哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

人はパンのみにて生くるにあらず

2011-04-09 02:38:20 | 時事
大震災の影響で多くのイベントが中止になるなか、あえて開催された小規模なコンサートに今月初めに行って来た。チェロのみのソロコンサートだったので、非常に小さい会場であったが、本来のもう少し広い会場が地震で使えなくなったために、急遽会場変更になったものだ。100人以上が来場したそうだが、完全に満杯状態であった。主催者によると、津波の被災地からわざわざ聞きに来た人もいたそうである。


チェリストが挨拶で述べていたところによると、コンサートをあえて開催することにブログ等で批判もあったそうである。今は音楽を行う時ではない、必要なのは毛布と食料である、と。そのチェリストは、もちろん様々な意見があることは承知しながらも、音楽家にできる一番の支援が何かを考えた時に、やはり音楽で貢献することが最も有意義であると結論付けた。その時に、表題の聖書の言葉を引用していたのだ。


 テレビや新聞でも最近、音楽を趣味にもつ医療従事者やボランティアが、避難所で音楽を奏でて癒しを提供しているという内容のものがよく紹介されている。避難所でスポーツ選手によるレクチャーなどもされていたりするそうだから、音楽やスポーツの効用がまさに発揮されていると言えるのかもしれない。



 ところで、表題の聖書の言葉は、池田晶子さんも繰り返し引用する言葉でもある。もちろん引用する趣旨も、もっとラディカルではあるが。


「普通に人が「死」と思っているのは、死体すなわち死んだ肉体のことであって、死体は在るが、しかし死は無いのである。肉体は死ぬが、死は無いのだったら、精神は在るのではないか、生きるのではないか。
 さて、右の「生きる」がすでに、「生活する」「生存する」の意でなくなっているのは明らかである。「死体が生存する」とは意味を成さないからである。事態のこのような奇妙さを、やはり認識した昔の人々、たとえばイエス・キリストなどは、それで、このように言ったわけだ。
「生きながら、私において死ぬ者は、永遠の生命を得るであろう」
ぐっと人生訓ふうにして、
「人はパンのみにて生くるにあらず」」(『残酷人生論』「精神と肉体という不思議」より)