だからである。晴れ渡った空のもと世界は鮮やかに輝いて見える。豊かな大地が周囲に広がり、植物は生い茂り動物たちは生き生きと活動している。大勢の人々もそこで暮らしており、その人々と交流し生きた温もりを感じ取ることもできる。気分がいい時には思いっきり駆け回りたい世界であり、自由に伸び伸びと跳ね回ることができる活動の舞台である。また夢や希望や憧れの舞台でもあり、少年であれば『海のトリトン』のように「はるかな波の向こうには夢の世界があるのだろう」と信じて「誰も見ない未来の国」を求めて旅立ってゆくし、少女であれば『赤毛のアン』のように「あの丘を越えて馬車がやって来る。あの人が私を迎えに来るのね。白い花の道へ、風のふるさとへ、私を連れてゆくのね」と空想し胸をときめかす世界でもある

たしかに「外界」はこのようなイメージを我々に抱かせるが、しかしそこは同時に危険に満ち溢れた「死と隣り合わせの場所」でもあるのである。たとえば空想に浸ってぼーと通りを歩いていたら突然現れた車に轢かれてしまうかも知れない。ルンルン気分で階段をスキップしながら降りていたら足を踏み外して転げ落ちてしまうかも知れない。酔っ払っていい気分で千鳥足でホームを歩いていたらホームから転落して命を失うかも知れない。危険はまさに至るところに潜んでいるのである。それに対処するためにはしっかりした注意と配慮が必要なのであり、通りを渡るときは前後左右車が来ないか確認し、階段は慎重に足元を確認しつつ降り、駅のホームでは酔っ払って千鳥足で歩いてはならないのである。このような注意がなされないと「外界」ではたちまち死が押し寄せて来るのである

周りの人々も決して優しいだけの存在ではない。中には危険や死をもたらしてくる人間もいるのである。ヤクザや半グレにからまれてボコボコにされ死ぬような目に遭うかも知れない。強盗に襲われ金品や命まで奪われるかも知れない。女性であればいつ何どき痴漢や悪漢に襲われてレイプされるかも知れない。このような危険性は常に我々の周囲に渦巻いているのである。普段の日常生活にも至る所に危険が潜んでいる。上司に睨まれてリストラ候補に入れられそうになったら、これは背筋も凍るほどの恐怖である。取引先の機嫌を損ねることも恐怖であり、それを避けるためには薄氷を履むような思いでご機嫌を取らねばならない。またいつ何どき経済的クラッシュや大不況が襲って来て、職を失い生きる術を断たれてしまうかも知れない。さらには大地震が起きたり、大洪水が襲って来たり、北朝鮮のミサイルが飛んで来たり、ロシアや中国の軍隊が攻め寄せて来たりと、ありとあらゆる危険が現実に考えられる。これらすべては「外界」から押し寄せて来て「外界」がもたらしているのである。まさに「外界」は「死と隣り合わせ」の怖しい場所でもあるのだ

自然界で暮らしている動物などはまさに「死と隣り合わせ」の極限状況を生きている。彼らのほとんどはいつ何どき天敵に襲われ食べられてしまうか分からないのである。野良猫などはせっかく子供を産んでもいつ何どきカラスに奪われて食べられてしまうか分からない。大地を這う昆虫なども好き勝手に歩き回る人間の足によっていつ何どき踏み潰されてもおかしくないのである。幸い彼らは人間のように死を意識することはないから平気で暮らしているが、もし死をありありと意識できる人間がこのような極限状況で生きていたら、まさに毎日が死に直面する怖しい恐怖の日々となるだろう

「外界」が人間にとって死の象徴となる時刻がある。それは夜である。夜になると全てが暗闇に包まれ動きを止める。人間も万物も寝静まり、深い静寂が全てを支配する。このような夜に一人でいることは人間にとって耐え難い恐怖である。誰かがいてくれればいい。誰かの気配があればそこに生が感じ取れるのである。しかし誰もいない暗闇の夜には、そこに死がまざまざと感じられて、我々を圧倒するのだ。死や死者の気配が至るところに感じられ、我々を取り巻き、我々を恐怖させる。まるで「外界」がその本性をあらわして死の存在を我々に見せつけてくるようなものなのだ。夜は人間にとって死の存在をまざまざと実感させられる時刻でもあるのである

電子同人雑誌の可能性 259 「コンピュータの本質ー数学とは何か 6 」

2023-01-16 22:24:57 | 日本文学の革命
この「外界」の持つ重要な特徴の一つはそれが「量的存在」であることだ。厳密に把握でき計量化できるような量的特徴を持っているのである

目の前の小石を拾って見る。軽いながらも確かな重さを感じ取れるし、堅固で複雑な形状も観察できる。もっと大きな石を拾って見る。先程の小石よりも明らかに重たいし、より大きな形状をしていることが分かる。目の前の大きな木を触ってみる。堅くてゴツゴツしていて押しても引いてもビクともしない。相当な重量がありそうで倒れてきたら潰されそうだ。目の前の猫を抱いて見る。丸々と太った肉体がズシリと重い。柔らかくて暖かくて気持ちのいい感触もある。つぶさに観察すれば毛並みにしろ顔つきにしろその猫にしか見られない独特の形状も見て取れる。空を見上げてみる。何もない空間のようだが時おりどこからか風が吹き寄せてくる。空の高い方では鳥が飛んでいる。その姿の小ささからどのくらい遠くに飛んでいるのかその空間的距離を押し測ることもできるのである

