ぼくはパリ時代はひるも夜も、ほとんど毎日、キャフェへ出かけていった。
一杯のコーヒーで何時間ねばっていてもいい。そういう店でコーヒーを飲んでいると、必ず、誰か友達がやってくる。
すると、お互いに「やあ」「やあ」と挨拶して話し合ったり、議論したりした。
火花が散るような、生き甲斐のようなものをずいぶん感じた。当時のぼくは二十歳そこそこで、若かったが、そのキャフェで世界の歴史に残るような思想家や芸術家と毎日のように出会い、対等に話し合った。それがぼくの青春時代の大きな糧になったことは確かだ。
マックス・エルンストやジャコメッティ、マン・レイ、アンリ・ミショーなどシュール系の画家や詩人、ソルボンヌの俊鋭な哲学徒だったアトラン、後に芸術批評の大家になったパトリック・ワルドベルグや、写真家のブラッサイなんかもモンパルナッスの「ル・ドーム」や「クーポール」で毎日顔をあわせる仲間だったし、カンディンスキー、モンドリアン、ドローネーなどと一週間おきに集まって、芸術論をたたかわせたのも、「クローズリー・デ・リラ」というキャフェだった。
十年以上のフランス生活はほんとうにキャフェとともにあったわけで、いちいち思い出を話すことはとても出来ない。
ぼくの一生を決定したともいえるジョルジュ・バタイユとの出会いも、考えてみればキャフェがきっかけだった。
いつものようにル・ドームでパトリック・ワルドベルグとお喋りしていると、マックス・エルンストがふらりとあらわれた。ぼくらの席に腰をおろした彼は、コーヒーを注文すると、ポケットから一枚のちらしを取り出してぼくの前に置いた。皿の上に切り落とされた豚の頭がのっている絵。いささか不吉な感じで目を惹いた。
「あさって、興味深い会合があるんだ。よかったら一緒に行かないか」
エルンストに誘われて、「コントラ・アタック」(反撃)の集会に参加したのは一九三六年の冬のことだ。
フランス国内の反動的な国粋主義右翼、また台頭してきたヒットラーやムッソリーニの全体主義、一方、ソ連のスターリン主義の強圧的な官僚制、それらの右も左もひっくるめた反動に激しく抗議する会合だった。
セーヌ川の河岸を入った細い通り、グラン・ゾーギュスタン街の古い建物。そこの屋根裏にアトリエ風のかなり大きなスペースがあった。ジャン・ルイ・バローの持ちもので、後にピカソがそこを使って、あの巨大な「ゲルニカ」を描いたところだ。
三、四十人ぐらい集まったろうか。尖鋭な知識人ばかり。アンドレ・ブルトンや、サド研究家として有名なモーリス・エイヌ等が人間の自由と革命を圧殺する全体主義を激しく非難する。やがてジョルジュ・バタイユの演説になった。
決してなめらかな話し方ではない。どもったり、つかえながら、しかし情熱がせきにぶつかり、それを乗り越えてほとばしり出るような激しさで、徹底的に論理を展開してゆく。
ぼくは素手で魂をひっつかまれたように感動した。
会は熱狂的にもりあがり、みんなの危機感、そして情熱がひとつになった。
解散するとき、司会者が緊迫した声で言った。
「みなさん、十分気をつけて帰って下さい。右翼が待ちぶせしていて、襲われるかもしれません」
暗いグラン・ゾーギュスタン街をモンパルナッスの方に向かって、エルンストと肩を並べて歩いた。一言も口をきかずに。
それ以来、ぼくはバタイユに対する共感をソルボンヌの仲間たちや、心の通う友だちに話さずにはいられなかった。彼の書いたものも貪るように読んだ。そのうち、いつの間にかぼくのことがバタイユに伝わったらしい。
「ぜひ会いたい」というバタイユのメッセージをもらって、ぼくは心躍る思いで指定の時間に出かけた。
今でも、よく覚えている。コメディ・フランセーズの前のカフェ・リュック。
あの古めかしい劇場の見える側の席で、彼は先に来て待っていた。最初からとてもうちとけた、心を許した雰囲気になった。ぼくはあの夜の感動を語った。
バタイユは「今日、すべての体制、状況が精神的にいかに空しくなっているか」とあの時と同じように熱っぽくトツトツと憤りをぶちまけた。そして、「体制に挑む決意をした者同士が結集しなければならない。力をあわせて、世界を変えるのだ。……われわれは癌のように、痛みを与えずに社会に侵入して、それをひっくりかえす。無痛の革命だ」
バタイユの眼は炎をふき出すように輝いていた。
その後ぼくはバタイユを中心に組織されたコレージュ・ド・ソシオロジー・デ・サクレ(神聖社会学研究会)のメンバーになり、表の討論に参加すると同時に、ごく限られた同志だけの秘密結社にも加わった。その第一歩がこのリュックでの、長い、突っ込んだ話し合いだったのだ。
あの頃、ヨーロッパの情勢はナチスの不気味な拡大、左翼人民戦線の結成など、世界大戦を予感させる緊迫した気配だった。
きらびやかに着飾ったマダム、落ち着いた紳士たち、キャフェのなかはシックで華やかだったけれど、外には不穏な遠雷がとどろき、次第に迫ってきていた。
今日の日本の、つるりと安心しきったような、みんなが自分のちっぽけな安逸だけにはまりきって、ほかのことは知らない、興味もないと言っている、こんな時代とは明らかに様相がちがう。
しかしどんな時代のどんな状況のなかにだって、熱っぽく語り合い、問題意識をわけあう仲間がいた方がいいに決まっている。
また、そういう渦ができるような場があったら、みんなの為にどんなにいいだろうと思う。