病気で死のうがテロで死のうがそれは死に方に過ぎない、人は生まれた限り誰もが必ず死ぬものだからである、と池田さんは繰り返し書いておられました。そして、生きることそれ自体に価値はない、とも。
「生き延びることそれ自体が価値であるためには、善く生きるために生き延びるのでなければおかしい。弱肉強食、他人を蹴落とし、他人を殺し、そのようにしてまで生き延びるべき自分は、生き延びることによって何をしたいのか、そこに善があるのでなければおかしいではないか。」(『ロゴスに訊け』P.136)
ここでいう「善」とは、単に自分にとって良いという意味ではなく、他人にとっても良い、つまり絶対的善を指します。絶対的・普遍的価値でなければ、そもそも価値とは言いません。善も絶対的・普遍的であるからこそ、価値であるわけです。
他人を蹴落としたり、他人を殺したりすれば、既に悪いことを為しているように思いますが、戦争の時代や弱肉強食の時代に生まれれば、そのような生活形態は日常かもしれません。そのうえで自分が生き延びて為す善とは何なのでしょうか。
むしろ逆に考えて、そのような時代にあっても他人を蹴落とさない、他人の命を奪わないということは善いことになるでしょうか。論理的には、自分が生きること自体に価値がないのと同様に、他人が単に生きること自体にも価値はないことになりそうです。
しかし、自らの命を省みず他人の命を救う行為が極めて賞賛される行為であることは、先日の警官の踏み切り死亡事故の報道を見てもわかる通りです。
絶対的善は、日常から遠く離れたものではなく、いつも今そこにあるのかもしれません。
「生き延びることそれ自体が価値であるためには、善く生きるために生き延びるのでなければおかしい。弱肉強食、他人を蹴落とし、他人を殺し、そのようにしてまで生き延びるべき自分は、生き延びることによって何をしたいのか、そこに善があるのでなければおかしいではないか。」(『ロゴスに訊け』P.136)
ここでいう「善」とは、単に自分にとって良いという意味ではなく、他人にとっても良い、つまり絶対的善を指します。絶対的・普遍的価値でなければ、そもそも価値とは言いません。善も絶対的・普遍的であるからこそ、価値であるわけです。
他人を蹴落としたり、他人を殺したりすれば、既に悪いことを為しているように思いますが、戦争の時代や弱肉強食の時代に生まれれば、そのような生活形態は日常かもしれません。そのうえで自分が生き延びて為す善とは何なのでしょうか。
むしろ逆に考えて、そのような時代にあっても他人を蹴落とさない、他人の命を奪わないということは善いことになるでしょうか。論理的には、自分が生きること自体に価値がないのと同様に、他人が単に生きること自体にも価値はないことになりそうです。
しかし、自らの命を省みず他人の命を救う行為が極めて賞賛される行為であることは、先日の警官の踏み切り死亡事故の報道を見てもわかる通りです。
絶対的善は、日常から遠く離れたものではなく、いつも今そこにあるのかもしれません。