「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

「準備完了!♪ あとは実行あるのみ」

2019-01-20 10:38:06 | 日本文学の革命
しばらく投稿してなかったが、この間は「奇跡のドア」を押し開けるための実行手順を考えていた。
社会で働いている人なら誰しも痛感しているだろうが、この実行手順というものは重要なもので、これをうまく築かないと出来るものも出来なくなってしまう。大雑把なものではダメだし、複雑過ぎてもうまく行かない。やたら頑張りすぎてすぐに疲れ切ってしまうのはダメだし(継続性が大事なのである!)、かといって余裕があり過ぎてだらけてしまっては論外である。毎日毎時間を無駄なくしっかりと有効利用しつつ、余裕やリフレッシュも与えて、毎日毎日着実に前進してゆけるものでなければならない。

「奇跡のドア」を押し開けることは、たしかに複雑で難しい難工事である。どこかに偏ったり、どこかに手抜きがあったりしてはいけないし、複雑な工程を同時並行的に進めて行かなければならない。だからこそ実行手順もしっかりと組み立てる必要があるのだ。

正月からこっち努力してきたおかげで、実行手順の方も整って満足のゆくものができた。あとは実行あるのみ!

キリスト教徒ならこういう際には「どうか神のご加護を」と祈るところだろうが、別に祈れる神もいないことだし、次の言葉を掲げておこう。これは漱石の『野分』という小説で漱石自身をモデルとしたような「道也先生」が語るセリフで、暗唱できるほど覚え込んでいる言葉である。

「私は名前なんて当てにならないものはどうでもいい。ただ自分の満足を得る為に世の為に働くのです。結果は悪名になろうと臭名になろうと気違いになろうと仕方がない。ただこう働かなくっては満足できないから働くのです。こう働かなくっては満足できないところをもって見ると、これが私の道に相違ない。人間は道の動物だから、道に従うのが最も尊いのだろうと思っています」

『風の谷のナウシカ』 2

2019-01-06 13:41:45 | 日本文学の革命
この『風の谷のナウシカ』は宮崎駿が久しぶりに作った映画ということで、期待していたものであった。その前の彼の作品『カリオストロの城』は仙台の映画館で見た。僕の前の席に若いカップルがいたのだが(若いといっても当時の僕にとっては遥かに年上だったが)当時アニメはまだバカにされていて、男性の方はなんで俺がアニメなんか見なきゃならないんだよという態度で「ほら、あの木。落ちるぞ、落ちるぞ、ほーら落ちた」と茶化していたが、対照的に女の人の方は前かがみになって熱心に見ており、男性が茶化そうものなら黙れと言わんばかりに「シーッ!」と言って、夢中になって見ていた。僕もこの映画に深く感動して、「クラリス姫」は当時の僕のアイドルになった程だった。

ただこの映画は興業的には失敗して、宮崎駿はその後長い間映画を作らせてもらえなくなった。映画が作れないので、仕方なく彼が始めたのが『風の谷のナウシカ』という漫画を書くことだった。アニメ雑誌で連載していたのだが、僕も欠かさず読んでいた。当時『機動戦士ガンダム』でアニメ界をリードしていた富野喜幸は「宮崎駿にアニメを作らせない映画界はどうかしている」と批判していたが、全く同感だった。そんな宮崎駿が徳間書店に助けられて久しぶりに作りあげたのが、この今でも色あせない名作『風の谷のナウシカ』だったのである。

長い年月の間この『風の谷のナウシカ』を繰り返し見てきて、気づいたことがある。この物語に出て来る「腐海」―すさまじい臭気と毒気を発し、奇怪で恐ろしい虫たちが徘徊し、人間にはとても住めない世界。人間を覆い、飲み込み、滅ぼそうとしてくる世界―この「腐海」のモデルとなったのは「東京」のようなのである。
もちろんこの「腐海」と「東京」とは似ても似つかないものである。東京は日本の首都であり、繁栄した大都会であり、オシャレなものに満ちたモダンシティーでもある。「腐海」のモデルになったとは到底思えない都市である。しかし宮崎駿のような深い洞察力を持った目から見たら、その実態は「腐海」と変わらないように見えるのかも知れない。

