「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

すごいぞニッポン!メダルラッシュ

2021-07-31 12:17:09 | 日本文学の革命
23日の開会式からこっち次から次へと日本のメダルラッシュが続いている。毎日のようにニューヒーロー・ニューヒロインが現れ、手に汗握る熱戦、感動の物語が繰り広げられて、僕もテレビの前に釘付けになっている毎日だ

始まった当初はベテラン勢のまさかの敗戦が続き嫌なムードだったが、水泳の大橋悠依(どこにでもいるような「やさしい日本女性」といった感じの女性である)が金メダルを取り、阿部兄妹が見事でさわやかなダブル金を取ったあたりからムードが変わり、怒涛のメダルラッシュが始まった

柔道勢がとにかく強い。次々とメダルをもぎ取って来る。しかも余裕をかまして勝ってゆくというのではなく、世界からのもの凄い挑戦を受け止め、凄まじい死闘を演じながら勝ってゆくところがいい。毎日が感動の熱戦だ。

ソフトボールも感動の優勝をしたし、卓球では伊藤美誠の男女混合ペアが中国ペアを破り金メダルを獲得した(この「男女混合」は中国のウィークポイントなのかも知れない。もともと「男尊女卑」の国なので男女をペアにして戦わせてもうまく息が合わないのだろう)。体操では橋本大輝というニューヒーローが現れて金メダルを獲得した

今までまったく興味のなかったスポーツにも魅きつけられた。サーフィン競技などは今まで見たこともなかったし、千葉県のどこかで開かれるということは知っていて、台風が接近して大変になっているということも聞いていたが、それ以上の関心はなかった。ところが今回初めてこの競技を見て、そのド迫力とカッコ良さに目を見張った。サーフィンなんて波の上で危なっかしく腰をかがめている程度のスポーツと思っていたのに、寄せ来る荒波をダイナミックに乗りこなし、波の上をリズミカルにカッコ良く飛び跳ね、果ては空中で一回転したりと、実に凄いスピード感と躍動感にあふれていた。台風で波が荒れ狂っていたおかげでさらに一層迫力感があった。まさに自然と人間が格闘し一体化したスポーツである。五十嵐カノアの活躍もカッコ良かった


今の時点で金メダルの数が日本の五輪史上で一番になったそうである。開催前は開催すら危ぶまれて、「呪われた五輪」とすら言われた東京オリンピックだったが、フタを開けてみるとメダルと歓喜と感動のラッシュ。東京オリンピックは大成功になりそうである

あとちょっと小気味いいのが政治家たちをキレイに吹き飛ばしてしまったことである。森や小池たちは東京オリンピックを自分たちの「手柄」にしようとし、また権力を掌握しているのは彼らなのだから、どう転んでも彼らの「手柄」になるはずだったのに、森はあのように辞任してしまうし、小池も「呪われた五輪」と自分のイメージが重なるのを嫌がって五輪にも東京にも見切りをつけて古巣の自民党に戻ろうとした(この小池は「築地移転問題」などで自民党と対決していたが、実はあれは人気取りのためのパフォーマンスで、裏では自民党とつながっていたのである。かつて小泉首相の味方になり小泉首相を支えた東京、その東京を押さえ込むために自民党の旧勢力が送り込んだ「自民党の手先」、それがこの女の正体なのである)。その見切りをつけた矢先にオリンピックが大ブレイクしたのである。虚を突かれてしまい、今さら五輪の「顔」になることもできず、今後も「手柄」にすることなどできないだろう。こういう姑息な政治家たちなど吹き飛ばした形で、東京オリンピックは大盛り上がりしたのである

今回の東京オリンピックは、コロナの苦境を乗り越えて開催され、コロナに打ち勝ったオリンピックとして歴史に刻まれることだろう

東京オリンピックの開会式を見た

2021-07-24 11:31:00 | 日本文学の革命
コロナや不祥事続きで異例の盛り下がりの中、昨日23日東京オリンピックの開会式が開催された

実は僕もあまり関心がなくて、開会式の日にちもよく分からず、どういうわけか22日開会と思い込んでその日のテレビ欄を調べたのだが、どこにも開会式の番組がない。さては開会式も取りやめになったのかと一時思い込んだほどだ。しかしここはやはり国民としての義務で開会式を見よう、しかも録画やダイジェストではなく生放送で見ようと、昨日の夜は8時の開会式に合わせてビールやつまみをたっぷり用意して待機していた

