愛が欲しい。もっと愛が欲しいのに、誰も自分を愛してくれない・・・。そんな悩みを抱えてる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
一九八一年当時、二十四歳のころの私はまったく逆でした。「愛されたい。生かされたい。許されたい」──そうした私だったのです。(中略)
しかし、「人を愛し、人を生かし、人を許せ」という言葉に接して、「私が追い求めていた幸福は、真の幸福ではないのではないか」ということに目覚めたのです。
それまでは、「他の人から与えられることが幸福だ」と思っていました。「他の人から称賛され、ほめられれば幸福。また、ほめられることが自分でも納得できれば幸福」という気持ちでした。ところが、「人を愛し、人を生かし、人を許せ」という言葉には、そうした方向性がまったくないのです。
そこで、自分の過去を振り返って、「私は他の人を愛したことがあるだろうか。あるいは、それ以前に、愛そうと思ったことがあるだろうか」と考えてみたところ、あまり思い浮かばないのです。
逆に、考えれば考えるほど、さまざまな人からしてもらったことが思い出されました。もちろん、父や母の恩が最初に出てきますが、それ以外にも、友人や先生など、さまざまな人からしてもらったことが、次から次へと出てきたのです。
自分がしたと思えるのは、そうした人たちの協力に支えられ、あるいは、そうした人たちが環境を提供してくれたことに支えられ、まじめに勉強したということでしたが、それも、自分自身に評価が返ってくることを求める気持ち、自分が偉くなったらうれしいという気持ちが強かったのです。
そこで私は、「愛を与えた部分と、愛を与えられた部分とを、書き分けてみたらどうなるか」と思い、心のなかで並べてみました (これを幸福の科学では「愛の貸借対照表」と呼んでいます)。
すると、与えた部分は思い出すのが難しく、「あの人に喜んでもらうために、こういうことをした」というのは、あまり出てきません。しかし、してもらったことは、考えれば考えるほど、山のように出てきたのです。
自分がしてあげたことは、確かによいことをしたのであれば、プラスでしょう。逆に、他の人からしてもらったことは、どちらかといえば借金にあたるので、マイナスでしょう。プラスとマイナスを書き分けてみたとき、私は「このままでは死ねない」と思ったのです。
それまでは、こうした考え方をしたことはありません。たとえば勉強ならば、よい成績をとって、人から「すごいな」と言われれば、それで偉くなったような気持ちになっていたのです。人から注目されるような自分になれば、それだけで人生が完成したような気持ちになっていました。
ところが、考え方が変わってみると、「これはまことに恐ろしい人生だ」と感じたのです。
(18~25ページ)
過去の人生で、愛を与えたことと、愛を与えられたこととを、1枚の紙の左右に書き並べて、「愛の貸借対照表」を作ってみる。
そうすれば、自分のこれまで与えられてきた愛を具体的につかむことができる──。
「愛の貸借対照表」を実際に作ってみたら、驚きです。
誰もが、自分がしてあげたことよりも、してもらってきたことの方が圧倒的に多いことに気がつきます。
つまりは、自分の人生が、いかに多くの人に与えられ、支えられて成り立ってきたかを、実感として理解することができます。
誰も自分を愛してくれないなんてことはなくって、じつは自分は、愛に包まれてここまで生きてきたことが、しっかりとつかめてくる。
そのとき、自分がこれからやっていかなければならないことは何かが、わかってくるのだと私は思っているのです。
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『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』
大川隆法著 |
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