周りにいる人々もまず第一に具体的な形状を持った「量的存在」として感じられる。デカい人間もいれば小さい人間もいる。惚れ惚れするような形状を持っている人間もいれば、そうでない残念な形の人間もいる。男のように堅くて粗雑でぶつかると痛い人間もいれば、女性のように柔らかくて繊細で触ると気持ちいい人間もいる。「外界」を観察しているときは我々はその埒外にいるような感覚になるが、もちろん我々自身もまた「量的存在」である。鏡を見たら嫌でも応でも我々自身のリアルな形状を見せられることになる。体重計に乗ったら「こんなはずじゃなかった!」と衝撃を受けるほど「量的存在」としての自分が厳密に計られてしまう。「外界」においては我々自身もまた厳密な「量」として存在しているのである(まれに幽霊のように「量的存在」を全く持っていないのに外界に現れてくるものがあるが、これは内界の世界が突如外界に闖入してきたようなもので、あり得ない現象として我々を驚愕させパニックに落とし入れる)

「外界」においては森羅万象は「量的存在」であるという特徴を持っているのだが、さらにはそこには何らかの「法則性」が存在している。規則正しく周期的に繰り返されるような普遍的な「法則性」が見て取れるのである

太陽は東から昇って西に沈むことを毎日飽きることもなく繰り返している。季節ごとに違うが厳密に同じ軌道を進んでゆくのであり、そこには確かに「法則性」が感じられる。月や星々も毎日厳密な軌道を描いて夜空を渡ってゆく。季節は春夏秋冬という順に規則正しく巡ってゆき、春の次にまた冬がやって来るということはあり得ない。動物や植物の活動にも「法則性」がある。暖かくなると花々が芽吹くし、寒くなると渡り鳥はどこかに飛び去ってしまう。サケは自分の生まれた川に必ず戻ってくるし、冬になると熊は眠くなり冬眠してしまう。人間においてもこのような「法則性」があり、例えば女性の月経は「29・5日」で周期的に繰り返されるし、男女の出生率は「105:100」という比率に支配されていて男性の方がちょっと多い(これは不衛生だったり無茶したり戦争に駆り出されたりして男性の方が死ぬ確率が高いからなのだろう)

現代の科学から見ればこのような「法則性」もそれほど絶対的なものではないかも知れない。太陽が登ったり沈んだりするのは地球がたまたま自転しているせいだし、四季があるのは自転する地軸がたまたま公転軸に対して傾いていたためである。地軸の傾き次第ではエヴァンゲリオンのように「いつも夏」の世界だって十分あり得るのだ。サケだってあまり乱獲したら生まれた川に戻って来なくなるし、温暖化が進んだら熊も冬眠しなくなるかも知れない。しかしそのような可変性を含めた上でやはり「法則性」はあるのであり、それは「外界」を成り立たせている重要な特徴の一つなのである


道は開けた

2023-01-10 11:43:06 | 日本文学の革命
この数ヶ月 実はずっとスランプに苦しんでいた。その直前は「さあ 行くぞ〜!」「一挙に成し遂げてしまうぞ〜!」と怒髪天を突く勢いで乗り出していったのだが、途端に泥沼にはまったのか、何か見えない障害にぶち当たったのか、どうにも書けなくなり、前へ進んで行けなくなってしまったのだ。苦心惨憺、絶望的な日々が続き、人知れずもがき苦しんでいたのである。正月にも何も書く気がせず、沈黙したままだった

しかしこのような苦しい行き詰まりに落ち入った時こそ、その後に大きく道が開けるという経験を何度もしてきたので、努力と足掻きは続けつつ、ひたすら忍耐していた

するとやはり道が開けたのである!まるで僕の「全人生の仕事」(人は死ぬ前に自分の「全人生」を走馬灯のように見るそうだが、それに近い)が目の前に具体的に現れたようなヴィジョンが開け、どこをどうすればいいのか手に取るように見えてきたのだ!

ここをこうすれば「日本文学の復活」を具体的に成し遂げることができる!それによって「奇跡のドア」もまさに開いてしまうことができる!『電子同人雑誌の可能性』や『こころと太平洋戦争』も最後まで書いてしまうことができるし、「電子同人雑誌の発行」もどうすればいいのか決定的なことが分かった!「新しい文学」もあと最後のひと押しで出来てしまう!これまで自分が書いてきたもの(本にすると13冊分くらい書いてきた)や苦労して学んできたものも今の自分を支えてくれている!まさに今この自分が果たすべき「全人生の仕事」を成し遂げてゆくことができるのである!
(「!」の連呼で恐縮だが、実際この通りのことが起きたのである)

道は大きく開けた。この道を今からどんどん進んでゆこう
有言実行。今度こそどんどん成し遂げてゆく覚悟である