正直あまり期待しないで見ていたのだが、見てみたら実に面白かった。コロナ下でもがんばり続けてきたアスリートたちの描写、コロナで亡くなった人たちへの鎮魂舞踊と黙禱、鮮やかなプロジェクションマッピング、真矢みきの粋な棟梁姿と大工たちのタップダンスと、見ている内にどんどん引きつけられてゆく

オリンピック開会式によくあるような壮大でド派手な演出だけでなく、ユーモアや茶目っ気もたっぷりあるところがいい。劇団ひとりによる東京のライトアップも面白かったし、競技のマークを次々と模してゆくパフォーマンスも実に面白かった。圧巻だったのは空中に突如現れた「市松模様」の巨大な光で、それが「地球」になってゆくところには目を見張った。これが数千ものドローンを動かすことによって出来ているというのだから、その高度なテクノロジー技術に「さすが日本!]と感心してしまう

聖火点灯式に長嶋茂雄が現われたのも感動的だった。最終ランナーが大坂なおみだったのも素敵な演出だった

そしてやはり良かったのが、世界のアスリートたちの入場行進だった。世界の実に様々な人々が集まって来ていると実感したし、何より選手たちの目がキラキラ輝いているのが素敵だった。彼らの活躍を応援したいという気持ちがこみあげて来る

東京オリンピックのテーマ曲は桑田佳祐の『東京VICTORY』になるのではないかと期待していたのだが、実際に開催されてみると嵐かコーネリアスか誰かの曲がテーマ曲になっていて、こちらはがっかりしたが、しかし代わりに桑田佳祐の『smile 晴れ渡る空のように』(実にいい曲である!)が準テーマ曲のようになっていて、これは嬉しく思った

シラケたまま失敗に終わるかと思った東京オリンピック
しかし昨日の開会式を見て、結構イケるかも知れないと思い返した
あとはアスリートたちの活躍次第で、大きく盛り上がった大会、コロナをはね返した意義ある大会として、歴史に刻まれるかも知れない

西洋合理主義文明の風刺

2021-07-20 12:27:06 | 日本文学の革命
『こころと太平洋戦争』の準備をしながらも、今から『電子同人雑誌の可能性』の書き残した部分「第4章 コンピュータの本質」を完成させてゆこう(その他にも「新しい文学」に挑戦したり、電子同人雑誌の発行活動に着手したりと、大忙しである。毎日たいへんであるが、しかし「すべてできる!」という明るいポジティブな確信があるので、がんばり続けることが苦にならない)

この第4章のテーマは「西洋合理主義文明の風刺」となる

現在コンピュータネットワークは世界中を覆い尽くさんとしており、人工知能AIの発展、ロボット技術の急速な進歩、コンピュータ官僚制の進展など、「西洋合理主義文明」は人間の生活や仕事や人生のあらゆる側面を飲み込もうとしている。実に巨大な潮流であるが、それをちょっとここで風刺したり、茶化したりしてやろうという訳である

もちろんこの潮流が人類に巨大な恩恵を与えていることは重々承知しているが、しかしこの世界は決して「合理主義」のみで出来ている訳ではないし、この潮流の先にコンピュータによる超監視社会や「合理主義」によって人間まで無用にしてゆく風潮や「優良種の合理主義的育成」(まさにかつてのヒトラー的な野望である)や「バカな奴らには子供を作らせない」という断種立法などが見え隠れしているし、人間の尊厳をなんだと思っているんだと文句の一つも言いたくなるものが感じられる。ここはひとつ誰かが風刺したり、茶化したりしてやらなければ、とも思うのである

風刺したり茶化したりしてやることは得意であるが、しかし相手があまりにも巨大過ぎる「西洋合理主義文明」である。内心ビビッているというのが正直なところである。しかし風刺というものは相手が巨大であればあるほど効果を発揮するのも確かだし、逃げ出したい気持ちを押さえてここはがんばって書いてゆこう

