哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

二次災害の死

2011-04-24 01:24:24 | 時事
 大震災で災害医療に従事した看護師のブログ(http://blog.goo.ne.jp/flower-wing)を読んだ。映像や写真等の報道でも感じられた廃墟のような現場の状況に、まさに一人の人間として向き合わざるを得ない様子が痛々しく伝わってきた。

 瓦礫の中から多くの遺体が出てくる様子は、さすがに映像では報道はされていないが、文章ではあちこち目にする。さらには高齢者も多いため、医療環境が不十分な中で避難先で亡くなる人もいる。また救出作業中の作業者が、過労もあってか現場で倒れて死亡したとの報道もあったようだ。


 実は知人の近所の方が、宮城県の被災地に大量の援助物資をトラックで運んだ帰りに、疲労による居眠りをしたのか、センターラインをオーバーして対向車と正面衝突し、その人が死亡した事故が先月下旬に発生した。大震災がなければこのような事故もなかったかもしれないが、交通事故そのものは自分の方が100%悪い事故だから相手から損害賠償は受けられないし、この死亡者の家族には大震災の義捐金が配られることもないのだろう。しかし、大震災の二次災害とは言える。同様のことは結構起こっているのもしれない。


 震災であろうと事故であろうと容赦なく死は訪れる。しかも理不尽な形で誰をも巻き込む。そして、我々は死を選べない。

 その「死」については、池田晶子さんは何度も書いている。

「人は自分の死に方を選べるとどうしても思ってしまいますけれども、本当は死に方を選べない。なぜならば、選べるのは生き方なんですよ、あくまでも。どんなふうな死に方をしようかと言いながら、選んでいるのは、まだ生きている側ですからね。だって、生きているんだから、死んでいない限り生きているわけですから、選べるのはあくまでも生き方であって、じつは、生の側を我々は選んでいく。生きている限り死んでないからです。ですから我々は、死に方はじつは選べない。正確には、死を選べないのです、私たちは。・・・死というのは、人間の意志と理解を超えた向こうからやってくる出来事です。そうなんです、これはよく考えると、本当にそうなんです。向こうから来るもので、我々が選んで向こうへ行くものではないのです。ですから、尊厳死という言葉がありますけれども、これを言う人というのは、どうも死そのものの絶対不可解さ、つまり死への畏れ、というのをちょっと忘れているのかなという感じが、私はします。この不可解を思い出すことで、人は自然に対して謙虚になれるはずだと思います。」(『死とは何か』「死とは何か-現象と論理のはざまで」より)