『エヴァンゲリオン』の庵野秀明も「腐海」を「東京」と同一視している一人である。彼は『巨神兵 東京に現る』(たしかそんなタイトルだったが)というショートムービーで、突如東京上空に現われた巨神兵が東京の街を焼き尽くすという映画を作っている。『風の谷のナウシカ』でトルメキア軍のクシャーナが巨神兵を復活させて「腐海」を焼き払おうとした行為に似ている。『シン・ゴジラ』も同じ趣旨の内容で、やはり突如東京に現われたゴジラが東京の街を破壊してゆくという内容になっている。ただこの場合は部分的なものであり、全部焼き尽くす前に凍結されてしまったのであるが。しかしそこには東京がいつまでも自分の使命を果たさないのなら、いつでも蘇って今度こそ焼き尽くしてしまうぞ!という脅しも感じられるのである(庵野の代表作『エヴァンゲリオン』も実は「東京」をテーマにしているのである)。

ただ「腐海」と言っても、単に腐った世界という意味だけではない。「腐海」の底には清らかな浄化された世界もあるのだ。「巨大産業文明」によってメチャメチャにされた大地をひそかに浄化しているのが「腐海」なのである。失われた人間と大地との絆を再び取り戻そうとしているのが「腐海」なのである。虫たちは「腐海」を守ることによって「世界を守っている」のである。
『風の谷のナウシカ』のラストで浄化された「腐海」の光景、人間と虫たちが共存する姿が描かれているが、そのようなユートピアも可能性として存しているのがこの「腐海」という世界なのである。

『風の谷のナウシカ』は、今でも色あせないどころか、今でもそしてこれからも重要になってゆく問題性を抱えた名作アニメといっていいだろう。

『風の谷のナウシカ』 1

2019-01-06 13:35:47 | 日本文学の革命
一昨日の夜たまたまテレビ欄を見ていたら『風の谷のナウシカ』が放映されることを知った。もう何十回も見ているアニメなので、見ようかどうしようか迷ったが、やはり見ることにした。見てみるともう何十年も前のアニメなのに、やはり面白いのである。全然色あせてないし、変わらずに心に響いてくる。まさに名作である。

『風の谷のナウシカ』を初めて見たのはまだ僕が高校生のとき、旅で訪れた鹿児島市の映画館でだった。春休みに行った旅だったのだが、北九州から鹿児島の南端まで歩いて九州を縦断するという旅だった。一人旅であり、しかも寝袋を抱えて野宿を繰り返しながら歩いてゆく旅である(少年の頃の僕は、自転車で東日本を一周したり、吹雪が吹きすさぶ正月の日本海を歩いて旅したりと、そんなことばかりしていた)。

当時住んでいた仙台からフェリーに乗って名古屋まで行き、そこから延々と北九州まで列車で旅をした。京都や大阪を初めて訪れたのもこの時である。広島で一泊したときは映画館でアニメ映画『うる星やつら ビューティフルドリーマー』を見て、そのあまりの素晴らしさに感動してしまい、文字通り夢見心地で映画館を出たのを覚えている。
北九州に着くとさっそく歩いて縦断を開始した。北九州の田園地帯を歩いていると、何か古代めいた神話めいた気配を感じたのを今でも覚えている。ハッと気がつくと、道のすぐ横に古墳があったりしたり。北九州のどこかの山道で、人が掘り抜いたというトンネルを訪れたことも鮮明に覚えている。毎年何人もの人々が足を滑らせて死んでゆくという崖沿いの危険な道を避けるために掘られたものだが、これを掘ったのはたまたまそこを訪れた旅の坊さんで、彼は村人の難儀を知るとたった一人で鑿と槌を振るって何十年もかけてこのトンネルを掘り抜いたのである。見事なトンネルと今も残る鑿の跡を感心しながら見たものだった。

九州山地も歩いて縦断しようとしたのだが、春3月の九州だから大丈夫だろうと思っていたら、たいへんな雪と寒さで、これは無理だと諦めて九州山地は電車で通った。それから阿蘇に行き360度広がるカルデラの絶景に感動した。熊本市を通り、実に美しい海岸沿いに鹿児島に南下して行った。桜島にも渡ったが、そこで野宿したところ朝目覚めたら寝袋が桜島の灰で真っ白になっていた。溶岩で埋まって頭だけ出ている鳥居にもビックリした。鹿児島のとある小さな駅で野宿していたところ、その駅に集まって来た鹿児島のお婆ちゃんたちの会話が全く分からなかったことにもビックリした。それから大隅半島を歩いてゆき、本州最南端の岬まで到達した。ここも実に美しい絶景だった。それから宮崎を海岸沿いに上がってゆき宮崎市でフェリーに乗って帰っていったのである。