近日中にこの中断していた「コンピュータの本質」を再開して書いてゆこう


『こころと太平洋戦争』をバンバン書いてゆこう! 2

2021-07-17 11:57:20 | 日本文学の革命
第3章が「太平洋戦争」となる。これは実に長い章となるだろう

まず乃木大将の殉死事件を皮切りに乃木大将の人物について考察してゆく。そして乃木大将の人生を決定づけた「西南戦争」に入ってゆく(この「西南戦争」は『こころ』では先生の人生を決定づけた「Kの自殺」に相当するものである)―次いで西南戦争を引き起こした明治初期の西郷派と文明開化派の激闘を描いてゆく。西郷はいったい何をしようとしたのかが中心テーマとなる―西郷派が滅ぼされたあと明治末年に至るまで文明開化派の時代となるが、この「文明開化(僕の言葉でいえば「外国主義」)」とはいったい何なのか、それを日本の歴史を通して論じてゆこうと思っている―次いで大正時代に入ると文明開化政策が破綻してしまい、日本に破滅的な危機が訪れたことを描いてゆく。そしてまさにその時に「西郷の構想」が力強く蘇ったのである。この「西郷の構想」が蘇る、その始まりの契機となったものこそが「乃木大将の殉死」なのであった―蘇った「西郷の構想」は時代の潮流を次々と統合して成長してゆき、かつて自分たちを滅ぼした文明開化派をも駆逐して滅ぼしてゆく。そしてついに日本国の主導権を握って戦争へと突き進んでゆくのである―しかしその「西郷の構想」にも致命的な欠陥があり、日本は「太平洋戦争」という破滅を迎えるのである…

以上のようなことを書いてゆく実に長い章となるが、全体として「二つの世界」の分裂・抗争、お互い同士の滅ぼし合いこそが太平洋戦争の破滅の真の原因であるという論述で描いてゆこうと思っている。「二つの世界」―公家と武士、京都と江戸・東京、日本の女性性と日本の男性性、そして文明開化派と西郷派、この「二つの世界」の分裂・抗争、相互の滅ぼし合いこそが戦前の日本を破滅させたのである

第4章で再び『こころ』に戻って「下」に当たる「先生と遺書」を論じてゆく。『こころ』という小説はこの先生の「殉死」を描くために書かれたものなのである

では先生とは何者なのか、何のために「殉死」したのか。それは「二つの世界」を融合させるためなのである。相対立する「二つの世界」を二つながら自分の中に抱え、それを融合させようとしていた存在、それが先生なのである。しかしこの分裂・抗争は深刻なものであり、先生もまた融合させることはできず、自分の中に抱えていただけなのであった。それは先生の人格にも深刻な分裂状態をもたらし、彼は相対立する二つの力に引き裂かれて「磔つけ状態」に落ち入り、「何もできない」人生を送ることになったのである。しかし彼はそれでも相対立する「二つの世界」を自分の中に抱え続け、それを終生手放さなかったのである。そして明治の終わりに際して自分が殉死することによって、この「二つの世界」の融合という課題を弟子となった「私」に(それは『こころ』という小説を読むすべての人にと言ってもいい)託すのである

先生の殉死は「二つの世界」を融合させるために行われたものであり、日本の女性性と日本の男性性を融合させる「愛の実現」を目指していたのだ。乃木大将の殉死は太平洋戦争の破滅をもたらしたが、先生の殉死はそれに対する「もう一つの道」であり、日本が本来歩むべきだった未来へ通じる創造的な道なのである

最後に深刻なまでに分裂し、抗争し合い、滅ぼし合っているこの「二つの世界」を融合させ得る新しい魂「則天去私」について述べて、この評論を終わろうと思う

これもまた長い評論になりそうだが、何もないところから作らなければならなかった『電子同人雑誌の可能性』と比べれば、いいテンポでバンバン書いてゆけそうである。これは日本文学の本質の一つを描くものとなるので、「日本文学の復活」にも大きく寄与できそうである

この『こころと太平洋戦争』は日本人の「運命悲劇」を描くものとなるので、『電子』のようなユーモア満載の喜劇的文章で書く訳にはいかないが、しかし精神的にはやはり思いっ切り楽しく書いてゆきたい。その方が自然な文章が出て来るからである

これからも困難な戦いが続くが、「道を楽しみ」ながらひたすらがんばってゆこう


『こころと太平洋戦争』をバンバン書いてゆこう! 1

2021-07-17 11:51:01 | 日本文学の革命
いろいろ紆余曲折があったが、これから『こころと太平洋戦争』の完成に至るまで次から次へとテンポ良く書いてゆけそうである。もう僕の中ではこれから書いてゆくものが十分に育っている。あとはこれを自由な筆使いで取り出してゆけばいいだけなのだ

