哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

銀河も我も(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2007-01-15 02:50:00 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「銀河も我も」という題でした。「宇宙と宇宙論好き」と池田さんは自分で仰っています。



「すべての事象は、「考えられて」、存在する。ここに、「ビッグバンにより存在した宇宙が我々を生み出したと考える我々を、ビッグバンにより存在した宇宙は生み出した」という、科学的物証を超越する認識の入れ子構造が出現する。考える限り、誰も考えの外には出られないのだから、「宇宙」と「我々」とは、じつは同じものだったと気づくのである。当然のこと、この「我々」は、物理的のものではない。時間的存在者ではないことになる。」



 最後に書かれている「時間的存在者ではない」我々とは、死ぬべき存在としての生身の我々ではなく、まさに生身を離れた、我々の「思考」そのもののことを独立させて言っているようです。そうすると、「考えの外に出られない」のは当たり前です。「思考」そのものを「我々」と言っているのですから。ただ「宇宙」と、思考する「我々」が「同じもの」とはどういうことでしょうか。


 池田さんは「精神性」を常に強調しますが、それは上の文章に端的に現れています。科学的物証にしても、あるいは日常の様々の事象も、「考えられて」こそ存在する、というわけです。確かに宇宙そのものは人間より以前に存在していたように通常思われますが、そもそも「存在する」という事象そのものが、「考えること」によって、あるいは言葉という概念として表現されることによって初めて把握されますから、「存在する」と考えることによってしか、そもそも「存在する」という事態がありえないわけです。


 この点は繰り返しますが、言葉より前に物理的存在はあったのではないか、と一般には思われやすいのですが、そもそもそのように全ての事象を捉えること自体が「考えられて」しかありえない、ということを言っているのです。


 そうすると、「宇宙」の存在という概念そのものが、我々の「思考」を根拠に立脚しているわけですから、「宇宙」の存在は「思考」によって初めて存在しているといえます。つまり、「宇宙」は「思考」を前提とし、考えられてこそ存在する、言わば一体のものといえるわけです。それが、「宇宙」を、思考としての「我々」と同じもの、と表現されているのだと思います。