この旅の途中鹿児島市の小さな映画館で見たのが『風の谷のナウシカ』であった。小さな映画館は人であふれ、僕も立ち見で見たのだが、広島で見た『ビューティフルドリーマー』に優るとも劣らないほどの感動をこのアニメから与えられた。九州の自然を歩きながら、ともすればそれが『風の谷のナウシカ』で描かれた美しい自然と重なって見え、ああいう体験ができたら素晴らしいだろうなあと思いながら旅したものだった。

「奇跡のドア」を開く年 4

2019-01-02 07:14:48 | 日本文学の革命
桑田佳祐の歌に『明日晴れるかな』というものがある。これはその数年前の歌『東京』と対になっている歌で、『東京』で冷たい雨に覆われた絶望的な世界を歌ったあと、今度は雨が止み晴れ間が広がるという期待と希望の世界を歌ったものである。「奇跡のドア」とはこの『明日晴れるかな』に出て来る「奇跡のドアを開けるのは誰」というフレーズで使われている言葉である。なぜ彼が「奇跡」なんて言葉を使ったかというと、「開くことができたらまさに奇跡みたいなドア」という意味合いで使ったのだろう。
この「奇跡のドア」という言葉は、目標を志向し力を集中するのに便利なので、僕も愛用している言葉である。

桑田佳祐が歌で歌っているように、この「奇跡のドア」はまだ開かれていないのである。桑田佳祐自身も開けずにいるし、宮崎駿のような偉大な人物にもやはり開けていないのである。まさに「開くことができたら奇跡みたいなドア」である。
しかしこの「ドア」が開けないと、この運動は結局はつぶされてしまうのである。どんなにマスコミ的に活躍しようが、CDが何百万枚売れようが、結局は未発に終わり、未完成に終わってしまうのである。

桑田佳祐たちミュージシャンたちが外国主義の打ち壊しに立ち上がり、華々しく活躍していた当時、心に誓ったことがある。華々しい活躍は彼らにまかせて、自分は「奇跡のドア」という根源的なものを押し開くために尽力しよう。ここを開かないといずれはこの運動もつぶされるし、またマスコミにもみくちゃにされないで済む自分はここにすべての力を集中させることができる。そしてなによりこの「奇跡のドア」を開く力を持っているのは日本文学であるからだ。

実は戦前の日本文学もこの「奇跡のドア」を開くために力を尽くしてきたのである。夏目漱石をはじめとする日本文学者たちはこの「ドア」を9割方押し開けることに成功しているのである。あと1割、なんとかすれば「奇跡のドア」が開けるのである!

そう誓って、現在まで長い間努力を重ねてきた。ほとんどの人々が正社員になって経済的に豊かに暮らしているのに、僕はといえば安月給でしかも数年で首を切られるバイト生活を続け、貧窮に甘んじた暮らしをしている。実は正社員は僕が一番なりたくない職業なのである。正社員になった途端、会社にほとんどの時間を奪われ、仕事や雑務で頭を一杯にされ、心からの献身まで強要されて、とてもじゃないが文学の仕事ができなくなるからである。こんな境遇にいるから、社会からはバカアホ無能扱いされ、女性からは振られ続け、会社からは散々に首にされ続けて、長い年月の間実にひどい目に会い続けてきた。そんな中支えになってくれたのが、桑田佳祐たちの活躍であり、彼らが歌う励ましに満ちた歌であった。彼らが戦い続けてくれたからこそ、僕も自分の戦いを戦い続けることができたのである。

そして今、ついに「奇跡のドア」を開く時が来た!
どこをどう開けばいいか、十分に分かっているし、開くための実力も十分に貯えている。
「奇跡のドア」はもう開ける
そう確言してもいいだろう

今年こそ「奇跡のドア」を開く年にしよう!