まず『電子同人雑誌の可能性』の残りの部分、第4章「コンピュータの本質」と第3章「戦後の賞取りシステム」を一挙に書いてしまう。思いっきり楽しく、ユーモア満載の文章で書いてしまおう

次いでいよいよ『こころと太平洋戦争』に取りかかる。まず第1章が夏目漱石の『こころ』の「上」に当たる「先生と私」である。「先生」という謎のような人物と彼に魅かれ彼の弟子のような存在になってゆく大学生が描かれているところである。島田雅彦などはこの「先生」と「私」の関係を「ホモ関係」と邪推して漱石の『こころ』を汚しているが、実はそんなことはなく形式に縛られない分より「純粋な」師弟関係の成立の物語として論じてゆく

第2章が『こころ』の「中」に当たる「両親と私」の評論である。これは東京から一時的に故郷に帰省した「私」が、病気に倒れ死んでゆく父親を看取ってゆくひと夏を描いたものだが、ここで描かれているものは実は「明治の終焉」である。死んでゆく父は死んでゆく明治天皇と重なっているのである。そしてそのクライマックスで「乃木大将の殉死事件」という当時の日本を震撼させた大事件が起こる。まさにこれこそが『こころ』という小説の“鍵”となるもので、漱石の『こころ』はこの「乃木大将の殉死事件」に影響されて書かれたものであり、後述する「先生の殉死」は乃木大将の殉死に対抗する「もう一つの殉死」なのである


両面宿儺と桑田佳祐 4

2021-07-13 12:58:21 | 日本文学の革命
ではこの「呪い」をかけたのは誰だろう

もちろんそれは宮崎駿でも桑田佳祐でもなくて、押しなべてかけられた側の「東京」の人間ではない。この「呪い」を東京にかけた者こそ「京都文明」なのである。「京都文明」こそが東京に「呪い」をかけ、呪術的に「封印」している本体なのである(まさにこの「呪い」の主要な手段こそが外国主義なのである)

ただ「呪い」をかけたと言っても誰かが意図的にかけたというものではなくて、ほとんど運命といってもいいものである

日本は明治以降否応なしに開国を迫られ、もうそれ以前のように閉鎖された島国的環境の中で生きてはいけなくなった。どうしても外に出ていかなければならない。外の世界の現実と向き合い、その世界とリアルに渡り合ってゆかなければならない。もう母なる「京都文明」の腕の中で幼い子供のように安らっていることはできないのである

しかし「京都文明」の方では子供たちを手離そうとはしたがらない。昔ながらの手法で子供たちをしっかりと抱え込み、子供たちを母の胸の中に閉じ込めようとしてくる。そして子供たちにこうささやく。「おんもは怖いのよ。おんもに出たら生きてゆけないのよ。さあ私の腕の中で安らぎなさい。素敵な夢を見せてあげましょう」

しかし現実には島国的環境は破壊され、日本人の安らぎだった日本の自然もどんどん失われてゆき、日本人はもう昔のようには生きてゆけないのである。どうしても母の元を離れ、「外に」出てゆかなければならない。しかし母の方ではそれを許そうとせず、強力な魔術を駆使して子供たちを閉じ込めようとしてくる。出ようとしても出れない。出ようとすること自体がすさまじい恐怖である。これが「引きこもり」や「対人恐怖症」という現代日本の病理を生み出しているのであり、日本人を深刻なジレンマに落し入れている「呪い」となっているのである

『呪術廻戦』では桑田佳祐を「呪いの王」にしたがっているが、実際にはこの「呪い」は京都文明がもたらしているのである。京都文明は現実も理非もわきまえずに「愚かな美人」(漱石の『虞美人草』という作品のタイトルの真の意味)のようになって、もっとも疑わしい敵である東京に「呪い」をかけ続けているのだ。桑田佳祐や宮崎駿はこの「呪い」から日本人を解放するために命を賭けて闘っているのである

その意味で『呪術廻戦』は一つの「まがい物」である。自分のやっていることを他人になすりつけるための「嘘」だと言ってもいいだろう

僕の大切な仲間であり戦友である桑田佳祐のために、それをここで明言しておきたい

両面宿儺と桑田佳祐 3

2021-07-13 12:55:16 | 日本文学の革命
このように『呪術廻戦』は「呪い」や「呪いからの解放」をテーマとしているアニメなのだが、同じように「呪いからの解放」を自分の作品の主要テーマにしている偉大なアニメーターがいる。それは宮崎駿である