「奇跡のドア」を開く年 3

2019-01-02 07:11:11 | 日本文学の革命
そのようにして街頭活動をして半年ほど経った12月のある日、いつものようにプラカードを掲げて渋谷の街を練り歩いているとき、たしか旧パルコ前の通りだったと思うが、道路沿いの壁にそって桑田佳祐のポスターが何十枚もズラーと貼られているのを目にした。まさにこれでもかと言わんばかりの貼られようで、今までこんなポスターを見たことがなかったので驚いてしまった。桑田佳祐には92年頃から注目していた。『エロティカセブン』や『真夜中のダンディー』などに深く感銘していた。それ以前の桑田佳祐やサザンは、正直言ってコミックバンドの一種と見なしていたので(今ではサザンは「国民的バンド」という揺るぎない評価を与えられているが、当時は調子のいい歌ばかり作るコミックバンドと見なす人が多かったのである。今の「女々しくて、女々しくて、女々しくて」とやっているバンドと同じような扱いだったのである)ほとんど何の関心もなかったが、この頃になると「今一番いいミュージシャンは桑田佳祐だ」と周囲の友人に言うようになっていた。
そのポスターは桑田佳祐のニューアルバム『孤独の太陽』を宣伝するものだった。このアルバムこそが決定的な作用をもたらしたのである。このアルバムの中で桑田は、外国文明の物真似をいい気になってやっている人間たちを「猿」扱いして(自分も含めて!)強烈に批判したのである。当時まだ外国主義は絶対的なものであり、それをしている人間は日本人から「カッコいい」と見なされて尊敬されていたのである。それを真っ向から批判したこのアルバムは、当時の日本社会に巨大な衝撃を与えて、まさに時代を動かすものとなったのである。

僕もこのアルバムを聴いた時は「仲間が現われた!」と飛びあがらんばかりに喜んだものだった。また桑田佳祐に続くように様々なミュージシャンたちも同時並行的に立ち上がってくれた。奥田民夫、石井竜也(当時作られた彼の映画『河童』には深く感動して三回も映画館に見に行った)、ミスターチルドレン、パフィー、井上陽水、そしてなんといっても中島みゆき、芸能界ではスマップ(スマップが国民的スターになれたのはこの運動の波に乗ったからである)、アニメの世界では宮崎駿、と多くの人々が立ちあがってくれて、同じ思いを持つ人々がいてくれるものだと僕を深く感動させた。桑田佳祐をはじめこれらの人々が勇気をもって立ち上がってくれたおかげで、この運動は巨大なうねりとなったのである。

しかし外国主義に反旗を翻すことは、いわば日本の“根源的なもの”に反旗を翻すことでもあるのだ。当然巨大な反動も起こってくる。桑田佳祐が『孤独の太陽』を発表するや否や、ただちに反動の方も起こってきた。「桑田をつぶせ!」とばかりに四方八方から次々と強敵が桑田佳祐に襲いかかってきたのである。長淵剛を皮切りに、小室哲也とそのファミリー、安室奈美恵、浜崎あゆみ、椎名林檎、宇多田ヒカル、Cocco、元ちとせ、現在のAKB48に至るまで(長い歳月の間にはかつて敵だった彼らもいつの間にか桑田佳祐に靡いて、中には桑田佳祐に惚れてしまった者もいるが)様々な強敵が次から次へと襲いかかってきて、何度も絶対絶命の境地まで桑田佳祐を追いつめた。まさに手に汗握る壮大なバトルが繰り広げられたのである。しかし桑田佳祐にはまったく頭が下がるが、これほどメタメタにやられ続けてきたのに、結局そのすべてを撃退し、返り討ちにしてしまったのである!まさに英雄であり、スーパースターである。
彼の死に物狂いの戦いによって、戦後の外国主義は打ち壊されたのである(ただ外国主義自体は歴史の中で何度でも蘇ってくるものだが。何度頭を切り落とされてもあとからあとから生えてくる神話の中の怪物のように)。日本を襲おうとしていた危機は、彼によってひとまず回避されたのである。

この平成時代に繰り広げられた文化的大バトルは、とてもここでは書き尽くせない。詳しく書いていたら一冊の大きな本になってしまうだろう。しかしこれこそが平成時代を代表する文化運動となったのだから、「奇跡のドア」を押し開け、その向こうを十分に開拓し、それでもまだ余生が残っているようであったら、いつか書くかも知れない。

「奇跡のドア」を開く年 2

2019-01-02 07:07:03 | 日本文学の革命
僕と桑田佳祐は同じ戦いを戦ってきた同志であり、また僕にとって桑田佳祐はどれだけ助けられ励まされ続けたか分からないほどの恩人である。

僕がこの戦い―「反外国主義運動」と僕は呼んでいる―を開始したのは、94年の夏である。たった一人で始めた運動だったのだが、その時の僕はたいへんな情熱と使命感にあふれていた。「なんとしても今ここで戦後の外国主義を打ち壊さなければならない!」という燃えあがらんばかりの情熱と使命感にあふれていたのである。よくスポ根もので肩や首周りからメラメラと炎が燃えあがっている姿が描かれるが、当時の僕もそれに近い状態だったに違いない。外国主義を克服しない限り日本の真の発展はあり得ないというのが僕の確信だったし、また当時小沢一郎たちが「政治改革」と称して日本に一種の独裁政権を築こうとしていたので、それを未然に阻止し日本が再び戦前と同じような軌道に落ち入らないようにすることも大きな目標だった。94年という年は引き続いて阪神大震災やオーム事件が起こったように時代の一つの転換点であり、混迷や混乱、危機や長期衰退など平成という時代を色どることになる特徴が現われ始めた時でもあり、そのような時代的潮流も僕の背中を押したのかも知れない。

今でも忘れない暑い夏の日に「外国主義はもう時代遅れです」というプラカードを首に掲げて(段ボールに紙を貼りマジックで書いただけの粗末なものだが)、渋谷のハチ公広場に立つことからこの運動を始めた。当時は渋谷が外国主義の中心地だったので、いわば相手の本拠地に乗り込んで真っ向勝負する決意で行ったのである。しかしこんなことをするのは初めてだったので、周りに群がるたくさんの人々に気後れしてしまい、気恥ずかしいしドキドキするしで、1時間ともたずに逃げ去ってしまったが。

こんなことではいけないと気を取り直して、翌日からまたハチ公広場に立った(この時立っていた広場の隅っこの場所が、後年桑田佳祐が『音楽寅さん』という番組で渋谷ゲリラライブをやったとき立っていた場所と全く同じ場所だったので、たいへん嬉しく思ったのを覚えている)。そうして立っていると僕のプラカードを見て興味を持った人々が僕に話かけてくるようになった。そこで「外国主義」とは何なのか、辻説法みたいなことをするようになった。また当時完成したばかりの僕の処女作『ふたつにしてひとつのもの』(この小説によって一つの重要なことを達成したと僕は思っていた。僕を街頭の運動に駆り立てたのも結局はこの小説だったのである)を無料で人々に配ったりした。

馴れてくるに従いスクランブル交差点の大群衆の前にも立てるようになった。行き交う人々に「外国主義はもう時代遅れです」と連呼したり、プラカードを掲げて道玄坂やスペイン坂の通りを練り歩くようにもなった。渋谷以外の場所、新宿や六本木などにも出向くようになった。渋谷のハチ公広場にはテレビ局のスタッフもよく撮影に来ていた。なんなら渋谷の名物男になってもいいと思っていた僕はいくらでも取材や撮影を受けたかったのだが、テレビ局のスタッフたちは完全無視を決め込んで、カメラマンが僕を映そうとすると横のディレクターらしき男が「映すな!」とばかりにカメラを押し下げてしまうほどであった。ただNHKのスタッフだけは遠くの方から僕のことを撮影していたが。

この街頭活動では様々な出会いもあった。渋谷に集まって来る個性豊かな若者たちと交流したり、夜のハチ公広場で車座になって熱い議論をしたりもした。同人雑誌『ネバーモア』のメンバーと出会ったのもこの街頭であり、のちにこの同人雑誌に加わり『ふたつにしてひとつのもの』を連載させてもらったりもした。

「奇跡のドア」を開く年 1

2019-01-02 07:01:15 | 日本文学の革命
昨日の大みそかは日雇い派遣の仕事で横浜に働きに行った。大みそかに働くというのは生活の為もあるが、せっかくの大みそかなのでどこかに出かけたいのだが、お金がないのでどこにも行けない。しかし日雇い派遣で行けば金を稼ぐついでにどこかに出かけることができる。横浜なら観光気分で行くことができるし、仕事が終わったら大みそかの夜の横浜を散歩して帰ろう。という思いで行ったのである。