彼の作品では繰り返し繰り返し「呪いからの解放」が主要なテーマとなっている
『紅の豚』は何かの「呪い」にかかって豚にされた飛行機乗りが主人公になっているし、『もののけ姫』では死に至る「呪い」をかけられたアシタカが「呪い」から解放される術を見い出すために西方に旅立つところから物語が始まる。『千と千尋の神隠し』では千尋の両親が「呪い」で豚に変えられてしまうし、千尋自身も名前を奪われてしまう。『ハウルの動く城』では主人公のソフィーが魔女の魔法によって90歳のお婆さんに変えられてしまい、そこから解放されるかどうかが物語の主筋になっている

このように宮崎アニメの多くが「呪いからの解放」を主要テーマにしているのである。なぜ彼はこれほどまで繰り返して「呪い」をテーマにしなければならなかったのか。それは「呪い」が実在しているからである。彼自身にも、彼の周囲の人々にも、社会にも、この世界全体にも、「呪い」がかかっていると彼が自覚しているからである。だからこそ彼は「呪い」と「呪いからの解放」を繰り返し自分の作品の中で問わなければならなかったのである

宮崎アニメの代表作の一つ『風の谷のナウシカ』も「呪い」とそこからの解放を主要テーマにしている。『ナウシカ』の舞台となっているのは「腐海」という汚れ切った世界である。人々を死に至らせる臭気が渦巻いている世界であり、町や村を次々と飲み込んで拡大してゆき、人々を滅ぼそうとしている恐るべき世界である。その中では奇怪な虫たちが跳梁跋扈し、人間を圧倒して支配していて、オームと呼ばれる巨大な虫の王まで生息している。まさに「腐海」とは「呪われた世界」だと言ってもいいだろう

しかし「腐海」はマイナスだけではなく、計り知れないプラスの面も持っている。ナウシカが発見したように「腐海」は汚染された世界を浄化しているのである。「腐海」の地下深くには「清らかな世界」が蔵されているのである。ナウシカの言葉にあるように「虫たちは世界を守っている」のである

この「腐海」という奇妙な世界を宮崎駿はどこからイメージしたのだろう。それは実は「東京」なのである。「東京」こそが呪いをかけられた「呪われた世界」であり、まさに実在する「呪い」が存在する場所であり、だからこそそこからの「解放」が宮崎駿の終生のテーマとなったのである


両面宿儺と桑田佳祐 2

2021-07-13 12:52:37 | 日本文学の革命
『鬼滅の刃』では登場してくる鬼たちは「鬼舞辻無惨」の様々な側面(たとえば「永遠の少年的性格」「女食いの好色」「吉原遊郭」厭夢の「外国主義」など)を体現して登場してくるのであるが、『呪術廻戦』に登場してくる呪霊どもにも「両面宿儺」つまり「桑田佳祐」の様々な側面が体現されていそうである

まず「真人」であるが、継ぎはぎだらけの人造人間みたいな男であり、「魂」「魂」と言いながらどこにも真の「魂」など持ち合わせていないような変態である。それでいて人間たちを片っ端から呪霊に変えてしまうことは得意である。これには桑田佳祐に対するツラ当てが―お前に京都の古典文化のようなまどかで自然な本当の「魂」があるのかという―込められているのだろう。たしかにこれは痛いところを突いたのであり、桑田佳祐も新しい日本の「魂」を心の底から求めているのだが、現状は得ていないのである

次に頭から火を吹き出す一つ目の呪霊だが、コイツがレストランで次々と人々を火だるまにしている場面で気づいたことがある。コイツはあの「京アニ事件」―京都アニメーションを放火して多数の人々を焼き殺したあの事件―を体現しているのではないか。そこにあるのは残酷で自分勝手な憎しみである。しかも「京都」に向けられた憎しみである

次に「ハナミ」という枯れ木が目に突き刺さった女性の化け物だが、これには皮肉的に「花見」がかけられているのだろう。豊かな自然を失った東京、そこで暮らす自然から断ち切られた哀れな人々、その虚しさが皮肉的に呪霊と化したのがこの化け物なのだろう

次に仏教の僧服を着た男が出てくる。裏で様々な策を弄してくる狡猾な男なのだが、この男には文字通り「仏教」が体現されているのだろう。歴史的に仏教は、しばしば東国の武士たちと組んで京都文明に挑戦してきたのであり、京都文明にとっては手ごわいライバルであり、いまいましい存在だったのである

最後に気色悪いタコの化け物も出て来る。物語の中でなんにもしないヤツで、ただプカプカと海に浮いているだけで、なんのためにいるのかも分からない存在である。ただ「海」ということで気づいたことがある。「海」といえば桑田佳祐のサザンである。茅ヶ崎の湘南ビーチとサザンはまさにかぶっていて、真夏のビーチといえば真っ先にサザンの曲が浮かぶくらいだ。このタコはそういうサザンの「海」を体現しているのだ。ただ「海」といえば誰しも美しさや爽快感を感じるものだが、「海」でありながらそういう爽快感を覚えさせないために、こんな気色悪いキャラを作り出したのだろう

『鬼滅の刃』では「鬼舞辻無惨」の様々な側面を体現した鬼たちを倒してゆき、最後に「鬼舞辻無惨」を討ち取るという物語構成になっているが、『呪術廻戦』でも同じ構成を取るのだろう。「両面宿儺」=「桑田佳祐」の様々な側面を体現した呪霊どもを倒してゆき、最後に「宿儺」そのものに迫るのである

最終決戦では五条悟や東京や京都の呪術高専の仲間たちが、総がかりで「宿儺」と戦うのだろう。そしてその際決定的役割を演じるのが「宿儺」と一体化しているこのアニメの主人公「いたどり」なのだろう。彼は「正しい死に方」を志して自分に受肉している「宿儺」を道連れに死を選ぶかも知れない。彼の尊い死のおかげで「宿儺」は滅び、世界は呪いから解放されるのである。それは「宿儺」とダブらされている「桑田佳祐」を葬ることでもあり、「桑田佳祐」に頭を押さえられてきた反桑田佳祐派の人間たちは、ついに忌々しい呪いから解放されたと歓喜に浸ることだろう


両面宿儺と桑田佳祐 1

2021-07-13 12:50:02 | 日本文学の革命
現在大ヒットしている『呪術廻戦』であるが、ちょっと看過できないことに気づいたので、ここで書いておこう

このアニメで悪役として登場してくる「両面宿儺(りょうめんすくな)」という名のキャラクターがいる。最強の呪いの持ち主であり、「呪いの王」とも称されていて、『鬼滅の刃』における「鬼舞辻無惨」に相当するキャラクターである。この「両面宿儺」が実は「桑田佳祐」を狙って作られたキャラクターらしいのだ

森鷗外の短編小説に『追儺』というものがあるが、これは「節分」を難しく言った言葉で、「鬼を追い払う」という意味である。つまり「儺」という誰も使わないような意味不明な漢字は「鬼や呪霊」を意味するらしい。これが「宿」つまり宿るのだから「宿儺」とは「自分の中に宿っている鬼」という意味になるのだろう

アニメの中ではこの「両面宿儺」は平安時代呪術全盛の時代に猛威を振るったそうで、どんな呪術師も彼にはかなわなかったそうである。それがどういう訳か封印を受けて現代に至り、主人公の青年に受肉することによって一千年ぶりに蘇って、眼下に広がる現代世界を支配せんとして舌なめずりするのである(第一話のこの辺はなんだか京都の町を見おろして「この町をおれのものにしてやるぞ!」と誓った平将門を思わせるものがある)

この『呪術廻戦』は反桑田佳祐派を取り込むために作られたアニメだと書いたが、実はこの「宿儺」に「桑田佳祐」をダブらせたいらしいのだ

桑田佳祐も現代「最強」のミュージシャンであることは確かだし、また桑田佳祐が嫌いな人間たちから見たら嫌で嫌でたまらない「呪いの王」としか映らないだろう。また第一話で初めて呪霊たちが出てくるのであるが、その第一声が「今何時ですか〜」という言葉である。この「今何時」という言葉でただちに思い浮かぶのが桑田佳祐のデヴュー曲『勝手にシンドバット』の中の有名なフレーズであり、つまりこの呪霊どもは「桑田佳祐」とダブっているのである。呪霊どもがダブっているのなら、その呪霊どもの最高の王である「両面宿儺」も「桑田佳祐」とダブっていておかしくない