本牧ふ頭の方にあるニトリの倉庫で働いたのだが、大みそかということで仕事もゆるいもので、楽しく働くことができた。横須賀から来たというかわいい女の子と一緒に働いていたのだが、僕はフランス人のような性格があって女性を見るとやさしくしてやりたくなるので、その女の子にもついやさしくしてしまった。お年玉とばかりに彼女が嬉しがるような言葉のプレゼントをしてやり、たいそう喜ばれたが、僕の方でも嬉しい気分になれた。新年のお年玉を与えたというよりも、こっちがもらった感じである。

夜の7時半に仕事が終わると本牧ふ頭から横浜の街へ歩いて行った。『コクリコ坂から』の舞台となった山の手の崖を横に見ながら歩いてゆき、元町を抜け、山下公園に入っていった。年末の夜ということで多くの人で賑やかだろうと期待していたのだが、ほとんど人影がなかった。カウントダウンイベントや新年の花火でも打ち上げられるかと楽しみにしていたのだが、がっかりだった。日本通りや馬車道も人影まばらで、街全体がガランとした感じで、いったい横浜市民は正月を祝う気があるのかといぶかしく思った。人恋しくなって中華街の中へ入ってゆくと、さすがにここでは大勢の人々が行き交っていた。ぶらぶらと中華街を散策し(お金がないので散策だけだが)、ひとしきり賑やかな雰囲気を味わったあと、みなとみらいの方へ歩いて行った。横浜のキレイな夜景を楽しみながら歩いてゆき、桜木町の駅前広場に行き着いて、そこから電車に乗って帰っていった。

途中表参道で降りて明治神宮で初詣をするつもりだったのだが、紅白歌合戦に桑田佳祐が出場することを知り、急遽すぐに帰ることにした。桑田佳祐とサザンが白組でも紅組でもない最後の大とりとして出て来る。いわば平成を締めくくる平成最後の大とりとして出て来る(まさに平成最大のスーパースター桑田佳祐にふさわしい!)となったら、是非とも生で見たい、きっちり録画したい、ということで急いで帰ったのである。

桑田佳祐が出場する少し前に家に帰れた。サザンが出て来るとすぐに録画を始めた。始めの曲が『希望の轍』。新年にふさわしい曲である。次いでデヴュー曲で今でも新鮮で大いに盛り上がる曲『勝手にシンドバッド』が始まった。会場がノリノリになり紅白出場者たちも舞台に上がって来たのだが、ここで思わぬハプニングが起きる。松任谷由美が桑田佳祐に近づいて来て、一緒にダンスをし出したのだ。頬にキスするわ、仲良くコラボして歌うわ、圧巻の腰振りダンスをして桑田佳祐を悶絶させるわで、実に面白い光景だった。
しかし松任谷由美といえば桑田佳祐と険悪な関係にあった仲である。彼女も優れたミュージシャンで、特に80年代に大活躍したが、その彼女の「80年代的な夢の世界」(僕の言葉でいえば「外国主義」となる)を桑田佳祐がぶっ壊してしまったので、彼女は深く傷ついてしまったのである。その彼女があたかも仲直りをする如く桑田佳祐とダンスコラボを繰り広げたのだ。しかも紅白という日本最大の大舞台で!

桑田佳祐は国民的規模で愛され支持される一方、同じく膨大な数の日本人から嫌われ目の敵にされているという特異なミュージシャンである(しかしまさにこれこそが“本物の”芸術家である証拠とも言えるのだが)。昨夜の紅白の出場者たちを見ても、本当に桑田佳祐を支持しているのは内村とaikoと福山雅治ぐらいなもので、あとはみんな桑田佳祐に「含むところのある」者ばかりである。あからさまに桑田佳祐をつぶそうとしてきた者も数多くいる。しかしそんな彼らも感動的な素晴らしい曲を次々と作り続ける桑田佳祐に、尊敬の念と、出来れば仲直りしたいという気持ちを持っていたに違いない。

そんな中起こったのが松任谷由美と桑田佳祐の仲良し仲直りダンスである。このダンスが続いている間にステージ上の雰囲気が明らかに変わっていったのである。みんな仲良くなっていったのだ!それまで桑田佳祐と聞くと憮然とした表情を浮かべてきた者も、ニコニコと本当に朗らかな顔になり、この機会に仲良くなっちゃえとばかりに雰囲気に同調したのである。ステージ上は「和解」の雰囲気に包まれるようになった。松任谷由美とNHKの見事な調停によって、それまで平成を通して対立抗争してきた二つの勢力の間に、平成の最後になってようやく一つの和解が生じたのである。